天保山



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(天保山跡
天保山跡

 日本一低い山として有名な天保山は、天保二年(1831)川を浚渫した土砂を積み上げられて造られた。船舶航行の目印ともなったため、天保山とも目印山とも呼ばれることになった。^

 安政元年(1854)には、ロシアの太平洋艦隊司令官プチャーチンが軍艦を率いて天保山沖に現れ、大阪市民を混乱に陥れたことがあった。以来、天保山は要害の地として各藩が警備に当たり、砲台が築かれた。

 安政元年(1854)には、ロシアの太平洋艦隊司令官プチャーチンが軍艦を率いて天保山沖に現れ、大阪市民を混乱に陥れたことがあった。以来、天保山は要害の地として各藩が警備に当たり、砲台が築かれた。このときプチャーチンと折衝したのが、緒方洪庵の適塾の塾生であった。当時、大阪には外国語を話せる役人が一人もいなかったのである。洪庵は栗原唯一と伊藤慎蔵を天保山へ趣かせ交渉に当たらせた。そのあとを追って布野雲平と二宮逸二もディアナ号に乗り込んだ。しかし相手はロシア語、当方は片言のオランダ語で一向に話が通じない。そのうちどうやら相手の話している言葉がロシア語ではなくて、英語だということに気付いた。布野雲平は聡い人だったようで、このときの経験からこれからはオランダ語ではなくて英語だと悟った。福澤諭吉ものちに横浜に出て英語の重要性に着目した人であるが、それより数年も前のことであった。(適塾記念会発行『適塾』35号 芝哲夫「適塾門下生調査について」より)。

 慶應四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦いに破れた徳川慶喜は艦隊総司令官榎本武揚を大阪に残したまま、旗艦開陽丸に乗ってここから江戸に帰ってしまう。

二等三角点 天保山

標高4.53bの「日本一低い山」である

近所で登山証明まで発行してくれる
明治天皇観艦之所
 慶應四年(1868)三月には、明治天皇の大阪行幸の際に日本最初の観艦式が行われた。これを記念して記念碑が建てられた。
西村捨三翁銅像
 大阪港築港の功労者、第六代大阪府知事の西村捨三の銅像もある。西村捨三は彦根藩の出身で、若き日に井伊家第十七代直憲に仕えた。西村翁は往時を偲んで、井伊家の庭園にあった名石朝陽岡をもらい受け、自宅の庭に置いていた。昭和三十二年西村翁の銅像を建設するに当たってこの石もこの地に移されることになった。
朝陽岡