
膳所城は琵琶湖に出べそのように突き出た小さな半島に建てられた。関が原の合戦のあと、徳川家康が戸田一西に命じて築城させたものである。城主は、戸田、本多、菅沼、石川と移り、幕末の藩主は本多氏であった。幕末の膳所藩は、佐幕派として目立たない存在であったが、慶應元年(1865)に藩を揺るがす事件が起きた。折柄、上洛しようとしていた将軍家茂を膳所藩士が暗殺しようとしているという噂が流れ、急遽家茂の宿所は大津宿に変更となった。面目を失った膳所藩では、中老保田信解以下十一名の尊攘派を切腹或いは斬罪に処した。膳所城事件という。
舞台となった膳所城跡は公園となっており、そこに城があったことを示すものは何も残っていない。公園入口近くに膳所城址と刻んだ石碑があるのみである。
膳所高校のある場所にはかつて藩校遵義堂があった。遵義堂が創建されたのは文化五年(1808)。幕末に至って革新的な人材を輩出した。廃藩後、膳所高校に引き継がれている。
ゼミの同級生に膳所高校出身者がいたが、膳所高校はかつて一度だけ甲子園に出場したことがある。全校生徒で甲子園に駆けつけ応援したが、18対0という記録的大敗を喫し、応援しているのも恥ずかしいくらいだったと話していたのを思い出した。
膳所高校から縁心寺まで来たとき、俄かに天空を厚い雲が覆い、やがて狂ったように雷鳴が轟き、豪雨が降り注いだ。雨具の用意のなかった私は縁心寺本堂の軒先で雨宿りをすることになった。
縁心寺は、膳所藩主本多氏の菩提寺で、墓地には歴代藩主の墓が並んでいる。同じ墓地には膳所城事件で切腹させられた家老保田信解、槙島光明の墓があるというので、ここを訪ねた。しかし雨は益々激しさを増し、やがて軒先にいてもしぶき避けられない状態となった。見かねた寺の夫人が本堂の中まで入れてくれて、お茶まで頂戴することになった。
そのうち雷が止んだので、寺で借りた傘をさして墓地を歩いた。墓地は洪水状態となっており、靴の中までずぶぬれになってしまった。散々な目にあったが、人の温かさにも触れることができた一日であった。




