羊角の楽士

「コウサ!」
 日の出である。淡い紫紺と金に輝く空の下、隊商宿の庭で人々が荷を駱駝に積んでいる。商品や食料の木箱はそれぞれにより分けられ、縄と木の棒によって、駱駝達の背に固定されていく。
「コウサ!」
「おう」
 再びエルヤは怒鳴った。すると、庭の真ん中で人々に指示を出していた浅黒い肌の痩身の男が、振り返る。
 あまり人相のよくない、鋭い灰色の目を持つ男だ。険のあるその視線の方が、彼全体の見てくれよりも、人に強い印象を残す。彼は、こちらに小走りにかけてくる二人の人物を認めた。彼は見たことのある顔に、片目をゆがめる。
「お前らか」
 エルヤは義弟を従え、彼の側に寄った。
「半月ぶりね」
「俺に声をかけるたぁ、相変わらず懲りてないようだな」
 コウサは言葉を切って、驚くほど大きな声で部下を怒鳴りつける。
「そこ! 横着するんじゃねぇ! 梃を使え、梃を!」
 それから、再びエルヤに目を据える。
「で、何の用だ」
 エルヤは彼の前で肩をすくめ、両手をすり合わせて見せた。
「あなたはこれからどこへ行くの? もしかして、ハシュバル方面に行ったりする?」
「そこそこ稼いだから、俺達はもう東州に戻るつもりだ。峡谷の大門が今月末で閉ざされるらしいからな。カイス経由で行くから、エンギルまでなら道は一緒だ」
「一緒に行ってもいい?」
「なんだと」
 彼がどすの利いた声を出したので、何か怒らせてしまったのかと、エルヤは体をびくりとさせた。
「だいたいおまえら、なんでまだこんな所をうろついていたんだ。まともな異人なら、さっさと湾岸地方に行くはずだ」
「テラ方面からハシュバルに行こうとしたのよ……」
 彼女は泣きそうな情けない表情をしてみせた。もっとも、コウサはそんな表情に心を動かされはしなかったが。
「なんとか二人だけでテラにたどり着いたんだけど、そこから先は匪賊が多くて、旅行集団を作っていかないと、危なくて通れやしなかったの。でも、私異人でしょ。どこの集団も私を連れていくのを嫌がって、結局足止め状態。にっちもさっちも行かなくなったから、引き返してきたのよ。そうしたら、あなたを見つけたの」
「俺に甘えるんじゃねぇ」
 コウサはそういい捨てて、さっと横を向き、再び部下に怒鳴りつける。エルヤはコウサの腕に手をかけた。
「お願いよ。エンギルまででいいから、連れて行ってちょうだい」
「俺達はもう出かけるんだ。お前ら出発の用意はできてるのか? いっとくが、一刻も待たんぞ。おまけにどうせ、すかんぴんなんだろう」
「ん……」
 エルヤは短く頷いてうな垂れる。
「仕方ねぇ。体で払いな」
 コウサは言って、エルヤの後ろにじっと佇む彼女の義弟に声をかける。
「小僧、向こう行って武器をもらってこい」
 コウサは入り乱れて働く部下達の一集団を顎で指し示す。そして、彼らに怒鳴った。
「おい、こいつに、余ってる武具一式を貸してやれ! 新入りだ!」
 皮の鎧で武装を固めている一団が、それに答える。
「ぐずぐずするな。とっとと取って来い」
 エカルは持っていた姉と自分の荷物を足もとに置き、駆け足で去っていった。エルヤは小躍りした。
「ありがとう! ありがとう!」
 コウサは大して嬉しくなさそうに、彼女を横目で睨む。
「いつまでも気安く触ってんじゃねぇ」
 エルヤはコウサの袖から、ぱっと指を離した。エカルが、剣と簡単な皮の胸当てと肩当を抱えて、戻ってくる。コウサはその装備を確認し、頷いた。
「道中の食料は、俺達から買え。給料はお前だけ特別に、日当で払ってやる。それで自分と姉貴を養いな」
「分かった」
 一瞬だが、エカルの表情がいかにも嬉しそうに輝いた。彼は生まれて初めて、一人前の護衛として誰かに雇われたのである。まだ幼さの残る顔つきの彼は、その若さゆえに、護衛として職を探そうにも、誰にも相手にされたことがなかった。彼は、姉に養われるばかりの自分に、負い目を持っていたのだ。
「お前は、俺の馬の側を歩いて、俺を守れ。それから……」
 コウサは厳しい顔つきで、エルヤとエカルを見回した。
「お前ら、絶対に俺の目の届かん所へは行くな。俺の部下達が、お行儀良くお前らに接するとは限らん。仲間内で、くだらん揉め事はごめんだ。エルヤは、俺か弟の側を絶対に離れるんじゃねぇ。野営する時は俺の幕舎に泊めてやるし、宿をとるときも俺の部屋で休め」
 これを聞いてエルヤはため息をついた。
「相変わらず、物騒な連中を連れてるのねぇ」
「俺の部下が特別物騒なわけじゃねぇ。お前らの存在の方が厄介なんだ。珍しい異人に、下手な美女より遥かにみばのいい少年。俺はむしろ、お前の弟の方が心配だ」
 コウサはそういい残して、ぶらぶらとその場を立ち去る。エルヤとエカルはちらりと互いの顔を見比べて、確かにその言葉には一理あると納得した。特にエルヤは、深く頷いた。
 出立の用意が整い、駱駝達が一列につながって宿の中庭から出て行く。ここからエンギルまで、荒れ果てた山岳地帯を通ることになる。土地の標高は比較的高く、季節は夏に近づいていたが、朝方はまだ肌寒いほどであった。人の吐く息も、動物の鼻息も、白く曇った。駱駝の首にかけられた鈴が、物憂い音を響かせる。
 時々、駱駝達が列を乱すことがあった。その度ごとに、隊商はいったん立ち止まって、駱駝達を落ち着かせなければいけなかった。コウサは、西州に入ってから駱駝達を甘やかしすぎたと悪態をついた。
「必要以上に肥えさせてしまった。どいつもこいつも鼻息が荒い。元気が有り余っていやがる」
 しかしそれも始めの数日の事で、標高が高くなるとともに、駱駝達は大人しくなっていった。何頭かの駱駝は、太りすぎのために絶食による脱脂療法をさせられていたのだが。そもそも、高所に駱駝や馬はあまり向かないのかもしれない。時々見かける山の斜面のひらけた草原では、羊や山羊達の白黒灰茶のいくつもの小さな点を見かけることがあった。道では、大きなヤク達を連れた遊牧民とも、すれ違うことがあった。
 コウサの馬の後ろを追いながら、エルヤは軽い頭痛を覚えていた。聞いてみたが、エカルは頭痛も眩暈もなく、いたって元気だった。もしかしたら、自分の種族は高所に弱いのかもしれないな、と彼女は思った。
 日は暮れかけ、辺りの景色はまばらな林に変わっていた。その向こうは急峻な岩場がそそり立っている。隊商を取り巻く空気が、いつもと変わっているのにふと気づいて、エルヤは前や後ろをキョロキョロとした。隊員達は、すっかり黙りこくって歩いていた。時々、馬に乗った護衛が忙しなく隊列の間を行ったり来たりしている。エルヤは、コウサの馬の隣まで足を速めた。
「ねぇ、何かあったの?」
 コウサはちょっとエルヤの方に視線をやって、短く答えた。
「賊だ」
「え?」
「昼前から、何人かがこちらを窺っていた。今も見え隠れして、付いて来ている」
「大丈夫なの?」
「恐らくな。こちらも護衛の数は多い。油断はできんが」
 やがて、今日の野営地へと到着する。先行した隊によって、すでに幕舎がいくつか張られ、夕食の準備が整いつつあった。荷物は駱駝達の背から下ろされ、数箇所に固めて置き、見張りがつけられた。動物達も、今夜は放牧されずに野営地近くの空き地に集めて座らされる。
 食事は平焼きパンと、ピリリと辛い野菜と羊肉の煮物だった。エルヤは焚き火の側で、パンを煮物につけながら、ぼそぼそと食事をする。頭痛のせいで、あまり食欲がわかない。すでに夜の帳は降り、雲が出ていて空は暗かった。林の向こうから、いくつもの遠吠えのような声が聞こえた。隊商が連れている犬達が、色めきたって吠え返している。
「狼かしら」
 エルヤの呟きに、コウサが答えた。
「賊だろう。俺達を脅しているか、仲間と連絡を取り合っているんだろう」
 また新しい遠吠えが、林の奥であがる。耳を澄ませて、彼女は身震いした。
「まだ付けて来ているの? 嫌な感じ……」
 それからエルヤは、隣のエカルの様子を見て、彼の肩を乱暴に突いた。
「あんたはもう! どんどん食べ方が悪くなる」
 エカルは周りの男達の真似をして、器に口を付けて煮物を掻き込んでいるところだった。そんな時突然肩を強く突かれたものだから、彼は思わず咳き込んだ。
「せっかくいいお行儀仕込まれてるんだから、それを忘れないでちょうだい。食べ方の汚い男は嫌いよ」
「分かったよ……」
 エカルは横目で姉をじっと見て、これでいいかと言わんばかりに、さじで一口ずつ食べてみせる。コウサが、はっと短く笑った。
 その日の晩、コウサは部下達に不寝番を順に割り当て、有事に備えることにした。もし盗賊達が襲ってきたらすぐに自分を起こすようにと従者に告げ、幕舎に入る。
 エルヤは女ということで、不寝番は免除された。エカルは幕舎の入り口の脇で、剣を支えに座ったまま眠ることにした。これなら、従者がコウサを起こしに来た時に、彼もすぐに目を覚ますことができる。
 エルヤはコウサから少し離れて身を横たえ、毛布に包まる。外からは、相変わらず盗賊達が、その荒々しい咽を鳴らしているのが聴こえてくる。
「……奴らが来る気なら、それは多分明日だ。覚悟しとけ」
 暗闇で、コウサが低い声で呟く。それを聞いたエルヤは、身を震わせた。彼女は過去に何度も、盗賊達に殺されそうなほど恐い目にあっていたのだ。
 夜は何事もなく明けた。もっともエルヤは、夜通し吠えていた盗賊達の声に度々起こされ、まんじりともできなかった。彼女は、寝不足のままふらふらと歩く羽目になってしまう。彼女は隣をガタゴトと行く荷車の端を手で掴み、半分夢の中を彷徨いながら、道を行く。時々、荷車が地面の出っ張りで大きく揺れる度、彼女ははっと目を覚ますのだった。
 昼頃である。突然隊列の後方で駱駝の引きつるような嘶きと、駱駝曳きの悲鳴があがる。
「ちっ。馬鹿どもが。来やがったか!」
 コウサが乱暴に舌打ちをして、馬上で振り返る。彼は素早く、隊伍に停止命令を出す。彼らの脇を馬に乗った護衛達がすり抜けていくと同時に、風を切って矢が後ろから飛んできた。
 エルヤは慌てて、荷車の陰に隠れようと走り出す。その左腿に、突然稲妻のように熱いものが走り、彼女はつんのめって転んだ。
「な、何!」
 上半身を起こして後ろを振り返ると、左大腿の真ん中ほどに矢が刺さっている。コウサが馬から下りて足早に近づいてきた。彼女に声もかけることなく、いきなりその矢をするりと引き抜く。
「ちょっと! 何するのよ!」
 傷口からあっという間に血が溢れ、スカートが濡れて足に張り付いた。
「良かったな。毒は塗ってないようだ」
 コウサはエルヤの目の前に、矢を投げ捨てる。矢じりには、逆鉤は付いていなかった。それで簡単に抜けたのだろう。彼は再び馬にまたがると、刀を引き抜く。
「エカル! 姉貴を見てやれ!」
 彼は怒鳴って、戦闘の渦中へと自ら飛び込んでいった。相変わらず、血の気が多い。呼ばれたエカルも、後方の戦闘地帯へ走りかけていたが、すぐにエルヤの側に走り寄って来て、脇に膝をついた。
 エルヤは血を止めようと、うつ伏せのまま焦って震える手で、腰帯を解こうとしていた。エカルはエルヤのスカートの裾に手をかける。
「このスカート、継ぎだらけだし、いい加減もう寿命だよな?」
「え?」
 彼はスカートの裾を口にくわえると、いきなり布地を裂いた。
「ちょっと! 何を!」
 エカルは裂いた布地をてきぱきと折りたたむ。さらに、義姉の許しもなくスカートをぎりぎり尻までたくし上げ、彼女の傷口にその布を押し当てた。
「その帯、貸して」
 義姉の手から解かれたばかりの帯を引ったくり、慣れた様子で布とともに傷口にきつく巻きつける。応急処置が済むと、彼はスカートを元通りに直した。
「この荷車の下に隠れてれば、大丈夫だよ」
 エルヤが荷車の下に這い入るのを助け、彼はすぐさま再び隊列の後方へと走り去ってしまった。
 荷車の下には、すでに御者が隠れていて、エルヤを邪魔そうに睨みつけてきた。荷車はそれほど大きくなく、二人が下にもぐってしまったら、もう一杯だった。
 もっとも、エルヤは周りに構うどころではない。左大腿は、動かさなければ不思議なことに痛くはなかった。痺れのようなものがあるだけである。かえって、転んですりむいた両の掌の方がひりひりと痛かった。彼女は傷を受けたことで、すっかり動転してしまっていた。震えながら顔を伏せ、じっと耳を澄ませる。駱駝の悲鳴や、男達の怒鳴り声がいくつも響いている。中には、コウサの特徴ある大声も混じっていた。やがて、それらの声がだんだんとまばらになってくる。
「追え! 追え!」
「向こうに行ったぞ!」
「逃がすな!」
 そんな声がいくつも聞こえてきた。彼女は、戦闘が収束しつつあるのを感じる。顔を上げて、荷車から這い出し、荷車に手をつきながら立ち上がる。隊列の後方では、護衛や他の男達が集まって、林の方を見ていた。エカルがこちらに走ってくるのを見て、エルヤはほっとする。
「追い返したの?」
「ああ」
 エカルは得意満面で頷いた。彼の右頬に、赤い血の線がついていた。エルヤは手を伸ばして、指でそれを拭ってやる。肌には、傷痕はなかった。返り血らしい。しかし、エカルの握っている抜き身の剣は、少しも汚れていなかった。誰も斬ってはいないようだった。彼女は、心の中で再び安堵した。彼女は、できればエカルにはもう二度と、人の血で汚れて欲しくはなかったのである。
 盗賊の襲撃で受けた損害は、駱駝二頭だけだった。彼らは戦闘のさなかに荷物を振り捨てて林の奥へ逃げ出し、コウサは他の危険も踏まえ、彼らを見捨てることにしたのである。負傷者はエルヤを含め、数人出ていた。盗賊は三人が生け捕られた。当然、コウサは彼らを許さなかった。命乞いは無視され、盗賊達はすぐさま殺された。そして着物を全て剥がれて、木の枝に吊るされる。
「俺の隊商を襲った見せしめだ」
 コウサは盗賊達の死体を、憎々しげに睨みつけた。
 医者は負傷者を順番に回って傷の手当てをしたが、彼はエルヤの前に来ると、難しそうな顔つきのまま、ぼそっと言った。
「異人の血にはさわれん。自分で手当てしてくれ」
 彼は彼女に包帯を渡すと、さっさと次の負傷者のところへ行ってしまう。彼女はため息をついた。傷口の場所が場所なので、自分で手当てするのは難しい。戸惑っていると、エカルが水を持ってやって来て、自分が傷口を洗うと申し出てくれた。
「あなたは私の血が恐くないの?」
 エルヤはエカルに尋ねる。
「いまさら、何言ってんのさ」
 彼の返事は短く、罪がない。彼は甲斐甲斐しく彼女の傷を洗い、清潔な布を傷に当てて包帯を巻いてくれた。
「スカート、血だらけだね」
「おまけにあんたが破いちゃったから」
 エルヤはため息をついた。
「スカート、もうこれ一枚なのよ……」
 すると、隊員達の様子を見に来たコウサが口を挟んだ。
「この間の町で、驢馬を買ったときのあまりがある。それを格安で売ってやろう」
「あまり?」
「綿布と物々交換したやつだ。中途半端にはぎれが残って、持て余していた」
 その日の野営地で、エルヤはその綿布を手に入れることができた。綿布の代金は、エカルのこれまでの日当の蓄えで、十分払うことができた。
「今回は、あんたに世話になりっぱなしねぇ。ありがと」
 エルヤがエカルに言うと、彼は照れてどこかへ行ってしまった。彼女は夕食までの時間に、新しいスカートを縫うことにした。その時、ふと思いついて、スカートの布目を斜めにとってみた。辺りが完全に暗くなる前にちょっとしっかりめの仮縫いを済ませ、試しにはいてみる。すると、ドレープの具合が面白い。
――前より、ちょっとだけお洒落になった。
 彼女は満足した。スカートははいたままにして、後は暇を見つけて本縫いすることにした。
 足の傷は、時間が経つにつれ、思い出したように痛みを増してきていた。夕食の頃には、まるで心臓が足に移ったように、ずきんずきんとした。夕食の献立は昨日と同じであったが、彼女はパンだけ手にすると、焚き火の離れた場所でうつ伏せになって肘を立て、パンを少しずつ口に運んだ。
 コウサが焚き火から立ち上がり、彼女の脇に膝をつく。何の用かと彼女が顔を上げると、彼はいきなり彼女の無防備な尻にばんと重たい手を置いた。彼女は呻いた。
「やめて変態! 傷に響くじゃない!」
「それくらいなら、まだ軽いもんだ」
 彼はニヤニヤしながら答えた。盗賊を片付けてすっきりしたのか、機嫌が良さそうだった。彼は彼女の隣に横になり、肘を立てて頬を支える。二人の視線はちょうど同じくらいになった。
「明後日には、エンギルに着く。それで、ひとつ思い出したことがある。カナンの町で、お前みたいな自由身分の異人に会った。一人旅をしているらしい」
「異人? 人種は?」
 自分と同じような境遇の異人に、彼女は強い興味を覚える。彼女はぱっと目を輝かせた。焚き火の明かりで金色の中に緑の小さな光を閃かせるエルヤの瞳に、コウサは魅入りながら答えた。
「有角人だ。男で、俺より若い。旅回りの楽士だ」
「あなた、見ようによっては四〇代にも見えるんですけどぅ……」
「二〇代半ばくらいだ」
 コウサは言い直した。
「風変わりな男だった。名は、ヴァズヒルだったかな。お前のことを話したら、向こうも興味を持っていた。奴はフチに行くといっていたから、エンギルから湾岸地方に行く間に、会うかも知れん」
「へぇ。是非会ってみたいわね。でも異人の一人旅じゃあ、大変でしょうに」
「お前ほどじゃないだろう。有角人は、異人の中ではまだ扱いがマシだ。それに角さえ隠せば、人間と区別はつかんからな。俺も始めは、異人だと気がつかなかった」
 それから二日後、隊商は無事にエンギルへと到着した。コウサは最後の日当をエカルに支払い、貸与した武具を取り返す。
「じゃあな」
「ありがとう。助かったわ。もう会うことはないでしょうね」
「そうだな。俺はその方がいい……」
 コウサはさっと身をひるがえすと、振り返ることもなく夜の市へと消えていく。エルヤとエカルはしばらくその後姿を見つめていたが、彼の姿が人だかりに消えると、自分達の道を歩き出した。
――今夜のうちに、スカートを縫い上げてしまおう。
 エルヤは考えた。どこかの酒場で歌でも歌って小銭を稼ごうかとも考えたが、エカルの稼ぎの方がまだいくらか残っていた。
――これだけあれば、まだ一〇数日はもつわよね……。
 西州の異人に対する態度は、東州のそれよりも冷たかった。そんな空気の中で歌を歌うのも、結構な勇気がいる。必要に迫られるまでは、歌うのは気がすすまなかった。
 エンギルから先の道は、比較的進みやすかった。この辺りまで来ると、町の様子も辺境とは違って賑やかになってくる。それとともに街道も整備され、治安も大分良くなってきた。とはいえ、異人と人間の少年という組み合わせで旅をするのは、それなりに大変だった。町に入るとき、エルヤは役人にしつこく本当に自由身分なのかどうか追及され、時に異人を目の敵にしているらしい連中から追い回されて、恐い思いもした。エカルはもう子どもではなかったが、大人というにはまだ若すぎ、人に舐められることしきりだった。
「俺への扱いは東州の時とそんなに変わらないけど、姉貴への風当たりは、ここに来てから段違いに厳しくなってるな」
「湾岸地方に着けば、まだましになるはずよ。あそこは、海から渡ってくる異人が結構いるらしいから、人間の方もまだ異人に慣れているわ」
 この町でも市門をくぐる時、役人と擦った揉んだのあげくにようやく入るのを許された。町に着いたのはまだ薄明るい夕刻だったのだが、役人のおかげで町に入れたのは、夜も大分遅くなってからだった。二人は宿の立ち並ぶ通りを歩き、役人にここに泊まるようにと指示された宿を探して、入っていった。
 宿の主人は、見慣れない人種の異人の姿を見て、少し驚いたようだったが、すぐに部屋を用意してくれた。それから、エカルの方もじろじろと不躾に眺める。二人がどういう関係か、探っているようだった。そこでエルヤは聞かれる前に答えることにした。
「親のない子を拾ったのです。いまじゃ、弟分ですわ。それで、ここでは夕食を出してもらえます?」
「うちじゃあ、もう夕食の時間は過ぎたんだよ。腹が減ってるんなら、他の酒場に行って食ってこい」
 二人は表通りへと足を運んだ。商業都市らしく、夜でも人通りが賑やかである。人々はエルヤの姿を恐れて、彼女が目に入ると自然と道を開けてくれる。その態度は気に入らなかったが、それでかえって歩きやすくなったのは、彼女達には良かった。
「旅行者の多そうな、雰囲気のいい酒場を探しましょうよ」
 エルヤは言って、幾つかの酒場を試しに覗きまわった。最後の酒場を覗き込むと、ちょうど旅人風の男が、くびれを持った楕円の胴に直線の棹が付いた撥弦楽器を演奏し、客達はそれに聞き入っていた。その見事な演奏に魅せられて、二人は店内にそっと入った。
 楽器を演奏している男はまだ若く、短い黒髪に褐色の肌をしていた。薄汚れた四角い布の帽子を被り、生成りのシャツの上には丈の短い袖なしの上着を着ている。下のやや膨らんだ膝下丈の濃い色のズボンから下は、脛に粗末な刺繍の入った布を巻きつけ、ひどくくたびれた短靴を履いていた。服にはあちこちに継ぎが当たって、みすぼらしい。彼の持つ楽器も、あまりたいした作りには見えなかった。小振りな作りで、使用されている板材も薄そうだった。それでいて、人の耳をひきつける魅力的な音を出している。彼はピックを用いず、そのまま指先で弦を奏でた。糸巻きも木製で、棹にはいくつものフレットが付いていた。エルヤは、これだけフレットの多い楽器を見るのは初めてだった。
 彼が奏でる曲も、エルヤにとっては新しかった。それとともに、東州から西州へやって来たんだという実感が強くなる。曲はゆったりとした拍子で、いくつもの細かい音が巧みに繋ぎ合わされ、一つの長い音のように聞こえた。それは、きらきらと輝く小川のせせらぎを思わせる。のどかで、優しい印象だった。やがて曲は変調し、しだいに生き生きはつらつとした拍子に変わっていく。装飾的な音が主旋律にあわさり、いかにも楽しく賑やかだ。最後に再び変調する。旋律は繊細な調べに変わり、静かな哀愁を漂わせた。
 演奏が終わると、酒場一杯に彼を褒め称える声と拍手が溢れる。エルヤとエカルも、その奏者に惜しみない拍手を送った。エルヤにいたっては、強い賞賛の念も覚えた。
 若い楽士は椅子から立ち上がり、拍手に応え帽子を取ってお辞儀をする。その時、客達の間にはっとした緊張が広がった。帽子を取った楽士の頭の両側には、羊のそれに似た小さな角が付いていたからである。拍手はまばらになり、やがて消えてしまった。人々の間に気まずい空気が流れたが、楽士はまるで気づかない振りをして、手に取った帽子を持って客達の間を回る。客達も盛大な拍手を送った手前、今さら無視を決め込むわけにもいかず、楽士の帽子に銅貨を何枚も投げ込んだ。そうするうちに、客達の緊張も解きほぐれていったようだ。中には、ちょっと少なかったからと言って、楽士の後を追いかけて銅貨を追加で与える客も出てきた。
――良い演奏をすれば、たとえ異人でも認めてもらえるんだわ。
 エルヤはその様子を見て、しみじみとそう感じた。
 楽士は一番後ろの客から心付けを受け取り、顔を上げた。彼の前には、真っ白な肌を持つ異人の娘が粗末な竪琴を手に、佇んでいた。
 エルヤはなけなしの所持金の中から銅貨を数枚取り出し、彼の帽子に投げ入れる。楽士はエルヤの目を見て、にいっと口をゆがめた。幾人かの客が、後ろを振り返って呆然としている。彼らはエルヤの姿を認めて驚いていたのである。客達からすれば、二度目の驚きであった。
「俺はもう終わったよ、竪琴弾きさん。次はお前さんの番だ」
 楽士が言う。その言葉で全ての客の視線がエルヤに集まった。しかし客達はざわめいて、各々自分の椅子を持って元のテーブルに帰りだす。エルヤは小さく笑って、肩をすくめて見せた。
「お客さん達、今日はもう十分みたい」
 楽士は店内を振り返って、軽く舌打ちをする。
「俺、あんたになんか悪いことしたみたいだな」
「あら、そんなことないわ。後から来たのは、私達だもの。ところで、あなたってもしかして、ヴァズヒルって名前?」
「そういうあんたは、もしかしてエルヤって名前?」
 楽士はエルヤの口調を真似て答える。布袋の中に帽子の銅貨を空けると、帽子をズボンのポケットに突っ込んだ。
「私達は、夕食にするわ。よかったら、一緒にどう?」
 エルヤはヴァズヒルに言って、酒場の隅に空いていたテーブルへと足を運ぶ。
「俺はもう済ませた後だよ。んでも、自分と同じ旅回りの異人に会うことは、めったにねぇ。飲み物を奢らせてくれ。連れのかわいこちゃんにも」
「ええ。喜んで」
 かわいこちゃん呼ばわりされたエカルの方は、少々むっとした表情になる。
 エルヤはテーブルについたが、給仕が注文を取りに来る気配はない。楽器を手にして、エルヤのテーブルに移ったヴァズヒルが言った。
「異人は、セルフサービスさ」
「不親切ね。エカル、悪いけど行ってきてくれない?」
 エカルは椅子に荷物を置いて、エルヤに尋ねた。
「何が食べたい?」
「あなたの食べたいものでいいわ。はい、お財布」
 エカルは財布を受け取ると、夕食を得るために店のカウンターへと去っていく。ヴァズヒルも、エカルの後を追っていった。まもなく、二人は食べ物と飲み物を持って戻ってくる。肉団子の揚げ物と雑炊、サラダにお茶だった。
「俺は酒が飲めないもんでね。これは西州ジュルガ名物の黄茶。旅の疲れを取るには、こいつが最高だよ」
「初めて飲むわ」
 酒を期待していたエルヤはちょっとがっかりしたが、お茶を受け取り一口飲んでみた。さわやかな甘みが口の中に広がる。
「おいしい」
「そりゃ、よかった」
 ヴァズヒルは微笑んで椅子に腰掛ける。エカルは早速食事を始めていた。もちろん、姉の目を恐れて、彼は行儀良く食べた。ヴァズヒルは、エルヤの顔や手をしげしげと眺めた。
「エルヤ、お前さんはどこの生まれなんだ? 俺はあんたみたいな種族を見るのは、初めてだ」
「東州のはるか南。私達、異人の中でも珍しい種類みたいね。人間の世界に来てから、初めて知ったわ。ヴァズヒル、あなたはどこの生まれなの? 北の大陸には、たくさんの有角人が住んでいると聞くわ」
 ヴァズヒルは皮肉な笑みを浮かべた。
「そうなんだ。北の大陸じゃあ、有角人が『人間』を名乗り、ここいらみたいな連中は『角なし』とか『半人間』と蔑まれていんのさ。『人間』の下位種族扱いさ。でも俺は、西州生まれだぁ。俺のお袋は生粋の有角人で、旅回りの芸人だった。とある村に立ち寄った時に、俺の親父と出会って、俺が生まれた」
「え、じゃあ、あなたのお父さんって、人間? えっと、つまり角なし?」
「おうよ。俺は有角人と角なしの混血さ。俺の生まれた村では、当然お袋や俺は異人扱いだ。親父が生きている間はまだマシだったが、病死した後は地獄だった。俺は嫌気がさして、村を飛び出したんだ。お袋も誘ったんだが、親父の墓から離れたくないと言ったんで、結局俺は一人で旅立った。俺はお袋ほど強くはなれねぇ。で、自分の居場所を求めて、北の大陸に行ってみたんだ」
 彼の笑みに自虐的なものが加わる。
「そこでも俺は落ち着けなかった。俺の角を見れば、奴らは俺が純血でないことがすぐに分かるらしいぜぇ。俺は穢れた血と呼ばれて、結局扱いは西州と変わらずさ。それに、北の大陸で角なし達も同じように蔑まれているのを見て、やっぱり嫌気がさしてしまった。そんな感じで、西州に戻ってきたんだ」
「そう……。じゃあ、あなたは湾岸地方でもそれなりに苦労したのね」
「他の異人にゃ、まだ居心地がいいだろうが、俺みたいな有角人はな」
 ヴァズヒルは言って、シャツを胸までたくし上げて見せた。彼の痩せた身体には、まだ生々しいいくつもの痣や傷痕が付いていた。
「湾岸地方は北の大陸を行き来している奴が多いから、船乗り達は有角人を目の敵にしてるのさ。俺みたいなのが一人でうろついていたら、それこそいい餌食だぜ。袋叩きはもうごめんさ。ようやっと湾岸地方を離れて、ほっとしてらぁ。指と腕をやられなくて、本当によかったよ」
 エルヤはため息をつく。ヴァズヒルも深い息を吐いて、茶で咽を湿らせた。
「そうだ。東州なら、まだ風当たりは弱いかもしれないわよ。場所によっては、有角人が憧れの対象になっているところもある」
「へぇ! 東州とは気が付かなかった。灯台下暗しだな。でも、憧れと軽蔑は紙一重だぜ。気をつけねぇと。俺にとっちゃ、この世で確かなものは、これだけだ」
 ヴァズヒルは楽器の弦で、綺麗な和音を爪弾いてみせる。エルヤは肉団子をつまみながら、彼のその楽器に目をやった。ヴァズヒルも、エルヤの竪琴に興味を持ったようだった。
「俺のは、フィーベっていうんだ。西州じゃ、よく見る楽器の一つさ。それにしてもあんたの竪琴、随分素朴な作りをしているな」
 そこで二人は、互いの楽器を交換した。ヴァズヒルはエルヤの竪琴をしげしげと眺め、五弦の音を調べると、即興で小曲を奏でる。エルヤは思わずうっとりと聞き入ってしまった。あの竪琴は、あんなにいい音を出せたんだろうか。弾き手の力量を思い知らされてしまう。
「なあ、あんた歌人だろ? 短いのでいいからさ、一曲聞かせてくれよ」
 ヴァズヒルの申し出に、エルヤは彼の楽器を返しながら思わず難しい顔をしてしまった。
「私ね、三流なのよ……。むしろあなたに弾き方を教えてもらいたいくらい」
「声質は、すごくいいと思うぜ。ま、無理強いはしねぇけどさ」
「うーん……せっかくだし、一曲歌うわ。こんな機会めったにないものね。そのかわり、うそのない感想を言ってちょうだいね」
 エルヤは竪琴をかまえ、東州で広く知られている短い神話の歌物語を、共通語で歌った。ヴァズヒルは真面目な様子で耳を傾けていたが、曲が終わると一度深く唸り、何かを考える仕草のまま黙りこんでしまった。
「ちょっとぉ。一言くらい何か言ってちょうだいよ……」
 エルヤは恥ずかしくなって、サラダをやけくそに頬張る。しばらくして、ヴァズヒルはもう一度唸った。
「一見下手に聞こえるけど、ただの下手じゃねぇな……。素人相手にゃ、そこそこな力量だがよ」
「なにそれ」
「うまく言えねぇ。なんか歌が、手負いって感じがする。未熟なんじゃなくってな」
「言ってること、私にはちょっと難しい……」
「少なくとも、竪琴の技巧の方はまだまだ甘ぇな」
「それは、納得……」
 エルヤはしょげ返る。すると、今までずっと食べてばかりだったエカルが、エルヤに言った。
「姉貴、踊りは? 俺、姉貴は絶対踊りの方が才能あると思うんだ。ナムウィリクでの剣舞はすごかった」
「踊りには、いろいろ嫌な思い出があるのよ」
「あんた、歌だけじゃなくて、踊りもやるのか?」
 エルヤは首を振った。
「そっちはとうの昔に、廃業したわ」
 それでも、エルヤの耳にフッと、先程のヴァズヒルの演奏に送られた盛大な拍手の音が思い出された。彼女は椅子に横座りになり、長い右足を床と平行にまっすぐ伸ばしてみた。それから立ち上がり、軽くステップを踏んでみる。
「踊ってみようかな……」
「その気になったんなら、俺が伴奏をするぜ」
「どんな曲?」
「どんなのがいい? 緩やかめか、それともちっと激しくてもいけるか?」
 ヴァズヒルは試しに幾つかの曲を弾いてみせる。エルヤは中テンポの曲を選んだ。ヴァズヒルは、それを一度最後まで弾いて聞かせる。エルヤはすっかり乗り気になってきた。踊りでこんなにうきうきするのは、久しくなかったことだ。
「それで行きましょう」
「よし」
 ヴァズヒルは楽器を持って、先程彼が演奏していた酒場の空きスペースへと椅子を運んでいく。
「姉貴」
 エカルが口を挟む。
「足、大丈夫なのか?」
「大丈夫。足はあんまり使わずに踊る」
 エルヤも竪琴を椅子に残して、ヴァズヒルの後を追った。
 二人が位置を整え、それぞれ体を構えると、酒場の客の幾人かがこちらを興味深そうに振り返った。それでも大半の客は、知らない振りを決め込んでいる。それでも二人は構わなかった。ヴァズヒルが弦を指で弾き、静かに曲を始めた。エルヤもまた、ゆっくりと舞い始めた。
 曲はやがて、拍子を早める。エルヤは、ほとんど足を上げることもなく、上半身のみで踊っていた。長身の彼女の姿は、とても形よく見えた。始めはどこかぎこちなかった動作も、やがてなめらかになっていく。彼女の長い腕は指先までしなやかにうねり、風に流れる柳を思い出させた。彼女は胴と手と指、首の動きで、星や月、川や風を表現して見せる。しかし、眩い金髪を結い上げた彼女の白い顔は、まるで太陽のようだった。
 ナムウィリクでの激しい剣舞しか見たことのないエカルは、この静かで艶やかな舞に意表を突かれた。彼は感心して食事を中断し、椅子を静かに滑らせて、エルヤの姿が見やすい位置に移る。すると、周りの客達もエカルと同じように、椅子を滑らせていた。
 エルヤは片足をにじらせ、ときどき右足を軸にして軽やかに旋回する。スカートが、綺麗に開いて彼女の足にまとわり付く。その大きな動きが、上半身のみの静的な舞にアクセントをつける。
 と、エルヤの動きが少し乱れた。ヴァズヒルの演奏のためだった。真剣な目で踊り子の舞を追っていた彼が、いきなり即興の旋律を挟んだのである。しかし、エルヤはすぐに持ち直し、舞を旋律にあわせる。ヴァズヒルの演奏は完璧だったし、エルヤの舞も異国情緒に溢れ、人々の心を強く惹き付けた。
 ヴァズヒルの即興演奏はまだ続いていた。そのうち、彼の曲調は大きく変わっていった。彼はじっとエルヤの舞を見極め、彼女の舞からその身体に隠された旋律を探し当てようとしていた。そうするうちに、旋律は東州のものでも西州のものでもないものになっていた。もっともそれが分かるのは、エカルだけだった。彼は姉が時々一人竪琴で奏でている曲に、似ていると思った。ヴァズヒルの指は信じがたい素早さで弦を爪弾き、見事なビブラートを利かせ、さらには巧みに音を滑らせてすばらしい音色を紡ぎだしていた。
 自分で招いた旋律かつ、自らが弾いているに他ならない旋律のはずなのに、ヴァズヒルの顔に戸惑ったものが浮ぶ。対照的にエルヤの顔つきは、夢を見ているような恍惚としたものに変わっていた。舞は旋律にますますその動きを磨かれて、人々の心に大きな感動を呼び覚ます。
 もはや、始めの打ち合わせのように、曲を元の旋律に戻すのは不可能だった。旋律は、弾きはじめとはまったく異質なものに、変わっていたのである。ヴァズヒルは踊り子の様子を後ろから眺めながら、そろそろ引き際だと判断した。
「次のリフレインで決めるぜ」
 楽士は踊り子に囁く。そして、舞は見事な終わりを迎える。エルヤはその場にうずくまるようにして、最後のポーズを決めた。ヴァズヒルが深い息をつきつつぐったりとうな垂れるとともに、酒場にわっと歓声が溢れる。
 ヴァズヒルはすかさず、ポケットにねじ込んでいた帽子を、エカルの方へと放った。エカルは受け取ると、客達の間に帽子を回す。あっという間に、帽子の底が抜けてしまいそうなほどのたくさんの銅貨が集まった。
 エルヤは夢から覚めて立ち上がろうとしたが、よろめいて尻餅をついてしまう。そして尻餅をついたまま、信じられないものを見るように盛大な拍手を送る観客達を見回した。酒場には、彼女に注目していない者はいなかった。料理人までが厨房から出てきて、彼女の舞を見ていたのである。
「大丈夫か」
 ヴァズヒルが後ろからエルヤの腕を取った。
「平気。久しぶりだったから、ちょっと目が回ったの」
「今日はこれで本当におしまいだよ」
 ヴァズヒルは客達に怒鳴る。エカルが重たくなった帽子を抱えて、二人の元にやって来た。エルヤは左足を心持ちひきずりながら、自分のテーブルに帰りかけていた。
「姉貴、足大丈夫か?」
「どうしたんだ」
「姉貴は、左足を怪我しているんだ」
「おい、それを先に言えよ!」
 ヴァズヒルがエルヤを叱る。彼女は満面の笑顔で首を振った。
「ごめん。でも、ものすごく楽しかった。それにしても打ち合わせと違ったじゃない。あせっちゃったよ。大人しい羊ちゃんの角を生やしてるのに、あなた結構いい性格してるわねぇ」
「俺はちょいちょい、邪妖精にそそのかされるのさ。竪琴弾きさん」
 ヴァズヒルはどこか浮かない顔で答えた。三人はテーブルに戻り、集まった銅貨を山分けにすることにした。ヴァズヒルは、エルヤに七割を取るように言い張った。
「主役はお前さんだったんだよ。俺のフィーベはあくまで添え物さ」
「そんなことない。あなたの演奏もすごかった」
 二人が押し問答をしていると、給仕の女の子が盃を二つ持ってやって来て、テーブルの上に置いた。
「あちらのお客様が、すばらしい舞と演奏をありがとうと」
 エルヤは驚いて、女の子が指差した客に目をやった。客達の様子は、最初の冷たい態度とは、まったく正反対になっていた。彼女は差し入れてくれた客に向かって盃を上げると、一気に飲み干した。井戸水で冷やした酒だった。舞で火照った身体には嬉しい。ヴァズヒルは礼儀から一口だけ口をつけたが、残りを持て余していた。エルヤを見ると、飲み足りなそうにしている。彼が盃をエルヤの方によこすと、彼女は喜んで二杯目も空けた。ヴァズヒルはこの隙に、エルヤの取り分の銅貨を、エカルの方へと押しやった。
「あんたの舞を見ているうちに、俺は自分のまったく知らない曲を弾いていた。三、二、二、五拍か……。独特だな。途中でフレットのない楽器に、取り替えたくなったよ」
 ヴァズヒルが考え込むようにして言った。エルヤは微笑んで、目頭を押さえた。彼女の瞳には、薄い涙の膜が張っていた。
「私には、懐かしい拍子だった。疲れたでしょう? でもあなた天才だわ。聞いたこともない曲を弾けるなんて」
「あんたの舞の表現力が、優れていたのさ。で、俺が弾いたのは、一体全体どこの曲なんだ?」
「遥か南方の国々のものよ。今では、すっかり絶えてしまったけど……」
「そうなのか。さっきの曲、俺のレパートリーに加えてもいいか?」
「もちろん。あの曲は、あなたが作曲したものだもの」
 それでも、ヴァズヒルの表情は晴れなかった。
「俺は、お前さんにまずいことをやらせちまったかもなぁ……」
「どういうこと?」
 エルヤは残りのサラダを平らげながら、首をかしげる。
「うますぎる。あれくらいなら、貴族や王族の前で舞っても、遜色ないんじゃねぇかな。……ここいらで異人が下手に目立ったら命取りだ。高度な芸の才能を持つ、珍しい人種の異人の女なんて、奴隷商人があんたを見つけたら、飛び上がって喜ぶぜ。あんたは、舞わない方がいいかもしれねぇ」
「私が舞をやめたのは、一つにはいい奏者がいなかったからというのもあるのよ」
「それ、俺を口説いてんのかぁ?」
 ヴァズヒルは笑った。エルヤもつられて微笑んだが、すぐに寂しげな表情を見せた。
「私とあなたが組んだら、きっと西州で有名になれたでしょうね。でも、一緒には行けないのよね。私は湾岸地方に行かなきゃ、危ないし」
「俺は、フチに行く。久しぶりに、お袋の顔を見によ。それから先はどうするか、まだ決めてねぇ。多分、また旅立つことになるんだろう。一度自分の目で、東州を見てみたいしな。縁があれば、きっとまた会うさ。さて……と」
 エルヤとエカルは、ささやかな夕食を終えていた。酒場の客も、まばらになってきている。
「そろそろ帰った方が良さそうだな。どこの宿に泊まってんだ? 送ってく」
「あら、大丈夫よ。エカルが付いているもの。あなたこそ、一人で大丈夫なの?」
 ヴァズヒルは帽子を被り、片目を閉じてみせた。
「これで俺はどこから見ても『人間』だ。あんたら、自分が女に子どもってことを忘れてねぇか? 確かにそっちの僕ちゃんは、俺より腕っ節が強そうだけどさ」
「頼むから俺の名前を覚えてくれよ……」
 エカルがため息混じりに顔をしかめる。
 エルヤは、ありがたくヴァズヒルの申し出を受けることにした。宿の前まで来ると、エルヤとヴァズヒルは抱擁を交わした。
「良い旅を」
「あなたに幸運を。今夜は本当に楽しかったわ。ありがとう」
「こちらこそ。貴重な体験をさせてもらった。ありがとな」
 それからヴァズヒルは、すんなりとエルヤから体を離すと、軽く手を振って夜道を小走りに走り去った。エルヤは後姿をずっと見送ったが、少ししてしゅんと鼻を鳴らす。エカルは義姉の肩に、そっと手を置いた。
「あいつ、俺達よりも別れに慣れてるみたいだね」
「そうね。私はなかなか慣れないわ……。特にああいう出会いはね……」
「さあ、もう休もう。姉貴も、踊って疲れてるだろ。明日も人通りが多くなる前に、出発しないと」
「そうね。ああ……。早くまた、海が見てみたいわね。陸中海のあの青い海を」
「俺もだよ。さ、入ろう」
 湾岸地方までの道のりは、まだ長い。

羊角の楽士 - 完 -