八 尾


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(伴林光平記念碑
贈従四位伴林君光平碑

 天誅組に参加した河内勢は少なくない。松浦玲著『幕末 京大阪歴史の旅(朝日新聞社)』によると、本来京都から大和へは陸路をまっすぐ南下するのが最短であるが、天誅組が敢えて遠回りをして南河内を目指したのは、一行に河内勢がいたからだと指摘する。彼らは河内勢の導きにより、船旅で伏見から大阪を経由して堺から上陸している。

 河内勢の首領格の一人が伴林光平であった。伴林光平は、河内道明寺村の出身。国学者であり、和歌や日本画に秀でて、河内一帯に門人も多かった。八尾市南本町2丁目にある児童公園に聳え立つ伴林光平碑は、弘化二年(1845)から文久元年(1861)の十六年にわたり、彼が教恩寺住職としてこの地で起居していたことを記念したものである。伴林光平の没後五十年経った大正三年(1914)に建てられたものである。
(玉祖神社 伴林光平の墓
贈従四位伴林光平之墓
 八尾市の玉祖神社(たまのおやじんじゃ)に伴林光平の墓がある。伴林光平が生前、大阪と大和を往復する際、十三峠を通っていたので、五十年忌に当たり河内の同志が建てたものである。文久三年(1863)天誅組の変では、先行して偵察に出たため結局東吉野における戦闘には加わらず、文久三年(1863)九月二十二日には法隆寺附近駒塚の自宅に帰っている。同月二十五日田原村(現生駒市)にて捕らえられ、文久四年(1864)二月、京都六角獄舎で斬首された。五十二歳。
玉祖神社夏祭り
 玉祖神社を訪れたとき、ちょうど夏祭りの真っ最中で行く手を山車に阻まれて、なかなか目的地に行き着かない。自動車を途中で民家の前に乗り捨てて、のろのろと山車のうしろに着いて行くしかなかった。
 玉祖神社の参道には随所に石標が立っており、近くまで行き着くことはできる。しかしそこから伴林光平の墓を発見するのは極めて困難であった。小さな池の脇の道無き道を、雑草を掻き分けながら5〜6b進むとその向こうに光平の墓がある。