富田林



HOME  戻る



(仲村家
仲村家住宅
 富田林寺内町は古い住宅をよく保存した一帯である。この街並の一つに仲村家がある。仲村家は屋号を佐渡屋といい、代々徳兵衛を名乗って酒造業を営んでいた。当家には多くの文人墨客が訪れた。吉田松陰が森田節斎とともにここに二十四日間逗留したという記録も残されている。この仲村家の隣が水郡善之祐の祖父喜田万右衛門の隠居場所であったため、その関係で近所に住む辻幾之助、仲村家の徳治郎らが天誅組に参加した。
(水郡邸
水郡邸

 寺内町から少し離れるが、富田林市甲田の集落の中に水郡邸がある。この建物は他所から移設されたもので、徳川初期の建築らしい。幕末の当主水郡善之祐は、諸国の憂国の志と交わった勤王家であった。天誅組の挙兵に当たって武具、旗や幟を用意し、文久三年(1863)八月十六日午後、当邸にて中山忠光らと合流した。水郡善之祐は当時十三歳の長男英太郎を連れて河内勢の盟主として天誅組に加わった。河内勢は天誅組のうち四分の一以上を占める大勢力であった。

 天誅組は八一八の政変により孤軍となった。水郡善之祐率いる河内勢は九月十一日に本隊と訣別して十津川を越えて竜神温泉近辺で紀州藩兵に降伏した。水郡英太郎はまだ十三歳であったために助命されたが、善之祐は捕らえられて京都六角獄舎に押送され、翌元治元年(1864)七月、刑死した。三十九歳であった。

 水郡英太郎は、助命されて故郷に預けられた。慶応三年(1867)、鷲尾侍従の遊撃軍に参加して御親兵となった。明治後は、宮内省属官、埼玉、長野、大阪、和歌山など地方裁判所を歴任した。明治四十三年(1910)、五十九歳にて病死。水郡邸には現在英太郎の末裔の方が住んでおられる。
(養楽寺
養楽寺
水郡烈士之墓
贈従五位森本勝定之碑
 養楽寺は、水郡家の菩提寺である。境内にはやはり天誅組に参加した森本伝兵衛の墓がある。森本伝兵衛は小荷駄方として活躍した。
(錦織神社
錦織神社本殿
 養楽寺の前の道を道なりに進んで、近鉄長野線川西駅を過ぎたところに錦織(にしこり)神社がある。入母屋造桧皮葺の本殿は国の重要文化財に指定されている。
天誅組 河内勢顕彰碑
 参道を入ったところに天誅組の河内勢の顕彰碑が建っている。竜神で紀州藩に降伏した河内勢であるが、水郡英太郎を除く全員が京都に送られ刑死した。
和田佐市碑
 碑の傍らに在る和田佐市の碑。和田佐市は天誅組伍長として参戦。水郡父子、森本伝兵衛と同じく甲田村の出身であった。