あと30分程度で、宮田の本日のバイトも終了…と差し掛かった時、店の自動ドアが開き、来客を告げる音楽が鳴った。
やや挙動不審にキョロキョロと辺りを見回しているその青年を見ると、宮田は目を見開いた。
それは彼の良く見知る人物――――、幕之内 一歩だった。
宮田はわざと視線を逸らし、一歩に気が付かない振りをした。
先に気付いたのが自分、と言うだけでどれだけ自分が一歩を意識しているのかを思い知らされたようで、宮田は悔しくなる。
その、『意識している』という意味は、世の中でライバル同士…と言われている事にも当て嵌まってはいたが、
それとは違う、別の感情から来ている事のほうがしっくりとくるのを宮田は分かっていた。
そう―――、それは、恋愛感情。
一歩が自分に好意を持ち、尊敬と憧れの眼差しを送ってくるのを宮田は知っていた。
だがそれは、宮田にチョコレートを渡そうとする女性ファンと同じ感覚でしかないのだろうと思っていた。
宮田が一歩に対して持っている感情は、もっと複雑に絡み合って、深い所にあった。
焦がれて、焦がれて、惹かれて。
いつからそんな思いに駆られるようになったのかは、宮田自身も分からなかった。でも、気が付いた時には好きになっていた。
ライバルとしてだけではなく、常に自分の心に在り続ける、唯一無二の存在。それが彼だった。
でもその事は、宮田は胸の内に密に隠しておくべき事柄だと考えていた。
………宮田もまた、一歩にそんな感情を抱いている事を知られるのを恐れていたからだった。
そんな風な彼等であったので、お互いに相手の事を想いあっている―――と言う事実に、二人はいまだに気付いてはいなかった。
店内をぐるりと見渡すと、どうやら宮田に気が付いたのか、レジ前に一歩がやって来た。
「こ、今晩は、宮田くん!川原ジムに行ったら、宮田くんが居なかったから…。多分、ココじゃないかって教えてもらって」
えへへ…、と照れたようにはにかむ一歩に対して、
「……お前、仕事の邪魔に来たのか?」
本当は自分に会いに来てくれた事に、喜びを隠せない宮田だったが、敢えてそっけなく答えた。
「あ、ご、ごめんね…。あの…、宮田くん、バイトっていつ頃終わる?」
「もうすぐ終わるぜ。後、30分くらいだな…」
「そ、そしたらその後、ちょっと良いかな…?そこの…」
「すみませんー!会計したいんですけど、いいですか?」
一歩が話し終わる前に、レジ前に女性客が一人やって来た。
「あ、え。…ス、スミマセン!」
一歩はさっと飛びのくと、レジから少し離れて背を向けた。
向いたそこは、丁度本日の為の特設コーナーの場所で、ますます一歩は宮田を意識した。
バーコードをピッ、ピッ、とスキャンする音に混じって、そのお客の声が聞こえてきた。
「――ここでいつもバイトされてますよね?…宮田さん」
「………はい」
「あ、名前は名札見て知ったんですけど…。あの、いつもここに来る度カッコいいなって思ってて…」
「…………」
盗み聞きは良くないと思いつつ、一歩はその女性客が宮田に話しかける言葉が気になって仕方なかった。
鈍い一歩でも、流石にこの次に来る言葉は、目の前の特設コーナーで推測できた。
この場所から離れたいのに、一歩は体が動かなかった。
「コレ…、良かったら受け取って貰えませんか?」
背を向けている一歩からは見えないが、彼女の言うところの『コレ…』とは間違いなくチョコレート。
一歩は背中越しに、宮田がどんな返答をするのかを待った。
「……1250円です」
「あ、はい」
ガサガサと袋に品物を詰める音や、レジスター音に混じって、宮田が何か言っている。
先程よりも小さい声だった為、一歩の場所まで二人の会話ははっきりと届かない。ただ、
「……がとうございます。でも、―――は誰とも…――無いんで……なので、…すみません」
「そう…ですか。突然――、ごめんなさい…。分かりました…」
全てを聞かなくても、これだけで内容は分かった。
横目で一歩は見ると、先程の彼女は、只今購入したコンビニの袋を下げながら、開いた自動ドアから寂しそうに出て行った。
自分ではないのに、えらく緊張した一歩はふう…と息を吐くと、レジ前に戻ってきた。
「や、やっぱり宮田くんは凄いね!川原ジムもさっき行った時、女のコ沢山居たよ!!」
「…盗み聞きしてたのかよ…。まったく、いい趣味だな」
うっ、と詰まる一歩を他所に、宮田は残されたリボンの付いた箱を自分の足元の紙袋に入れた。
今年も彼にチョコを持ってくるであろう子が多いと踏んだ店長は、いちいちバックルームに行くのも手間だろうと思い、足元に紙袋を用意してくれていた。
用意周到な店長に軽い眩暈を覚えながらも、結局の所この紙袋を使うハメになっている事態に宮田は辟易とならざるを得なかった。
一歩がちらり、レジ下のその紙袋を見やると、そこにはもう幾つものチョコレートが入っていた。
「宮田くん、バイトしてる時もカッコ良いもん、こんなにチョコ貰うのだって、当然だよね〜…!」
素直に感嘆の声を上げ、素面で臆面も無くそう言ってのける一歩に宮田は無性に腹が立った。
「ったく……。大体…、こんなに貰ったって、本命から貰えなきゃ意味ねぇだろ」
「……え…?」
一歩は宮田のその言葉に、胸の奥の方が急速に冷えていくのを感じた。
「み、宮田くん…。そっか…、本命の子……、いるんだあ…」
動揺と、衝撃と、苦しさと、哀しさと、痛みでグチャグチャになった気持ちが一歩の表情を曇らせた。
ネイビーのベンチコートのポケットに手を入れると、そこに入っているものをギュ…っと握った。
一歩は、今の自分の顔を見られたくなくて、そして彼の顔を見られなくて、俯いたままで
宮田に対してそれだけ言うのが精一杯だった。
「……!!」
宮田は、しまった、と慌てて口を押さえると、バツが悪そうに僅かに頬を染めると一歩から顔を逸らした。
自分の本命は、今、目の前にいるヤツだというのに、その目の前のヤツは暢気に人のチョコレートの話題をしている。
そんな一歩に苛立ってつい、余計な事まで言ってしまった事を、宮田はひどく、後悔した。
「……………」
「……………」
沈黙した二人の間に、何ともいえない空気が流れる。
―――欲しいのは
――渡したいのは
お前からだけなのに。
キミだけなのに。
先に沈黙を破ったのは、宮田の方だった。
「…所で、オマエさっき何か言い掛けてたよな?いい加減レジから離れろ。マジで妨害だぞ」
「ご、ゴメン!!えと、あ、あの、公園!ここのコンビニからすぐ近くの公園で待ってるから!」
宮田が営業妨害で苛立っていると勘違いした一歩は、慌てて場所だけ言うとコンビニから飛び出して行った。
思い切り走ってたので、コンビニから数百メートルの公園に一歩はすぐ着いてしまった。
ハァハァ…と、息を整えながら足を押さえる。
彼が言った言葉がグルグルと一歩の頭の中を駆け巡る。
―――――本命から貰えなきゃ意味ねぇだろ――――
本命。 ほんめい。 ホンメイ。
よもや、宮田の口からそんな言葉が出てくるとは。
一歩の胸の奥がチクリ、と針が刺さったかのように痛んだ。
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本日のバイトもようやく勤務時間が終了し、宮田は裏口から外へ出るとおもむろに携帯を取り出し父親に連絡した。
「あ、父さん?……悪いけど、オレ今日はジム行かないから。段ボールの中身、会長と相談してどうにかしといてくれよ」
それだけ言うと、『オイ、一郎…。どうにかの前に、一通り見て…』と話途中の父親を置き去りに、通話終了ボタンを押した。
これで、ジムに届いた山のようなチョコレートとは顔を合わせずに済むと、宮田は心持ち足取りを軽くした。
そのやや軽くなった足で、一歩が待っている公園へと歩みを速める。公園の入り口に辿り着くと、
ベンチに背中を丸めて腰を下ろしている、ネイビーのベンチコートを着たツンツン頭を見付けた。
その後ろから顔を出すと、宮田は一歩によう、と声を掛けた。
「――――待たせたな」
「ううん。…バイト、お疲れ様」
「……で、何だよ。用って」
「う、うん…。あの…」
「…………?」
「きょ、今日は良いお日和で…」
「…何が言いたいんだよ」
さっきの宮田の言葉が気になってしまって、一歩はポケットに入っている物を出すのが躊躇われた。
寛子から預かった義理チョコなんだから…、と自分に言い聞かせても、どうしても出す事が出来ない。
「――――用が無いんだったら、帰るぜ。オレはそんなに暇じゃない」
一歩の曖昧な言葉に、痺れを切らした宮田は踵を返そうとした。
「わーーーっ!ま、待って、宮田くん!!!怒らないで〜…!!」
これ以上苛立たせると、事態を悪化させかねない事に、一歩はようやく覚悟を決めた。
「今日、ほ、ほら…バレンタインでしょ?だからね…。コ・コレ…」
一歩は、コートのポケットからそっと包装紙に包まれている小さな箱を出し、宮田の前に差し出した。
先程握りこんでしまった為、その包装紙は少しばかりよれていた。
「…………!」
宮田は一瞬、何が起こったのか分からなかったが、これが何であるかをすぐに悟った。
薄いブルーの包装紙に、エメラルドグリーンの細い紙リボンが掛かったそれは、コンビニで渡されたどのチョコよりもシンプルな包装だった。
「母さんが、お世話になってる人にって…。仕事もあるから、ボクから渡しておいてって」
「そうか…。お前のオフクロさんか…、…そうだよな…」
てっきり一歩からだと思った宮田は、一歩に気付かれないように僅かに肩を落とした。一体何を期待していたのかと、心の中で呟いた。
「――あ、でも母さん、宮田くんが甘いの苦手だって知らないから…」
僅かだが一歩の頬が朱に染まる。その掌も震えているのだろうか、そこに乗っている小さな箱が小刻みに揺れた。
それはこの冬特有の、刺す様な寒さだけが原因では無く。
「…ボ、ボクが選んで…、買って来たんだ」
「――――――――!!」
一歩が自分の為にわざわざ選んで買って来たと言うことに、宮田の胸の奥が熱くなる。
それは、宮田が一歩に対して胸に閉まっている感情に近いものを、一歩から感じたからに他ならなかったから。
「や、やっぱり…受け取って…貰えない…かな…?」
上目遣いに自分に視線を向けてくる一歩に、宮田はまるでこのチョコレートが、彼からの贈り物のようだ、と錯覚しそうになった。
「……疲れた時…、特に頭を使った時は、甘い物が良いんだぜ」
「……え」
「オレは今まで、何をしてた?」
「えーっと…、コ、コンビニでバイト…」
「正解」
「じゃ、じゃあ…」
一歩の顔がパアッと明るくなる。
「オレだって、たまには甘い物を食べたくなる時だってある」
そう言って宮田は、一歩の手の中にある小さな箱を手に取る。
箱を手に取った時、お互いの指先が微かに触れ合った。二人の体温が僅かに上昇した。
「中身、開けるぜ」
一歩が一体どんなチョコを自分に選んでくれたのか、宮田は居てもたっても居られなくなり、一歩の隣に腰を下ろす。
シュッとリボンを解くと、ガサガサと手荒に包装紙を開く。
箱の中には、銀紙に包まれた3センチ四方の薄いプレート型のチョコレートが何枚か入っていた。
その中から宮田はひとつ取り出し銀紙を剥がすと、その茶色より幾分か黒いチョコをおもむろに自分の口に放り込んだ。
「良いんじゃねーの、甘さも丁度いいし」
宮田の為に選んだ、甘さもカロリーも少ないビター・チョコレート。
こっそりと自分の想いを託したチョコレートを宮田が自分の目の前で食べてくれた事に対して、
先程の本命というのがまるで自分なのでは…と、一歩も錯覚しそうになった。
「――でも甘いモン喰うと、喉渇くな…」
口の中に残る、苦味を伴った独特の甘さに宮田が僅かに顔を顰める。
箱をベンチに置くと宮田は立ち上がり、そこから極近くの自販機の前に行くと、彼は飲み物を購入した。
ガタン、ガタン。と、二つ分の飲料が落ちる音がする。一歩は宮田の手の中の缶を見た。
一つは無糖のホットコーヒー。
もう一つは、ホットココアだった。
「ほら、よ」
その片方を徐にベンチに座っていた一歩に放り投げた。
「わ、あちち!」
投げられた飲み物を落とさぬようにしっかり受け止めた一歩だったが、缶の熱さに思わず手を離しそうになった。
プシュ、とプルトップを開ける音が響く。見ると宮田がコーヒーを飲んでいた。
では自分の方にある飲み物は。
「……やるよ、それ。…オマエ、甘いモン平気なんだろ?」
宮田の顔が自販機の照明に僅かに照らされている。その顔は、少し照れているようにも一歩には思えた。
宮田から手渡されたものは、ホットココアだった。
今日は、年に一度のバレンタイン。
手の中にあるココアの温かさが、一歩の心の中にも染み込んで来るようだった。
「わざわざ悪かったな。オフクロさんに、宜しく言っといてくれ」
「……うん、分かった」
「……それと、…なぁ」
「うん…?」
「―――サンキュ、な」
「ううん…。ボクの方こそ…、…ありがとう」
二人が錯覚だ、と思った気持ちはお互いに口に出して確かめる事など出来なかったが、
それでも二人にはお互いの気持ちが通じたように思え、この温かい気持ちを二人で分かち合った。