
幕末維新史上最悪の虐殺事件は、天狗党の斬首刑であろう。敦賀にはこの時死罪となった353名と戦死者、病死者を含む411名を葬る墓と神社がある。
水戸藩家老武田伊賀守正生(耕雲斎)率いる烈士等一行は、茨城太子を出発して四十八日目の元治元年(1864)十二月十一日、敦賀新保に到着した。これを待ち受けていたのは、上京を阻止しようとする幕府の大軍約一万三千が縦深陣を構築して布陣していた。
ここで一行は、頼りにしていた一橋慶喜が討手の大軍の総指揮官だという驚愕の情報を入手する。軍議を重ねた結果、一旦降伏し他日再挙を図ることに決した。
この降伏を受けた加賀藩の総帥永原甚七郎は、彼等の国を思う心に深く感動し、一同を敦賀元町の本妙寺、本勝寺、長遠寺の三箇所に収容し、天下の志士、武士の鑑として厚くもてなした。
間もなく幕府から天狗党の処置の全権を取り付けた田沼玄蕃守意尊が派遣されてきた。田沼はかつて水戸で武田耕雲斎と対立し、激しい敵意を燃やしていた。元治二年(1865)一月二十九日から一同を獄舎として用意した鯡倉十六棟に押し込め、意識的に劣悪な条件のもとにおいて拷問同様の扱いをした。
二月一日より形ばかりの裁判をやって、六日後には判決を下した。死罪353人、遠島137人、水戸藩渡し130人、追放187人。幼年者11人は仏弟子として永厳寺預け。二月四日、十五日、十六日、十九日、二十三日の五日間で353人の斬首を行った。予め5.4メートル四方の穴を掘り、そこで執行された。まさに家畜の堵殺に近い行為であった。
この蛮行は批判されても弁解の余地はないが、水戸天狗党もここに至るまでかなりの掠奪、殺戮を繰り返しており、庶民から相当の反感を買っていたのも事実である。勝者からの視点のみで史実を評価するのは戒めたい。



武田耕雲斎は、享和三年(1803)水戸の生まれ。文政十二年(1829)、藩主継嗣問題が起きた際、会沢正志斎らと斉昭を擁立して奔走した。斉昭が九代藩主に就くと重職を歴任した。天狗党が筑波山に挙兵した当初は鎮撫に努めたが、藩内の保守党が天狗党追討を始めると、尊攘派士民を率いて天狗党に合流し、天狗党の首領に担がれることになった。至誠を朝廷に嘆訴しようと西上の途についたが、敦賀で力尽きることになった。享年63歳。
武田耕雲斎の辞世
討つもはた 討たれるもはた 哀れなり 同じ日本の乱れとおもえば

