
龍海寺の通りには、善導寺、天徳寺、成正寺といった寺院が一線に並ぶ寺町である。
善導寺の門を入ると、ちょうど住職が庭先で煙草を吸っているところであった。突然の進入者に一瞬住職は戸惑った様子であったが、山片蟠桃と近藤宗悦の墓に参りたいと伝えると、実に丁寧に案内して下さった。
清頂軒心浄宗悦居士
(近藤宗悦の墓)住職によると、山片蟠桃の本姓は長谷川氏。商家の番頭となったことから、「蟠桃」と称したという。
司馬遼太郎先生は山片蟠桃のことを国際的にみても先見性に優れた学者と評し、日本文化の国際的通用性を研究した学者を顕彰する賞として「山片蟠桃賞」を提唱したことでも有名である。蟠桃のこの時代としては驚くべき合理性について司馬先生は以下のように絶賛している。
――― 思想家としての蟠桃は、ごくざっとした比較で―――人文(ヒューマ)主義(ニズム)という共通の場で―――ルネサンス期の思想家エラスムス(1465〜1563)とくらべられるかもしれない。エラスムスの『痴愚神礼讃』を晩年の蟠桃の著作である『夢の代』にくらべるのは、無意味ではない。
その『夢の代』は、自分の思弁を書きのべたかったから書いたもので、公刊しなかった。もっとも公刊すれば大さわぎになったろう。『夢の代』という本は、親しい人達が筆写することによってのちにつたわったのである。
かれは、人間や万物の生命を唯物的な自然哲学でとらえた。たとえば人間は生あるときは旺盛な精神作用をしているが、死によって肉体が消滅するとともにそれはおわる。死後もなお精神作用がのこるのを鬼(き)(ばけもの)とか霊とかいうがそういうものは存在しない、という。(『街道をゆく』29秋田県散歩みち)
蟠桃の墓は建て替えられて真新しくなっている。古い墓石が本堂前に積み立てられた墓石の一角にある。さらに住職に頼んで近藤宗悦の墓を案内してもらった。
近藤宗悦は長崎の生まれで、尺八の名手として知られる。宗悦流の祖。大阪に住んで尺八の教授をする傍ら、洛東明暗寺の玄堂観妙の主催する勤王党に参加。天誅組や生野の挙兵では虚無僧に扮して往来し連絡役を果たした。太平簫を得意とし、チャルメラ宗悦の異名をとった。慶応三年(1867)二月、伊丹にて死去。五十九歳。
天徳寺には篠崎小竹、三島の墓がある。
篠崎小竹は豊後杵築の医家に生まれ、長崎で儒家篠崎三島に学んだ。三島の養子となり、やがて大阪に出て今橋にて梅花社という塾を開いた。門弟千五百を数える当時大阪で随一の学塾であった。嘉永四年(1852)没。