天満橋 T
大坂天満宮
大坂市内、この附近を天満・天神と呼び、天神橋、天神橋筋といった町名の由来となったのが、大坂天満宮である。慶應三年(1867)十二月王政復古が宣言され、徳川慶喜も二条城を退去して大坂城に入った。新撰組も京都を出て大坂入りし、大坂天満宮に宿陣した。
天満宮表門に吊るされている方位盤
明治政府は、明治二年(1869)に造幣局を設立し貨幣の鋳造を始めた。設立当時の正門やガス灯があるというので、週末に造幣局を訪ねた。
造幣局
行って見ると土日・祝日は休みとあり、門は閉ざされていた。ところが手で押してみると扉が簡単に開いたので、中に入ることができた。その途端、するすると扉は戻り私は中に閉じ込められることになった。つまり造幣局にとって不法侵入者となったわけである。あちこち出口を探してみたが、そう簡単に造幣局が賊を逃すわけはない。仕方無く警備室に自首した。史跡訪問には何かとリスクがつきまとう。結局、目的であった旧正門もガス灯にも行き着くことはできなかったが、出直すことにしました。
八軒屋船着場の跡
天満橋京橋2丁目の永田屋昆布本店の前に八軒屋船着場の跡の石碑があって、その横には永田屋が、持ち帰り自由の小さな冊子「八軒家の今昔」を作って置いている。当時、この附近まで淀川の河岸が迫っていた。鳥羽伏見の戦争で破れた徳川慶喜は夜陰に紛れて、八軒屋から脱出を図ったと言われる。
龍海寺を訪ねたとき、年末の大掃除中であったところを頼んで中に入れてもらった。緒方洪庵は江戸で亡くなったが、遺髪を納めた墓が大阪龍海寺に建てられた。
緒方洪庵夫妻の墓
その傍に大村益次郎の足塚がある。大村益次郎は明治二年(1869)京都木屋町で襲撃を受け、蘭医ボートウィンの治療を受けるために大阪に運ばれた。足を切断する大手術を受けたが、結局その年死去した。
同じく龍海寺の墓地に緒方洪庵の師匠である中天游の墓がある。
通り抜けの碑
大阪造幣局は桜の季節となると、花見客が殺到する大阪随一の桜の名所である。私も一度「通り抜け」を経験したことがあるが、花を楽しむどころか、人に押し流された記憶が残っているだけである。両側には所狭しと露店が並ぶが、ちょっと普通ではない。
「ロブスターの子供 大きく育てて下さい」
と書いて、どこから見てもアメリカザリガニを堂々と売っている。見世物小屋ではろくろ首が出ていたが、どうせ金を出して見るようなものではないだろう。そういうものも含めて楽しいのが「通り抜け」の興趣である。
「通り抜け」の発案者は、長州藩出身の遠藤謹助である。遠藤謹助は、伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三らとともにイギリスに秘密留学された一人である。その後、伊藤、井上は政治の世界に進んだが、井上勝、山尾そして遠藤はイギリスで技術を学び、帰国後実業界で活躍した。遠藤は明治十四年から二十六年までの長きに亘って造幣局長を務め、我が国における造幣の基礎を作った。造幣局構内を一般公開したのは明治十六年のことであった。
大塩の乱 槐跡
造幣局構内は大塩平八郎の開いていた学塾洗心洞の跡地である。天保八年(1837)二月、大塩平八郎が決起したのもこの地である。造幣局近く、大塩平八郎の乱のときに銃弾を浴びた槐(えんじゅ)の木があった場所に石碑が建てられている。
明治天皇聖躅碑
造幣局構内には、造幣博物館をはじめ、旧正門、ガス灯、明治天皇聖躅碑など見所が多い。造幣博物館では明治初年の造幣技術が紹介されており、見応えがある。
造幣博物館
造幣局の道を挟んで対面には造幣局の応接所として使用された泉布観という洋館が建っている。泉布とは貨幣のこと。明治天皇の命名という。毎年、3月21日前後に限って公開されている。私が訪れたときは工事中で側に近づくこともできなかった。館内には三条実美自筆の「泉布観」の額があるというので、一度公開日に来てみたい。
泉布観