高 取




(高取城
高取城址
 大和高取は譜代大名植村家二万五千石の小藩である。町の南東に高取山(標高584メートル)がそびえ、その山頂に高取城があった。高取城は備中松山城、岐阜城と並んで、日本三大山城と称されるが、残念ながら城郭は残っていない。壷阪寺の脇の道を更に登り詰めると高取城の石垣が残る城跡に行き着く。

 京都の政変の報が伝わると、天誅組は桜井寺の本陣を引き払い、十津川に近い天辻に本陣を移した。十津川郷士約千人が合流すると、翻転して文久三年(1863)八月二十六日、天誅組は高取城を攻撃した。ここで高取城を奪取する戦略的な意味は分からないが、孤軍となった彼等は天嶮に拠って時間を稼ごうと考えたのであろう。

 迎え撃つ植村藩は大砲で天誅組を撃退した。天誅組は一日も持たずに潰走することになった。
(植村家家老屋敷長屋門
植村家家老屋敷長屋門
 藩主以下、初めは高取城内の屋敷に住んでいたらしいが、山上での生活は流石に不便だったようだ。やがて山麓に下屋敷が作られ、家臣たちも山を下って、武家屋敷町が形成された。今もこの一角に古い武家屋敷を残す風情ある街並を見ることができる。

 高取藩家老屋敷門で、現在は旧藩主植村家の住宅となっている。天誅組の変当時の藩主は植村家保。当初は天誅組の挙兵に協力的で武器などを差し出していたが、追討令が出されると一転して撃退した。

 高取藩の藩主植村家と我が植村家は苗字が同じというだけで何の関わりもないが、この長屋屋敷門が県の文化財指定を受けたのが、昭和三十六(1961)年三月というから私が生まれたちょうどその年、その月である。何となく親近感を抱いた。
HOME  戻る