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| むらやま徳内まつり |
| 2011.08.19(金)、08.20(土)、08.21(日)の3日間 |
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村山市の「むらやま徳内まつり」が8月21日から23日までの3日間、JR村山駅からふれあい通り、楯岡商店街などを会場に開幕しました。 雨の中、踊り手たちが躍動感たっぷりの舞を披露。行く夏の夜に熱気がはじけました。11回目になる今年、メーンの「徳内ばやし共演」を3日 間通しの”宵祭り”に再編成し、期間中、踊り、はやし合わせて27団体、延べ7500人が出演しました。雷雨の中予定より少し遅れましたが、 笛や鉦が奏でるアップテンポなはやしが鳴り響く中踊り手たちは色鮮やかな半纏や粋なさらし姿をまとい鳴子を打ち鳴らし、「祭りだ、祭り だ!」「ソーレソレソレ」の掛け声で勇ましいダイナミックな踊りを沿道に集まった観客達を魅了していました。 |
1755年(宝暦5年)、現在の村山市楯岡に、貧しい農家の長男として生まれる。
高宮元吉(たかみやげんきち)という名前であった。当時楯岡は宿場町として栄え、
各地から産物や文人の交流があり、元吉は行商をしながらそれらから情報を得、
学問をし、やがては江戸へ出て武士になることを志す。1781年/26歳、江戸へ出
た元吉は名を徳内(とくない)と改め、幕府の医管山田宗俊について医学、算術を、
地理学者本多利明から測量術を学ぶ。1784年、高宮姓を最上(もがみ)と改め、
幕府の蝦夷地検分使の一員として、蝦夷地にわたった。1791年には普請下役の武士
となり、1798年、幕臣近藤重蔵らと千島を探検し、エトロフ島に「大日本恵登呂府
(だいにっぽんえとろふ)という標識をたてた。それから1810年まで徳内は9回に
わたって北方探検にあたり、著書に「えぞ草紙」ほか。1836年、江戸で死去。
82歳であった。【参考文献】やまがたなんでもかんでも大図鑑様 |
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鉦、笛、太鼓、掛け声など囃し手を乗せた豪華絢爛な山車が町の中を練り歩き、リズミカルなお囃子に合わせ踊り手が力強く華麗に舞う「徳内ばやし」。郷土出身の 江戸時代の北方探検家・最上徳内が建立した神明宮(厚岸神社)に受け継がれる お囃子が、徳内の故郷・村山市に伝わり広まったのが始まり。現在では、東北を 代表する「むらやま徳内まつり」のメインイベントとして繰り広げられてい ます。 |
| あつい夏が今年もやって来た! | |||
| 徳内まつりスナップ写真 2006.08.23 むらやま徳内まつり | |||
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