八 鹿



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(平野国臣捕縛の地
平野国臣捕縛の地
 義挙に破れた平野国臣は城崎に向かって逃亡を続けたが、八鹿上網場(かみなんば)まで豊岡藩の追手に包囲され捕らえられた。

 碑には平野国臣の辞世が刻まれている。

見よや人 嵐の庭のもみじ葉はいずれ一葉も散らずやはある

 この碑を探し出すのには随分苦労した。ウルトラE難度といったところである。こちらで予め入手していた情報は平野が網場で捕らえられたこととそこに碑があるということだけである。

 まず八鹿町役場の地図で網場の位置を確かめる。次にJR八鹿駅前で客待ちをしているタクシーの運転手さんに尋ねてみたが、このような碑は見たことがないという。

「ご近所で聞いてみて下さい」

という言葉に従って、網場の町内を走り回ったが、休日の昼下がり、外を歩く人も少なく、道を聞くにも人が捕まえられない。

 ガソリン・スタンドで聞いてみたが、人の良さそうな店員さんは首を横に振るばかりであった。

「警察で聞いてみて下さい」

と警察署の場所を教えてくれた。

 警察でも親切に地図を見せてくれたが、

「網場といっても上網場と下網場があって、両方合わせると広いんです。」

というだけで、お手上げであった。おまわりさんの助言は

「お寺に聞けば分かるかも…」

ということで、町内に二つあるお寺の場所を教えてもらった。

 お寺に向かう途中、坂道を、自転車を押して上っているおばあさんに遭遇。案外土地の老人は物識りである。おばあさんに訪ねると

「さあねぇ、平野さんちゅう方は知らないねぇ」

とさっぱりちんぷんかんぷんであった。

 やはり最後の望みはお寺しかない。ところがお寺の奥に向かって叫ぼうが、呼び鈴を鳴らそうが誰も出てこない。庭に回って

「すみません、誰かいませんかぁ」

と連呼してみたが、さっぱり反応がない。

 全くお手上げ。ここまでこの石碑だけを目当てにやってきて、そこに行き着かないというのはあまりに悲しい。「迷子のこねこちゃん」の心境であった。

 それでも諦め切れずに当てもなく車で走り回って、上網場町民館に車を止めて附近を歩いていて、ようやく碑を発見した。ため息をつきながら写真を撮っていると、様子を見ていた近所のおじいさんが色々と教えてくれた。

 石碑のあったところには、京屋という船宿があったそうである。なるほど石碑のある横の土手を越えると、そこには川が流れている。網場という地名もそこから来ているのであろう。今では国道やそのバイパスに主役を奪われてしまったが、石碑のある土地の前を走る狭い道が旧街道であったらしい。この地は交通の要所でもあったわけである。

 大切な史跡は、住民の手により大切に保存されることを切に願う次第である。できれば外部からの訪問者にもう少し分かり易くして戴ければ、尚有り難い。
(青谿書院

青谿書院

 庭にそびえる樅の木は、弘化四年(1845)、書院の完成時に植樹されたものである。

 青谿書院は、池田草庵の私塾である。

 池田草庵は、文化十年(1813)に八鹿宿南の農家の三男として生まれた。幼くして両親を無くしたため、広谷村満福寺に預けれ、そこで読み書きに励んだ。十八歳で上京して相馬九方の塾に入門した。このころ春日潜庵と知り合った。春日潜庵とは、生涯を通じて親密な交際を続けた。天保十四年(1843)に八鹿に帰り、弘化四年(1845)三十五歳のとき、青谿書院を建てた。全国から人材が集まり、門人数六百七十三人という。草庵は他藩からの招きを一切断り、明治十一年(1878)六十六歳で亡くなるまでこの地で教育に身を捧げた。

青谿書院記文碑

明治十三年、池田草庵の没後三年に門人一同が設立したものである。長三州の揮毫。
 青谿書院から多くの人材が巣立った。幕末動乱期に志士として活躍し、明治になって京都府知事として手腕を発揮した北垣国道もその一人である。北垣国道は池田草庵を終生の師と仰いだ。明治二十二年には、同じく門人の一人で、国立第百銀行を設立し正金銀行の再建にも貢献した原六郎と協力して青谿書院保存会を結成している。

青谿書院資料室
 青谿書院から百メートルほど先に進んだところに資料室があり、池田草庵の遺品等を展示している。入口に鍵が掛かっている。隣接する民家に池田草庵の末裔になる方が住んでいて、そこにお願いして資料室を開けて戴いた。春日潜庵とやりとりされた書簡や青谿書院で使用された門標、拍子木など興味深いものが展示されている。