天王寺
四天王寺
聖徳太子が上町台地に四天王寺を建立したのは推古天皇元年(593)のことであった。我が国最古の官寺であり、いずれの仏教宗派にも属さず、四天王寺式と呼ばれる独自の伽藍配置にも特色が見られる。度重なる戦火や落雷のため再建・焼失を繰り返し、現在の建物は昭和三十八年(1963)に再建されたものである。
石碑が複数建っている。左から闔門殉難の石碑。これは中川宮(青蓮院宮)の筆。闔門とは「門を閉ざされること」をいう。中央の背の低い墓石が小川欣司兵衛が建てたと伝えられる「怨霊消滅」は、建て替えられて新しくなっている。高橋が死に臨んで後始末にと小川に渡した六十二両で建てられたものである。右手前の細い石碑が、「高橋君原?地之碑」である。原?とは墓地のことである。
四天王寺にはもう一つ維新関係の石碑がある。天誅組の首謀者の一人、乾十郎の顕彰碑である。乾十郎は大和五条の生まれ。梅田雲濱の門下にあって尊攘志士と交わった。天誅組の変に加わったが敗走。再挙を図って摂州江口に隠れたが、幕吏に捕らえられ六角獄舎に押送された。元治元年七月、六角獄舎にて斬首。享年三十七歳。
一心寺を訪れてびっくりした。まるで宗教テーマ・パークの様相である。門前には一心寺シアターなるものもあって、寄席や演芸なども楽しむことができる。一心寺には鳥羽伏見の戦役の東軍戦死者の招魂碑や会津藩兵の墓地がある。
一心寺
明治戊辰伏見之役
東軍戦死者招魂碑
(高橋泥舟書)
会津藩墓地
背の高い墓は、会津藩番頭砲隊長白井五郎太夫のもの。慶応四年(1868)一月四日、鳥羽街道上で長州藩兵と激突し、敵弾を受けて死亡した。白井隊はほぼ全滅し、一心寺墓地に仲間とともに眠っている。
統国寺
統国寺は在日コリアの寺である。墓地には藤井藍田や広瀬旭荘の墓がある。
藤井藍田は家業を放棄して学業に没頭し、特に広瀬旭荘から影響を受け、尊皇攘夷思想に熱中した。やがて諸国の勤王の志士と交わるようになった。この動きを察知した新選組に家塾玉生堂を襲われ捕えられた。拷問を受け牢死した。
旭荘広瀬先生墓
広瀬旭荘は、豊後日田の人。広瀬淡窓の実弟である。漢詩に通じ、三十歳で大阪に出て多数の門人を抱え、多くの文人と交友した。文久三年(1863)五十七歳で没。