

墓石の正面には、谷累代之墓とあり、側面に谷三十郎、万太郎、昌武の名前を見ることができる。
三兄弟はもと備中松山藩士であったが、何らかの不祥事を起こして大阪に移り住み、そこで道場を開いていた。彼らが新選組に加入したのは文久三年(1863)頃と言われる。池田屋事件でも活躍し報奨金を得ている。ぜんざい屋事件では、三十郎、万太郎兄弟らが出動して土佐脱藩浪士大利鼎吉を討ち取っている。
慶應二年(1866)四月、長兄三十郎は、八坂神社の階段下で死体となって発見された。死因は病死説、暗殺説があるが、はっきりしない。三十郎の死後、万太郎は新選組を離脱して大阪で道場を開いていたという。本傳寺の谷家の墓は、三十郎の一人息子岩田弁太郎が建てたものである。
谷昌武は、請われて近藤勇の養子となり、近藤周平と名乗った。三十郎の死後、養子縁組を解消して谷姓に復した。鳥羽伏見の戦いのあと脱走。維新後は、山陽電鉄の職員として働いて、明治三十四年(1901)五十三歳にて病死と伝えられる。