下 関 T



HOME  戻る


せっかくの下関訪問というのに、暴風雨といってよいほどの天候に見舞われることになった。前日までは連日、雲一つ無い快晴が何日も続き、翌日には天気が回復したことを思い合わせると、我が身の不運を呪うより仕方ない。しかし天気のことをぼやいているヒマはない。限られた時間ではあるが、史跡の宝庫下関に出かけることにしよう。
(白石正一郎旧宅跡・奇兵隊結成の地

白石正一郎旧宅跡

奇兵隊結成の地

 生憎の天候の上、未だ薄暗いうちから史跡を訪問したため、撮影した写真もあまり綺麗ではないのが悔やまれる。

 白石正一郎は、文化九年(1812)三月七日この地で生まれ、回船問屋小倉屋を営んだ勤王商人である。高杉晋作を始め、桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬ら多くの志士が白石正一郎宅を宿として逗留し、白石も経済的な支援を惜しまなかった。高杉晋作が奇兵隊の構想を持ちかけたときも、躊躇なく支援することを決めた。奇兵隊が結成されたのは、文久三年(1863)六月六日。白石自身も奇兵隊士として身を投じた。
(高杉晋作のひょうたん井戸
ひょうたん井戸
 市内伊崎町1丁目の通称とっくり小路に高杉晋作のひょうたん井戸と伝えられる井戸がある。どの辺がひょうたんなのか今一つ分からない。
 慶應元年(1864)、藩内の権力抗争に勝利した高杉晋作は、長州藩の軍備を充実させるために下関開港を企てた。これが反対勢力の反発を招き、命を狙われることになった。刺客から命を狙われた高杉がこのひょうたん井戸に一日身を隠したと伝えられる。
(高杉晋作終焉の地

高杉東行終焉之地

野村素介の筆による
 高杉晋作が肺結核のために林算九郎宅の離れで息を引き取ったのが、慶應三年(1867)四月十三日。享年二十七歳。幕府の倒壊が目前に迫っている時期であったが、仮に高杉が生きて明治の世を迎えていたらどうだったであろう。大人しく大臣の座に収まっていられるような性分とは思えないのだが…。そう考えると、高杉晋作もまたこの世での役割を終えると、天により召されたと考える方が妥当なのかも知れない。

(妙蓮寺
妙蓮寺
 高杉晋作終焉の地の向かい側に妙蓮寺があるが、ここには幕末外国艦隊との戦争の非を説いて過激攘夷派に暗殺された砲術家中島名左衛門の墓がある。訪ねた時間が早すぎたため、門が閉まっていて中に入れなかったのは残念。

(厳島神社
厳島神社大太鼓
 厳島神社には、慶應二年(1866)四境戦争(第二次長州征伐)の際、高杉晋作が小倉城から戦利品として持ち帰った大太鼓が残されている。太鼓は直径1.1メートル、重量390キロで、小倉城では櫓に吊るされ近隣に時刻を報せる役目を果たしていたものである。
(萩藩会所跡
萩藩新地会所址

 厳島神社の門前に萩藩新地会所跡の石碑がある。当時、下関は萩本藩が直轄地としていた領地よりも、長府や清末といった支藩が治める方が大部分を占めていた。萩本藩の出先機関が石碑の残るこの場所にあった。

 所謂高杉晋作の「功山寺決起」で、高杉晋作の率いる奇兵隊が襲撃したのがこの萩会所である。


(高杉晋作療養の地
高杉東行療養之地
 厳島神社西側の脇道をJRの線路に向かって北上し、線路をくぐって突き当たりを左に折れた民家の前に高杉晋作療養の地の石碑が立つ。
 高杉晋作は慶應二年(1866)七月、幕府軍との戦いの最中に肺結核に倒れ、この地で療養することになった。石碑には高杉晋作がよんだ七言絶句が刻まれている。

(桜山神社
桜山神社
桜山神社は高杉晋作の主唱により、元治元年(1864)一月に創建された招魂社である。奇兵隊や報国隊など、幕末の紛争で命を落とした若者たちを祀っている。境内には369柱の霊標が建てられている。中央に吉田松陰、その左右には松下村塾の竜虎と讃えられた高杉晋作と久坂玄瑞が並ぶ。桜山神社は靖国神社の原型とも言われる。

中央が吉田松陰

その右が久坂玄瑞、左が高杉晋作
七卿史跡
 桜山神社の参道途中には七卿遺跡の石碑が立つ。八一八政変で長州に落ちた七卿が、元治元年(1864)三月二十六日、馬関砲台を視察したあと、ここ桜山招魂場を訪ねた。

(了円寺
了円寺
 元治元年(1864)十二月、下関の萩藩会所を襲った高杉晋作らは、了円寺に立てこもった。本堂の柱には兵士がつけた太刀傷が残っている。