錆湖求歌
幼い日々の悪夢。黒い空の下、赤い泥の道をのろのろと、形成さぬ物の怪に追われながら走った。黄色い目玉が朝日の代わりに昇り、いつまでもこちらを見つめ続けている。忌まわしい真実が、現を脱ぎ捨てむき出しになって現れた世界。
長じれば、これらの夢も彼女の中から果てた。まるで井戸が枯れたかのように。まれに再びこの悪夢に迷い込むことがあったとしても、はや恐れるものではなかった。世を知らぬ幼い魂が恐怖で潤した夢も、乾ききった。
彼女は赤い湖の畔に膝をつき、文字を書きつけた木の葉を水に浮かべる。
真に恐ろしいのは、現に夢が沁むこと。それは真実に名を借りた現実が突きつける絶望ではなく、虚に巻き取られていく狂気である。
彼女には名があったが、その名を呼ぶ者は今ではほとんどいなかった。春に湖畔を歩けば、野花の咲き乱れる中に腰を下ろし、対岸から吹く風にひとり耳を澄ませた。ごうごうと風が鳴り、ひとつの言葉も運んでこないようであれば、彼女は再び腰を上げ、荒れ果てた屋敷へと戻る。
ある日その目に一輪の白い花が入る。夕の閉じかけた白い花弁。中央に覗き見える花蕊に、動かない天道虫の艶やかな背がある。花の棺ほど美しいものはない。
その赤い湖は錆湖と呼ばれている。
湖底が深くなるにつれ水は青みを増すが、夕ほどの鮮やかさではない。水が打ち寄せる浜は赤茶けた色に砂も岩も染まり、岩は月日とともにその色を深めてきた。砂は岩の根を削っては湖に帰っていく。最初に水が赤かったのか、砂が赤かったのか、気にかける者はいなかった。名の由来も、その赤茶けた鈍い色ではなく、深みの澄んだ青色からだとも伝えられる。
湖畔の館に住む彼女にとっては、幼い頃より馴染みの風景であり、この世に唯一与えられた住処であった。湖畔の南東部はすぐ背後に山が迫る閉ざされた土地ゆえに、昔から都に暮らす貴人達が、妾やその子どもらを住まわせるのに好んだ場所だった。大きな屋敷が湖畔近くの林に点在し、その他は田畑と農家である。村人達は屋敷の者達の世話をすることを副収入とし、均衡の取れた関係を結んでいた。
彼女の幼い頃は、母の元へ都からの便りや細々とした品物がよく届いていたようである。それに代わり、不穏な噂が山を越えてこの農村へ届くようになると、まもなく都からの連絡は途絶えた。林に建つ多くの屋敷も、この頃から落ちぶれていった。
格子戸の紙は破れ、外回りの廊下は落葉に埋もれている。建具の多くはずっと昔に持ち去られており、湖からの冷たい風を防ぐものはない。彼女の寝所は、台所奥の貯蔵倉だった。
いつものように倉から表へ出ると、鍋に残った冷えた粥を口にする。秋の間に葉を落とした木々も、その枝にほころび始めた芽をつけている。彼女は屋敷の一部屋に座して、幾つかの書簡を清書する。村人達から頼まれる手紙の代筆や代読が、今の彼女の生活を支えていた。
時折、鈍った筆の先を小刀で削る。湖からの風が彼女のいる部屋を吹き過ぎ、枯れた葉がかさかさと書台の向こうを横切った。目で追えば、枯葉は中庭を囲む回廊へ出て、そのまま下へ落ちる。中庭に面する、亡兄の部屋の格子戸が目に入った。格子戸には書き損じの紙や布を張り付け、風雨から室内のものを守らせている。いくらかの貴重なものを、彼女はその部屋にまとめていた。その多くは書物である。病弱で床から離れられる時も限られていた兄にとって、書物はこの世を教えてくれるものであったらしい。彼女は兄が亡くなった夜のことを、よく覚えている。
一人小道を行く彼女の耳の脇を、羽音が掠める。と思うと片腕に何かが触れ、背後で、ジュッという鳴声と軽い物が石畳に落ちた音、そして地面をかする羽音が重なった。彼女はすぐに半身ほど振り返る。
館からの明かりがかすかに届いて、道は薄ぼんやりと闇に浮かんでいたが、彼女の視線の先はコブシの影が黒々と落ちて、何も見ることはできず、道の上は静かだった。恐らくあの蝉は、彼女が振り返る一瞬前にその生涯を終えたのだろう。
——私もあのぐらい、綺麗に終わることができればいいが。
再び道を歩み始めた彼女は、思いをめぐらせる。都からの便りは絶えて久しく、一方で守るべき掟は生き続けている。村から出ることを許されない自分達に、先は見えていた。ただ過ぎていく日々を重ね、邪魔しうるものがなければ、そのまま老い朽ちていくのみである。
彼女は中庭を巡り、小さな池の側に立つ。夜も遅い館はいくつもの足音が走り、人の声はひそやかで重かった。館を見やれば、開け放たれた建具の向こうに、兄の傍らに座る母の姿が見えた。泣いてはいないようであった。背はまっすぐに伸び、頭は雨に打たれた花のようにうな垂れて、じっと動かない。兄が丸一日前に食べたものをそのまま吐き戻し、それを最後に身体が水すら受け付けなくなった時から、母はああして側に座し、彼女以外の者を近づけなかった。
人は徐々に死に逝くものだと、彼女は兄の体内から立ち昇る匂いによって知った。弱々しい呼吸の下から彼女が嗅ぎ取った匂いは、先立って死んだ内臓が腐りはじめた証である。医師が兄の治療を全てやめたのも、この漂い始めた死臭の為だった。
兄の最後には彼女も立ち会ったが、彼女はただ見ていることしかできなかった。喉を鳴らす苦しげな息とともに、衰弱しきっていたはずの身体がすさまじい力で弓なりに仰け反り、痙攣していた。母は気丈にも、側で声をかけながら身体をさすり続けた。もう僅かの辛抱だと、兄の名を呼ぶ間に繰り返していた。彼女には、果たしてその声が届いているかどうか疑わしかった。それから途端に静かになり、彼女は兄がとうとう亡くなったかと思ったが、再び強い痙攣が起きた。そして、それが最後だった。
母の時のことは、不思議と記憶は薄い。それは突然で、安らかであったからかもしれない。一人になった彼女が、あとの段取りを全て切り盛りしなくてはならなかった忙しさも、あったかもしれない。彼女も十分に大人になっていて、覚悟は出来ていた。逆に兄の時のことをよく覚えているのは、若い心で見た死の静かな壮絶さと、母と二人で共にした時間の為かもしれない。二人きりになってしまったと、寂しげに笑う母の横顔は今も明らかである。
緩やかな日差しが紙の上に落ちている。彼女は二、三度瞬きをし、面を上げた。閉ざされようとする過去の隙間から、悪夢が手を出してそれを拒もうとする。その手は黒く、文字で出来ている。彼女はすっくと立ち上がり、明るい日の下へ走り出る。湖へと向かって。
片手にはまだ筆を握ったままだった。それに気づいても館に戻る気になれず、冷たく湿った日陰の道を下り、彼女は湖の畔へと出た。薄い空の色の下に深く青ずんだ水底が横たわり、手前に水内際の赤色が重なって見える。様々な絵師らの筆によって繰り返し描かれる湖も、昼前の刻の姿を描かれることは無い。明るい日の光に、深みの青色が白茶けるからだろう。時に興ざめを表す言葉として、「昼の錆池」という言い回しがあるくらいだ。
彼女は畔の岩場に腰をあずけ、湖から吹く風にきつく縛っていた髪をほどいた。手を伸ばし、触れた多羅葉の葉を一枚拾い上げる。筆の先で、短い呼び歌を葉の裏に書き付ける。
——あおいろふし
意味があるようで無いのかもしれない。「あおいろうし」なのかもしれぬ。古くから湖の畔で歌われる詞は、いつもこのひと続きの言葉から始まるという。あるいは、この言葉に続くものだという。聞く者は耳を澄まし、この音を捉えねばならない。歌がいつ始まるのかは歌い手次第であり、故に、自分の聞いた音が、言葉のはじめか中なのか、知る術はない。広い湖の畔で、運良く歌い手に巡り合えても、その歌い手すらも知らないことが多いのだ。歌い手は、湖の周りに無数にいる。彼らは交互に一音を紡いでいく。言葉の用意があれば、聞き手も歌い手になることがある。湖の向こうからひとつの音が歌われるのを聞けば、それが消えるのを待って別の歌い手が次の音を歌う。ただ一人が歌い継ぐ時もあれば、二つ三つの音が重なる時もある。
あまりに古くからある湖越しの歌遊びは、いつの間にか多くの暗黙の取り決めが自然と生まれている。湖畔に点在する村々は幾多あれ、互いに交流が限られているともひとつの歌遊びを日々共有していることは、面白くもあった。
歌に使われる音は、「あおいろふし」の呼び歌を造る音のうち、「し」以外が歌われることはまずない。もし使えば、あらゆる詞はそこから呼び歌に引き戻されてしまう。「あ」の次には「お」、「お」の次には「い」が必ず歌われるのだから。それ以外の音を敢えて続けるのは「呼び歌崩し」であり、呼び歌の音が繰り返されることで、いつまでも呼び歌から次の句に行けないことを「音虜」という。
彼女にとって、始まりも終わりも定かでないこの歌遊びは、村の館に住まう者達の、行き場も無く留まり続けるしかない身の上から生まれたように思われた。
葉に筆を構えたまま、彼女は耳を澄ませ続ける。最初の音を捉え損ねたら、後に残るのは母音ばかりとなってしまう。これは湖畔での歌遊びに潜む、音虜の罠だ。歌い手には鋭い耳も必要なのだ。あるいは、今まで歌われた言葉から、聞き逃した子音を推測するだけの語彙も。
湖のどこかで放たれた音を捉え、ものに書き付けるのが彼女の湖での過ごし方だった。多くはどんなに書き連ねてみても、意味のある言葉にはならない。次を引き継ぐ歌い手が、前の歌い手が現そうとした言葉を成す音を正しく継ぐことはまれであったし、同じ歌い手が二音三音と続けることもあまりなかった。自分の歌おうとする言葉に執着するのは、無粋とされていた。
あおいろふし——
なみくもしつみさら(あ)られ——
音をひとつ聞き逃した。「あ」の所は何だったのだろうか。「あ」の次の歌い手は正しく聞き取れたのか、それとも「呼び歌崩し」をしたのだろうか。
こうしているうちは何も恐れる必要も無く、彼女の乱れた心もいつの間にか静かになる。細身の葉にこれ以上書ききれなくなり、彼女は新しい葉を求めて身をかがめる。その目に、濃い紅の花が入る。
花の姿に眩暈を感じて、彼女は岩から腰を上げた。その花にまつわるあらゆる言葉が、瞼の裏にちらついた。よろめきながら来た道を戻り、館の高床に足をかける。柔らかくなった床板がその下で深くたわみ、二つに折れた。彼女は身体の均衡を崩し、廊下に両手をつく。床の上に這い上ると、ぐったりと暫く頭を落としたままになる。
夕近くに彼女は村に出て、書き上げた書面と引き換えにわずかな穀物を得た。手紙主は去り際に、余所者が来ているから今夜は用心をするようにと彼女に伝える。彼女は頷き、再び湖へと足を向ける。畔でいくらか菜を摘み、夕食に添えようと思った。
淡く燃えはじめた空の下で、湖は鮮やかな青色に変わっていた。歌もまだ湖の上にあったが、昼に聞いた声色とはいずれも違う。知った声色がないかと耳を澄ませていたいが、宵前に食事を終えねばならない。黄檗の下、生え始めの野草を摘む。茂みは暗い。手折って夕の日差しに当てては、食べられるものか見極める。歌は遠く、ほとんどその音は聞き分けられない。ところがそのうちに、近くではっきりと、強く発せられた音が響く。彼女は意外に思いながら、湖へ顔を向けた。この時間、この農村から歌い手が現れることは無かったからである。
菖蒲と蓮の向こう、土手の柳下に、ほの白い人影がひとつあった。暗闇に溶けきることのない明るい髪と瞳と肌を持ち、そのいずれもが、夕刻の光と、それに応えて湖が返した青い光に染まっている。それが人とは異なる人であると彼女が気づいたとき、またあの眩暈が来る気配がした。彼女は眩暈を振り切るように茂みの影から出て、歌い手を注視した。
立膝をつき、顎をそらせた歌い手は、笛のように喉を鳴らしていた。歌われた音はひとつで、歌い手の息が続く限り続いた。
彼女は魅せられ、放たれた音を耳で追う。視線は湖へと動いた。最初に放たれた一瞬は言葉の一片であったはずだが、今やそれはただの一音と成り湖に沈みつつあった。
歌い手の唇はわずかに開き、ひそめた眉の下に瞳は閉じて、湖が飲み込んだ一音の尾が消えいくのを聞き届けようとしている。澄ました耳に、湖のさざなみは無音に等しく、やがて遠くから、放たれた新しい一音が届く。湖畔のどこかで別の歌い手が音を継いだのだ。
視線を戻せば、柳の下の歌い手は頭を垂れていた。首も胴もほっそりとして、異様に長い。右の肩口が黒々と濡れている。暫くして歌い手は静かに面を上げた。幽鬼のように白く、美しかった。男には見えないが、女とも知れない。歌い手は立てていた片膝を崩し、身を起こす。立ちきると倒れこむのを押し留めるように、片足を一歩前に出して静止する。やがてゆっくりと身を反し、一時彼女の方へ顔を向けたようにも見えたが、土手を登って林の影に消えた。村人が余所者と言ったのは、あの歌い手のことだったのだろう。
彼女の視線は歌い手の消えた林に、不確かな気持ちで残される。あの姿は、言葉だけでなら知っている気がした。彼女は柳の下へと歩み寄る。歌い手のいた場所に、竪琴が残されていた。弦は切れていて、取り上げようとした指先に冷たいものが触れる。彼女は柳の下から水内際へ出て、濡れた指先を合わせる。やはりあの歌い手は、手負いだったらしい。山賊にでも襲われたのか。湖の西には、彼らの住処があり、時には獲物を追って村の近くまでやって来る。夜になると農具を武器に見回りに出かける若者達は、彼らを村の中に入れない為だ。しかしこの若者達も、身寄りの無さそうな貧しい身なりの旅人を狙い、殺して金品を奪うことがある。貧しく希望に乏しいこの村で、若者達はあらゆるものに飢えていた。
彼女は指を湖につけて洗い流し、歌い手の楽器を残して館へと戻った。
食事を終え床に入る前に、彼女は亡兄の部屋の戸を開けた。山向こうに日が隠れ、空には月が明るい。戸を開け放てば、灯りがなくともいくらか見える。部屋のものは埃を被り、彼女はその始末に悩んでいた。
生まれながらにして虚弱故に、短すぎはしなかったがさして長くもなかった人生の中で、寝台を離れることができた時間はわずかである。それでも家庭に唯一の男子であった彼が生きている間は、母と彼女の地位を保証し、家の主としてその勤めを果たしていた。十数年前の夏の終わりに短い病で儚くなった時、彼女が最初の涙を枯らしてすぐ気に留めなければならなかったのは、そのことだった。放心にあった母の代わりに彼女はこの部屋に入り、家を治めるべく書棚の前で兄の過去の仕事を学んだのである。しかしごく数年前まで、彼女は兄の私的な遺品に手を付けなかった。ことにある書棚の扉は、長い間硬く閉ざされたままでいた。扉の向こうには、重苦しい記憶しか眠っていない。
何をきっかけにこの書棚を開いたのだろうか。しかし開いたその時から、幼い頃の悪夢が正体を明かし、度々目の裏に立ち現れるようになった。
開けた書棚の扉には、亡兄の個人的な書き留めの束が当時のまま残されている。
彼は書物を通してしか外の世界を知ることができなかった。年の離れた妹を呼び寄せ、一くだりを読んで聞かせては、その言葉が指すものがどのようなものであるのか、問うた。彼女はそれに答え、手に入るものであれば側に持っていった。ところが彼は自身の経験の乏しさを恥じ、無知無心を嘆いた。彼は迫りつつある寿命の手前で、人生の全てを生きようとしていた。それは老い急いでいるようにも見えた。
古びた紙を注意深く広げると、見覚えのある筆跡が一面を覆っている。丁寧に書き留められた言葉は、様々な視点と感性に異なる色合いを見せながらも、一つのものを描き出そうとしていた。彼は知りたいものを知るために、あらゆる書から言葉を抜き出し記していた。
恐らくそれらの言葉の中心には疾風が、寒椿が、郷愁が、それと記されることなく隠れている。
書き留めの紙束は隣の扉にも及び、筆跡は徐々に弱々しいものに変わっていく。対して紙面を覆う言葉は、周りの文字に重なるほどひしめいて増えていた。病み疲れ弱った身体が精神まで蝕んできた頃、休むことなく書き綴られたものだった。自らが知らないもの感じたことのないものを、多くの賢人が残した言葉をして追い詰め捕らえようとした痕である。包囲は隙間無く、あまりに密な定義は本質を押しつぶし、貫いてなおそれに達しようと虚しく逡巡している。一枚ずつ紙を繰る度に、これらの包囲に書き潰された様々な形象の残骸が現れる。熟しきり誰にも収穫されなかった果実が地に落ちて、真っ黒に虫が集るがごとく。
破き裂かれた紙もある。正気に返ると、兄はこれらの紙をことごとく破いた。己の行為がどれだけ無意味か、知っていたのである。それでもその行為は、破いた破片を集め、糊で丁寧に継ぎ直すことに変わり、それに満足できなければ新たな紙に前と同じ様に書きつけるに終わる。
当時はただ見守っていただけだったが、それらの紙束も今では全て手にとり読み尽くした。館での限られた人生では決して見れぬもの、あるいは彼女の知る数少ない事柄が、千々なる言葉に分解されていた。紙面に焼き付けられた焦燥は、読み手に燃え移らんばかりの激しさを持っていた。
その中には確かに、異人にまつわる文を書きつけた紙もあったはずだ。一度破かれ、再び継がれていた。しかし見つからぬ。どこかよその棚に紛れてしまったのかもしれない。
彼女は深いため息と共に、忌まわしい紙束を元の棚に戻した。部屋を見回せば、目に映るもの全てその主をとうの昔に失い、存続の意味をなくしている。亡くなってその後数年、兄は夢の中では変わらず生きていたが、やがて夢の中でも死者となり、彼女もまたそれを当たり前として何事もなく目覚めるようになっていた。暇さえあればこの部屋で時を過ごしていた母も、夢の中でさえいつのまにか姿を消していた。
すべて捨て去ればいいものを、この紙束だけは無下に焼くことも出来ず、かといって紙束だけを残して他のものを処分する気にもなれない。忌まわしい紙束を封じておける書棚が必要であったし、それを隠している書棚が目に付かないよう、他の家具も置いていたかったからだ。
書棚の扉を閉めようと、取っ手に手をかけた時、彼女は背後の庭で物音を聞いた。人影がこちらに向かっている様子だった。彼女は静かに足を滑らせ、家具に守られた影の中を、部屋の奥へと隠れた。腰に下げた筆を研ぐための小刀を、そっと握りこむ。
暗くなりすぎてよくは見えなかったが、戸口に立ち、縦に異様に引き伸ばされた影は、湖の畔で見た歌い手だった。歌い手は辺りをうかがう様子も見せず、背をかがめて部屋に入り、迷うことなく書棚へ手を伸ばした。
——言葉に意味は無く、幾重に重ねても重みにはならない。魂が肉体に意味を与えるように、心が言葉に命を吹き込む。魂が肉体のみをその伴侶に選ぶのに、心は言葉だけをその現身として必要としているわけではない。言葉は時として真実を飲み込み、偽り、従順ではない。我が地はその魂をなくし心をなくし、色を失った。歌う言葉に命は無く、心を持つ者には響かない。されど、言葉の虚ろを解する者はいる。真空を捉えることは出来ぬが、それを包む形骸から知ることは出来る。鐘が響くのは何を以ってか。心を失っても、歌わねばならぬ言葉がある。音は響きであり、響きは耳のみで捉えるものではない。言葉は音だけにあらず、肉を通して魂を貫くこともあれば——
ばらばらのはずの文が、ひとつなぎとなって彼女の耳に届く。
山の峰の空は錆湖を思わせる、最後の輝きを赤く残す下端と、空の深みに光る星を含む深青の二色に分けられていた。館は一色の闇色に染まり、その中で歌い手の低い声が、亡兄の書き綴った一枚を、静かに読み上げていた。最後の陽光が空からも消えると、紙面の文字も闇に溶け消える。やがて痩せた顎が上を向き、白く長い喉が星空に伸びた。
「されこうべだとて、叩けばもっとよい音で歌うだろう」
最後にぽつりと歌い手は呟く。それから紙を手にしたまま戸口から一歩出て、床に座り中庭の土に足を下ろした。
彼女は用心深く隠れ場所から首を出し、相手の様子を伺う。困ったことに、相手はそこを動くつもりは無いらしい。頭を下げた長い背中が、戸口のすぐ向こうに見える。何か刃物を持っている様子は無く、一連の動作は緩慢で力が無かった。傷を負った肩には夕刻には見られなかった布切れを巻きつけており、それにも黒い染みを見て取ることが出来る。傷は深いと見えた。
彼女は姿勢を正し、どのようにも逃げ出せるよう自分の周りを確認する。そして、戸口の歌い手に向かって腹から声を上げた。
「何者だ。今すぐ出て行け」
歌い手の頭がぴくりと動き、振り向いた。しかしこう暗くなっては、彼女の姿は相手から見えないだろう。
「何をしている。出て行け。ここは私の家だ」
「申し訳なかった」
歌い手は答えた。
「この館を廃屋だと思い、断り無く上がりこんでしまった」
身をよじらせてこちらを向く歌い手の身体の線に、彼女は相手が人と異なる者であれ、少なくとも女であるらしいと知る。
深い傷を負っている上に女だと分かり、彼女は少し警戒を緩めた。けれども側へ近づく勇気は無い。あの歌い手を退かさなければ、部屋からは出られぬ。彼女は部屋に置いてある物を思い出しながら、周りを手で探る。頑丈な長い棒でもあればと願ったが、この部屋にないことは知っていた。
黙りこむわけにもいかず、往生際悪く床を探り続けながら、彼女は声を張り上げる。
「余所者を入れることはできない。他の館へ行け」
「この館に、私を呼ぶ気配があった」
彼女は手を止め、暗がりから歌い手に視線を据えた。
「気配と?」
歌い手は黙って、手にした紙を戸口へ差し出す。
彼女は仕方なく隠れ場所から出て、用心をしながら戸口越しに紙を受け取る。歌い手の両眼が、白い額の下で彼女に向けられている。彼女は紙をちらと見やる。
「もう暗くて。文字は読めない」
この紙には、異人についての言葉が書き付けられているのだろうか。けれども、先ほど歌い手が読んだ文面は、異人についてのものではないはずだ。
「我が地はその魂をなくし心をなくし、色を失った。歌う言葉に命は無く、心を持つ者には響かない。されど、言葉の虚ろを解する者はいる」
歌い手は庭に向き直り、低い声で節をつけた。
「このくだりは、私の故郷についての歌とそっくりだ。歌は、『色をなくし、心をなくし、魂を失った』だった。もしかしたら、歌の前に由来となる物語があったのかもしれない」
「兄は歌は知らなかったけど、よく書物を読んだから」
彼女は歌い手の背中をさっとかわして、部屋から出た。足早に去りながら、大声で言い捨てる。
「今夜は其処で休んでもいい。だが、その部屋にはもう入るな。金目のものはないし、汚されても困る。そして、日が昇る前に出て行くといい。明日になったら人を呼ぶ」
彼女は館を遠回りして、台所へ帰り着く。それから寝床にしている倉に入り、明かりを灯して用心深く中を窺った。倉には食料を並べていた棚以外には、母の遺品である鏡台と寝具しかない。けれども彼女は棚の奥を用心深く見やり、他に誰も潜んでいないのを確認し、ようやく安心する。倉の扉を閉ざし、横木を刺し通す。
一息ついて、懐に押し入れていた紙を鏡台の上に置いた。歌い手の言った言葉を探して、紙にひしめく黒い文字を目で追うが、文字は歪んで重なり合っている。紙を取り上げて明かりに透かせると、文字の綾模様は、紙の中心に向かって渦を巻いて並んでいる。じっと見つめていると、文字が中心へ向かって動き出すかのような錯覚すら覚える。結局、蝋燭一本の明かりで読み分けるのは困難だった。彼女は明かりを吹き消し、布団に入る。館にいる余所者を思うと、寝入ってよいものか不安だった。
ふと気がつくと、彼女は錆湖の畔に立っている。世界は暗いとも明るいとも分からず、目の前には赤い湖面と深みの青色を湛えた錆湖が広がっているだけである。辺りは静まり、かすかなさざなみが耳をくすぐる。風ではない。湖面は自ら動いている。
長い時の中で、この湖には多くの歌が沈んでいった。「あおいろふし」の言葉は、単調な節回しに乗って、幾重にも重なり湖底に染み込んだに違いない。風のない日に立つさざなみは、湖に沈んだ言葉が面に表れた印とも言われる。
振り返れば彼女の館が林の上にあり、在りし日の兄の姿と、幼い頃の自分の姿がある。
実際彼はよく自分の部屋で、錆湖の歌を聞いていた。同じ短い旋律が何度と終わりなく繰り返されるのを聞き、意味をなさぬ音が続くのを聞き、「この歌は何も歌わない」と嘆いたこともある。それでも飽きることなく耳を傾け続けていたのは、かの歌が無限の断片として湖にあると気づいていたからかもれない。
館の兄はいつも身につけていた寝着以外、容姿が判然としない。彼の姿は林に一度消え、再び現れた湖の畔で手にした紙を力なく放す。それは真っ直ぐ湖面に落ち、赤いさざ波に飲まれて消えた。
兄の後ろに立つ幼い自分は、不安な瞳を湖に据えている。二人の視線の先に、今しも水辺から若い龍の姿が上がる。鼻から火の粉を散らし、濡れた身体は瞬く間に霧をたち昇らせた。湖は歌を待っていた。
まぶたを開くと暗闇だった。先程のは夢だと知ったが、陰鬱な気怠さとともに茫漠な記憶に果てる。
彼女は再び起き出して、手探りで明かりを灯す。昨晩の書き留めが染みのように暗がりで浮かんだ。
——言葉自体は、幾重に重ねても重みにはならない。
言葉の渦の端に、ようやくその一文を見つけ、彼女は眉間を指で揉んだ。筆致は様々で、兄が月日を置いて何度も、この紙に新しい言葉を加えていったのが分かる。この一文を記す歪んだ文字は、晩年に差し掛かった頃のものだろう。
その昔、兄の残した紙束は、彼女にとって言葉で織り成された悪夢そのものだった。兄の精神を蝕んだ狂気に、この書き留めを通じて自身も巻かれていくように感じた。しかしそれから倍近く年を重ねた今では、その狂気も狂気ではなく、正気に根ざしたごく当たり前の感情として理解できる。正気であったからこその焦燥だったのだ。
彼女は紙の上の文字を辿り続けた。歌い手が最後に呟いた、「されこうべだとて」のくだりは、なかなか見当たらない。あれは歌い手自身が付け加えたものなのだろうか。だとしても、紙上にうごめく幾多もの言葉同様、そのくだりが他に増して重みを持つとは思えない。彼女は考えた末、その一文を紙面に書き付けてみることにする。余白はほとんど無く、散々迷いながら、とうとう彼女は唯一空いた紙面の中心、定義の真空に、筆の先を落とした。
激しい躊躇いの念が胸の内ではじける。彼女は息を詰め、最初の一筋を書き出した。刺すような後悔が一瞬よぎり、迷いを押し流して跡形もなく過ぎ去っていく。夜は白みかけていた。
書き上げると、彼女は背を伸ばして紙を見下ろす。あらゆる文字に滲む焦燥と苦悩は、冷えて静かになっていた。文字の渦が、緩みほどけていく。幾多もの書物や詩から抜き出され、ひとつの観念を縛りすくめる鎖の輪とされた言葉達が、その役目を見失い自由となっていた。歌い手がこの中心に与えた一くだりは、兄が捉えんとしたその観念を鋭く留め置きながらも、その先を行く意味も含んでいたのだ。幻影に類するものは、縛り捕えられるものではない。見る者によって意味を変え、それぞれの姿へと昇華する。
ほぐされた鎖の輪達は、己の色を取り戻しながら、あるべき書物や詩の中へと戻っていく。この一文は、北部の伝承から来た。この表現は、湖畔の東に建つ古い碑文から抜き取られた。この言葉は、歴史書の著者が序に記した独白めいたもの。この詩は、病床にある詩人が友人に書き留めさせたもの。
彼女は鏡の前で、手早く身支度をする。墨が乾くのを待って紙を懐に収めると、倉から出て亡兄の部屋の前へと進んだ。まだ薄暗い中庭に視線をめぐらせる。高床の下も覗き込む。どこにも人の気配は無い。亡兄の部屋の中も一通り探したが、書棚の扉は昨晩のままに開け放されており、誰かが触れた形跡も無い。彼女は扉を閉め、部屋を出た。さらには屋敷を一通り回ってみる。彼女は一人だった。歌い手は、彼女の言葉通り、日が昇る前にどこかへ去ったようだった。
彼女は歌い手の楽器を思い出す。すぐさま館から林を抜け、湖畔へと出た。昨日の柳の土手を目指して、道を降りていく。
朝方の湖には、夜霧がかすかに残っていた。湖は深い青色を残して、鏡のように静かである。柳の下には黒々とした人影があり、彼女はまっすぐにそこまで下っていった。ところが近づくにつれ、その人影は昨晩の歌い手ではないと知る。引き返そうにもすでに相手はこちらに気づいて、全身を緊張させていた。
相手は明らかに異国の者と分かる、明るい色の髪と瞳を持っていた。少年だが、もうそろそろ青年といっていい年の頃だ。彼は頭からずぶ濡れで、全身を青白くして震えていた。腕にはあの歌い手の竪琴を抱いている。
「どこから来た。それはお前のものじゃないはずだ」
彼女が傾斜の上から問いただすと、彼は少し驚いて、彼女の姿に眼を走らせた。
「これの持ち主を知っているんだな」
少年が声を上げる。彼女はとっさに首を振った。
「そうか」
彼は答えると、そのまま竪琴を持って立ち去ろうとする。彼女は慌てた。
「それをどうするつもり」
少年は振り返った。
「昨日、それを持っている歌人を見た」
「そうか」
「どこから来た。まさか、湖を泳いで渡ったのか」
「他に逃げ場がなかった。この湖には、たくさん沈んでいる。俺も沈むところだった」
少年は眉をひそめ湖に目を向けた。しかしその焦点は、湖面に映る空の彼方にある。彼はやがて後方の林へと視線をぐるりと巡らせた。その首筋に、白い古傷の痕がある。それは彼の姿を酷く損なっていた。
古傷からうごめく文字があふれるのを感じ、彼女は目頭を抑える。今朝の昏い夢が不意に甦った。
彼女は踵を返し土手を登る。登ったところで振り返ると、少年は膝まで水に入り、竪琴を浮かべていた。頬に僅かな血の気が戻っている。思いがけないほど気持ちの良い立ち姿だった。首筋は真っ直ぐ伸び、さざ波は彼の膝で砕け、竪琴は首を支えられて沈むことなく揺れている。うごめく文字は消え、朝日が湖面に広がった。湖は深い藍に輝く。彼女は館へと足早に戻った。
館は相も変わらずひっそりと冷たい。彼女は昨晩の書留を握りしめたまま、亡兄の部屋の引き戸を開け放つ。
昨晩の歌い手が見つからなかったのは心残りであったが、あの膨大な紙束をどうすべきか、彼女は答えを得ていた。
書棚の戸を引く。勢いで幾枚かが足元に舞った。それは紫陽花であり霧であり、あるいは炎天かもしれぬ。彼女は紙束を脱いだ上着へ包み、湖に引き返す。
朝の薄い陽光の下、湖は白茶けた錆色を映している。彼女は畔に跪き、一枚の書留をその水に浸す。薄い紙は赤く染まり、揺らめいて濁った底へと消えた。
湖には多くの言葉が沈んでいる。兄が書留に止め置こうとしたものも、きっと湖底に眠っているだろう。あるいは書き留められた言葉もまた、湖に眠る言葉に加わることができるだろう。
一枚が沈みきり、さらにもう一枚を取ると、湖面に人影が映る。先程の少年が静かにそばへ立っていた。
「それは弔いか」
彼女はひと時手を止め、顔を上げることなく頷く。視界の端に、裸足の足が見えた。彼女はそこではじめて顔を上げた。もう一度水に潜ったのか、髪先から水滴が零れている。彼の視線は紙束にある。
「あんたは、歌の代わりにこれを湖に捧げるんだな」
「読めるのか」
少年は答えず、竪琴を持つ手で彼女の帯に挟まれていた書簡を指した。竪琴は綺麗に汚れを洗い流され、最初から彼のものであったかのように、その立ち姿に馴染んでいる。彼女は昨晩の白い歌人が、亡兄の書簡が創り出した幻影だったのではと心許ない気持ちになる。
「ある者が読めば、歌を思い出すらしい。『色をなくし、心をなくし魂を失った』と」
「奏でれば、それは歌に戻る」
彼は竪琴に目をやった。あいにくすでに、痛んだ弦は外されていた。
されこうべだとて
叩けばもっと良い音で歌うだろう
されどこの虚ろな旋律は
お前達には歌えまい
我らが歌は
その色をなくし
その心をなくし
その魂を失った
我らが故地は
その色をなくし
その心をなくし
その魂を失った
少年は言葉を切り、湖に向き直る。
青色ふし
失せ歌沈み
波雲浮かん
網にも掛からぬ
「錆湖の歌は、元歌があったのか」
「元歌ではないが、最も古い歌ではあるらしい。色と心と魂を失くした歌を探そうと、ここで最初に歌った者がいた。畔で初めの句を歌うと、思いがけず湖の向こうから次の句が返ってきた。今では句ではなく一音しか返さなくなったが、失せ歌を求める中で多くの新しい歌が生まれた」
「これは歌じゃないのだよ。けど今も、失ったものを求め続けている」
彼女は新しい一枚を水に沈める。
「求め過ぎ、本質の魂を見失った。水が紙を溶かし、湖の歌が言葉の鎖を解いてくれる」
一枚沈むごとに、屋敷は空になる。ようやく自分はそこで一人になれる。悪夢もろとも全て片付くだろう。あとは寝泊まりする倉と、湖の歌があればよい。
沈めかけた紙に、白砂の言葉が現れた。蒼白の異人芸妓と西州の楽。華やかな都、そして残りは水に滲む。紙は一度大きく二つに破かれ、継ぎ直された跡がある。見る間にそれは、赤く濁った湖底に呑まれた。
彼女は水から手を上げ、少年を振り返る。
「昨晩白い歌人を見たが、傷を負っていた。生きて夜を越したかは分からない」
「そうか」
少年は頷いた。顔色は戻り、表情は穏やかになっている。
「俺達は故地を持たず、ただ流れる身だ。どこであっけない終わりを迎えようと、それをつまらぬとは思わない。ここは一日待つにはいい場所だ。それ以上の長居はできないが」
柳の上で小鳥が飛び立ち、露が降る。湖の向こうから歌声が上がった。少年は迷うことなく第二音を湖に投げた。疲れた喉から出る声は、響きに乏しい。しかしやがて湖の彼方から、次の音が返ってくる。待てばかの歌人も声を上げるだろうか。旅人達が互いの無事を確かめようと、歌うこともあったのだ。
湖畔で呼び歌が交わされ、今日一日の言葉にならない音が多く湖に沈み、夕に向かって青色を深める。がらんどうの屋敷から群青の畔を見下ろす彼女の目に、一人立ち去る少年の影が見えた。
長じれば、これらの夢も彼女の中から果てた。まるで井戸が枯れたかのように。まれに再びこの悪夢に迷い込むことがあったとしても、はや恐れるものではなかった。世を知らぬ幼い魂が恐怖で潤した夢も、乾ききった。
彼女は赤い湖の畔に膝をつき、文字を書きつけた木の葉を水に浮かべる。
真に恐ろしいのは、現に夢が沁むこと。それは真実に名を借りた現実が突きつける絶望ではなく、虚に巻き取られていく狂気である。
彼女には名があったが、その名を呼ぶ者は今ではほとんどいなかった。春に湖畔を歩けば、野花の咲き乱れる中に腰を下ろし、対岸から吹く風にひとり耳を澄ませた。ごうごうと風が鳴り、ひとつの言葉も運んでこないようであれば、彼女は再び腰を上げ、荒れ果てた屋敷へと戻る。
ある日その目に一輪の白い花が入る。夕の閉じかけた白い花弁。中央に覗き見える花蕊に、動かない天道虫の艶やかな背がある。花の棺ほど美しいものはない。
その赤い湖は錆湖と呼ばれている。
湖底が深くなるにつれ水は青みを増すが、夕ほどの鮮やかさではない。水が打ち寄せる浜は赤茶けた色に砂も岩も染まり、岩は月日とともにその色を深めてきた。砂は岩の根を削っては湖に帰っていく。最初に水が赤かったのか、砂が赤かったのか、気にかける者はいなかった。名の由来も、その赤茶けた鈍い色ではなく、深みの澄んだ青色からだとも伝えられる。
湖畔の館に住む彼女にとっては、幼い頃より馴染みの風景であり、この世に唯一与えられた住処であった。湖畔の南東部はすぐ背後に山が迫る閉ざされた土地ゆえに、昔から都に暮らす貴人達が、妾やその子どもらを住まわせるのに好んだ場所だった。大きな屋敷が湖畔近くの林に点在し、その他は田畑と農家である。村人達は屋敷の者達の世話をすることを副収入とし、均衡の取れた関係を結んでいた。
彼女の幼い頃は、母の元へ都からの便りや細々とした品物がよく届いていたようである。それに代わり、不穏な噂が山を越えてこの農村へ届くようになると、まもなく都からの連絡は途絶えた。林に建つ多くの屋敷も、この頃から落ちぶれていった。
格子戸の紙は破れ、外回りの廊下は落葉に埋もれている。建具の多くはずっと昔に持ち去られており、湖からの冷たい風を防ぐものはない。彼女の寝所は、台所奥の貯蔵倉だった。
いつものように倉から表へ出ると、鍋に残った冷えた粥を口にする。秋の間に葉を落とした木々も、その枝にほころび始めた芽をつけている。彼女は屋敷の一部屋に座して、幾つかの書簡を清書する。村人達から頼まれる手紙の代筆や代読が、今の彼女の生活を支えていた。
時折、鈍った筆の先を小刀で削る。湖からの風が彼女のいる部屋を吹き過ぎ、枯れた葉がかさかさと書台の向こうを横切った。目で追えば、枯葉は中庭を囲む回廊へ出て、そのまま下へ落ちる。中庭に面する、亡兄の部屋の格子戸が目に入った。格子戸には書き損じの紙や布を張り付け、風雨から室内のものを守らせている。いくらかの貴重なものを、彼女はその部屋にまとめていた。その多くは書物である。病弱で床から離れられる時も限られていた兄にとって、書物はこの世を教えてくれるものであったらしい。彼女は兄が亡くなった夜のことを、よく覚えている。
一人小道を行く彼女の耳の脇を、羽音が掠める。と思うと片腕に何かが触れ、背後で、ジュッという鳴声と軽い物が石畳に落ちた音、そして地面をかする羽音が重なった。彼女はすぐに半身ほど振り返る。
館からの明かりがかすかに届いて、道は薄ぼんやりと闇に浮かんでいたが、彼女の視線の先はコブシの影が黒々と落ちて、何も見ることはできず、道の上は静かだった。恐らくあの蝉は、彼女が振り返る一瞬前にその生涯を終えたのだろう。
——私もあのぐらい、綺麗に終わることができればいいが。
再び道を歩み始めた彼女は、思いをめぐらせる。都からの便りは絶えて久しく、一方で守るべき掟は生き続けている。村から出ることを許されない自分達に、先は見えていた。ただ過ぎていく日々を重ね、邪魔しうるものがなければ、そのまま老い朽ちていくのみである。
彼女は中庭を巡り、小さな池の側に立つ。夜も遅い館はいくつもの足音が走り、人の声はひそやかで重かった。館を見やれば、開け放たれた建具の向こうに、兄の傍らに座る母の姿が見えた。泣いてはいないようであった。背はまっすぐに伸び、頭は雨に打たれた花のようにうな垂れて、じっと動かない。兄が丸一日前に食べたものをそのまま吐き戻し、それを最後に身体が水すら受け付けなくなった時から、母はああして側に座し、彼女以外の者を近づけなかった。
人は徐々に死に逝くものだと、彼女は兄の体内から立ち昇る匂いによって知った。弱々しい呼吸の下から彼女が嗅ぎ取った匂いは、先立って死んだ内臓が腐りはじめた証である。医師が兄の治療を全てやめたのも、この漂い始めた死臭の為だった。
兄の最後には彼女も立ち会ったが、彼女はただ見ていることしかできなかった。喉を鳴らす苦しげな息とともに、衰弱しきっていたはずの身体がすさまじい力で弓なりに仰け反り、痙攣していた。母は気丈にも、側で声をかけながら身体をさすり続けた。もう僅かの辛抱だと、兄の名を呼ぶ間に繰り返していた。彼女には、果たしてその声が届いているかどうか疑わしかった。それから途端に静かになり、彼女は兄がとうとう亡くなったかと思ったが、再び強い痙攣が起きた。そして、それが最後だった。
母の時のことは、不思議と記憶は薄い。それは突然で、安らかであったからかもしれない。一人になった彼女が、あとの段取りを全て切り盛りしなくてはならなかった忙しさも、あったかもしれない。彼女も十分に大人になっていて、覚悟は出来ていた。逆に兄の時のことをよく覚えているのは、若い心で見た死の静かな壮絶さと、母と二人で共にした時間の為かもしれない。二人きりになってしまったと、寂しげに笑う母の横顔は今も明らかである。
緩やかな日差しが紙の上に落ちている。彼女は二、三度瞬きをし、面を上げた。閉ざされようとする過去の隙間から、悪夢が手を出してそれを拒もうとする。その手は黒く、文字で出来ている。彼女はすっくと立ち上がり、明るい日の下へ走り出る。湖へと向かって。
片手にはまだ筆を握ったままだった。それに気づいても館に戻る気になれず、冷たく湿った日陰の道を下り、彼女は湖の畔へと出た。薄い空の色の下に深く青ずんだ水底が横たわり、手前に水内際の赤色が重なって見える。様々な絵師らの筆によって繰り返し描かれる湖も、昼前の刻の姿を描かれることは無い。明るい日の光に、深みの青色が白茶けるからだろう。時に興ざめを表す言葉として、「昼の錆池」という言い回しがあるくらいだ。
彼女は畔の岩場に腰をあずけ、湖から吹く風にきつく縛っていた髪をほどいた。手を伸ばし、触れた多羅葉の葉を一枚拾い上げる。筆の先で、短い呼び歌を葉の裏に書き付ける。
——あおいろふし
意味があるようで無いのかもしれない。「あおいろうし」なのかもしれぬ。古くから湖の畔で歌われる詞は、いつもこのひと続きの言葉から始まるという。あるいは、この言葉に続くものだという。聞く者は耳を澄まし、この音を捉えねばならない。歌がいつ始まるのかは歌い手次第であり、故に、自分の聞いた音が、言葉のはじめか中なのか、知る術はない。広い湖の畔で、運良く歌い手に巡り合えても、その歌い手すらも知らないことが多いのだ。歌い手は、湖の周りに無数にいる。彼らは交互に一音を紡いでいく。言葉の用意があれば、聞き手も歌い手になることがある。湖の向こうからひとつの音が歌われるのを聞けば、それが消えるのを待って別の歌い手が次の音を歌う。ただ一人が歌い継ぐ時もあれば、二つ三つの音が重なる時もある。
あまりに古くからある湖越しの歌遊びは、いつの間にか多くの暗黙の取り決めが自然と生まれている。湖畔に点在する村々は幾多あれ、互いに交流が限られているともひとつの歌遊びを日々共有していることは、面白くもあった。
歌に使われる音は、「あおいろふし」の呼び歌を造る音のうち、「し」以外が歌われることはまずない。もし使えば、あらゆる詞はそこから呼び歌に引き戻されてしまう。「あ」の次には「お」、「お」の次には「い」が必ず歌われるのだから。それ以外の音を敢えて続けるのは「呼び歌崩し」であり、呼び歌の音が繰り返されることで、いつまでも呼び歌から次の句に行けないことを「音虜」という。
彼女にとって、始まりも終わりも定かでないこの歌遊びは、村の館に住まう者達の、行き場も無く留まり続けるしかない身の上から生まれたように思われた。
葉に筆を構えたまま、彼女は耳を澄ませ続ける。最初の音を捉え損ねたら、後に残るのは母音ばかりとなってしまう。これは湖畔での歌遊びに潜む、音虜の罠だ。歌い手には鋭い耳も必要なのだ。あるいは、今まで歌われた言葉から、聞き逃した子音を推測するだけの語彙も。
湖のどこかで放たれた音を捉え、ものに書き付けるのが彼女の湖での過ごし方だった。多くはどんなに書き連ねてみても、意味のある言葉にはならない。次を引き継ぐ歌い手が、前の歌い手が現そうとした言葉を成す音を正しく継ぐことはまれであったし、同じ歌い手が二音三音と続けることもあまりなかった。自分の歌おうとする言葉に執着するのは、無粋とされていた。
あおいろふし——
なみくもしつみさら(あ)られ——
音をひとつ聞き逃した。「あ」の所は何だったのだろうか。「あ」の次の歌い手は正しく聞き取れたのか、それとも「呼び歌崩し」をしたのだろうか。
こうしているうちは何も恐れる必要も無く、彼女の乱れた心もいつの間にか静かになる。細身の葉にこれ以上書ききれなくなり、彼女は新しい葉を求めて身をかがめる。その目に、濃い紅の花が入る。
花の姿に眩暈を感じて、彼女は岩から腰を上げた。その花にまつわるあらゆる言葉が、瞼の裏にちらついた。よろめきながら来た道を戻り、館の高床に足をかける。柔らかくなった床板がその下で深くたわみ、二つに折れた。彼女は身体の均衡を崩し、廊下に両手をつく。床の上に這い上ると、ぐったりと暫く頭を落としたままになる。
夕近くに彼女は村に出て、書き上げた書面と引き換えにわずかな穀物を得た。手紙主は去り際に、余所者が来ているから今夜は用心をするようにと彼女に伝える。彼女は頷き、再び湖へと足を向ける。畔でいくらか菜を摘み、夕食に添えようと思った。
淡く燃えはじめた空の下で、湖は鮮やかな青色に変わっていた。歌もまだ湖の上にあったが、昼に聞いた声色とはいずれも違う。知った声色がないかと耳を澄ませていたいが、宵前に食事を終えねばならない。黄檗の下、生え始めの野草を摘む。茂みは暗い。手折って夕の日差しに当てては、食べられるものか見極める。歌は遠く、ほとんどその音は聞き分けられない。ところがそのうちに、近くではっきりと、強く発せられた音が響く。彼女は意外に思いながら、湖へ顔を向けた。この時間、この農村から歌い手が現れることは無かったからである。
菖蒲と蓮の向こう、土手の柳下に、ほの白い人影がひとつあった。暗闇に溶けきることのない明るい髪と瞳と肌を持ち、そのいずれもが、夕刻の光と、それに応えて湖が返した青い光に染まっている。それが人とは異なる人であると彼女が気づいたとき、またあの眩暈が来る気配がした。彼女は眩暈を振り切るように茂みの影から出て、歌い手を注視した。
立膝をつき、顎をそらせた歌い手は、笛のように喉を鳴らしていた。歌われた音はひとつで、歌い手の息が続く限り続いた。
彼女は魅せられ、放たれた音を耳で追う。視線は湖へと動いた。最初に放たれた一瞬は言葉の一片であったはずだが、今やそれはただの一音と成り湖に沈みつつあった。
歌い手の唇はわずかに開き、ひそめた眉の下に瞳は閉じて、湖が飲み込んだ一音の尾が消えいくのを聞き届けようとしている。澄ました耳に、湖のさざなみは無音に等しく、やがて遠くから、放たれた新しい一音が届く。湖畔のどこかで別の歌い手が音を継いだのだ。
視線を戻せば、柳の下の歌い手は頭を垂れていた。首も胴もほっそりとして、異様に長い。右の肩口が黒々と濡れている。暫くして歌い手は静かに面を上げた。幽鬼のように白く、美しかった。男には見えないが、女とも知れない。歌い手は立てていた片膝を崩し、身を起こす。立ちきると倒れこむのを押し留めるように、片足を一歩前に出して静止する。やがてゆっくりと身を反し、一時彼女の方へ顔を向けたようにも見えたが、土手を登って林の影に消えた。村人が余所者と言ったのは、あの歌い手のことだったのだろう。
彼女の視線は歌い手の消えた林に、不確かな気持ちで残される。あの姿は、言葉だけでなら知っている気がした。彼女は柳の下へと歩み寄る。歌い手のいた場所に、竪琴が残されていた。弦は切れていて、取り上げようとした指先に冷たいものが触れる。彼女は柳の下から水内際へ出て、濡れた指先を合わせる。やはりあの歌い手は、手負いだったらしい。山賊にでも襲われたのか。湖の西には、彼らの住処があり、時には獲物を追って村の近くまでやって来る。夜になると農具を武器に見回りに出かける若者達は、彼らを村の中に入れない為だ。しかしこの若者達も、身寄りの無さそうな貧しい身なりの旅人を狙い、殺して金品を奪うことがある。貧しく希望に乏しいこの村で、若者達はあらゆるものに飢えていた。
彼女は指を湖につけて洗い流し、歌い手の楽器を残して館へと戻った。
食事を終え床に入る前に、彼女は亡兄の部屋の戸を開けた。山向こうに日が隠れ、空には月が明るい。戸を開け放てば、灯りがなくともいくらか見える。部屋のものは埃を被り、彼女はその始末に悩んでいた。
生まれながらにして虚弱故に、短すぎはしなかったがさして長くもなかった人生の中で、寝台を離れることができた時間はわずかである。それでも家庭に唯一の男子であった彼が生きている間は、母と彼女の地位を保証し、家の主としてその勤めを果たしていた。十数年前の夏の終わりに短い病で儚くなった時、彼女が最初の涙を枯らしてすぐ気に留めなければならなかったのは、そのことだった。放心にあった母の代わりに彼女はこの部屋に入り、家を治めるべく書棚の前で兄の過去の仕事を学んだのである。しかしごく数年前まで、彼女は兄の私的な遺品に手を付けなかった。ことにある書棚の扉は、長い間硬く閉ざされたままでいた。扉の向こうには、重苦しい記憶しか眠っていない。
何をきっかけにこの書棚を開いたのだろうか。しかし開いたその時から、幼い頃の悪夢が正体を明かし、度々目の裏に立ち現れるようになった。
開けた書棚の扉には、亡兄の個人的な書き留めの束が当時のまま残されている。
彼は書物を通してしか外の世界を知ることができなかった。年の離れた妹を呼び寄せ、一くだりを読んで聞かせては、その言葉が指すものがどのようなものであるのか、問うた。彼女はそれに答え、手に入るものであれば側に持っていった。ところが彼は自身の経験の乏しさを恥じ、無知無心を嘆いた。彼は迫りつつある寿命の手前で、人生の全てを生きようとしていた。それは老い急いでいるようにも見えた。
古びた紙を注意深く広げると、見覚えのある筆跡が一面を覆っている。丁寧に書き留められた言葉は、様々な視点と感性に異なる色合いを見せながらも、一つのものを描き出そうとしていた。彼は知りたいものを知るために、あらゆる書から言葉を抜き出し記していた。
恐らくそれらの言葉の中心には疾風が、寒椿が、郷愁が、それと記されることなく隠れている。
書き留めの紙束は隣の扉にも及び、筆跡は徐々に弱々しいものに変わっていく。対して紙面を覆う言葉は、周りの文字に重なるほどひしめいて増えていた。病み疲れ弱った身体が精神まで蝕んできた頃、休むことなく書き綴られたものだった。自らが知らないもの感じたことのないものを、多くの賢人が残した言葉をして追い詰め捕らえようとした痕である。包囲は隙間無く、あまりに密な定義は本質を押しつぶし、貫いてなおそれに達しようと虚しく逡巡している。一枚ずつ紙を繰る度に、これらの包囲に書き潰された様々な形象の残骸が現れる。熟しきり誰にも収穫されなかった果実が地に落ちて、真っ黒に虫が集るがごとく。
破き裂かれた紙もある。正気に返ると、兄はこれらの紙をことごとく破いた。己の行為がどれだけ無意味か、知っていたのである。それでもその行為は、破いた破片を集め、糊で丁寧に継ぎ直すことに変わり、それに満足できなければ新たな紙に前と同じ様に書きつけるに終わる。
当時はただ見守っていただけだったが、それらの紙束も今では全て手にとり読み尽くした。館での限られた人生では決して見れぬもの、あるいは彼女の知る数少ない事柄が、千々なる言葉に分解されていた。紙面に焼き付けられた焦燥は、読み手に燃え移らんばかりの激しさを持っていた。
その中には確かに、異人にまつわる文を書きつけた紙もあったはずだ。一度破かれ、再び継がれていた。しかし見つからぬ。どこかよその棚に紛れてしまったのかもしれない。
彼女は深いため息と共に、忌まわしい紙束を元の棚に戻した。部屋を見回せば、目に映るもの全てその主をとうの昔に失い、存続の意味をなくしている。亡くなってその後数年、兄は夢の中では変わらず生きていたが、やがて夢の中でも死者となり、彼女もまたそれを当たり前として何事もなく目覚めるようになっていた。暇さえあればこの部屋で時を過ごしていた母も、夢の中でさえいつのまにか姿を消していた。
すべて捨て去ればいいものを、この紙束だけは無下に焼くことも出来ず、かといって紙束だけを残して他のものを処分する気にもなれない。忌まわしい紙束を封じておける書棚が必要であったし、それを隠している書棚が目に付かないよう、他の家具も置いていたかったからだ。
書棚の扉を閉めようと、取っ手に手をかけた時、彼女は背後の庭で物音を聞いた。人影がこちらに向かっている様子だった。彼女は静かに足を滑らせ、家具に守られた影の中を、部屋の奥へと隠れた。腰に下げた筆を研ぐための小刀を、そっと握りこむ。
暗くなりすぎてよくは見えなかったが、戸口に立ち、縦に異様に引き伸ばされた影は、湖の畔で見た歌い手だった。歌い手は辺りをうかがう様子も見せず、背をかがめて部屋に入り、迷うことなく書棚へ手を伸ばした。
——言葉に意味は無く、幾重に重ねても重みにはならない。魂が肉体に意味を与えるように、心が言葉に命を吹き込む。魂が肉体のみをその伴侶に選ぶのに、心は言葉だけをその現身として必要としているわけではない。言葉は時として真実を飲み込み、偽り、従順ではない。我が地はその魂をなくし心をなくし、色を失った。歌う言葉に命は無く、心を持つ者には響かない。されど、言葉の虚ろを解する者はいる。真空を捉えることは出来ぬが、それを包む形骸から知ることは出来る。鐘が響くのは何を以ってか。心を失っても、歌わねばならぬ言葉がある。音は響きであり、響きは耳のみで捉えるものではない。言葉は音だけにあらず、肉を通して魂を貫くこともあれば——
ばらばらのはずの文が、ひとつなぎとなって彼女の耳に届く。
山の峰の空は錆湖を思わせる、最後の輝きを赤く残す下端と、空の深みに光る星を含む深青の二色に分けられていた。館は一色の闇色に染まり、その中で歌い手の低い声が、亡兄の書き綴った一枚を、静かに読み上げていた。最後の陽光が空からも消えると、紙面の文字も闇に溶け消える。やがて痩せた顎が上を向き、白く長い喉が星空に伸びた。
「されこうべだとて、叩けばもっとよい音で歌うだろう」
最後にぽつりと歌い手は呟く。それから紙を手にしたまま戸口から一歩出て、床に座り中庭の土に足を下ろした。
彼女は用心深く隠れ場所から首を出し、相手の様子を伺う。困ったことに、相手はそこを動くつもりは無いらしい。頭を下げた長い背中が、戸口のすぐ向こうに見える。何か刃物を持っている様子は無く、一連の動作は緩慢で力が無かった。傷を負った肩には夕刻には見られなかった布切れを巻きつけており、それにも黒い染みを見て取ることが出来る。傷は深いと見えた。
彼女は姿勢を正し、どのようにも逃げ出せるよう自分の周りを確認する。そして、戸口の歌い手に向かって腹から声を上げた。
「何者だ。今すぐ出て行け」
歌い手の頭がぴくりと動き、振り向いた。しかしこう暗くなっては、彼女の姿は相手から見えないだろう。
「何をしている。出て行け。ここは私の家だ」
「申し訳なかった」
歌い手は答えた。
「この館を廃屋だと思い、断り無く上がりこんでしまった」
身をよじらせてこちらを向く歌い手の身体の線に、彼女は相手が人と異なる者であれ、少なくとも女であるらしいと知る。
深い傷を負っている上に女だと分かり、彼女は少し警戒を緩めた。けれども側へ近づく勇気は無い。あの歌い手を退かさなければ、部屋からは出られぬ。彼女は部屋に置いてある物を思い出しながら、周りを手で探る。頑丈な長い棒でもあればと願ったが、この部屋にないことは知っていた。
黙りこむわけにもいかず、往生際悪く床を探り続けながら、彼女は声を張り上げる。
「余所者を入れることはできない。他の館へ行け」
「この館に、私を呼ぶ気配があった」
彼女は手を止め、暗がりから歌い手に視線を据えた。
「気配と?」
歌い手は黙って、手にした紙を戸口へ差し出す。
彼女は仕方なく隠れ場所から出て、用心をしながら戸口越しに紙を受け取る。歌い手の両眼が、白い額の下で彼女に向けられている。彼女は紙をちらと見やる。
「もう暗くて。文字は読めない」
この紙には、異人についての言葉が書き付けられているのだろうか。けれども、先ほど歌い手が読んだ文面は、異人についてのものではないはずだ。
「我が地はその魂をなくし心をなくし、色を失った。歌う言葉に命は無く、心を持つ者には響かない。されど、言葉の虚ろを解する者はいる」
歌い手は庭に向き直り、低い声で節をつけた。
「このくだりは、私の故郷についての歌とそっくりだ。歌は、『色をなくし、心をなくし、魂を失った』だった。もしかしたら、歌の前に由来となる物語があったのかもしれない」
「兄は歌は知らなかったけど、よく書物を読んだから」
彼女は歌い手の背中をさっとかわして、部屋から出た。足早に去りながら、大声で言い捨てる。
「今夜は其処で休んでもいい。だが、その部屋にはもう入るな。金目のものはないし、汚されても困る。そして、日が昇る前に出て行くといい。明日になったら人を呼ぶ」
彼女は館を遠回りして、台所へ帰り着く。それから寝床にしている倉に入り、明かりを灯して用心深く中を窺った。倉には食料を並べていた棚以外には、母の遺品である鏡台と寝具しかない。けれども彼女は棚の奥を用心深く見やり、他に誰も潜んでいないのを確認し、ようやく安心する。倉の扉を閉ざし、横木を刺し通す。
一息ついて、懐に押し入れていた紙を鏡台の上に置いた。歌い手の言った言葉を探して、紙にひしめく黒い文字を目で追うが、文字は歪んで重なり合っている。紙を取り上げて明かりに透かせると、文字の綾模様は、紙の中心に向かって渦を巻いて並んでいる。じっと見つめていると、文字が中心へ向かって動き出すかのような錯覚すら覚える。結局、蝋燭一本の明かりで読み分けるのは困難だった。彼女は明かりを吹き消し、布団に入る。館にいる余所者を思うと、寝入ってよいものか不安だった。
ふと気がつくと、彼女は錆湖の畔に立っている。世界は暗いとも明るいとも分からず、目の前には赤い湖面と深みの青色を湛えた錆湖が広がっているだけである。辺りは静まり、かすかなさざなみが耳をくすぐる。風ではない。湖面は自ら動いている。
長い時の中で、この湖には多くの歌が沈んでいった。「あおいろふし」の言葉は、単調な節回しに乗って、幾重にも重なり湖底に染み込んだに違いない。風のない日に立つさざなみは、湖に沈んだ言葉が面に表れた印とも言われる。
振り返れば彼女の館が林の上にあり、在りし日の兄の姿と、幼い頃の自分の姿がある。
実際彼はよく自分の部屋で、錆湖の歌を聞いていた。同じ短い旋律が何度と終わりなく繰り返されるのを聞き、意味をなさぬ音が続くのを聞き、「この歌は何も歌わない」と嘆いたこともある。それでも飽きることなく耳を傾け続けていたのは、かの歌が無限の断片として湖にあると気づいていたからかもれない。
館の兄はいつも身につけていた寝着以外、容姿が判然としない。彼の姿は林に一度消え、再び現れた湖の畔で手にした紙を力なく放す。それは真っ直ぐ湖面に落ち、赤いさざ波に飲まれて消えた。
兄の後ろに立つ幼い自分は、不安な瞳を湖に据えている。二人の視線の先に、今しも水辺から若い龍の姿が上がる。鼻から火の粉を散らし、濡れた身体は瞬く間に霧をたち昇らせた。湖は歌を待っていた。
まぶたを開くと暗闇だった。先程のは夢だと知ったが、陰鬱な気怠さとともに茫漠な記憶に果てる。
彼女は再び起き出して、手探りで明かりを灯す。昨晩の書き留めが染みのように暗がりで浮かんだ。
——言葉自体は、幾重に重ねても重みにはならない。
言葉の渦の端に、ようやくその一文を見つけ、彼女は眉間を指で揉んだ。筆致は様々で、兄が月日を置いて何度も、この紙に新しい言葉を加えていったのが分かる。この一文を記す歪んだ文字は、晩年に差し掛かった頃のものだろう。
その昔、兄の残した紙束は、彼女にとって言葉で織り成された悪夢そのものだった。兄の精神を蝕んだ狂気に、この書き留めを通じて自身も巻かれていくように感じた。しかしそれから倍近く年を重ねた今では、その狂気も狂気ではなく、正気に根ざしたごく当たり前の感情として理解できる。正気であったからこその焦燥だったのだ。
彼女は紙の上の文字を辿り続けた。歌い手が最後に呟いた、「されこうべだとて」のくだりは、なかなか見当たらない。あれは歌い手自身が付け加えたものなのだろうか。だとしても、紙上にうごめく幾多もの言葉同様、そのくだりが他に増して重みを持つとは思えない。彼女は考えた末、その一文を紙面に書き付けてみることにする。余白はほとんど無く、散々迷いながら、とうとう彼女は唯一空いた紙面の中心、定義の真空に、筆の先を落とした。
激しい躊躇いの念が胸の内ではじける。彼女は息を詰め、最初の一筋を書き出した。刺すような後悔が一瞬よぎり、迷いを押し流して跡形もなく過ぎ去っていく。夜は白みかけていた。
書き上げると、彼女は背を伸ばして紙を見下ろす。あらゆる文字に滲む焦燥と苦悩は、冷えて静かになっていた。文字の渦が、緩みほどけていく。幾多もの書物や詩から抜き出され、ひとつの観念を縛りすくめる鎖の輪とされた言葉達が、その役目を見失い自由となっていた。歌い手がこの中心に与えた一くだりは、兄が捉えんとしたその観念を鋭く留め置きながらも、その先を行く意味も含んでいたのだ。幻影に類するものは、縛り捕えられるものではない。見る者によって意味を変え、それぞれの姿へと昇華する。
ほぐされた鎖の輪達は、己の色を取り戻しながら、あるべき書物や詩の中へと戻っていく。この一文は、北部の伝承から来た。この表現は、湖畔の東に建つ古い碑文から抜き取られた。この言葉は、歴史書の著者が序に記した独白めいたもの。この詩は、病床にある詩人が友人に書き留めさせたもの。
彼女は鏡の前で、手早く身支度をする。墨が乾くのを待って紙を懐に収めると、倉から出て亡兄の部屋の前へと進んだ。まだ薄暗い中庭に視線をめぐらせる。高床の下も覗き込む。どこにも人の気配は無い。亡兄の部屋の中も一通り探したが、書棚の扉は昨晩のままに開け放されており、誰かが触れた形跡も無い。彼女は扉を閉め、部屋を出た。さらには屋敷を一通り回ってみる。彼女は一人だった。歌い手は、彼女の言葉通り、日が昇る前にどこかへ去ったようだった。
彼女は歌い手の楽器を思い出す。すぐさま館から林を抜け、湖畔へと出た。昨日の柳の土手を目指して、道を降りていく。
朝方の湖には、夜霧がかすかに残っていた。湖は深い青色を残して、鏡のように静かである。柳の下には黒々とした人影があり、彼女はまっすぐにそこまで下っていった。ところが近づくにつれ、その人影は昨晩の歌い手ではないと知る。引き返そうにもすでに相手はこちらに気づいて、全身を緊張させていた。
相手は明らかに異国の者と分かる、明るい色の髪と瞳を持っていた。少年だが、もうそろそろ青年といっていい年の頃だ。彼は頭からずぶ濡れで、全身を青白くして震えていた。腕にはあの歌い手の竪琴を抱いている。
「どこから来た。それはお前のものじゃないはずだ」
彼女が傾斜の上から問いただすと、彼は少し驚いて、彼女の姿に眼を走らせた。
「これの持ち主を知っているんだな」
少年が声を上げる。彼女はとっさに首を振った。
「そうか」
彼は答えると、そのまま竪琴を持って立ち去ろうとする。彼女は慌てた。
「それをどうするつもり」
少年は振り返った。
「昨日、それを持っている歌人を見た」
「そうか」
「どこから来た。まさか、湖を泳いで渡ったのか」
「他に逃げ場がなかった。この湖には、たくさん沈んでいる。俺も沈むところだった」
少年は眉をひそめ湖に目を向けた。しかしその焦点は、湖面に映る空の彼方にある。彼はやがて後方の林へと視線をぐるりと巡らせた。その首筋に、白い古傷の痕がある。それは彼の姿を酷く損なっていた。
古傷からうごめく文字があふれるのを感じ、彼女は目頭を抑える。今朝の昏い夢が不意に甦った。
彼女は踵を返し土手を登る。登ったところで振り返ると、少年は膝まで水に入り、竪琴を浮かべていた。頬に僅かな血の気が戻っている。思いがけないほど気持ちの良い立ち姿だった。首筋は真っ直ぐ伸び、さざ波は彼の膝で砕け、竪琴は首を支えられて沈むことなく揺れている。うごめく文字は消え、朝日が湖面に広がった。湖は深い藍に輝く。彼女は館へと足早に戻った。
館は相も変わらずひっそりと冷たい。彼女は昨晩の書留を握りしめたまま、亡兄の部屋の引き戸を開け放つ。
昨晩の歌い手が見つからなかったのは心残りであったが、あの膨大な紙束をどうすべきか、彼女は答えを得ていた。
書棚の戸を引く。勢いで幾枚かが足元に舞った。それは紫陽花であり霧であり、あるいは炎天かもしれぬ。彼女は紙束を脱いだ上着へ包み、湖に引き返す。
朝の薄い陽光の下、湖は白茶けた錆色を映している。彼女は畔に跪き、一枚の書留をその水に浸す。薄い紙は赤く染まり、揺らめいて濁った底へと消えた。
湖には多くの言葉が沈んでいる。兄が書留に止め置こうとしたものも、きっと湖底に眠っているだろう。あるいは書き留められた言葉もまた、湖に眠る言葉に加わることができるだろう。
一枚が沈みきり、さらにもう一枚を取ると、湖面に人影が映る。先程の少年が静かにそばへ立っていた。
「それは弔いか」
彼女はひと時手を止め、顔を上げることなく頷く。視界の端に、裸足の足が見えた。彼女はそこではじめて顔を上げた。もう一度水に潜ったのか、髪先から水滴が零れている。彼の視線は紙束にある。
「あんたは、歌の代わりにこれを湖に捧げるんだな」
「読めるのか」
少年は答えず、竪琴を持つ手で彼女の帯に挟まれていた書簡を指した。竪琴は綺麗に汚れを洗い流され、最初から彼のものであったかのように、その立ち姿に馴染んでいる。彼女は昨晩の白い歌人が、亡兄の書簡が創り出した幻影だったのではと心許ない気持ちになる。
「ある者が読めば、歌を思い出すらしい。『色をなくし、心をなくし魂を失った』と」
「奏でれば、それは歌に戻る」
彼は竪琴に目をやった。あいにくすでに、痛んだ弦は外されていた。
されこうべだとて
叩けばもっと良い音で歌うだろう
されどこの虚ろな旋律は
お前達には歌えまい
我らが歌は
その色をなくし
その心をなくし
その魂を失った
我らが故地は
その色をなくし
その心をなくし
その魂を失った
少年は言葉を切り、湖に向き直る。
青色ふし
失せ歌沈み
波雲浮かん
網にも掛からぬ
「錆湖の歌は、元歌があったのか」
「元歌ではないが、最も古い歌ではあるらしい。色と心と魂を失くした歌を探そうと、ここで最初に歌った者がいた。畔で初めの句を歌うと、思いがけず湖の向こうから次の句が返ってきた。今では句ではなく一音しか返さなくなったが、失せ歌を求める中で多くの新しい歌が生まれた」
「これは歌じゃないのだよ。けど今も、失ったものを求め続けている」
彼女は新しい一枚を水に沈める。
「求め過ぎ、本質の魂を見失った。水が紙を溶かし、湖の歌が言葉の鎖を解いてくれる」
一枚沈むごとに、屋敷は空になる。ようやく自分はそこで一人になれる。悪夢もろとも全て片付くだろう。あとは寝泊まりする倉と、湖の歌があればよい。
沈めかけた紙に、白砂の言葉が現れた。蒼白の異人芸妓と西州の楽。華やかな都、そして残りは水に滲む。紙は一度大きく二つに破かれ、継ぎ直された跡がある。見る間にそれは、赤く濁った湖底に呑まれた。
彼女は水から手を上げ、少年を振り返る。
「昨晩白い歌人を見たが、傷を負っていた。生きて夜を越したかは分からない」
「そうか」
少年は頷いた。顔色は戻り、表情は穏やかになっている。
「俺達は故地を持たず、ただ流れる身だ。どこであっけない終わりを迎えようと、それをつまらぬとは思わない。ここは一日待つにはいい場所だ。それ以上の長居はできないが」
柳の上で小鳥が飛び立ち、露が降る。湖の向こうから歌声が上がった。少年は迷うことなく第二音を湖に投げた。疲れた喉から出る声は、響きに乏しい。しかしやがて湖の彼方から、次の音が返ってくる。待てばかの歌人も声を上げるだろうか。旅人達が互いの無事を確かめようと、歌うこともあったのだ。
湖畔で呼び歌が交わされ、今日一日の言葉にならない音が多く湖に沈み、夕に向かって青色を深める。がらんどうの屋敷から群青の畔を見下ろす彼女の目に、一人立ち去る少年の影が見えた。
錆湖求歌 - 完 -