淀 U
八番楳木戦場跡
この附近は千両松と呼ばれ、千両松の戦いという方が、知名度が高いであろう。慶應四年(1868)一月五日、土方歳三率いる新選組、佐川官兵衛率いる会津藩の部隊と、新政府軍とがここ千両松で激突した。新選組は井上源三郎ら二十数名が戦死、山崎烝らが重傷を負った。
浅田次郎『壬生義士伝』は南部藩出身の新選組隊士吉村貫一郎を主人公にした作品である。吉村貫一郎は、諸士取調役兼監察、剣術師範頭という重職に就いていたにも関わらず、記録が少なく実像は闇に包まれている。伝えられる史実としては、吉村貫一郎が奥州南部藩の出身であること、慶應元年(1865)四月に新選組に加入したこと等々、ほとんど情報がない。子母澤寛『新選組始末記』では千両松の敗戦のあと、大阪の南部藩邸に逃げ込み、そこで切腹して果てたと記録しているが―――浅田次郎はそれを基に小説を書き上げた―――事実かどうか。一説には千両松で戦死した隊士嘉村権太郎こそが吉村貫一郎であるとも言われている。
『壬生義士伝』は涙無くして読めない。基本的にはこういう暗い小説は好きではない。中井貴一主演で映画化もされたが、こちらは小説以上に泣かせる場面満載で、こういう映画は好きでないと言いながら、私は最初から最後までぼろぼろになるまで泣いてしまいました。特に吉村貫一郎が千両松の戦いで、新政府軍に向かって「一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねど、拙者は義のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたす」と叫んで敵中に突進するシーンは涙無くして観ることは適わない。
(鳥羽伏見戦跡地碑)
鳥羽伏見戦跡地碑
「宝塔者為鳥羽伏見戦跡地有縁無縁之諸霊追福菩提也」
伏見街道(府道京都守口線)の伏見納所団地へ入る角に、比較的新しい鳥羽伏見戦跡地慰霊塔が建っている。鳥羽伏見の戦争があった頃、この附近は湿地帯であったと言われており、この慰霊碑の由来は不明である。
(愛宕茶屋埋骨地)
愛宕茶屋東軍戦死者埋骨地碑
淀川に近いところにかつて愛宕茶屋があり、鳥羽街道を往き来する人々がここで休息を取った。現在、この地に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の石碑が建つ。埋骨地には士率合わせて三十五名が眠る。
この地が戦場となったのは、慶應四年(1868)正月五日。東軍の会津藩兵三百はここに陣を張り、官軍を待ち受けていた。官軍がこの地に足を踏み入れたとき、激しい砲撃を浴びせた。それを合図に双方乱れての大激戦となった。東軍は多くの戦死者を出して敗走した。
(戊辰役戦場址碑)
戊辰役戦場址
妙教寺附近、納所小学校に隣接して納所会館があるが、その建物の前に戊辰役戦場址碑が建っている。この碑はかつて愛宕茶屋東軍戦死者埋骨地碑の近くにあったものらしいが、ここに移設された。
(光明寺跡東軍戦死者埋骨地碑)
光明寺跡東軍戦死者埋骨地跡
淀附近には東軍(幕府軍)の戦死者の埋骨地が散在している。西軍の戦死者は手厚く葬られたのに対し、東軍の戦死者は賊軍として野ざらしにされていた。その遺骸を地元の寺や村人らが荼毘に付して葬ったものである。淀駅から競馬場に向かう途中にある、この光明寺跡埋骨地もその一つ。現在、寺はなく空き地の片隅に地蔵と並んで石碑が建っている。
長円寺門前戊辰役戦死者之碑
長円寺門前には、榎本武揚書明治四十年建立の戊辰役戦死者之碑が建つ。碑文によると、長円寺のほか、光明寺、大専寺、文相寺、東運寺それに八幡の番賀墓地に埋骨地があることが記されている。
長円寺 戊辰役東軍戦死者埋骨地
森田貫輔首級
森田貫輔は旧幕軍歩兵指図役頭取。津藤堂藩の寝返りにより負傷し、樟葉久修園院で自刃した。時に24歳。このとき森田の部下の18歳と19歳の若者が介錯をつとめ、一旦首級を久修園院の本堂傍らに埋めたが、大正二年(1913)になって改葬されたものである。
(東運寺)
東運寺 戊辰役東軍戦死者埋骨地
長円寺隣の東運寺にも東軍戦死者が埋葬された。
(大専寺)
大専寺
同じく東軍戦死者埋骨地の一つ。門を入った右手に無縁となった墓石が積み上げられており、その左に埋骨地の石碑が建てられている。
大専寺 戊辰役東軍戦死者埋骨地
(文相寺)
文相寺 戊辰役東軍戦死者埋骨地
大専寺から南西に百メートルも歩くと左手に文相寺がある。ここにも東軍戦死者埋骨地の石碑がある。