山 崎 T
極めて私的なことであるが、私のご先祖は京都で代々油屋を営んでおり、屋号を山崎屋と称した。私の祖父が子供の頃は家業を手伝って蝋燭などを売っていたらしい。明治維新を境に何故か植村と称することになった(何故、“植村”になったのかは植村家の謎である。迂闊にも誰も知らない)。戦国期から江戸期にかけて山崎は油の座(営業権)を握っており、その縁で山崎屋と称していたのであろう。というわけで山崎という土地には格別な思いがある。
因みに植村家本家は、現在も堀川商店街で化粧品店を営んでいる。
私の実家のある高槻から最も近い維新関係の史跡は、大山崎の酒解(さかとけ)神社である。連休の一日、父と天王山ハイキングがてら大山崎の史跡を訪ねることにした。
JR山崎駅からハイキング・コースに沿って坂道を登ると、最初に出迎えてくれるのが宝積寺(宝寺)である。宝積寺は僧行基が神亀四年(727)に創建した僧院に端を発するというから、その歴史は非常に古い。
宝積寺 仁王門
宝積寺 三重塔
その傍らに禁門の変で敗れ、天王山で自刃した真木和泉ら十七名を記念して十七烈士塔が建てられている
宝積寺 本堂に掛かる朱塗りの天王山扁額
元治元年(1864)の禁門の変では、約三千の兵を擁した長州軍は、開戦前夜、京都近郊に分駐したが、そのうちの一軍は宝積寺に陣を構えた。
宝積寺の境内を抜けて、更にハイキング・コースを進むと、酒解(さかとけ)神社の大きな鳥居が見えてくる。前夜の大雨で道はぬかるみズボンは泥だらけになってしまった。天王山山頂は標高270メートルで、登山というには可愛らしいスケールであるが、結構坂は急な上に足元は滑りやすいので油断は禁物である。
酒解神社 鳥居
十七烈士の墓
鳥居から数百メートル登ると、左手に真木和泉を初めとして土佐、肥後、久留米、宇都宮出身の志士、十七名の墓がある。禁門の変(蛤御門の変)に破れて天王山に逃げ込んだ彼らを新撰組の一隊が追撃した。追い込まれた十七人は火を放ってこの地で自決した。彼らの遺骸は宝積寺に葬られたが、「残念さん」と称して信仰する人が多かったために幕府の怒りに触れ、幕府は彼らの墓を暴いた。明治になって時の政府はこれを現在地に改葬したものである。
手前が真木和泉の墓
真木和泉保臣は、久留米の神官。尊王攘夷派の理論的指導者で禁門の変の計画も真木和泉の立案に沿って進められたものであった。
酒解神社 神輿庫
神輿庫は鎌倉中期の建設とされる
天王山山頂
俗に天下分け目の戦いのことを天王山と呼ぶが、秀吉と光秀の決戦は勝竜寺城付近で行われている。