いぬもくわない。





          「―――――宮田くん、何で分かってくれないの!?」
          「分かってないのはお前の方だろ!」

          アパートの一室から、少し強めの声が聞こえる。
          その一室とは、普段は静寂を保っている宮田の部屋からで、珍しく声を荒げた会話が響いていた。

          「だって…。…千堂さん、わざわざ大阪からこっちに来て学くんのスパーしてくれるんだよ?」
          「だからって、その後で何でオマエが東京案内しなくちゃなんないんだよ!!」

          恋人同士の睦み合いもなんのその。
          この雰囲気はどちらかと言えば、リング上でのもののようだった。
          どうやら、大阪から来る『浪速の虎』――――千堂武士の事がこの事態の発端らしい。

          「うっ…。だ・だって千堂さんが……、
          『お台場やったっけ?あのフジテレビあるんわ…。あそこ、めっちゃ行きたいねん!!ガキ共に東京みやげ頼まれてもーて…』
          って言ってたから…。お土産選ぶの一人じゃよく分からないって言うし…」

          モジモジと両手の人差し指を摺り合わせて、上目遣いで一歩は宮田を見る。
          何も言わなくても、物言いたげな一歩の大きな黒目がちの瞳が、ゆらゆら揺れて

          『……ねぇ、宮田くん…。お願い…いいでしょ?』

          と、了承の返事を待っている。
          こんな時に、そんな破壊力バツグンな仕草を見せられてしまい、宮田の気持ちもぐらりと揺れる。

          一歩の、お人好しで頼まれたらNOと言えない程の優しさは宮田も好いている部分だったが、この場合は相手が悪い。
          その人の良さにつけ込んで、一歩とのお台場デート…と千堂は洒落込むつもりなのだろう。魂胆が見え見えなのだ。
          ………しかし、その事に気付いていないのは当の本人一歩だけで、宮田は頭を抱えずに入られなかった。


          何で、コイツはこんなに鈍感なんだ…!気付けよ!!


          宮田は額に手を当てると盛大に溜息を吐いた。一歩はこう言い出したら、たとえ宮田でも聞かない頑固な性格だ。

          「…分かった…。でもお前、まさかその後、家に泊めるとか言うんじゃねえだろうな…」

          無理やり自分を納得させると、宮田はこの後の事について一歩に言及した。

          「あ、それは大丈夫!柳岡さんが泊まるトコとっておくって言ってたって。―――それに…」

          一歩は宮田から了承を取れた事で、すっかり機嫌が良くなってしまい、余計な事までつい口に出してしまった。
          それは、収まりかけていた事態に火に油を注ぐ事となってしまった。

          「一度千堂さんを泊まらせて…、ヒドイ目にあったコトがあるから。断ろうと思ってたから丁度良かったよ!」


          宮田の頭が一瞬、フリーズした。




          ………は?


          泊 ま ら せ た だと!?



          つか、



          ヒ ド イ 目 に あ っ た だと!?


          宮田のこめかみに、ピキッと青筋が一つ浮かぶ。―――気が付いた時には、宮田は一歩の胸倉を掴んでいた。

          「――――テメェ…。オレに黙って千堂を泊まらせるたぁ、なかなか良い度胸じゃねーか…。しかもヒドイ目って…、…どういうコトだ…?」

          雷神と称される事が多い宮田だが、今、ここにいる宮田を称するには雷神などではとても生ぬるかった。
          そう、称するなら鬼神。少なくとも…、…今の彼の表情はそれに近かった。

          「た、大した事じゃないよ…。ただチョット(気持ちが)疲れちゃっただけで…」

          両手を挙げてブンブン手を振ると、一歩は宮田に答えたのだが、
          その答え方もどうやら中途半端で、ますます宮田の心を掻き乱す事になってしまった。



           疲 れ る よ う な コ ト って何だよオイ!!





          一歩を掴んでいる宮田の手が小刻みに震えだした。
          そんな様子を知ってか知らずか、尚も一歩は話を続けた。

          「前に、ヴォルグさんもウチに泊まったコトがあるんだけど…。
          千堂さんもヴォルグさんみたいだったら、いつまでも泊まってってくれて良いんだけど……」



          ヴォルグ!?ヴォルグって…、あのヴォルグ・ザンギエフか!?
          お前、ヴォルグも家に泊めたのかよ!!!
          て言うか、い つ ま で も 泊 ま っ て 良 い だと………?



          「……宮田くん?」

          自分の胸倉を掴んだまま、宮田は俯き押し黙ってしまった。
          その様子に心配した一歩は宮田の顔を覗き込もうと恐る恐る首を傾けたその時――――、
          宮田の怒りが沸点に達した。



          「――――ッ、オマエは鈍感を通り越して、無神経すぎんだよ!!!!!」
          「……なっ…。そ、それはボクは自分でも鈍い所があると思ってるけど…。無神経すぎる、なんて酷いよ!!!」

          普段は滅多に怒ることはない一歩も、流石に宮田にそこまで言われたら、どうやらカチンと来たらしく、宮田に対して言い返した。

          「うるせぇ!!無神経に無神経だって言って何が悪い!!!!」
          「―――――――!!!!!」


          そう口走った瞬間、宮田はハッと我に返った。思わず頭に血が上りすぎてしまい、一歩に対して言い過ぎてしまった。

          バツが悪くなり、舌打ちをすると一歩の胸から手を離した。そして自分の顔を見られたくなくて、一歩に背を向けた。
          自分の心にもない一言で、一歩を傷付けてしまった――。
          後悔だけが、宮田の心の中にインクの染みのようにどんどんと広がった。


          「み…、宮田くんなんて…。…宮田くん…なんて……っ」


          後ろから、一歩の震えるような声が聞こえる。怒りで震えているのか、悲しみで震えているのか、宮田にはその声色は分からなかった。
          しかし、その後に続く言葉は、ドラマや小説でも既に決まりきっているパターンだと言う事だけは宮田にも分かった。



          『――――――大嫌い!!!』




          そして部屋から勢い良く飛び出して行く…と言うのが定石だ。
          傷付けた自分が悪いのだが、一歩にそんな風に言われたら、しばらく立ち直れそうにないかもしれないな…と宮田は微妙に落ち込んだ。

          しかしそれもこれも自業自得。
          覚悟を決めると、宮田は一歩が次に言うであろう言葉を待った。

          ――――――が。


          何時まで経っても一歩の言葉は聞こえてこない。一体どうしたのかと思い、一歩の方を振り返ると。
          そこには怒りながらも泣き出しそうな、しかしそれを堪えようと唇を噛み締めている一歩の顔。
          そして、一歩が放った言葉は本日最大級の言葉のデンプシー・ロールとなり宮田を襲った。



          「…宮田くんなんて……。大ッ嫌い…!!なんて、嘘でも言えないよッ…!!!!」


          切れ長の宮田の目が、大きく見開かれた。


          「…っく…。こ、これ以上ないって程…好きになっちゃったんだもん…。きっ…、嫌いになんてなれないよ…。
          み、…み…やたくんの……バカーーーーーーーー!!!」

          顔を真っ赤にして。
          瞼を閉じて。
          頬を膨らませて。
          肩を震わして。
          両手をぎゅっと握り込んで。
          一歩は絨毯の床に仁王立ちしていた。




          こんな時に、まさかこんな捨て台詞を吐かれるとはよもや思っていなかった宮田にとって
          それは、KOパンチ以外の何物でもなかった。






          ――――ああ、畜生。…負けっぱなしじゃねえか。





          先程までの怒りも何処へやら。
          宮田は怒りとは別の事で、顔を真っ赤に染め上げた。
          先程までとは雰囲気の違う空気が、お互いの間を漂った。



          一歩のとんでもない発言に、宮田は頬が緩むのを止められなかった。
          自分だけが。
          自分ばかりが。


          いつも宮田はそう思っていたから。




          「……ッ!…―――悪ぃ、…言い過ぎた」


          好きだから。
          これ以上ないってくらい、惚れてるから。
          でも、口から吐いて出るのはいつも彼を傷付けてしまう言葉ばかり。
          だけど、今ならば。






          握り締めた、一歩の両の拳を宮田は優しく掴む。
          宮田が自分に触れた事に僅かに驚くと、一歩はゆっくりと瞼を開いた。


          「宮田くん……?」


          見開いた一歩の潤んだ瞳には、自分が映り込んでいる。
          見つめ返す、自分の瞳にも一歩しか映り込んではいないだろう。
          あまりの至近距離に、一歩が頬を赤く染めて、まばたきを一度したその瞬間。

          宮田は一歩の唇に自分の唇をそっと重ね、触れるだけのキスをすると先程の一歩の発言に対してジョルトカウンターで切り返した。



          「そう思ってんのは、お前だけだと思うなよ」