カルイッシューの剣闘士

 砂岩の都市カルイッシューに日が昇る。乾いた砂丘をわずかに覆っていた早朝の霜は、染みひとつない空に消えた。
 西方諸国交易で栄えるこの町で、人々は娯楽に事欠くことはない。カルイッシューの闘技場では月に二回、交易ギルドの主催で剣闘試合が催される。
 日の出とともに賑わい始めた闘技場の前では、早くも入場者の列が長くのびている。入場門の巨大な柱には今日行われる試合のプログラムが記され、席取りに苦労をしない上級市民達が集まっている。彼らは出場する剣闘士の名を確認し、試合の組み合わせをめぐって賭けをする。
 午前の催しは、新米剣闘士の断末魔の悲鳴とともに終わった。多くの観客は途中で試合に飽き、場内に設けられた天幕の下で腹ごしらえをしている。午後の演目は、一瞬たりとも目を離すわけにはいかない。午前中を闘技場の外で優雅に過ごしていた特権階級の者達も、一級の観客席を埋めだす。
 最後に現れた観客は、特別席の領主である。人々は総立ちとなり、喝采と拍手で彼を迎える。
 カルイッシューの領主ハルベスは、拍手に答えて軽く片手をあげると、優雅な動作で席におさまる。それを合図に銅鑼が鳴らされ、主催者席に一人の詩人が立った。古い時代の衣装を纏っている。彼はにわかに静まった観客席に向かい、ひとつの英雄譚を謳いあげた。
「死の予言を与えられし羊角のセルベリオ。アナーの戦場にてトークの残虐なる王サハドと対す。塔の乙女よ、彼は帰らぬ!」
 最後の詞とともに、再び銅鑼が鳴る。アレーナの二つの大門が開かれた。楽師達の打ち鳴らす太鼓の音は、群集の歓声にかき消される。東西の大門から、古の武士達に扮した二つの軍隊が現れた。
 東は黒の鎧。西は白の鎧。
 東の大将は、トークの王に扮するリガという巨大な男だ。皮鎧の下には、鉄のように強靭な肉体がある。褐色の顔と腕には、いくつもの古傷が刻み込まれている。熊のような男だ。その熊男は、黒い馬にまたがっている。馬頭鎧につけられた漆黒の羽飾りが、昼の熱気の中で揺れている。
 西の大将は、羊角のセルベリオに扮するエカルという若者だ。皮鎧の下には、隙なく鍛えられてはいるものの、いまだ発達途上である子どもの体がある。日に焼けた小麦色の肌は、傷跡ひとつなくなめらかだ。銀色の兜には、両側面に羊角のレリーフがほどこされている。白い馬の額には、真紅の石が飾られている。
 両軍はあわせて二十五騎。白軍が五騎優勢だ。彼らは特別席に向き直り、敬意を表して各々の武器を掲げた。歓声はますます高まる。
「あの若造か。カルイッシューの民を虜にしているのは」
 領主ハルベスは、厚手の絨毯を乗せただけの馬にまたがる年若い剣闘士へ目を向ける。
「年齢不相応の強さです。その上無傷無敗で、もう半年でしょうか。対決試合もすでに七回こなし、八人を冥界の渡し守に世話させました」
「八人とな」
「二人を相手に戦った試合が一回ありましたので」
 エカルの持ち主であるタハは、誇らしげに領主に説明する。
 ハルベスは特別席から、エカルを興味深げに見やった。領主はそもそもめったに闘技場へ足を運ぶことはなかった。彼の目は非常に肥えていて、最近の剣闘はわざわざ見るに値しないと思っていたからである。そんな彼を久しぶりにここへ誘ったのが、このエカルという若い剣奴の噂なのだった。
「よいのかな。サハドは伏兵を用いてセルベリオを亡き者とした。今まで無傷で勝ち続けてきたといっても、今回の筋書きでは危なかろう」
 それを聞いてタハは、たっぷりとした腹を揺らしながら笑う。
「あれは物語の筋書きを変えるでしょう。私は思うのです。あれは帝都の闘技場でも一級になれますとも」
「生きて勝ったら、その許可をやっても良い。まだ若いな。幼いと言ってもよい」
「滅相もない。もうとっくに十八でございますよ。あ、いや十九ですかな」
 臆病そうに首をすくめたタハを、ハルベスは冷たく眺める。剣闘士についての法律では、十八歳以下の少年少女を闘技に出すことは禁じられていたのである。もっともこの法律は破られることが多く、ハルベスもそれ以上は追求しなかった。
 古代の武士に扮した剣奴らは、すでに隊列を整え対峙し、開戦の合図を待っている。背に毛布を置いただけの馬に乗った彼らの姿に、ハルベスは一抹の不安を覚える。
「さて、実力のほどは目で見て明らかになろう」
 ハルベスは半ば物憂げに片手をあげる。観客席に息を詰める静寂が一瞬満ちた。闘技場一帯に、地を這う戦の太鼓が鳴り響く。両軍の大将は剣を掲げ、馬を駆って銅鑼の音とともに突撃をかけた。歓声が爆発する。両軍の大将は真っ先に相手をとらえて斬り結ぶ。
 歓声はすぐさま、嘲笑と野次にかわる。剣奴達の多くが、敵と出会う前に落馬したのだ。後続の者も巻き込まれ、醜態をさらす。ハルベスもまた失笑を禁じえない。市民には良い見世物だが、彼にとっては戦争ままごとにも及ばない。嫌な予感は的中した。剣奴達は馬にも手綱にも慣れていなかった。
 二人の大将は部下の混乱をよそに互いの隙をうかがい対峙する。セルベリオことエカルの剣は最初のまさかりの一撃で刃がこぼれていた。本来ならば攻撃を受けず身をかわすべきだったが、観客への演出だ。剣は幅広の刀身を持つが、トークの王サハドことリガの一撃を受けながらも折れなかったのは、ひとえにエカルの裁量による。
 剣奴達の無様な落馬を笑っていた観客達も、すぐにこの二人に視線を戻す。
 両大将は睨み合い、互いの隙を窺う。リガがいまいましげに、視界の端で揺れる馬頭の黒い羽飾りをもぎ取った。
 その隙を突いて、エカルが不意に馬首をめぐらせリガに背を向けた。リガのまさかりが翻ったエカルの白いマントを裂く。エカルは構わず馬を駆った。トーク軍の兵の中にてだれの騎手がいたのだ。騎手は大きく剣を振り回し、勢いに任せてすれ違いざまに徒歩となっている敵の首を裂いてゆく。観客達もエカルの目指す先を追って、はじめてそれに気がついた。
 エカルが騎手を追う。リガがエカルを追う。
 騎手も観客の歓声から、エカルに追われていることに気がついた。彼はリガと連携を試みる。三騎は闘技場の端にさしかかった。エカルは挟み撃ちになる。騎手は見事な手綱さばきで反転を試みる。エカルは片手を胸元まであげた。二つに裂けたマントが彼の体を離れリガを襲う。マントがリガの視界を遮った。瞬間、エカルは前の騎手に撃ってかかった。馬首をめぐらせようとしていた騎手の兜を、欠けた剣が打つ。兜はすっ飛び、騎手は落馬した。
 エカルはそのまま騎手もリガも捨て、闘技場の中央に戻る。観客席に落胆の罵声が溢れる。リガは視界を遮られたままだ。今こそが止めをさす絶好の機会ではなかったのか。
 闘技場の中央に白い鎧の者達が集まる。エカルの周りには、すでに五人しか残っていない。そのうち四人は徒歩となっていた。
 ようやくマントをかなぐり捨て、リガが猛然と突っ込んで来た。残り六名の黒い鎧の者達もそれに続く。追い討ちをかけるように、闘技場の地面にぱかりと穴が開いて、五騎のトーク援軍が駆け上がってきた。援軍の投げた槍が白い鎧の一つに突き刺さる。観客は我を忘れ、卑怯者とトークの王サハドを罵る
 まさに羊角の王子、最後の場面である。エカルが一声叫んだ。それは観客の興奮した歓声にかき消されたが、エカル達白い鎧の兵達は決然と反撃を開始した。
 彼らは疾駆に任せて突っ込んで来たリガ達を寸前でかわす。命がけの行為は、馬に不慣れな敵を前に、奇跡的に成功した。無防備な黒い鎧の背がさらされる。そこを三人の歩兵が襲う。たかが三人だ。リガ達は反転し、蹂躙を試みる。黒い鎧の背後を、回り込んだ二騎の白い鎧が素早くついた。しかもそのうち一騎はエカルである。リガ達はにわかに混乱した。致命的である。観客席に感嘆の溜息が満ちる。
 援軍の五騎が駆けつける。エカルは馬首を転じ、ただ一人向かっていった。
 手に剣はすでにない。代わりに血にまみれたまさかりだ。リガのものである。彼の白い鎧の半分は紅で鮮やかに染められている。むきだしの小麦色の腕も、汗と埃と返り血にまだらだ。
 エカルのまさかりが最初の獲物を捕らえた。熟練した見事な一撃である。敵は落馬する。後に続く二騎がこれに巻き込まれ、剣奴達は地面に打ち付けられる。
 リガを倒されたトークの兵達に、もはや戦い続ける理由はないはずだ。観客の声から、エカルは全ての味方が倒されたことを知る。残る敵は徒歩となっている五人。雑魚だ。
 エカルは馬上から彼らをゆっくりと見下ろす。観客は彼の戦いぶりに満足し、羊角の王子よ、嫌らしい異民族の兵を一掃し、完全な勝利をおさめよと催促する。たまりかねた敵は武器を投げ出し、寄り集まって地面に伏せた。降参の姿勢だ。戦場では意味を持つ。
 ここは剣闘の場である。
 エカルの口の端が笑うのを人々は見た。これから始まるのは一方的な殺戮である。人々は喝采した。
 ハルベスは、エカルの表情から観客達とは別の物を読み取る。あの小僧は見抜いている。
 エカルは手にしたまさかりを敵に投げた。それは真ん中の一人の背に刺さり、相手は絶命した。エカルが周りの剣奴にうながす。彼らはしぶしぶ死んだ仲間の体を動かす。彼の体の下には、鋭い槍の穂先が隠されていた。今しも投げつけられようとしていたのである。敵兵は這いつくばったまま、すすり泣きながらじりじりとエカルから離れた。エカルはそれ以上彼らに構わなかった。彼はきびすを返して闘技場の中央に立ち、勝利を叫ぶ。
 歓声は満ち、多くの花と金とがアレーナに投げ込まれた。タハは立ち上がり、子どものように拍手を送る。ハルベスもまた、アレーナに立つ年若い剣奴に目を細めた。

「皆殺しにしてくれなきゃ困るぜ。馬やら鎧やらあれだけ用立てたのに、中途半端な闘技をされちゃあな」
 闘技場地下の剣奴控え室で、主催者である交易ギルドの長はエカルをなじる。そこへ目を輝かせたタハが一目散にかけてきた。だぶついた腹が重そうである。
「ガテアル、あまり家の坊主を苛めんでやってくれ。こいつは優しいんだ」
「だったらあそこで止めを刺しとくべきだったな。まあいい。連中は次の猛獣闘技で使う」
 ガテアルはタハに陶片を渡す。そこには、短い文章が刻み込まれている。
「リガとシュルスの持ち主からだ。あの二人を手放したいんだと。今回の傷では、今後使い物になりそうにないと言ってな。俺が賠償してやったが、エカルがまだ使えると言うから、お前にいくらかで買ってもらえると嬉しいんだが」
「いいとも。坊主の目は確かだ。値段は後で話そう」
 ギルドの長は立ち去り、タハは控え室に足を踏み入れる。
 部屋は獣脂の明かりのみで、むっとした臭気が漂っている。エカルは汚れた鎧をやっと脱いだばかりのところだ。部屋の隅にはサハドことリガと、あのてだれの騎手が寝かされていた。エカルは二人の命まではとらなかったのだ。
「よくやったぞ! お前のおかげで、またよい剣奴が手に入ったわい」
 タハは無邪気に喜び、エカルの濃い蜂蜜色の短髪をくしゃくしゃと撫でてやる。エカルはあいまいに微笑んだ。少年のあどけなさが多分に残る顔だ。
「それにしても、どうしてあの連中を皆殺しにせなんだ。観衆はそれを望んでおったに」
 エカルはひょいと肩をすくめて、きまり悪げな表情をつくる。彼はタハの反応をうかがい、それから背を向けて汚れた身体をぼろで拭き始めた。
 エカルは屈託がなく愛嬌もあったが寡黙な性質だった。タハはその性格を良く知っていたのでそれ以上は聞かない。そのかわり誇らしげにこの剣奴の様子を見守った。
 明かりに照らされた身体は黄金色である。小さい頃から剣を仕込んで鍛えさせてきたが、同じ年代の剣奴からすればさほど筋肉はついていない。それだけに無駄一つない均整の取れた体格だ。華奢ではない。その横顔も驚くほど形が良い。色素の薄い瞳には清々しい知性がある。彼は若かったが、剣一本が与える生死への造詣は賢者よりも深いのだ。
 エカルの両腕には黒い腕輪がはまっていた。表面を得体の知れない文字が覆っており、それ以外には継ぎ目も留め金も見当たらない。魔法封じの腕輪である。魔法の力は決して人を奴隷たらしめない。故に魔法の才を持つエカルは物心つく前からこれをはめられたのだろう。タハがエカルを買う前から彼はこの腕輪をはめられていた。そして腕輪が抜けないよう、大きな鍵のついたもう一つの腕輪をしていた。今ではエカルは成長し、魔法封じの腕輪は手を通らなくなっている。腕輪のサイズはまだ若干のゆとりがあったが、腕に力を込めれば腕輪は肉を締め付けた。だからエカルは必要以上に身体を鍛え、筋肉や血管を守る脂肪を厚くすることはできない。細身を保っているのもそのためだ。彼の体には制限が加えられていたが、彼の強さはいまだ計り知れなかった。タハにとってエカルは、最強の象牙の駒だったのである。
「ハルベス様から帝都の闘技に出場するお許しが出たぞ。お前の戦いぶりなら、皇帝陛下もお喜びになるだろうと」
 タハは有頂天だ。帝都の闘技場に出れば、大金が手に入る。加えて絨毯商である彼には、顧客を増やすよい宣伝にもなる。
「それにしても、お前の強さは底なしだな。帝都に行っても、お前と互角になる者はそう居ないんじゃないかと、わしは思うね」
 エカルはおかしそうに首を振る。彼は身繕いを終え、倒れている二人の剣奴の顔を覗き込んだ。シュルスという騎手の方はまだ酷く気分が悪そうだったが、リガの方はすねて黙りこくっているだけだった。
「お前は本当にいい戦士を取ってくれたな。おお、そうだ。お前に褒美をやらんとな。何がいい」
「貴石」
 エカルは立ち上がりながら答える。タハは機嫌よく頷く。

 催しが終わっても、闘技場の周りには人だかりが絶えなかった。出店では酒の香りと団子をゆでる湯気が立ち昇り、人々は試合の感想を取り交わす。エカルは強いがまだまだ青い。敵は皆殺しにすべきだったんだ。
 闘技場の通用門の前にも人々がたむろしている。帰途に着く剣奴達を間近に見るためだ。今日は女性の姿が圧倒的に多い。エカルが目当てである。彼は姿で女性達の関心を惹き、その強さで少年や青年達に人気があった。若い女性の間では、エカルは戦で帝国に負け、捕虜から奴隷に転落した小国の王子だ、という根も葉もない噂がまことしやかに囁かれていた。
 エカルは馬車の檻にうずくまって、人々が次々と鉄格子へ手を伸ばし体に触れるのにも構わない。奴隷の彼にはそれを拒む権利もない。彼は疲れていた。手仕事の必要がない身分の高い女達は、爪を長く伸ばしている。それが時々彼の体に傷をつける。服の上から引っ掻かれた脇腹に、指をあてて顔をしかめるエカルをリガが低く笑った。
 やがて馬車は屋敷に到着する。屋敷の隣には剣奴の訓練所がある。堅固な格子の門をくぐって彼らは帰り着く。

「それは何のまじないなんだ」
 リガが尋ねる。エカルは褒美に貰ったばかりの柘榴石を飲み込んだところだ。彼は答えない。エカルとは馴染みの剣奴達がリガをとりなした。
「そいつは石食いなんだよ。ほっとけ。満足に飯が食えないから石で腹を持たしているのさ」
 剣奴はエカルの外れない腕輪をさす。
「エカル、この二人か。たしか『木こり』と『騎兵』だったかね」
 別の声がリガの耳に入る。現れたのは、タハに訓練所を任されている長身の男スラだ。色素は薄く、純血の南方人の特徴を有している。彼はリガの傷の具合を調べ、さして問題ないことを確認する。続いて、後ろで横になっているシュルスを仰向けにさせる。騎手はうめき声を上げた。
「目が見えんか。打ち所が悪かったようだな。明日まで様子を見るか」
 スラは薄い碧眼をエカルに向ける。
「旦那から伝言だ。ご母堂のご機嫌が悪いそうでな。お世話をしに行ってやってくれと。新しい家内奴隷が相変わらずお気に召さんらしい。飯を食ったらすぐに屋敷に行きな」
 エカルは頷く。スラは腑に落ちない様子のリガに説明する。
「あいつはもともと、タハの旦那が母親のために買ってやった家内奴隷なのさ。旦那の息子どもは、言っちゃ何だがろくでなしぞろいでね。小遣いをせびる以外能がないときたもんだ。エカルは可愛くない孫の替わりだな。母親の世話が必要なくなったら、ゆくゆくは会計士として教育するつもりだったらしいが、旦那はこの通り剣闘士好きだ。気まぐれでちょっと木の棒を持たせて剣術の真似事をさせたら、強いわ強いわ。大人の奴隷達を簡単に打ち据えたもんだから、旦那は剣闘士として育てる誘惑に勝てなくなったわけだ。ま、旦那はこのご時世の人にしちゃ、破格にいい人だよ。奴隷も大切にしてくれるしな」
「いくら奴隷でも……」
 リガは声を落とす。
「あの小僧の目には生気ってもんがない。剣闘試合で勝ち続ければ、いつかは自由になれる希望がある。そして、あいつはあんなに強いんだ」
「自由になる機会はあったさ。本人にその気がなかったんだよ。捕虜だったお前とは違うさ」
 スラはそういい残し、他の剣奴達の様子を見るため立ち去った。先程の剣奴が、中途半端なところでとり残されたリガに言った。
「あいつのきれいな顔見りゃわかるだろ。あいつは奴隷商人アリルから旦那が買ったんだ」
「ああ……。質が高いそうだな。アリルの売る子どもは。赤ん坊から育てると聞いている」
 剣奴は哀れみのこもった目でエカルを見やる。
「エカルは三つの国の言葉を話せるし文字も書けるし、算数もできる。アリルは絶対に鞭を使って子どもを仕込んだりしないから、子どもの表情も屈託なくってかわいらしいの一言さ。おまけにアリルの奴隷は犬ころよりも主人に忠実だ。アリルは奴隷に相応しい主人も選ぶ。アリルに奴隷を売ってもらえたってことは、タハの旦那はそれなりにいい旦那ってことでもあるんだよ」
「あいつがアレーナで命がけの戦いをするのも、タハの命令があったからか? それだけでこんな生活を?」
「んなこた、本人に聞けよ。かわいそうで涙が出らあ。アリルの教育は完璧さ」
 剣奴は暗い笑みを浮かべる。
 リガの問いを受けて、エカルは夕飯の椀をしばらく見つめる。
「そうだ。やってみろと言われたんだ。だから俺は闘技に出た」
 エカルは答えて、一さじ豆の粥を口に運ぶ。
「それだけで命を賭けるのか」
 リガは愚問と知りつつも問い返す。
「タハは父親も同然だ。良い息子なら、父親の命令に背いたりしない」
 向かいの机で先ほどの剣奴が首を振っている。確かにアリルの教育は完璧だった。
「良い父親なら、息子を危険な目にあわせてまで金儲けなどせんぞ」
 リガは食い下がる。エカルは笑った。それはどこか空虚だった。
「俺は心を痛めなくてすむ息子なんだよ」
 机に戻ったリガに剣奴は言った。
「な、哀れなもんだろ」

「石食いか。面白い」
 皆が寝静まった後、リガの隣でシュルス、すなわち騎兵がつぶやいた。彼は戦に負けた国の騎兵隊長だった。
「何か心当たりでもありそうだな」
「俺の国には竜の話がある」
 リガは喉の奥で笑って寝返りをうつ。
「竜だと。ばかな。あいつはただの人形だ。くそっ、あんなのに負けたのか。俺達は」
「なあ、なぜ竜は石を食い続けたか知っているか」
 リガは答えなかった。騎兵もまた問いかけたまま黙りこくった。やがて一人呟く。
「月が出ているじゃないか」

 それからまもなくタハは剣奴達をえり抜き、帝都への長旅に出る。剣奴達は檻の馬車の中だったがエカルは違った。彼は逃げる心配がない。タハの側で身の回りの世話をする。
 タハは道中の町で新たに剣奴を仕入れる。リガは彼らを観察する。二束三文で売りたたかれたのだろう。弱りきっている。スラは言った。帝都の規則では、ある程度の規模を持った訓練所しか闘技場に剣奴を出せない。彼らは人数合わせであり、いずれは闘技の前座で命を刈られることになるだろうと。無論、本命と思われる剣闘士もタハは買い込んでくる。
 帝都は全てが石でできていた。空に向かってせり上がる建造物。カルイッシューでは広大な空も、ここでは建物の隙間から覗けるだけだ。巨大で騒がしい都。人々は見慣れぬ服装と髪型で通りを闊歩し、時々こちらを指差す。
 帝都の闘技場は都で最も巨大な建造物だった。タハは目を丸くする。彼らにはまるで神の宮殿に見えた。重々しい巨大な柱が高く厚みのある灰色の壁を要所要所で支え、装飾目的の華奢な柱がそれらの無骨な構造体に軽やかさをそえる。入場門は数多く用意され、番号がふられている。香水の匂いが強く鼻をついたが、それは何の匂いを隠すためなのか。忌まわしい死臭は、観客席まで届いてはならないものである。
 エカル達はコロッセウムの一角に通される。土でできた円形の長屋。中庭は広く訓練に十分である。そこがタハの剣奴達に与えられた生活の場であった。長屋の向こうは鉄柵を埋め込んだ高い塀。その向こうにも同じような施設が並ぶ。エカル達が入ってきた門は鉄の扉で閉ざされた。中庭に残るもう一つの門は、闘技場に続く。
 タハは剣奴達を預けると、自分は今日の試合を観戦しに行く。エカル達は闘技場の歓声をうかがった。轟くそれは壁を震わせる。スラがエカルに木剣を手渡す。
「お前は明日の朝一番の試合に出る。今のうちに身体をほぐして、感覚を取り戻しておけ」
 他の剣奴達も次々とそれぞれの鍛錬を始める。生き残りたければ、休む暇もなかった。
「おい小僧!」
 剣奴の一人がエカルを呼んだ。顔の半分が黒く腫れ上がった大男だ。彼はタハが道中の闘技場で手に入れた男だった。もともと腕の確かな闘獣士であり、その闘技場では最強であった。彼を倒し、タハに購入の機会を与えたのはシュルスであったが、当人のこの大男はもっぱらエカルに関心をもったようである。
 新たな剣奴として迎え入れられた彼は、すぐさまエカルに気がついた。青っ洟のちっぽけな小僧であるのに、なぜか他の剣奴達はエカルに親切である。一番年下であるから可愛がられているといった様子でもない。エカル自身の寡黙さも彼は気に入らない。第一話している所も見たことがなかったから、口をきけるかどうかさえ怪しい。それなら一つ嫌でもしゃべらせてやろうと、旅の途中の休憩時、彼は手のひらに石ころを隠しエカルの後ろを歩き過ぎざまに殴りかかった。結局悲鳴を上げたのは彼の方であった。エカルは涼しげに微笑みながら目の前に立っている。その手には木ぎれだ。あまりに強く振るわれたために、真っ二つに折れている。男の半顔は見る間に醜く腫れ上がった。元は野性味あふれる美男の容姿であった。男はエカルの強さを心半分は認めざるを得なかったが、恥をかかされたことは根に持った。以来、何かにつけエカルといさかいを起こす。
「おい小僧! 俺が相手をしてやる。来い!」
 スラは舌打ちをする。エカルが勝つのは目に見えているが、あの男も強いことには変わりない。明日に試合を控えるエカルを必要以上に消耗させることはできなかった。男ももしかしたらそれが狙いであったかもしれない。スラはエカルを制した。
「だめだ。お前らを一緒に訓練させるなと、タハの旦那のお達しがある」
 男は憎々しげに木剣を地面にたたきつけ、井戸へ水を飲みに去った。スラはエカルを振り返る。エカルはいつもの穏やかな様子のままだ。彼はあの男の復讐など心にかけてもいない。スラはエカルにささやく。
「旦那は早いとこあの男を処理したがっている。手に入れた当初は喜んでいたが、お前に手を出そうとしたとあってはなあ……。奴は強いが猛獣並に手におえん。いいか。あいつに気を許すな」
 翌日、エカルは剣奴の宿舎から引き出される。どこに連れて行かれるかと思えば、コロッセウムの一角にある広場に面した小さな檻の中だ。広場の両側はこのような小さな檻が並んでおり、その日出場する剣闘士達が入る。人々はそこで剣闘士を品定めし、賭けの参考にするのだ。檻の前を信じられない数の人々が行き交っている。エカルは思わずひるんだ。檻越しに、人々は口々にエカルを批評する。その言葉をいちいち聞き取るのは不可能であったが、評判は悪そうである。人々からみれば、痩せて体の小さいただの子どもなのだ。やがていかにも賭けに慣れているといった風体の男達はよそへ行き、かわりに女達が群がってきた。エカルを指差しては小鳥のように高い声で互いに話し合っている。彼女達からの評判は良さそうであった。中には、今すぐ買い上げてやるから試合には出るなと言う者もいる。
 またこれらの観客とは別に、罵声と石を投げ入れてくる者もあった。彼らはすぐさま、闘技場の警備兵らに追い払われる。
 闘技の開始が近づきエカルは檻から出される。とうとう闘技場の地下、剣闘士達の控え室にやらされる。用意された防具は、皮の胸当てと布のすね当てだけである。エカルは剣を取って、振ってみる。バランスはいい。タハが息を切らせながら彼のもとにやって来た。
「今、対戦表が張り出されておった。お前の相手は鎖鎌使いだ。それでも恐いのはそいつじゃないかも知れん。とんでもない数の観客だ。心の準備をしておけ、坊主」
「等級は?」
「お前の等級は確定しておらん。今日の試合で様子見という事だ。相手は中堅に位置しとるよ。もっとも、この闘技場での中堅だからな。油断はするな」
 エカルは闘技場へ続く通路を登って行く。通路はあの独特の臭気がした。死の匂いだ。歓声の轟きが近くなる。そしてそれは頂点に達した。エカルは日の下に出る。
 見たこともない広い戦場があった。歓声は耳をつき、己のたてるいかなる音も聞こえはしない。それは限りなく静寂に等しい。今日一番の試合のため、闘技場の砂は一滴の血も吸わず清潔だ。闘技場の中央には鎌使いが立っている。エカルは鎖鎌は初めてであった。カルイッシューの剣奴達であれを扱える者はいなかった。振り回した鉄球でおのが顎を砕くのがせいぜいだ。
 エカルもまた中央に立つ。そして二人の剣奴は、皇帝のおわす特別席にそれぞれの武器を掲げる。皇帝は老いた男であった。骨ばった手があげられる。剣奴達は皇帝に一礼し、互いに距離をとる。皇帝の合図とともに試合は始まった。
 鉄球の素早い一撃が、横様に飛んでくる。エカルは上体を傾け上手く避けた。観客から感嘆の声が上がる。
 ひ弱そうに見える若者も、一対一の決闘試合に出るからにはそれなりの戦士なのだろう。やはりそうだった。もっと屈強な剣闘士でさえ、あの鎖鎌使いオルドゥの最初の一撃をかわしきれなかったこともある。いや、あの若造がかわせたのは軽装だったということもある。
 人々がそう取り交わす間も、試合は続く。振り回される鉄球は、どう攻撃が飛んでくるか読み辛い。エカルは距離をとりつつ、オルドゥの装備をもう一度確かめる。鎌を使いやすくするためだろう。肩は日の下で無防備にさらされている。腕は詰め物をした布製の覆いをつけ、その上から肘までの小手をしている。胴には青銅の胸当て、足も青銅のすね当てをつけていた。鉄球が再び襲い掛かる。エカルは剣でそれを受けた。衝撃で刃がしなる。鎖が剣に絡みつき、鉄球がもう一回転した。
 腕を砕かれる。
 判断した瞬間エカルは剣を放した。鉄球の軌道が変わる。剣はそのままエカルの目の前で一瞬宙に浮き、砂の上に落ちた。オルドゥは口汚い言葉を一言吐く。それでも彼は腕が良かった。鎖を握る腕を一振りすると絡まった剣は再び宙を舞い、空中で鉄球の鎖と分かれる。観客の喝采が満ちた。武器を失った剣闘士に勝ち目はない。エカルは剣へ走る。それをオルドゥの飛ばした鉄球が阻む。オルドゥはその間に移動し、剣を足で踏みつけてしまう。
 もはや勝負は決していた。あっけないほどに。エカルはあせった。この後にも観客を熱狂させる白熱の試合が待っているのだ。剣を失った剣闘士をオルドゥが延々と追いかける。そんな低級な試合が続行されるわけはない。すぐさまエカルの負けが宣言され、人々はオルドゥに殺せと命じるだろう。エカルにできるのはいまや一つだった。負けが宣告される前に、試合が続行されうることを知らしめるしかないのである。
 彼はこぶしを固めてオルドゥに突っ込んだ。観客達から感嘆のうめきがあがったが、始めのうちはただの嘲笑に過ぎなかった。オルドゥの鉄球がエカルの首の後ろをかすめる。エカルは鉄球が一回転する前にオルドゥの目の前まで達した。オルドゥは冷静に右手の鎌を振るう。
 そこからだ。
 エカルは素早く上体を沈めた。それでも鎌の軌道からは逃れ得ない。寸前でエカルの左腕が上がる。伸ばした腕は鎌の首に届き、腕にはまったあの黒い腕輪と火花を散らした。鎌の軌道はわずかにそれ、エカルの濃い蜂蜜色の髪が散る。エカルは鎌をそらすと同時にオルドゥの懐まで接近し、そのままオルドゥの右脇の下をくぐって懐から外側へ、身体を半回転させ背中合わせに飛び出した。オルドゥはすぐさま鎌をはらう。エカルはオルドゥの厚い背中を軸にし、再び半回転して敵の左側に出る。オルドゥの首筋に、黒い腕輪の激烈な一撃が加えられた。彼は昏倒する。エカルはすぐさまオルドゥの鎌を奪い、剣もまた拾う。荒く息継ぎをしながら顔を上げた。
 コロッセウムは静まり返っていた。人々の多くはぽかんと口を開けたままである。土壇場の逆転についてこられた者は少ないようだった。ただの逆転ではない。先ほどまで絶体絶命の危機にあった丸腰の剣闘士が、無傷で勝ったのだ。
 静まり返った闘技場にエカルの名を呼ぶ澄んだ声が一声響いた。観客達の呪縛が一気にとける。コロッセウムに彼の名を連呼する歓声が満ちた。人々の歓声はそして、オルドゥへの裁きの声に変わる。目覚めたオルドゥは、呆然としたままエカルを見上げるだけだ。
 エカルは特別席へ顔を向けた。皇帝の裁きが下った。オルドゥは黙ってエカルの前にひざまずき、彼の足首を両手でつかむ。オルドゥは中堅の剣闘士の中では人気が高かった。彼の鎖鎌さばきや勇猛な戦いぶりは人々に愛されていたのである。たとえ負けても人々は彼の戦いぶりに満足し、次の試合に期待したのだ。
「小僧、せいぜい長生きしろよ」
 オルドゥはエカルにつぶやき、ゆっくりと頭を下げた。エカルは鎌を捨て、両手で剣を下に構える。一瞬の後、コロッセウムの歓声は天をついた。

 オルドゥの言葉はまさに真実となった。エカルは帝都の剣闘試合で勝ち続けたのである。当然、カルイッシューのように無傷ではいられなかった。時に深手を負い、試合終了直後に意識を失って倒れたこともあった。どんな相手でも、エカルは必ず倒す。そして、着々と剣技の腕も上げていった。目の肥えた観客達もそれをよく見ており、明らかに彼の成長を楽しんでいた。体格で劣るために派手な演出はできないが、敏捷に立ち回るしなやかな体は若々しく美しい。決してひるまず、どんな逆境でも再起を諦めない。エカルの戦いぶりもまた、彼らに気に入られた。エカル相手では、対戦者達は試合後に殺されることを避けられない。観客達は常に、彼らが育てる剣闘士の味方だったのである。
 エカルは最初の三月も経たないうちに、帝都で知らぬ者のない人気の剣闘士となった。中級剣闘士でありながら、これほど人々の寵愛を得た者は過去にもいない。タハはこれ以上ないほどに儲けた。カルイッシューでは手に入らなかった質のよい宝石をエカルに褒美として与える。エカルは相変わらず、石食いであった。
「まだ戦うのか」
 訓練所の粗末な木のベンチ。リガはエカルの隣に腰掛ける。エカルは左手で右の腕輪を回しながらうなだれている。かつて傷一つなかった背には、はや無数の傷跡が刻まれている。
「もう自分で自分の自由を買い取ってもいいころだ。なのにお前は褒美をみんな食っちまうんだよな」
 エカルは腕輪をいじくるだけで何も反応を示さない。この数ヶ月でエカルは少し身長が伸び、腕輪はいちだんときつくなったようだった。
「そいつを外したいと思ったことはないか?」
 エカルはようやく顔を上げた。
「あんたは自由がほしいんだな」
「好きな土地で死ぬ自由さ。帰りたい場所があるからな。せめてそこ以外にゃ、骨をうずめたくねぇ」
「騎兵がいなくなったから話し相手がいないんだろう。あんたはお喋りだ」
 リガは笑う。あの騎兵は数週間前の試合で命を落とした。リガは一度だけだが、あの騎兵が皇帝席を睨みあげているのを見たことがある。彼は帝国軍に多くの部下を殺され、彼の国も帝国軍から酷い仕打ちを受けたのだ。彼が倒すべき敵は目と鼻の先にいたが、最後までその手は届かなかった。奴隷席から湧き上がる彼と同郷の奴隷達の、彼を讃える歓声が、思い出される。カイコーズの最後の英雄、万歳。彼の国には石食いの竜がいたようだが、なぜ石を食べるのかついに聞くことはなかった。
「俺は旦那の財産の一部だ。奴隷に生まれるってのは、つまりそういうことだ。旦那の意志に添うのが生きるということだ」
 エカルは腕輪を腕の具合の良いところまで動かしながら言った。
「お前ははじめから間違った教育を受けさせられたのさ。もうどうしようもねぇんだな」
 リガは諦めて答えた。何度この家畜化された若者の、物の考え方を変えさせようとして失敗してきたか。自由を知らない若者には、リガの言葉など通じはしない。若者のまなざしが、郷里の小さな息子にどことなく似ているのが口惜しい。彼は話を現実に戻す。
「次の試合は、聞いているか」
「集団戦。俺とあんたは敵同士」
「兜を被っちまえば、何でもねぇな」
 リガは立ち上がる。同じ訓練所の者同士が戦うことは、珍しくはない。それに躊躇する剣奴もいない。倒した方も、いつか必ず倒される側となる。

 その日は特別陽射しが強かった。闘技場の奴隷達が、石の観客席に水を撒いている。
 後部に位置する下級市民専用の席をひとつ占めたスラは、人気のないアレーナを見下ろす。今日の集団戦で失うであろう訓練所の剣奴達を、頭の中でえり分ける。
——エカルは大丈夫だろう。観客の贔屓もある。手を出すような命知らずはまずいまい。アルガはだめだ。惜しいことだ。リガはどうだ。あの闘獣士サランと組めば、生き残れるだろう。なに、あの集団戦の花は二人の上級剣闘士パリスとルクティレスの決闘だ。ほかは引き立て役だ。二人の対決が終わるまで生きていりゃ、どうにかなる。
 あまりに楽観的な予想に、スラは自嘲の笑みを浮かべる。実際には、どちらかの陣営が全滅するまで闘技は続くだろう。タハは今頃、酒に酔いつぶれているころだ。彼の悲しみぶりは、すでにエカルが死んだかのようであった。息子のように可愛がっている奴隷であったからだろうか。それとも、最も強い駒を失うことが口惜しいのだろうか。いずれにせよ、主催者の意向には逆らえない。

 再びここを通って帰らねば。
 アレーナへの通路を登りながら、リガはいつものように思う。スラはいつものように闘いの助言を与え、剣闘士達を送り出す。あの白い砂の上に。
 真っ赤な羽飾りの兜を被り、方形の盾と直線の剣を携えたパリス。湾曲刀を握り締め、エカルの首を遠慮なく叩き切れる機会が来たことをほくそえむ闘獣士サラン。別の訓練所から来た二人の屈強な剣闘士達。リガは彼らの後について、熱気と群集の歓声が渦を巻くアレーナへと出る。
 飾り気のない目の穴が開いただけの青銅の兜、下半身をすっぽりと守れる巨大な方形の盾に根元にかけて幅広になるまっすぐな剣。剣闘士ルクティレスはエカル達四人の供を連れて、同じく陽射しの下へと出る。
 先にアレーナの中央へとたどり着いたパリス達は、ルクティレス達を振り返る。彼らの後ろで通用口の柵が閉じられたところだ。
「同じ頭数じゃないか。観客に、アレーナのあちこちで対決勝負を見せてやろう」
 ルクティレスは後ろのエカル達に囁く。
「パリスは俺がやる。『坊や』と『槍』は、あの二人を狙え。いいか。一緒に行動するんだ。後の二人で残りをやれ。獲物を見定めながら、ゆっくり散らばるんだ。そうすりゃ、相手は勝手に寄ってくる」
 ルクティレスは部下達の能力を熟知している。エカルと「槍」に指し示された二人の敵は、サランと名も知らぬ網を持った剣闘士である。サランに敵うのはエカルだけであったし、網を絡め取るには槍が必要だ。
 剣闘士達は皆、顔を全て覆う兜を被っている。相手の視線を探ることはできない。中央で敵を待っていたパリス達は、散開しながら徐々に近づいてくる彼らの頭の向きで、それぞれの相手を見出す。
 人々は試合前の緊張に息を呑む。彼らは同時に一方向しか見ることのできない目を、恨めしく思っていることだろう。
 ルクティレスが走り出す。それと同時に彼の四人の部下も、獲物めがけて駆けた。
 雄たけびとともに、ルクティレスは巨大な盾に身体をすっぽりと隠して飛び上がる。そして盾ごと、剣を突き出したパリスに体当たりを食らわせた。歓声が極まる。闘技が始まった。
 エカルはサランと剣をあわせる。「槍」は投網剣闘士に武器を突き出す。
 エカルは兜の覗き穴から、「槍」の様子を見やる。彼はうまいこと投網剣闘士の注意をひきつけている。この隙にサランを倒し、返す刀で網使いを倒す。そして、他の仲間のもとへと駆けつける。それがルクティレスの作戦である。
「さあ、どうした! かかってこい!」
 サランは嬉々として剣を振るい、エカルに反撃の隙を与えない。エカルは舌打ちをする。兜による前方のみの狭い視界が、大きな動作を拒む。彼の持ち前が発揮できないのだ。力でサランに勝つことはできない。サランの攻撃を何度も受けたエカルの剣が、ぐらついてくる。エカルは苦し紛れに右足を軸にして大きく後ろに退く。サランの剣は空を切る。
「後ろだ!」
 一塊の声援を裂いて、そのような叫びがいくつもエカルの耳に入る。彼は集中を削がれ素早く振り向く。何もない。彼への忠告ではなかったらしい。サランの再攻撃が、エカルの右肩をかする。同時に、彼の左半身に投網がかぶさる。投網の重りが、彼の体にいくつものあざをつくる。
 サランの次の攻撃は、彼の後ろから襲い掛かった「槍」によって阻まれた。エカルは投網剣闘士が網を回収する前に、網を左手で捕まえる。相手が三叉の槍をつき上げる前に、相手の投網側の腕に回り込む。敵は投網を介して引っ張られる己の腕が邪魔して、三叉をエカルに突き出すことができない。双方網を引き合いながら、投網使いを中心にエカルは相手の周りをじりじりと回る。投網使いの無防備な背中が、「槍」の前にさらされる。
 その一突きが、投網使いの背中に深く刺さる。エカルは網から手を離す。バランスを崩して投網使いが倒れる。サランが「槍」の首筋めがけて剣を振り上げる。エカルは「槍」を突き倒し、サランの剣を空振りさせた。さらに踏み込んで素早く剣を突き上げ、サランの利き腕に傷を入れる。相手はうめいて退いた。
 エカルは兜の皮ひもに手を伸ばす。紐を解くと兜を脱ぎ、大きく息を吸った。水を浴びたように汗が滴る。陽射しは首筋を焼き、兜の中は釜のように暑くなっていた。見ればサランも同様に兜を脱ぎ始めている。
 エカルの耳元で風の音がした。彼は背後からの閃光をかわす。振り向きざまに脱いだ兜を投げつける。別の敵が来ていた。どうやら相手をしていた仲間がやられたらしい。アレーナに、動かない味方の姿がひとつあった。彼は身をよじり、次の攻撃をかわす。かわした先にサランの剣が待ち受ける。エカルは素早く地面に崩れ落ち、剣をやり過ごすと瀕死の投網使いから三叉を奪い取る。起き上がりざま、それをサランに突き出した。サランは避けきれず、左の太股で三叉を受ける。エカルはサランを「槍」に任せ、もう一人の敵と対する。
 またしても、エカルは背後に近づく気配を感じる。彼は振り向きざまに切り払おうとする。しかし、その剣は不自然に相手を逸れた。剣が過ぎ去った後に、不意を突かれたリガの兜頭が呆然と残る。エカルはリガの胸を蹴り飛ばし彼を退かせる。すぐに身をよじり、向かってきた先程の敵に致命的な傷を負わせる。
——なぜ当てなかった!
 リガは胸のうちで叫び、唇を噛んだ。日にあぶられているはずの背が、冷たくなる。
——俺はなんと無責任な感傷を!
 あの子どもに構いすぎたのだ。彼は自分が思っていた以上に、相手の心に深く踏み込んでいたことを、この場にきて思い知る。若者の剣奴としての意志は、彼を間違いなく斬ろうとしていた。別の意志が、若者にあの剣を逸らしめた。アリルの教育の鋳型に固められた心の下で、若者自身の感情も細々と生き延び育っていたのである。
 リガは雄たけびを上げながら、斧を振り上げる。
 エカルが振り向く。その緑の瞳は怒りに燃えている。剣奴としての誇りを取り戻そうというのか、それとも、主人があるべきはずだという彼自身の姿を取り戻そうというのか、それとも——。アレーナでは冷静なはずの彼が、理性の手綱を引きちぎった怒りに支配されていた。彼の意識の先にはリガだけが残り、後ろのサランは忘れ去られた。
 斧と剣が火花を散らす。エカルは間髪入れず、剣で突いてきた。リガは斧の腹でそれをかろうじて受ける。彼は息を呑んだ。エカルの背後にサランが迫っていた。止めを刺すための短剣は逆手に握られている。
 声援の中に、わっと泣き出すような悲鳴が入り混じった。
 猛獣は常に残酷な方法でゆっくりと倒す男ではあったが、この時ばかりは一撃を狙っていた。エカルを贔屓にしている観客を、敵に回すべきではなかったからだ。
 観客席の悲鳴は、はじめは女のものが多かった。エカルは闘技場の「弟」、もしくは「息子」として女性の贔屓が多かったためである。それが徐々に、男達の悲鳴と感嘆に圧倒されていく。
 明らかに致命傷であったのに、エカルは右足を前に踏ん張りわずかに上体を傾けたまま、首筋から血を流して、まだ白い砂の上に立っている。立ったまま絶命した剣闘士の例は、少ないながらも確かにあったのだが。リガとサランは、エカルの肩越しに戸惑ったように顔を見合わせた。「槍」もまた呆然と、戦いを忘れている。中央の二人の剣闘士は、観客の声援に包まれこちらに気づいていない。声援を送っている観客も、アレーナの片隅で起こったことに気がついていないのだろう。
 わずかにうつむいた若者の瞳が、濃い蜂蜜色の前髪の下で輝いている。リガはその伏し目がちの視線をじっと見守る。若者の目は瞬きをしない。リガはサランに合図し、静かにエカルの側を離れる。

 その日、帝都の酒場という酒場は真夜中を過ぎても人々が引き切りなしに出入りしていた。貧民街近くの小さな酒場にも、明かりは絶えなかった。彼らの話題はもっぱら、帝国民が考える中で最も戦士らしい最期を遂げた若い剣闘士と、彼の持ち主とファン達が金を出し合い、近々盛大な葬式をとり行うことの二つであった。
 リガは最奥のアルコーブで、木剣を前に一杯目のワインをいまだ空けずにいる。酒場の明かりはここまで届かず、彼はマントを脱いで誰に詮索されることなくゆっくりできる。腹部の傷は火と燃えうずく。
 あの後、ルクティレスはパリスを戦闘不能とし、リガ達に戦いを挑んできた。負けはしたものの、中級剣闘士である彼の奮戦ぶりは人々の心を捉え、ルクティレスも彼を認めた。主催者は彼を奴隷から解放し、自由の象徴である木剣と褒美を与えたのだ。
 帰るべき場所に帰る。望んだのはそれだけであり、それが全てであった。その自由を手に入れるのに、似たような境遇の者をどれほど屠ってきたことだろう。いつか自分も屠られる側となる。だからこそ迷いもなくできたことであったはずだ。その決意は目的を達した今や、得体の知れぬ化け物に姿を変え、彼の心を内から食い破ろうとしている。
 彼は絹の巾着をそっと覗く。わずかな明かりの中で、色とりどりの宝石が輝いた。手を差し込み、中でも最も冷たい石を取り出す。彼の小指の先程もある、黄色味がかった透明な石である。彼は発作的にそれを口に含む。小さな石は、彼の口内の熱を奪う。それでも飲み込むことはできなかった。それをするには石は硬すぎる。
「石食いね」
 ふいに女の声が彼の耳に入る。酒場の臭気に混じって、柔らかい花の香が鼻先をかすめた。リガは眼光鋭く顔を上げる。暗がりでも映える蒼白の顔が目に入った。人間の肌の白さではない。異人とはいえ、今まで見たこともない人種だ。背丈は高すぎ、首筋と胴は蛇のように長い。女はリガの視線に涼やかな微笑で応えた。若い女だが、商売染みた様子はない。脇に竪琴を抱えている。弾き語りのみが専門か。彼女はリガの許可も得ず、狭苦しい向かいの席に腰を下ろす。結わずに垂らしたままの長い髪が、さらさらと揺れる。リガは石を杯の中へ吐き出した。石はワインに染まり、淡い紅色に輝く。
「石食いは、死んだ」
 リガは宝石を睨みながら呟く。そうしながら自分の体をあちこち探ったが、頃合の小銭は持ち合わせていなかった。
「悪いが適当な金はない。他を当たれ」
「宝石一つ分の物語をリクエストして。私はたくさんの話を集めてきた。それらを一列に並べて見せることはできないけれど」
「カイコーズの石食い竜の話は?」
 リガはだめを承知で尋ねてみる。
「話の中途半端なところで死にやがった奴がいる。それに今さら聞いたところで、もう俺には用のない話だ。だが、奴の国も滅びた。今聞かなけりゃ、一生聞けんだろう。宝石一つ分の価値はある」
「それは『石食い姫』の話」
 女はリガの心情を読み取り、歌うこともなければ、その物語をはじめから丁寧に語ることもしなかった。「石食い姫」の話は幼子へのお伽話のように、短く語られた。
 カイコーズの王子の下に、一人の姫が現れた。二人はたちまち恋に落ち、めでたく結婚をした。妻には奇妙な癖があった。宝石を食うのである。夫には妻がどこから宝石を手に入れてくるのか、分からない。石を食べるのも気味悪がった。夫は妻に石を食べるのをやめるようにと懇願した。妻は悲しげに聞き入れたが、間もなくして夫の前から姿を消した。嘆いた夫は妻の後を追った。妻の通った道は、全てが焼けただれていた。夫は焼かれた道を踏みしめ、とうとう険しい山の頂上にたどり着く。そこで彼を待っていたのは愛しい妻ではなく、一匹の竜であった。竜の吐く息は火よりも熱く、夫は一瞬で灰となってしまった。
「竜は人間の娘の皮を被った。恋をした人間の若者と結ばれるために。娘は石を食べた。溶岩の煮えたぎる熱い胸と腹を冷やすために」
「そうか。確かにあいつが石を食う様は、人間離れしていたよ。クズ宝石も食えば、道端の石も食った。いつだって、腹に冷たい石を入れていた」
「あいつ」
「今日闘技で死んだ奴だ」
「一人じゃないわ……」
 リガは頭を振り、ため息をつく。
「煮えたぎる胃の腑を冷やすためか。そうかもしれん。どんなに押し込めても、腹の底には溜まっちまう。俺も怒りの詰まったこの腹に、冷たい石を入れちまいたい。あいつもそうだったのかもしれん。石を食って必死に押さえようとしていたものが、腹の底に、本当に石を溶かしちまうほどに。何を抑えようとしていたのか、そこまではもう分からんが」
 リガは杯を飲み干した。杯に残った宝石を分厚い手のひらに取り、袖で軽くぬぐって女に手渡す。先程から、酒場の外がなにやら騒がしい。女は宝石を、大切そうに帯の間にしまいこんだ。今は小首をかしげ、意味ありげな視線をリガに注いでいる。淡くかすかな、やさしい微笑。
「ありがとうよ。これで町を離れられる」
 リガは不可解な視線を振りほどいて立ち上がり、酒場を後にする。その日命を落とした剣闘士らの名を呼び、夜の町を徘徊しては涙を流す若者達がいる。解放奴隷は町を去り、二度と戻らない。

カルイッシューの剣闘士 - 完 -