山 崎 U
安養院
安養院本堂の前に甲子烈士無名墓と刻んだ墓碑が立つ。禁門の変で破れて都を逃れてきた長州藩士が山崎の離宮八幡宮近辺で自決した。一説に小荷駄方の兵士という。村民の手により安養院に葬られた。安養院も元治の兵乱で焼失したという。
甲子烈士無名墓
離宮八幡宮
山崎というと、豊臣秀吉と明智光秀の天王山の合戦が有名であるが、この地は大阪・兵庫方面から京都に攻め上がるに、川が合流し、山が迫り、戦略的に重要な場所である。古来、戦乱の舞台となった。禁門の変に破れた長州軍が敗走すると、幕府は山崎で掃討戦を始めた。まず七月二十一日、五つ半(午前九時頃)離宮八幡に大砲が打ち込まれた。離宮八幡はこの戦火で全焼した。離宮八幡宮の境内は、現在よりはるかに広く、多宝塔、護摩堂、鐘楼なども備えていたらしい。その一切が灰燼に帰した。かつて離宮八幡宮に隣接して、神宮寺、成恩寺という寺院があった。現在JR山崎駅のある場所が神宮寺跡地、その東側にある月極駐車場辺りが成恩寺跡地である。これらの寺院も焼失し、復興する前に維新を迎え、廃仏毀釈のために永遠に再建される機会を失ってしまった。
観音寺
観音寺は山崎聖天とも呼ばれ古くから信仰を集めた。特に商売繁盛を願う住友家、鴻池家、三井家を始め京・大阪の商人の参詣を得て大いに発展した。現在も境内に住友家が寄進した銅製の巨大燈篭が残されている。元治元年の禁門の変では、砲声を聞いて本尊十一面観音や歓喜天などを本堂前の池に隠したという。しかし戦火から逃れることはできず、観音寺も一山灰燼に帰した。
大念寺
宝積寺に登る途中、急な階段を上ったところが大念寺の境内である。やはり元治の戦乱により建物は全焼した。明治十二年になって現在の姿に再興されている。
小倉神社
小倉神社は乙訓地方では最も古い神社と言われている。幕末当時の小倉神社の神職は小泉義盛という人であった。幼いころから平田篤胤に師事して国学を修め、勤皇の志篤く常に京師に往来し志士と交わったと伝えられる。真木和泉が山崎に着陣すると、宝寺の本陣を訪れその労をねぎらった。真木らの軍が利あらずして京都より退却してくると、負傷者の手当てをし、鮮血に染まった衣装が一見して落ち武者と分かることから、自分の持っている神官の衣装を貸し与えた(大山崎ふるさとガイドの会HPより)。