


田蓑橋北詰の西側、大阪大学病院の敷地が豊前中津藩蔵屋敷跡である。平成十六年現在、工事中であるが、石碑のみ旧に復している。
福澤諭吉は、中津藩士福澤百助の次子として天保五年(1834)この地に生まれた。父の死去で一旦、中津に戻り、安政元年(1854)長崎遊学、翌年には大阪に出て適塾で緒方洪庵に蘭学を学んだ。安政五年(1858)藩命により江戸に出府し、藩の中屋敷に蘭学塾を開いた。のちに幕府に出仕し、万延元年(1860)には、咸臨丸に乗船して幕府の使節に随行渡米した。慶応四年(1868)四月、芝に場所を移して塾を慶応義塾と命名した。維新後は人材の養成に努めるとともに、「学問のすすめ」「文明論之概略」「西洋事情」など多くの著作を刊行し、明治の日本に多大な影響を与え続けた。その思想は自由民権運動にも影響があったが、福澤諭吉自身は急進論をとらず、官民調和を説いた。一方で脱亜論を展開して国権伸張論を押し出し、日清戦争では強硬な主戦論を張った。明治政府から幾度か出仕の誘いがあったが、最後まで在野の思想家・教育者を貫いた。明治三十四年(1901)、六十八歳にて逝去。

「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」