管鍼の発明者 杉山和一の生涯


杉山和一座像

視覚障害者教育のパイオニア

杉山和一(すぎやま わいち)
 1610年(慶長十五年)〜1694年(元禄七年) 鍼術で唯一人、神社(江島杉山神社)に祭られている。
近代日本鍼灸の中興の祖とされている杉山検校は、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)藤堂藩士杉山権右衛門重政(元和二年高虎に被呼出200石)の嫡男で幼名は養慶、幼くして伝染病により失明した和一は家督を義弟に譲り刀を捨てて医の道に進む。
 鍼の施術法の一つである管鍼(かんしん)法を創始。鍼・按摩技術の取得、教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した。そこから多くの優秀な鍼師が誕生。鍼・按摩の教育の他、「当道座」(盲人の芸能集団)の再編にも力を入れた。  
 和一が、江戸時代に盲人に鍼・按摩の教育をし、盲人の職業として鍼・按摩を定着させたことが、明治の盲学校設立後の職業教育に鍼・按摩が取り入れられた経緯へとつながる。
[略歴]
 慶長十五年(1610年)誕生、出生地は津、大和、遠州浜松、奥州など異説があって、なお不明である。伊勢の安濃津(現在の三重県津市)において幼少年期を6歳ごろから過ごす。
 17、8歳ごろ、江戸で開業する盲人鍼医・山瀬琢一に入門。しかし、22歳ごろ、記憶力がわるく技術も向上しなかったため、師の下を破門される。目の不自由な自分が生きるためには何かを成就大成させねばならぬと、芸能の神であり盲目の守護神でもある江の島弁財天の祠に詣で岩屋に篭もり生死をかけての断食修行を行なう。神人無我の境地での帰り道、石につまづき倒れた時に手にひろった松葉の入った管から、管鍼術の着想をえたと伝えられている。そして京都にのぼり入江流鍼術などの奥儀を学び再び江戸に出て開業する。
[杉山流鍼治導引稽古所]
小川町邸後、本所一つ目弁財天社内に開設。この場所は、杉山和一が徳川綱吉から拝領した。現在は江島杉山神社(東京都墨田区)。
天和二年 (1682年9月18日) 家塾を改め鍼治学問所とした。これが世界の教育史上特筆すべき初の盲人教育。1784年フランスでヴァランタン・アユイ(Valentin Hauy)が盲人に特別教育した100年前元禄六年 (1693年) 本所一つ目の地を拝領、そこに弁財天社を建立(総検校役所、鍼治講習所を小川町から本所一つ目の地に移築前に亡くなる)
寛保元年 (1741年) 総検校役所を移築(七代白石検校)
明和年中 (1768年前後) 鍼治講習所を移築(25代若村検校)明治四年 (1871年11月3日) 明治政府は盲人官職を廃止。京都職屋敷、江戸惣録屋敷没収。 鍼治講習所は和一の職を次ぐ弟子の三島安一によって江戸近郊および諸国45箇所に講堂を増設、杉山流鍼術を日本国中に広めた。三島の門下からは島浦和田一(しまうらわだいち)が出て「杉山流首巻選鍼論」を表し、その子・直秀も職を継ぐ。
初期教育(〜18歳位):按摩・鍼各3年(計6年)基礎教育。
 杉山三部書(選鍼三要集・療治之大概集・医学節用集)が教科書。
中期教育(〜28歳位):現在の管鍼法の技術レベルまでの教育 。
 杉山真伝流の表の巻が中心で、教科書。
後期教育(〜32歳位):杉山流鍼学を他人に伝授できるまでの教育。
 杉山真伝流目録の巻物一巻(真伝流の表の巻・中の巻・奥龍虎の巻)が教科書。終了時には門人神文帳一冊が伝授。
最終教育(〜50歳位): 杉山真伝流秘伝一巻が伝授。 
 肝心の和一の管鍼術や奥儀は、後継者により工夫し「杉山真伝流秘伝」として一般門人には秘密にされ、技能の進んだ者にのみ口伝として伝授されたようである。
 江戸幕府の診療科目は本道(内科)・外科(傷科)・鍼科・口科・眼科・小児科・産科で、盲人では山川検校城管が徳川三代将軍家光のもとで鍼医をつとめている。

 杉山検校の弟子で幕府に鍼医師として仕えたものは9人で他に諸大名に5名が鍼医師として登用された(唯一の晴眼者栗本杉説は元禄五年寄合医師、六年奥医に)。

[杉山和一の著書]
 『杉山流三部書』 鍼治講習所の初級者の教育を目的として書かれた「選鍼三要集」 中国古典の鍼理論 
 「療治之大概集」 和一の臨床
 「医学節用集」 後継者らが編纂した中国医学の概論
 以上の鍼灸書により和一の基礎的な補瀉法を教えた。

『杉山流首巻選鍼論』『杉山真伝流』(表之巻5巻・中之巻4巻・奥竜虎之巻3巻)杉山検校後継者(三島検校)の跡を継ぐ島浦和田一が杉山検校の教えを伝えたもの
『杉山真伝流鍼治手術詳義』 杉山流鍼術山形の弟子(大沢周益)が口述筆記した分派の夢想杉山流
『(夢想杉山流)鍼術十箇条』 その流派の秘伝書
 これらの書き記した内容から鍼治講習所では相当高度な奥義を伝授する専門教育を行っていたと思われる。この鍼治講習所は明治四年の太政官布告で廃止された。

[本所一つ目江島杉山神社] 東京都墨田区千歳1−8−2杉山和一が祭られている神社。この地が、後の江戸惣録屋敷、鍼治学問所。

 元禄六年 (1693年) 本所一つ目の地を拝領(宅地1892坪余、河岸附792坪余)そこに弁財天社を祭る。
 享保十七年(1732年) 横綱火事で消失。
 明和年中 (1768年前後) 弁財天社再建、25代若村検校は10年の富籤興行を幕府に願い、その資金で社殿のほかに即明院の御仏間、鍼治講習所を新築した。

 老いてもなお江戸から毎月江ノ島詣でを続ける検校の身を案じて、また昼夜にわたりそばにおいておきたい綱吉自身のため、綱吉が本所一ツ目の土地を与えてここに弁財天を分社して祀らせた。これには次のような逸話がある。
『元禄六年(1693年)将軍綱吉が「何か欲しいものは無いか」と尋ねたところ杉山和一は「目が欲しい」と答え、綱吉から本所一ツ目に宅地を与えられた』
「望みによって一ツ目を与える。本所一ツ目1890坪、外川岸付き792坪を町屋(町屋を作らせ地代は私費に充てる、但し処分は官の許可要する)として与え、弁財天をこれに勧請し、老体のことゆえ江ノ島の月参りはほどほどにするがよかろう。弁天社は古跡並み(徳川氏入国以前の社寺を古跡とし種々の特典がある)にし、江ノ島への願いは朱印状(将軍の朱印を押した書付、絶対の権威がある)をあたえる」

江島杉山神社の写真 弁財天江戸名所図会

  現在の江島杉山神社          弁財天江戸名所図会
 この弁才天は江戸名所図会にも記載されており本所一つ目弁財天として江戸中の信仰を集め、大奥からの船での参詣も多かった。

 JR両国駅から歩いて赤穂浪士討ち入りの吉良邸跡の前をとおり10分程で江島杉山神社。ここが惣録屋敷や鍼治講習所があったかつての弁才天跡地で本社の奥に江の島の弁天洞窟を模した洞穴があり、弁財天が祀られている。またここの弁天様は人面蛇身で、杉山検校の関係もあって鍼術の守神であり、学芸上達・除災を祈る人が多い。

 江島杉山神社には宝物として将軍綱吉直筆の大弁才天の軸や綱吉から拝領されたという黄金弁才天(戦災を受けた弁才天像の胎内仏)がある。

[墓所]
「弥勒寺」  東京都墨田区立川1−4−13

 江島杉山神社から東へ歩いて10分ほどで検校の供養塔(文化財東京都指定旧跡)や唯一の鍼灸の鍼供養塔。毎年9月中旬墓前で鍼供養が行われる。

 真言宗豊山派の寺院。山号は万徳山。院号は聖光院。本尊は薬師如来で、「川上薬師」とも呼ばれる。慶長十五年(1610年)宥鑁が徳川家康から江戸の鷹匠町に寺地を下賜されて建立した寺である。当初弥勒菩薩を本尊としたことから寺号を弥勒寺と号したが、八代の清長のときに徳川光圀から薬師如来を寄進され、これを本尊とした。江戸幕府から朱印状を与えられ、真言宗の常法談林所であるとともに触頭でもあった。

 池波正太郎の鬼平犯科帳「二人女房」では、鬼平がこの辺りで活躍し、たびたび渡った弥勒寺橋は五間掘が埋め立てられ今はない。『森下町をすぎ、五間掘へ架かる弥勒寺橋をわたると、右に弥勒寺、左にお熊婆の茶店が見える』では、長谷川平蔵が銕三郎と名乗っていた不良青年のころ、よく酒を飲ませてもらったのがお熊婆の茶店(笹や)であったという。

 江戸名所図会の弥勒寺周辺図  
 江戸名所図会(弥勒寺)  鍼供養塔

 
 「江ノ島弁才天」 杉山検校の墓。源頼朝が奥州平泉征伐必勝祈願のため勧進した。江戸時代に江ノ島は信仰、遊興の地として賑わった。 道標 東海道の藤沢宿からの江ノ島道に杉山検校の発願、寄進した道標。当時は48基有ったといわれた。この道標によって江ノ島参詣は一層盛んになった。石の表面には弁財種子梵字の下に「ゑ能し満道」右側面に「一切衆生」左側面に「二世安楽」とあり道中する一切衆生の現世および来世の安楽を祈念した検校の温情が偲ばれる。 福石 検校がつまずいて管鍼法がひらめいたという福石は27人目の検校から抜擢されトップの関東総検校に飛び越えて出世し、85歳の天寿を全うした杉山和一の江の島での出来事から、福石のそばで何かを拾うと福が授かるといわれている。  本所一つ目の弥勒寺に葬られ、江の島西浦霊園墓地に杉山検校墓所があり、江の島を信仰した杉山検校はこの地で眠れさぞかし幸せな事であろう。  杉山和一の和歌と伝えられるものに、次の二首がある。
 見てはさぞ聞きしにまさる年月の心ぞつもる富士の白雪
 よばばゆけ呼ばずば見舞へ怠らず折ふしごとにおとづれをせよ
1694年5月18日病の床につき6月26日死去(公儀向6月26日御届、観音信仰による遺言5月18日、杉山家系譜5月20日、江ノ島墓の下の板石5月16日) 法名「前総検校即明院殿眼叟元清権大僧都」

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