鞆の浦 T



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 鞆の浦は、四国から見るとちょうど愛媛県の三島か川之江辺りと向き合う位置関係にある。陸路を取ると、今治からしまなみ海道を経て尾道に入ることになる。史跡訪問が目的であっても天気は良い方がいいに決まっているが、しまなみ海道を通る際、同じ高速料金を払うのであれば、晴れている日に限る。白い橋脚と青い海のコントラストが実に美しい。新居浜を出てから約3時間のドライブで鞆の浦の街に行き着く。
来島海峡大橋

鞆の浦の街の中に入ると途端に道幅が狭くなる。両側の建物も古い木造のものばかりで、町をあげて古い町並の保存に努力しているのが実感できる。観光客には有り難いが、そこに生活する人は不便を強いられる。それにしてもこの道幅の狭さを考えると、自動車で史跡を回るのは効率が悪い。9,800円で購入した折りたたみ式自転車が活躍することになった。
(鞆の浦歴史民族資料館
鞆城跡
鞆の浦歴史民族資料館は鞆城跡に建っている
 鞆の浦歴史民族資料館の駐車場に自動車を止めて、先ず資料館に入った。先ず鞆の浦の史跡の位置関係を頭の中に叩き込むには、資料館で知識を仕入れるのも悪くない。だが残念なことに展示のほとんどは鯛網や朝鮮通信使、保命酒に割かれていて、新たに得た情報は少なかった。

 資料館から鞆港が一望できる。

 鞆の浦は、古くから潮待ち、風待ちの港として栄えた。いにしえの時代では大伴旅人が万葉集に鞆を詠んだ歌を残した。中世には足利尊氏、義昭も足を留めている。江戸期に入ると朝鮮通信使がこの地を訪れた他、頼山陽始め多くの文人が鞆の風景を愛でた。
資料館より鞆港を見下ろす
 小さな街でありながら歴史との接点を数多く持った鞆の浦であるが、幕末には都を落ちた七卿が立ち寄った場所、或いはいろは丸事件の談判のために坂本龍馬が上陸した地点として記録されることになった。
(保命酒醸造元中村家
大田家住宅
 保命酒については後述するとして、江戸期を通じて独占的に保命酒の醸造、販売を手がけていたのが中村家であった。明治時代に入って専売権がなくなると醸造業者が増加して競争が激化した。中村家も大田家に受け継がれ今日に至っている。
鞆七卿落遺跡
大田家住宅

 文久三年(1863)八月十八日の政変後、御所を追われた七卿は長州を目指した。同月二十三日の夜、四百人を越える船団は鞆の浦に錨を下ろしたが、その夜のうちに慌しく嵐の中を出航した。

 再び彼らが姿を現したのは、その約1年後の元治元年(1864)七月十八日から二十日のことであった。生野挙兵に加わった沢宣嘉と病死した姉小路頼徳を除く五卿はこの地で保命酒に舌鼓を打った。

 このとき三条実美が保命酒を詠んだのが次の歌である。保命酒のことを「竹の葉」と表現している。

世にならす 鞆の湊の 竹の葉を かくて嘗むるも めずらしの世や

 一行は京都を目指して鞆を発ったが、多度津で蛤御門の変を聞き、急遽長州に引き返すことになった。

三条らが過ごした客間 但し彼らは船に戻って船内で泊まったという

 大田家住宅は長州藩などの西国大名の参勤交代の宿所としても利用されていた。なるほど醸造所としての蔵や施設だけでなく、広大な敷地に客間や茶室を備え、海の本陣としての機能を整えていたことが伺われる。

 平成八年から十三年まで約六年をかけて保存修理事業が行われ、平成十四年より一般公開されている。入場料はわずかに四百円だが、係りの女性が私一人を相手に随分丁寧に案内してくれた。一見の値打ちがある。
(いろは丸展示館
いろは丸展示館

 大田家住宅に隣接していろは丸展示館が開設されている。大田家の所有する大蔵を改造して展示館としたものである。展示館の入口を入ると、赤・白・赤の海援隊旗が出迎えてくれる。

 いろは丸は、伊予大洲藩所有の船で坂本龍馬の率いる海援隊が運航していた。慶応三年(1867)四月二十三日夜半、福山沖でいろは丸は紀州藩の藩船明光丸と衝突して沈没。龍馬はすぐさま明光丸に飛び移り、そのまま鞆の浦に上陸して、紀州藩を相手に談判を始めた。鞆の浦には、龍馬が宿泊した商家、紀州藩が宿所として使用した寺、そして談判が行われた民家が残されている。

 龍馬と紀州藩とは数回に亘り交渉を続けたが、突如として紀州藩は長崎へと船を出してしまった。龍馬は激怒して長崎まであとを追い、そこでも万国公法を武器に紀州藩を苦しめた。

 「船を沈めたその償いは 金を取らずに国を取る」といった唄を花街で流行らせて、紀州藩に嫌がらせをした。民衆はいつでも判官贔屓である。天下の大藩を相手に健気に戦う海援隊に人気は高まった。堪らず紀州藩は薩摩藩に仲裁を頼み、五代友厚が調停に乗り出し、賠償金八万三千両(のちに七万両)で決着した。龍馬の完全勝利であった。

展示館二階

龍馬が桝屋に潜伏しているところを再現

 鞆では「唐人の船が沈んでいる」という噂が伝承されており、それがいろは丸ではないかと囁かれていた。昭和六十二年にいろは丸引き上げ計画が浮上し、潜水調査を重ねた結果、いろは丸とほぼ断定された。四次に渡る潜水調査の結果、船の部品や石炭、茶碗等が引き揚げられた。いろは丸展示館では、更なる調査のために資金を集めており、募金した人は引き揚げられた石炭のかけらがもらえる。ちっぽけな破片であるが、歴史の臭いがする。

 一つ面白いのは、龍馬が交渉の中で主張した武器弾薬が一切見つかっていないことである。どうやら龍馬のハッタリのようである。万国公法を盾に正論で押すのであれば、このようなウソをつくというのはあまり感心したことではないが、それだけ龍馬の怒りが激しかったということであろう。