幻影の国

 皇帝は申された。
「この歌い手の声が枯れるか、それとも竪琴の弦が切れるか、いずれかの時をもって終わりとする。それまでに戻らねば、歌い手の命はない」
 処刑台に登った歌人は緋色の敷物に座し、五つの音色を持つ簡素な竪琴を片膝に乗せる。歌人の後ろには、彼女に水を飲ませるための水差しを持った娘が控え、さらにその後ろへ、断首刀を携えた処刑人が立った。
 歌人の白い指が、わずかに震えながら弦に触れる。張り詰め乾いた音を合図に、重たい門扉が左右に開いた。
 門を走り出でた逞しい少年の背を追うように、始めの物語が紡がれてゆく。

 なぜこのようなことになったのか。
 西州小国群に伝わる古い伝承を歌いながら、歌人は心の中で自問する。
 あれがただの気まぐれな嫌がらせでないならば、他になんと言えよう。
 巨大な大陸に挟まれた陸中海。その沿岸地方全てを支配下に治める広大な帝国。西方の山岳部で反乱が起き、ちょうど別の戦で帰途についていた皇帝自らが、軍を率いてこれを鎮圧したという話は聞いていた。それが、皇帝が翌朝のバザールをただ二人の供だけを引き連れて散歩をしていたことと結びつくなど、想像できるだろうか。
 彼女は吟遊詩人であったが、煌びやかな英雄譚や、波乱に満ちた恋の物語などとはさして縁がなかった。それらを歌い上げる技量はなく、小さな町の酒場でも、彼女より上手い歌人は大方の場合存在する。旅をしながら町の井戸端で、各地の人々から口伝えに教えてもらった日常の小さな歌や、寝る前に子どもに聞かせてやるような神話や伝承の断片を歌い、その日のわずかな糧を得るのみである。
 不運の始まりは、市の片隅で静かに地元の伝承を幾つか歌っていたときであった。ふと、体格も身なりも申し分ない三人の男達が目に付いた。その中でもひときわ背の高い男と目があったとたん、相手が近づいてきたのだ。彼女の義弟は、この男に明らかな不快感を示した。彼女自身はすでに、あまり良くないことが起こりつつあることを確信していた。
 男は問うた。お前が歌う白銀の薔薇は、本当に山中の妖精の森にあるのかと。
 彼女は慎重に答えた。旦那様、これはただのおとぎ話です。
 運の悪いことに、その答えは相手を最も喜ばせるものだった。男は二人の供に命じ、彼女を取り押さえた。彼女の歌を聞いていたわずかな数の客達は、怯えて逃げ出してしまった。義弟が立ち上がり、彼女を助けようと二人の供に掴みかかろうとする。二人の供は彼女から手を離し、義弟を取り押さえる。彼女自身は、今度は皇帝その人に行く手を阻まれた。長身の彼女さえ、皇帝の背丈に届かない。
 詩人が自ら歌うその言葉を軽んじるのは、許しがたい行いである。
 皇帝は彼女の腕をつかみ、そう宣告した。皇帝の手が彼女に触れたとき、かすかな痺れが彼女の脊椎を襲った。彼女はそれが、何らかの魔法であることに気がついた。この皇帝の体内には、魔法が棲んでいる。
 彼女が目で義弟を制したため、彼もまたふて腐れながら大人しくなった。二人は町の広場へと連行され、歌人である姉は処刑台へと登らされた。皇帝は、彼女の義弟に告げた。
 妖精の森へと行ってみよ。お前は、白銀色の薔薇を見つけるはずだ。
 皇帝の言葉である。彼があるといえば、なければならないのだ。義弟はどのような手段を使っても、その薔薇を見つけてこなければならない。
 義姉である彼女は、半ば諦めながら少年の背中を見送った。因縁をつけてきた相手が皇帝では、こちらはもはや相手の暇つぶしのおもちゃに過ぎない。
 広場には、町の者もいれば皇帝軍の士官の姿も見えた。正直、これほどの聴衆を集めたことは彼女にはない。
 彼女は様々な言葉を用い、土地の者にとっては遠い異国のものである詞を歌う。詞をこの国の者にも通じる言葉に訳すことはできるが、そうすると独特の節回しが崩れてしまう。
 人々は、耳慣れず理解もできぬが心地よい、言葉のうねりに耳を傾けているように見える。もっとも、彼らが実際欲しているのが歌ではないことを、彼女は知っている。
 旅暮らしに薄汚れた白装束の歌人は、照りつける強い陽射しの下で薄いまぶたを閉じた。彼女の膝までの淡い金の髪は、陽光に細かく輝きながら処刑台の黒っぽい木板の上に裾を広げている。蒼白の硬質な肌は、彼女が少なくとも人間ではないことを物語っている。彼女は遥か南方の、魔術に長けた種族である。帝国付近の土地では、よく妖精族と混同されることがある。それくらい、この辺りでは馴染みのない人種である。
 もの珍しい異人であるが故に、皇帝の気まぐれで残酷な遊びの標的として目をつけられたのだろうか。
 歌人は物語の合間、後ろの娘に水を口まで運んでもらう。
 日除けがほしい。
 あまりの暑さに、次に歌うべき歌が思いつかない。あせった彼女がようやくひとつの物語を歌い始めると、処刑台の後ろにいる皇帝の声がそれを制した。
「歌い手よ。その物語は先ほど聞いた」
 皇帝はやはり語学に堪能であるらしい。彼は彼女の歌う異国の物語を、内容でしっかりと記憶していたのである。彼女は歌いやめ、再び別の物語を記憶の底からさらいだす。
 日が翳りだしても、彼女の義弟は広場に戻っては来なかった。皇帝は処刑台の後ろに設えた小さなテントで彼女の歌を聞いていたが、忙しい身でもあるので、席を外している時間の方が実は多いらしい。皇帝がいない間は他の者が席につき、彼女が同じ話を繰り返さないように見張っているのだろう。後ろを振り返るのを禁じられている彼女は、時に別の男の声で注意をされ、そのことに気がついていた。
 空は深い群青と赤みがかった黄金色に染まりだした。沈み行く太陽の上に、冷たい星の輝きが姿を現しはじめる。広場にいくつもの松明が灯された。暗闇に浮かび上がる処刑台に、さらに歌人の白い姿が浮かぶ。彼女はいまだ姿勢を崩さずそこにいたが、声はかすれていた。
 聴衆の姿は朝以上に増えていた。歌人が処刑される瞬間を見物しようというのだろう。歌などよりそちらが刺激的で面白い見世物である。
 歌人は、かすかな魔法の流れを感じて薄く目を開ける。皇帝が小柄な老人を従え、処刑台に近づいてくる。老人は布で覆った大きな荷物を両手で抱えていた。重さ自体はそれほどないらしい。老人の繊細な長い指が、彼女の目に残った。皇帝は処刑台の前に立ち、歌人を手で制した。
「あの少年は今頃、例の森にようやく着いたという頃だろう。余が話す間、休むことを許す。ハル!」
 皇帝は後ろの老人に呼びかける。老人は歌人と向かい合うように、処刑台の前に座絨毯を敷き、腰を下ろした。大きな荷物をくるむ布を取り払う。布の下から、優美な装飾のはいった見事な竪琴が現れる。
「お前の声は美しいが、それ以外はほとんど聞くところがない。市井の詩人であるから、もとより期待もしていなかったが、よもや虚ろとは思わなんだ。余とて、今お前を処刑してしまえば、歌があまりに空しいから処刑したと錯覚してしまうぞ。ハルは、余の気に入りの宮廷詩人の一人だ。彼の後について、歌えるのならば歌ってみよ」
 老人の指が、さっと弦の上を滑った。金属的な幾通りもの音色がひと時に奏でられる。その瞬間、広場は七つの音色に染まり、人々は心を打たれて頭をもたげた。処刑台の歌人は一瞬にして全ての空気を変えた音色に、迫り来る自分の運命も忘れ、溜息をつく。老人の歌声もまた、枯れた体から想像もつかないほどに力と深みであふれていた。
 歌人は残された力の限り、この一流の歌人の後について歌った。久しく忘れていた深い感情が心の底で動くのを感じながら、処刑台の歌人はすっと目を閉じた。

 空が清浄な星明りに埋め尽くされる頃、ようやく歌物語は幕を閉じた。
 皇帝は最後の音が余韻を完全に消してしまうまで、処刑台の前に立ちこれらを静かに聴いていた。
 処刑台の歌人は目を開ける。皇帝の濃い色の瞳が見えた。
「まだ続けるか」
 歌人は口をあけ咽を震わせたが、漏れ出たのは喉を通る息の音だけだった。彼女はゆっくりと上体を倒し、処刑人のために頭を下げた。下手に仕損じられることを恐れながら、歌人はそのままの姿勢でじっと待つ。なかなかその時は訪れない。ついにじれた歌人は首を起こす。
 処刑台の前で、皇帝が片手で処刑人を制しながら、じっと立っている。口元がわずかに上がっている。笑われているのだろう。
 この貴人はどこまで人を弄べば、気がすむのだろうか。
「伝承者よ。お前が歌った詩は、全て記録に取らせてもらった。記録者が知らぬ言語の歌は取れなかったが、それでもその数は五十近くになる。だが、お前が知っている話はたったこれだけではあるまい。異人が何故人間の土地を旅し、我々の古い伝承を集めているのか。おまえ自身の身の上も、十分興味深いことに思える。人間の少年を連れていたのもな。お前の命は保留する。帝都へ来て貰おう。悪いが、お前の弟の帰りは待てぬ」
 声も体力も尽きた歌人は、ささやかな抗議すらできない。皇帝の命で彼女を両脇からひきずり上げた兵士らに身を預け、囚われの人となる。

 宮殿の片隅に部屋をあてがわれた歌人は咽が回復するとすぐに、ハルの下、発声から仕込まれることとなった。また彼女の知る歌の記録も、次々に取られていった。
 練習の合間、ハルは彼女に異人の歌を求めた。かの種族の言葉は、人間の咽では決して発音できない音も含まれる。彼女は簡単な子守唄を歌ったが、ハルは何度も繰り返させた。
「不思議な音じゃ。そなたらはその音を使って、人の心を魔法でたぶらかすのか」
「いいえ。私達は魔法をそのようなことには使いません。ハル様の演奏こそ、本当の魔法です」
「そなたは多くの歌を知っておる。齢重ねたわしよりも」
「私の竪琴は、それ以上に年経ているのです」
「皇帝がお気に召さぬのも道理だ。この世で最初に造られた竪琴は、きっとそのような姿だったろう」
「この竪琴は変わりません」
「弟が心配かね」
 何度も窓から外を眺める歌人に、ハルは尋ねる。歌人は首を振る。
「身の上を案じてはいません。簡単に死んでしまうような子ではありませんから。ただ、あの子は人の命令を愚鈍なくらい、聞きすぎるところがあります。薔薇が見つかるまで、本当に帰らないのではと」
「皇帝陛下のお怒りに触れることは申してはならんぞ。気性の激しいお方だ。ご本人が気を落ち着けられる前に、処刑が実行されてしまうことはよくある」
 宮殿で過ごすようになって八日目の夜、歌人は見事に手入れされた庭園を三階の自室からぼんやりと眺めていた。皇帝がなぜ自分を捕えたのか、その理由を吟味していたのである。皇帝に秘められている魔法が気になった。一体何の魔法なのか。しかし腕をつかまれたときに感じた痺れは、もしかしたら皇帝が身につけていた魔法の護符によるものに過ぎなかったのかもしれない。戦に出る折は、兵士が皆持つものである。
 窓を閉ざしかけた歌人は、かすかな気配に素早く安全な部屋の奥へと退いた。月明かりを遮り、窓から侵入した人物は部屋に濃い影を落とす。淡い翠玉の瞳が、影の中で月明かりを集めている。
「おかえり」
 歌人は安堵して義弟を迎えた。彼は全身埃だらけであり、上着にはいくつものかぎ裂きがあった。血のにじんだ跡もある。帝都までの旅のせいか、痩せてやつれてもいた。歌人は小さく声をたてて笑った。
「まさか、薔薇の茂みにでも飛び込んだの?」
「飛び込んだよ。約束の物を採ろうとしてね」
 義姉の反応に怒りもせず、穏やかに義弟は答えた。彼は両腕を月明かりに差し出す。むきだしの日に焼けた腕は、薔薇の棘のために傷だらけとなっていた。歌人は義弟の腕に手をかけた。傷は癒えかけ、膿んでいるところは見られない。
「本当に飛び込んだね」
「あの男に嘘は通じない。採ってはこなかった。あれはあそこにあった方がずっと綺麗だ」
「私の命がかかっていても?」
「だから、途中で剣をかっぱらって、精一杯の速さで引き返してきた。でも、広場にはもう誰もいなかった」
「ご苦労様。あとは皇帝があなたのことを覚えていればいいけれど」
 歌人は自分の薄汚れた荷物を寝台の下から引き出す。適当な着替えを取り出すと、水を張った浅いおけと一緒に渡す。
「傷を洗いなさい」
「そんなことより、早くここから逃げ出そう」
 義弟はおけを押しのけながら、そうささやく。歌人は色のない唇に、人差し指を当ててみせる。
「いくらあなたでも、こんな簡単に宮殿に忍び込めるわけがない。入れてくれたとしか思えない」
「誰が」
 それなりに苦労して忍び込んだ努力をあっさりと否定され、やや機嫌を損ねて彼は問い返す。
「皇帝陛下に命を受けた見張り達が」
 歌人は答えて、寝台の掛け布団から毛布を引き出す。彼女は部屋の床へ横になった。
「明日の晩、皇帝の私室に来るよう呼ばれている。あなたも一緒に来るといい。その時に分かるから。……疲れたでしょう。寝床使って。お休みなさい」
 考え込む義弟に背を向けて、彼女は眠る。
「お休み」
 しばらくして、義弟が呟いた。

 現在の大陸において、最大の国土と国力を有しているであろうルーシャル帝国。その頂点に立つただ一人の男は、様々な国の装飾を所狭しとあしらった豪奢な一室で歌人を待っていた。
 澄んだリュートの調べと、耳をくすぐるような甘い歌声が聞こえる。案内されるままに部屋の扉をくぐった歌人は思わず目を閉じる。いくつもの燭台に照らし出された部屋が、曇るような黄金色に輝いていた。黄金色といえど、どれひとつとして同じ色はない。象牙色の柱を彩る蔦の彫刻や、壁一面に描かれた楽園のような庭園が、綾をなす光と影を受け、ときに輝きときに暗がりに色を潜める。隣に立つ義弟の頭髪は部屋の黄金色に溶け、さらに色の濃い横顔は壁面の明るい野辺に縁取られる。歌人は肩に流れる己の長髪に目を落とす。濃い色合いがあふれるこの部屋で、彼女の髪は褪せた真珠と輝いた。
 皇帝は部屋の中央、片側のみに肘掛けのついた寝椅子にゆったりと身を預け、歌人とその義弟の反応を面白げに眺めている。一代で、領土を三倍に広げたといわれる男である。南方系の血が混じっているのか、肌色は薄く背が高い。成した偉業の数々の割には、彼は非常に若く見えた。髭を蓄えていないせいかもしれないが、まだ三十過ぎにしか見えない。下手をすれば、二十代でも通るかも知れない。しかしどこか強張った若い肌は蝋のように表情がなく、その下に得体の知れぬ醜さを隠しているようでもある。
 歌人は皇帝の脇でリュートを手にさえずる美しい乙女に視線を移す。彼女はつややかな浅黒い肌を持っている。長く濃いまつげに金粉が輝き光の珠と震える。皇帝は「うまくなった」と声をかけながら、すぐさま乙女に下がるよう命じる。乙女は夢見る足取りでくるりと回り、小さな笑い声を抑えて二人の脇を通り過ぎる。彼女は過ぎざまに義弟の腕にそっと触れていった。部屋に皇帝と歌人の姉弟だけがとり残される。
 皇帝はしばしの間、珍しい異人である歌人の姿を、興味深げに観察する。やがて歌人と視線を合わせたが、皇帝は明らかに、自分のものであるこの沈黙を楽しんでいた。皇帝が物を言わない限り、目下の者は話せない。
 耐えられなくなった歌人が、無礼を承知で口を開こうとする。その前に、皇帝は命じた。
「歌を。異人の歌う異界の歌を聞きたくなった。いや、その木屑のような竪琴は奏でるな。声だけでよい。少年よ、お前はここに控えて余に酌をせよ。犬のような奴だ。ここまで義姉を嗅ぎつけてくるとはな」
 歌人は仕方なく、皇帝の前で幾つかの短い歌を披露する。義弟もまた、皇帝の脇に片膝をついた。皇帝は歌人の声に耳を傾け、少年の杯を注ぐ作法に鋭く目を細めた。
「歌のためだけに呼んだわけではありますまい」
 ついに歌人は痺れを切らし、杯を重ねる皇帝に問う。彼は銀杯を置き、眠たげに長い黒糸の髪をかきあげた。
「名を聞いていなかったな」
「エルヤ。弟はエカルと申します」
「この者は北方系だな。なぜ、このような者が貴族に対してするような作法を身につけている? イルシュ式の作法だ。しかるべき所でなくば学べない。余の袖に酒をこぼそうものなら、斬って捨てようと企んでいたのだが」
 皇帝は不意に少年の手首を掴み上げる。筋張った赤銅色の腕に、薔薇の棘に裂かれた幾つもの傷がある。少年は器用に手首をひねり、皇帝の手をほどく。歌人は口を開く。
「陛下同様、我々も様々な秘密を持って生きているのです」
「なるほど」
 皇帝は体を起こし、まっすぐに歌人と向かい合った。
「お前を捉えたのは、白銀の薔薇を歌いながらもその存在を偽った故だ。死への猶予を与えたのは、お前がどこでかの歌を知ったのか確かめたかった故だ」
「私はあらゆるものから歌を集めております。声無き者、歌わぬ者からも」
「では、余から何か歌は聞こえぬか」
「耳を傾けるに値するものならば」
「歌人よ、お前は歌を選ぶのか」
「何をお望みなのか」
 エルヤは皇帝の瞳の奥を探る。そこに彼女はかすかな落胆を見る。およそこの男には似つかわしくない、しおらしい表情だ。エルヤは瞬きをする。その間に皇帝の瞳は鈍い輝きを取り戻し、瞳孔は全ての光を吸い取るだけの闇と化す。
「あれだけ強引な方法で領土を広げれば、呪いの一つや二つ、受けていてもおかしくはないでしょう」
「ほう、呪歌でも聞こえたか」
「エルデの市を歩けばいくらでも」
 エルヤは挑戦的な冷たい笑いをたてる。彼女の態度は、一瞬皇帝の怒りをかったようだった。
「お前達の命はこの手で預かっているのだぞ」
「忘れてなどおりません。私達の生死をお決めになるのはあなたです。私達がどう振舞おうと、この命はあなたの気まぐれに支配されているだけです」
「困った娘だ。余の手のひらで好きなだけ暴れるがいい。余の忍耐が続いている間まではな」
 皇帝は笑いながら、エカルに指図をする。彼はエカルの手を借りて、ゆったりとした上着を脱ぐ。皇帝は真新しい包帯を胸に巻いていた。彼はその包帯もほどく。その下から現れたのは、濡れた傷跡であった。傷自体は浅いが、胸を真一文字に走っており面積は広い。まるで今しがた斬られたかのように血がにじんでいる。
「三十五年前になるか。この傷をつけられたのは。いまだに癒えず、このように血を流し続けている」
「失礼ですが」
 エルヤは傷から目をそらす。
「陛下はお幾つになられますか」
「今年で六十三になる」
 エカルはけげんな様子で皇帝を見上げ、エルヤはただ深く息をついただけである。
「その傷をお受けになったのは、二十八の頃ですね。陛下の今の外見とほぼ一致するように思います。その傷は、陛下の時を縫いとめてしまったのです」
「それはそうであろう」
 皇帝は面白くもなさそうに答える。
「あれ以来歳をとらなくなったことは、余ばかりか他の側近どもでも分かる。この傷と、その由来を知る者は少ないが」
「不老となられたことが、なにか問題でもあるのですか。多くの者は、永遠の若さが手に入れば飛び上がって喜ぶでしょう」
「余の子ども達のことだ」
 皇帝は立ち上がり、エルヤに近づく。歌人は仕方なしに顔を上げ、皇帝の傷に指を置いた。呪詛の痺れと、深い絶望が残す憎しみが、指先で小さくはじけた。指先の感覚に集中するため、エルヤはまぶたを閉じる。この憎しみは誰の心に由来するのか。
「歌っておりますよ。この傷は陛下の胸に刻まれましたが、陛下のものではございません。御子達がどうかされましたか」
「自然の道理に反するからだろう。皆、余の歳を追い抜いて成長せぬのだ」
「つまり、皆、二十八以上にならないのですか」
「どんなに長く生きる者でも、二十八歳と百三十二日目に亡くなってしまう。余がこの傷を受けたのは、二十八歳の百三十三日なのでな。親として悲しいばかりではない。このままでは、皇帝の座を継ぐ者が絶えてしまう。余は不老であっても、不死ではなかろう」
「御子は今何人おられ、年かさの方は幾つになられますか」
「二十五、六人だ」
「えっ」
 目を開き思わず聞き返したエルヤは、寝椅子の後ろに控えていたエカルに手で制された。そういえば、この国は身分の高い男に多妻を許している。皇帝はエルヤが合点したのを受けて、付け加える。
「支配地の姫を、妻として迎えたのだ。気がついたときには、後宮は百人近くの妻達であふれていた。名前だけはようよう覚えたが、実際に会ったことがあり、顔と名前が一致する者は半分だ。子ども達も、昔はもっと多くいた。長じて後、この傷が吐き出す呪いのために死んでいったのだ」
「なんということ……」
 エルヤは生まれを選べない子ども達を哀れに思った。父親はその気になりさえすれば、自らの命を絶つことで、いつでも子ども達を救えたはずなのだ。
「二十人の子どもが、二十から二十七歳だ。残りの五、六人も、やはり十五は越えておるよ。あれらは、余が自分の子ども達に降りかかる不幸に気がついたときの、最後の子らだ。先ほどの娘が末子だ。母親はさほどの身分でもないゆえ、せめて婿が得られるよう、歌と舞を仕込んでいる」
 皇帝は寝椅子に戻り、エカルに命じて再び新しい包帯を胸に巻いた。皇帝は両膝に肘を突き、陰気な笑みを浮べる。その顔には、燭台が映す影がまだらに落ちている。
「子達の方も必死なのだ。彼らが助かる道は、ひとつしかない。それは父を暗殺することだ。余は今まで、十数人の子らを、その罪で処刑せねばならなかった。不器用な子達だ。他の者にその企みが知れていなければ、見逃してやれたものを」
「六十三歳まで生きられれば、もう十分なのではありませぬか」
「皇位を継ぐに相応しい者を待っていたのも、確かかもしれぬ。少なくとも、これまで後宮において、後継者争いの毒の盛りあいは起きていない。この呪いゆえにな。余の方ではこれまで幾人毒見を失ったかしれん」
 皇帝は答えてエルヤを見上げる。
「余の代わりに言うてみよ」
「命が惜しい。それとも、我が子以上にこの国が惜しいのですか」
 エルヤは額に白い指をあてて目を閉じる。実際、皇位に相応しくない者がつけば、この巨大な帝国は見る間に崩壊していくだろう。それは、ようやく平穏を取り戻しつつある陸中海を再び戦乱の渦に叩き込む行為ではある。
「陛下が、後を継ぐに相応しいと思われる方はどなたです」
「じき、二十八になる娘だ。生き残った子達の中で、最も年かさだ。本来ならとうの昔に嫁に出している年だが、あのようなことがあってはな。化け物じみた余を恐れて、娶ってくれるような肝の据わった者がおらぬ。それもそれでよい。彼女は次代に相応しい養子をとれるのだからな」
 上着を整えながら、皇帝は寝椅子の肘掛けに体を預けた。
「お前を拾ったのは間違いだったかもしれん。帰る前に、もう一曲聞かせてはくれぬか」
「その傷の由来をお話し下さい」
「正妃を亡くした後、ある征服地で彼女によく似た娘を見つけたのだ。娘はその土地の巫女であった。連れ帰ろうとした折、彼女は石の刀でこの胸を裂いたのだ」
 エルヤは皇帝の瞳を見つめ返した。
「他に犠牲となった者もいたのでは。その傷ははるかに強い思いがつけたもの。娘は命を懸けて、呪いを与えたのです。陛下、あなたにかかっている呪いは、娘の命そのものです」
「巫女の社を守っていた一人の若者を手にかけた」
 歌人はそれ以上何も問わず、目を閉じ低く歌い始める。皇帝はハル同様、異人の歌が気に入ったようだった。四度同じ歌を歌わせ、ようやく歌人の姉弟を私室から下がらせた。
「ここから抜け出そう」
 ほとんど自分の意見を言うことのないエカルが、振り返って義姉に呟く。蝋燭の煙に曇る部屋から開放され、エルヤは冷たく透明な夜気を胸いっぱいに吸い込む。
「ああ、気持ちがいい。魂まで洗われるようだわ」
「聞いてるのか」
「……逃げても捕まるだけよ。それに本人はともかく、子ども達があまりに悲惨だわ。彼は何も言わなかったけれど、恐らく孫にも影響はあるでしょうね」
「助ける理由があるのか」
「あの日私が市で歌った薔薇の歌は、墓に刻まれていた。皇帝の胸を裂いた巫女がその後どうなったか知らないけれど、私が立ち寄ったとき彼女は墓の下だった」
 エルヤは義弟を振り返る。黄金の瞳が星明かりを虚ろに返す。
「あの歌には続きがあった。私はそれが欲しい。エカル、今夜の間に少し剣の感覚を取り戻しておいて」

 翌日歌人は一人、皇帝の娘を訪ねる。歌人が案内された部屋で待っていると、やがて蒼白の女性が、霧の如く静かに戸口から立ち現れた。
「何かございましたか」
 あまりに顔色の悪い女性にエルヤが尋ねる。相手は弱々しく首を振り、不審げにエルヤをじっと眺めた。
「誰に頼まれてここに来ましたか」
「私の意志で参りました。面会をお許しいただくのに、皇帝陛下のお力を借りましたが」
 崩れるように椅子へ腰掛け、皇女は呟く。
「私は何人もの兄や姉達を亡くしました。私の命も、今年のうちでしょう。命日が、今からでも分かるのです」
「陛下はあなたを跡継ぎにとお考えのようですが」
「どこまで本気なのか、分かりはしません。本心を誰にも明かさぬ人なのです」
「私を皇帝に差し向けてはみませんか」
 皇女はその申し出に目を細めた。ますます疑わしげに、目の前にひざまずく異人の女を見つめ返す。
「あなたは父に拾われた吟遊詩人ではないのですか」
「暇つぶしに拾われて、おもちゃにされているだけです。役に立たなければ処分してしまうか、また捨ててしまえばよいとお考えなのでしょう。昨晩、皇帝自らが不老の由来を明かし、私にそれを解けとお望みでした。私は私のやり方でそれを解決さしあげようと思います。陛下が期待されているような、詩人のやり方ではないでしょうが」
「私は何をすればよろしいですか」
「今から、ついて来てくれませんか。危険はありません」
「突然ですね」
「時間をおけば相手にばれます。とりあえず斬ってみようと思います。もっとも確実な方法です。呪いからの開放という点においては」
 皇女は明らかに面食らい、片手でこめかみを押さえる。皇女はしばらくそのままの姿勢で、何かを考えていた。二人の沈黙の間に、庭園から春の風が小鳥のさえずりとともに舞い込む。しばらくして皇女はふっと笑った。
「いいでしょう。私に時間などありませんものね。あなた、かわいい人ね。私は気に入りましたよ」
「単純なところが、かわいい、ですか」
「救えないほど礼儀知らず、命知らずなところもです」
 皇女は部屋に入ってきたときとは裏腹の勢いで立ち上がり、エルヤの手を取って立たせる。そして彼女を促しながら、皇帝の宮殿へと足を運んだ。
 道中、エルヤは義弟を呼びつける。
 皇帝は宮殿の一室で、元老議会における決議事項の確認を行っていた。皇女が面会を申し入れてきたため、思うところのあった彼は人払いをし、一人でいた。ところが部屋へと入ってきたのは歌人とその義弟である。皇帝は机から立ち上がった。この二人を呼んだ覚えはない。皇帝に目を据えたまま、足早に歌人が近づいてくる。彼がはじめて危険を感じたときには、もはや机上の長剣を抜く間もなかった。歌人は皇帝の懐めがけて、大きく踏み込んだ。
 鋭い一閃が皇帝と歌人の間で交わる。涼しく軽やかな金属の音と、鈍く重たい金属音。ほとんど同時に歌人の頭上で、二度鋭い金属音が続いた。歌人が持つ二本の短刀は、まっすぐに皇帝の心の臓へと差し出されている。それを止めるのは、銀の飾りがいくつも吊り下がる、金の腕輪をはめた皇帝の右腕だ。振り上げた皇帝の左手には、今まさに歌人の頭部をめがけて振り下ろされようとした、短剣がある。歌人の背を守るように身を乗り出したエカルの短刀が、それを払ってしっかと受けている。
 両手をふさがれ、食いしばる歯の間から皇帝は嘆いた。
「これでは何のために、わざわざ貴様らを生かしておいたか分からぬわ。なんとくだらん答えだ!」
「いいえ、陛下」
 両腕を震わせながら、歌人は努めて涼しい口調で答える。
「いいえ、陛下。私は万の物語を記憶し、三千の結末を知っております。物語の終わりにおいて新たなる皇帝が頂く冠に、呪詛は相応しくございません」
 これを聞いた皇帝の顔が耳まで赤く染まる。そしてすぐに今度は青くなった。
 とうとう本気で怒らせてしまったか。
 エルヤは疲れを覚え始めた両腕を堪えながら、後ろを振り向く。扉は閉ざされたままだ。ともすれば、皇女に捨て置かれたのではないかという不安が心をよぎる。エルヤが顔を前に戻すと、皇帝の張り詰めた笑みが見えた。ひどく危険な表情だ。その視線は、エルヤの背後にある。彼女の耳に、扉が閉ざされる音がした。
「まさか日に二度も、同じ子どもに命を狙われるとは思わなんだ」
「時間がありませぬゆえに」
 皇帝の声に、冷たい女性の声が答える。エルヤは安堵した。これで皇帝に兵を呼ばれる心配はなくなった。昨晩彼が彼女に話した親心が本物ならばだ。皇帝は笑みを浮かべたまま、エルヤに視線を移す。
「娘や。この二人を下げてはくれぬか。どちらもたいした馬鹿力だ。お互いそろそろ限界のようだしな。しかし、余がうかつであった。歌い手よ。漂泊の身にある貴様の指は、楽を奏でるだけのものではないはずだな」
 皇女がエルヤとエカルの腕を抑え、ようやく二人は皇帝から安全に離れることができた。皇帝も二人も、震える己が両腕を押さえる。
「陛下、帝国の全てを皇女様にお引き渡し下さい」
 エルヤは短刀を収めながら言う。
「そして、その傷を受けた場所へと行って下さい。エカルを供につけます」
「昼夜馬を飛ばしても、もはや期日に間に合わぬ」
「陛下、私は呪詛と語り合う歌も知っております。数日であれば、期日を伸ばすことも出来るやもしれません」
「余は呪術の解き方など知らぬ」
「深い恨みを解くのに、特別な知識などいりません。かの場所へ向かえば自ずとお分かりになるでしょう」
「いいだろう。では、余はここで死んだことにする。少なくとも、余を化け物と薄気味悪がる近隣諸国を安心させるだろうからな」
 皇帝はやんわり浮いた額の汗を袖でぬぐい、背筋を伸ばして声を張り上げた。
「クルセウス!」
 呼ばれて現れた男は、皇帝と瓜二つであった。影武者だろう。瞬間エルヤの頭に、嫌な予感がよぎる。そしてその時にはもう、皇帝の足元に男は崩れ落ちていた。皇帝は血に染まった長剣を無造作に石の床へ投げる。
「アヴィタ、娘や、後はお前が処理せよ」
「はい」
 さすがに色を失いながら、皇女は答える。皇帝は指輪を外して皇女に渡すと、エルヤに一瞥を投げ、次いでエカルを呼ぶ。
「小僧、来い」
 執務室を後にする皇帝の背を、エカルは戸惑いながらも追った。一度振り返り、血の気を失った顔を義姉に向ける。
「皇帝の面倒をみる必要はないの。あなたは召使じゃないんだから。目的の場所にちゃんと行くかどうかだけ、見届けて」
 言葉をかけると、義弟はうな垂れて視界から消えていった。
 アヴィタとエルヤは気の重い後始末を思い、冷たい床に横たわる男の背を見つめた。

 アヴィタが二十八歳になって百三十一日目の夜である。父親譲りの気丈さのためか、彼女は皇帝としての責務を見事にこなし、前皇帝が暗殺された後の混乱も、やや強引な手法ではあったが綺麗に収めてしまった。それでもこの晩だけは不安を抑えきれず、彼女は寝室に呼びつけたエルヤに幼子のようにすがっていた。彼女からすれば、父親は巫女を手にかけたゆえに異郷の神の怒りを買い、己の子達をその怒りに晒したのである。命を奪いに来るのは、見たことも聞いたこともない神だと、彼女が心底怯えるのも無理はない。まして彼女の兄姉達は不気味な死に方をしている。無傷な胸の下で心臓が裂かれているのだ。
 寝室の明かりは全て消されていた。蝋燭を灯せばいくつもの大きな影が部屋中にゆらめき、アヴィタがそれを恐れたからである。薄い布を張った窓からのかすかな星明りが、控えめに部屋の影をかき分けて床に落ちているだけである。
「なんと情けない。でも、私は恐くて仕方がないのです。兄や姉達の最後の姿が思い出されて」
「分かります」
 エルヤはアヴィタの精神や部屋の暗がりに異常がないことを確かめながら、静かに答えた。
「抗する術をまったく知らぬのに、そのような敵を相手に戦わなければならない運命に陥れば、誰でも絶望し震えることしかできないでしょう」
 エルヤも、相手がどのようなものかは分からない。竪琴の弦に指を添え、魔除けの旋律をひと弾きする。かの皇帝の子ども達は、百三十二日目の朝に寿命を迎えている。ならば今夜さえ乗り切れば、ひとまず安全なわけだ。時を知らせるため、鐘を鳴らすよう家来には申し付けてある。
 エルヤは長い腕にアヴィタの肩を抱き、膝に竪琴を構える。彼女を安心させるため、時折声をかけた。アヴィタの返事はうつろであったが、かろうじて正気は保っている。時折、部屋の外で恐る恐る鳴らされる鐘の音を聞く。皇帝が無事であることを知らせるため、エルヤは五つの音で時を刻み続ける。
 やがて外からの明かりが白さを増してゆく。
 夜と朝が入れ替わる。不安定な、嫌な時間帯だ。
 エルヤは脇に抱えたアヴィタの頭に顔を近づける。皇帝の緊張はつき、浅い眠りに陥っているようだった。彼女は皇帝の肩を、朝日よりも白い指で軽く叩く。その拍子は、彼女の種族が魔除けにと踊るリズムだ。さすがの彼女も、疲労は限界にきていた。自分より背が高く体格も良い女性の体を一晩中支えているのだから、肉体的な疲れもある。
 夜明けを告げる、最後の鐘が鳴った。
 エルヤはそっと皇帝の肩を揺する。皇帝は青白い顔で、うっすらと目を開ける。
「おはようございます。陛下」
 エルヤは半ば驚きながら囁く。皇帝は彼女をぼんやりと見返したまま、何も答えない。ただ、ゆっくりと視線を横にやり、床に映る青白い黎明に目を細めた。
「ご気分はいかがですか」
「……悪くはありません」
「もう大丈夫です。何もありませんでした。何も」
 エルヤは放心の皇帝を寝台に横たえ、部屋を出る。部屋の外に待機していた女官らが、入れ替わりに部屋へ入って行った。エルヤはそのまま廊下の柱の陰に、ぐったりと腰を下ろす。
 何も起こらなかった。呆気ないほど平穏に夜は過ぎ、朝日は昇った。それが意味するところは何なのか。
 エルヤは額に張り付く髪をかき上げる。ひとつの答えが頭に浮んだが、はっきりとした形を成してこない。ここまできて、こんなことは認めたくはなかった。
 彼女は怒りの卵のような気持ちを抱えて立ち上がった。そのまま、足早に皇帝の寝室へと戻る。皇帝は衣服を整えられていたが、髪はまだ乱れたまま、寝台の上に座り込んでいた。彼女はエルヤの姿を見ると、女官達を部屋から出した。
「まさか、この夜を越えられるとは。父は亡くなられたのでしょうか」
「いいえ。陛下。もっと簡単な事実がございます。ああ、何とくだらない答えか!」
 情けない顔でエルヤは吐き捨てる。そして皇帝の隣へ、無作法にもうつ伏せに倒れこんだ。アヴィタは美しい眉を潜め、エルヤの横顔を眺める。しばらくして、彼女の瞳と口がすうっと丸く開いた。エルヤは皇帝を振り返る。皇帝の丸く開いた口が、震えながら横に引き伸ばされ、何ともいえない笑みにかわった。声が漏れることはない。そのまま長い時間が流れる。
 ふ、ふ。
 ようやくどちらともなく、二人の女はうつろな笑い声をたてる。どちらもそれぞれにこもごもとした感情を秘めていたが、その種類も重みも、二人のものは別々であった。ただ、それらの感情を持て余し、表に出す手段がこれしかなかったということは、同じである。そのうつろな笑いも、たいした間もなくかすれて、喉の奥に消える。
「ご生母は健在でいらっしゃいますか」
 エルヤはぼんやりと問う。
「五年前、老衰で亡くなりました。……幸いなことに」
 二人は深く息をつく。いまだにどちらも足腰が立たないほどの脱力を感じている。

 エルヤは一人、エカルの待つ町外れの廃屋を目指していた。アヴィタの次に年かさの子どもがその命日を迎えるまで、二百日ばかりある。時間はできた。直接巫女の墓へ赴き、彼女の怒りを鎮めてやることもできる。エルヤは寝る間も惜しんで道を急いだ。
 石のように重い足をひきずり、彼女は疲れた体に鞭をうって廃屋にたどり着く。エカルが彼女を遠くから見つけ、駆け寄って来る。廃屋の戸口に色の薄い、長髪の男がもたれ掛かっているのが見える。エルヤは俯き、内心嘆息する。
「巫女の墓に行ったんだ」
 エカルはちらと廃屋に視線をやる。
「墓に歌の碑文なんか無かったぞ。積石塚だけだ」
 脇を通り過ぎようとする歌人の肩を少年は掴む。真っ直ぐに引き結んだ唇に表情は薄いが、声はかすかに震えている。
「何があったの」
「墓に行ったら、地面の下から声がした。胸の傷が声に応えて、あいつも倒れた。傷口から溢れたのは歌じゃない。放っておいたのに死ぬ気配もないから、俺はあいつを引きずって墓から離れるしかなかった。あいつは鉄より頑丈な男だ。巫女の呪いよりも」
 元皇帝が負傷を乗り越えて生き抜いたのは、確かである。その生命力は賞賛に値するが、この場合、親不孝ならぬ果てしない子不幸にも通じる。アヴィタが死ななかったのは、結果でしかない。
「皇女様は死んだのか」
「お元気よ」
「どういうことなんだ」
「そうね、……自分で考えて」
 エルヤが近づくと、元皇帝は二人を通すため脇に避ける。彼は何も言わず、エルヤも顔をあげない。
「姉貴よ、あの歌、どうやって知った。墓に刻まれてたなんて嘘を……」
「あなたが世にも美しい薔薇を摘んで来なかったように、私も聞こえない歌を聞いたのよ」
 エカルは己の腕に、消えつつある傷跡を見やる。そして廃屋に残されていた壊れかけの櫃に腰を下ろす。エルヤも窓枠に足を休め、そこではじめて元皇帝へと顔を上げる。相手は再びかまちに背を預けて立っていた。
「あの墓を破壊すれば、この呪いは解けるか」
 元皇帝は何の表情も読み取れない面持ちで、エルヤを見やる。歌人は睨み返す。
「哀れな娘の墓を暴いて、ですか。どこまで最低な方なの。ああ。私達がどんな気持ちであの恐ろしい一晩を過ごしたか、あなたには分からないでしょう」
「皇帝が運命の晩を越え、朝日を仰がれたことを祝福しよう」
「まだほかの御子らは危険にさらされています。どうされるおつもりですか。皆が皆、皇帝同様の幸運に恵まれるとは限りません」
「巫女が墓の底から紡ぐ声無き歌を。生きたお前から聞きたいものだ」
 歌人は口をつぐんだ。その歌こそが彼に彼女を捕らわしめ、義弟をどこともしれぬ山中に走らせたものなのだ。そして彼を呪詛に縛り続けている。
「今度は余が走らねばならぬのだろう」
 歌人は竪琴をとり、片膝に置く。

 世にひとつ
 白銀の薔薇よ
 世にふたつ
 茂みに落ちる影よ

 短く単調で物悲しい旋律は、廃屋に舞う塵同様に古く乾いている。最後の一音も瑞々しく響くことなく虚空に散る。歌人は義弟に頭を振り向けた。義弟は元皇帝に視線を送る。
「あんたは俺にしたのと同じ頼みを、昔、墓の下の娘から受けたんだろう」
「そうだった」
 男は認めた。
「妖精の森だけでなく、辺り一帯の森を切り拓き探し尽くした」
 そして大きく息を吐く。戸口に立つ男の表情は夕闇で隠されていた。
「期日に余が娘へ差し出したものは、偽りだった。火と槌に生まれ、鍛冶屋の黒い手のひらに咲いた白銀の薔薇だった」
 男は緩慢な動作で戸口から廃屋へと移る。射し込んだ夕の日に、少年の瞳はふたつの光点を返してそれを追う。
「だがお前は見つけたな」
「もう一度やり直すといい」
 少年は答える。
「娘と、あんたが命を奪った若者のために。得るものも失うものもない。恐れも嘘も必要ない」
「真を求めよう」
 伸ばした男の手が竪琴に触れる。

 世にひとつ
 白銀の薔薇よ
 世にふたつ
 茂みに落ちる影よ
 世にひとつ
 真の証よ
 世にふたつ
 土に憩う影よ

「流木のような竪琴かと思えば、このようにつまらぬ歌にはちょうど良い」
 竪琴を歌人の膝に返し、男は戸口で体をかがめ外へ出て行く。
 吹きさらしの廃屋であったが、この地方では秋の半ばまで野外でも凍えることはない。心地良い乾いた風が、歌人の眩い金髪を撫でていく。日は傾き、窓に面した廃屋の壁は赤みがかった黄金色に染まっている。
 戸口に少年の影が黒々と切り抜かれた。外から歌が聞こえる。元皇帝が口ずさむそれは、旅する者のたわい無い望郷の歌だ。歌は徐々に遠く、ついには歌人の脳裏のみに残る。彼女に知らぬ歌は少ない。
「あいつは見つけられるだろうか」
 少年が声を上げる。
「彼は自身に見合った答えを得るでしょう。そうしたら、墓の下の歌も安らかな眠りにつく」
 歌人は最後の夕日に包まれ、うな垂れた。
「全て終わったら、あの人はどうするのでしょうね」
「きっと、自由になるだろう」
 少年は呟き振り返る。答えはない。物語は終わり、歌人は窓辺でまぶたを閉じている。

幻影の国 - 完 -