田蓑橋



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(双松岡
双松岡
 双松岡学舎は、天誅組の総裁松本奎堂が、文久元年(1861)昌平黌の同学、松林廉之助、岡千仞らと創設したもの。松本奎堂は翌年には京都に移り、藤本鉄石、吉村寅太郎らと交わり、文久三年(1863)の天誅組の変で自刃した。享年三十三歳であった。
(五代友厚朝陽館跡
五代友厚精藍西朝陽館跡
 大阪の発展を語る時五代友厚の名を忘れる事はできない。大阪造幣寮(現造幣局)大阪株式取引所(現大阪証券取引所)商法会議所(現大阪商工会議所)等々、彼の創設若しくは関与した事業は非常に数多い。この「西朝陽館」と呼ばれる精藍所もまた五代が創設したものである。当時我が国製の藍は粗悪で、インドからの大量輸入に頼っていた。この工場は、国産の藍が舶来のものに圧倒されるのを憂い明治9年(1876)に従業員300名で操業を開始した。動力には蒸気機関を導入し、煙突から出される煙は造幣寮のそれと好一対であったという。その製品は欧米各地に輸出され、明治10〜11年ごろ最盛期を迎えた。しかし残念にも明治16年(1883)業績下降を理由に閉鎖された。名称に「西」の字があるのは、東京にも「朝陽館」があり、それと区別するためであったという(NCSホーム・ページ 中之島マップ http:www.ncs.co.jp/nakanoshima/index.htmより)。
(豊前中津蔵屋敷跡
福澤諭吉誕生地

 田蓑橋北詰の西側、大阪大学病院の敷地が豊前中津藩蔵屋敷跡である。平成十六年現在、工事中であるが、石碑のみ旧に復している。

 福澤諭吉は、中津藩士福澤百助の次子として天保五年(1834)この地に生まれた。父の死去で一旦、中津に戻り、安政元年(1854)長崎遊学、翌年には大阪に出て適塾で緒方洪庵に蘭学を学んだ。安政五年(1858)藩命により江戸に出府し、藩の中屋敷に蘭学塾を開いた。のちに幕府に出仕し、万延元年(1860)には、咸臨丸に乗船して幕府の使節に随行渡米した。慶応四年(1868)四月、芝に場所を移して塾を慶応義塾と命名した。維新後は人材の養成に努めるとともに、「学問のすすめ」「文明論之概略」「西洋事情」など多くの著作を刊行し、明治の日本に多大な影響を与え続けた。その思想は自由民権運動にも影響があったが、福澤諭吉自身は急進論をとらず、官民調和を説いた。一方で脱亜論を展開して国権伸張論を押し出し、日清戦争では強硬な主戦論を張った。明治政府から幾度か出仕の誘いがあったが、最後まで在野の思想家・教育者を貫いた。明治三十四年(1901)、六十八歳にて逝去。


「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」

 福澤諭吉が「学問のすすめ」を刊行したのが、明治六年(1872)。アメリカ独立宣言の精神を翻案した冒頭の言「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ…」が、誕生地の石碑傍らに刻まれている。「学問のすすめ」は340万部を越す驚異的なベストセラーとなった。