徳 山 T



(児玉家屋敷跡
児玉家屋敷跡
 児玉源太郎は、戊辰戦争に参加し、維新後に陸軍に入り、佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争に従軍して頭角を現した。明治二十年(1887)には陸軍大学校校長としてドイツの軍制・戦術の移入、紹介に努めた。日清戦争では大本営参謀。戦後、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣を勤め、明治三十七年(1904)には大将に昇進して日露戦争に出征。旅順攻撃戦では、乃木希典から指揮権を取り上げ勝利に導いた。戦後間もない明治三十九年(1906)、脳溢血で急逝した。五十四歳であった。
児玉源太郎誕生地
児玉大将産湯之井戸
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(児玉神社
児玉神社
 徳山市児玉町に児玉源太郎を祀る児玉神社がある。後藤新平揮毫による児玉源太郎頌徳碑のほか、殉難七士の碑などが建てられている。
殉難七士碑

 七士とは、児玉次郎彦・江村彦之進・河田佳蔵・井上唯一・本城清・浅見安之丞・信田作太夫の七人のことである。児玉次郎彦は児玉源太郎の義兄に当たる。徳山藩でも幕末の政争は、保守派と尊攘派の政権争奪であった。四国連合艦隊の来襲、禁門の変そして征長の勅令が発せられると、本藩と同じく保守派が権力を握り、尊攘派は弾圧されその大半が命を奪われた。明治になって七名全員に従四位が贈位された。七士の顕彰碑の前には贈従四位の碑が誇らし気に建っている。


(本城清誕生地・江村彦之進屋敷跡
本城清誕生地・江村彦之進屋敷跡

 徳山一番町のマンションの入口の前に本城清誕生地・江村彦之進屋敷跡の石碑が建てられている。本城、江村は実の兄弟で、ともに徳山藩の保守派によって暗殺された尊攘派である。

 本城清は藩校興譲館の教授を務め尊王攘夷を唱えていたが、元治元年(1864)いわゆる俗論派は政権の主導権を握ると、藩校教授を免職となり、幽囚された。更に投獄され、慶応元年(1865)正月、暗殺された。時に四十一歳であった。

 江村彦之進は本城清の実弟で、江戸の安積艮斎の門に学んで塾長を務めた。やはり俗論派によって三十三歳にて暗殺されている。

(国司親相幽閉賜剣之地
国司親相幽閉賜剣之地
 今回、徳山を訪ねた究極の目的は国司信濃、益田右衛門介が自刃した跡地を訪ねることにあった。文久三年(1863)十一月、国司信濃親相は徳山の澄泉寺にて切腹した。澄泉寺の場所を調べたが、どうやら廃寺となったらしく現代の地図には載っていない。途方に暮れているところに、ネットで知り合った「戦争遺蹟の部屋」管理人の方が徳山出身だということを知り、これを頼りに教えを乞うたところ、色々と手を尽くして調べて戴いた。「戦争遺蹟の部屋」管理人の方の調査結果によると、澄泉寺は、現在徳山の二番町一丁目、ローソンや豆子郎というお菓子屋さんのある付近だという。現地に行ってみるとローソンも豆子郎も直ぐに分かったが、なかなか史跡を現す石碑が見つからない。私が徳山に行き着いた頃、既に夕闇に覆われていた。それから夜遅くまで周辺を歩き回り、更に近所の方にも聞いて回ったが、知る人もいない。その日は諦めて一旦下関方面に移動し、早朝から下関〜豊北の史跡を訪問して、それから再度徳山に舞い戻った。先ず徳山市立図書館で石碑の位置を確認して、もう一度現地を探した。石碑のある場所は本城清生誕地・江村彦之進屋敷跡の近く、駐車場の一角である。

 国司信濃は、切腹した三家老のなかで一番若い二十三歳であった。三人の死にざまを比べられるという若者らしい気負いが感じられるような天晴れな最期であったと伝えられる。
(益田親施幽閉賜剣之地

益田親施幽閉賜剣之地
 益田右衛門介親施が切腹したのは、惣持院という寺院であった。惣持院もやはり維新後の廃仏毀釈により廃寺となっている。現在、跡地には毛利マンションが建っており、何も残っていないが、マンションの北西門の植え込みに益田親施幽閉賜剣之地と記した石碑を見つけることができる。