ドロー・ゲーム


     
     「ホント、宮田くんの呼び出しって突然だよね…。でも、これで二勝二敗だね」
     久し振りに外で会う事になった二人は今、江戸川グラウンドから程近いファミレスに居た。
     シャリシャリと、残り少なくなったオレンジジュースと細かく砕かれた氷とをストローで混ぜると、一歩は宮田にニコニコしながらそう言った。

     「…引き分けかよ…。…ちぇっ」

     ホットコーヒーの湯気から除く宮田の横顔は、どこかむくれた様にも見え返事も素っ気無いが、それが照れ隠しであるという事を一歩は知っていた。
     宮田からの急な電話。
     それは一歩にとっては、とても喜ばしい事に他ならなかったから。

     『―――会いたいんだけど』

     宮田が掛けてくる電話の内容は非常に簡素で、一歩としてはもっと話したい…、と思うのだが
     時にこんなストレートな言葉を彼の口から聞く事が出来るので、それはそれで良いのかもしれないとぼんやりと一歩は思った。

     「えへへ、嬉しいなぁ…。宮田くんから、電話掛けて貰えるのって…」

     次に会う約束など、勿論取り付けていない。『恋人』と呼ばれるカテゴリの中でも彼等二人の関係はそれほど甘いものではなかった。
     同性同士で、ライバル。
     それが分かっているからなのだろうか。
     宮田も一歩もボクシングの部分からそこを切り離して考える事が出来るほど、お互いに器用な人間ではない事を知っていた。
     だから、お互い『会いたい』という気持ちに我慢が出来なくなった方から電話をする。それが次に会う約束のルール。
     こんな時でも相手に負けたくない、と思う彼等はまるで我慢比べをしているよう。
     そしてこんなコトの勝敗でも、二人にとっては意味のあるものだった。

     「あ、でも。いきなり『…オレ』とか言われたら、母さん困っちゃうけど…」
     「んな心配すんな。……お前が出た時しか、言わねぇよ」

     ガラス窓の外の、街道を通り過ぎていく車のライトを頬杖をついて眺めていた宮田の頬が、僅かにだが色が付く。
     その言葉と表情が意味するものを感じ取って、一歩の頬もほんのりと朱に染まった。

     お前にだけ。
     自分にだけ。

     こんな些細な会話なのに、二人の鼓動は早くなるばかり。
     長い年月の間、お互いに求め合って惹かれあっていた彼等の想いはごく最近になって一つの結論に達し、
     そうして今、こうやって二人はお互いに会う機会を重ねている。
     ……と言っても、お互いに東洋と日本のチャンピオン。
     お互いにスケジュールが噛み合わない事も多く、しかも我慢の限界までお互いに連絡などしないので、
     ここまで二人で会った回数も、片手で事足りるのであった。

     だからこそ、お互い時間を共有できる喜びは何物にも変え難かった。

     ♪♪♪〜♪〜♪♪〜♪〜♪♪♪〜

     「あ、ごめん!彼からメールだ」

     甘い空気を震わすように、彼等二人の隣の席から流行の曲の電子音が鳴る。
     二人して音のする方をチラリと見やると、隣のテーブル席の女性が友人に断りを入れ携帯を操作していた。
     その様子を見ていた一歩は、ふぅ…と溜息を吐くと、先程まで幾つかの皿が乗っていたテーブルに突っ伏した。

     「…ボクも携帯、持とうかなぁ…」
     「……は?今更何言ってんだよ。別にいいんじゃねえの、持たなくても」

     机に顎を乗せたまま、やや呆れた口調でそう言った宮田を見上げると一歩は頬を膨らました。

     「メールだったら、電話じゃないからカウントされないかな、とか、思って」
     「――成程。考えたな、お前にしては」

     頬杖はそのままに、正面を向いた宮田が一歩を見下ろす。かちり、とお互いの視線がかち合う。
     今度は一歩が両手で頬杖をつくと宮田と同じ目線の位置に姿勢を戻した。

     「…それに、いつでもどこでも会話してるみたいで、まるでいつも会ってるみたいじゃない?」
     「実際には、『会話』じゃなく『メール』だけどな」

     宮田はカップに残っていたコーヒーを飲み干すと、腕時計を見る。
     まだ大丈夫だな…と独り言のように呟くと、伝票をスッと取ると立ち上がり一歩に向かって、

     「だったら、行ってみようぜ。携帯見によ」

     と、一言投げかけた。

     「…やっぱり、宮田くんって突然だなぁ…」

     オレンジジュースを慌てて飲み終わらせ席を立った一歩の頭は、キーンと痛くなった。






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     結局、一歩は機種カタログをいくつかもらって来ただけで、携帯を購入する事はしなかった。

     宮田に連れて来て貰った、地元の地下鉄の隣駅にある携帯ショップ。
     お洒落なデザインや、色々な機能、種類の豊富なカラーリング。
     どれもこれもに目移りしてしまい、店員はそのオタオタしている一歩に細かく説明をしていた。
     店員の説明を「はあ、はあ…」と半分も理解していなさそうな一歩を他所に、宮田は窓口で携帯のバッテリーを新しい物と交換してもらっていた。

     「み、宮田く〜ん!」

     新機種のコーナーに居た彼の所に宮田は戻ってくると、数枚の冊子やチラシを手にした情けない顔をした一歩に尋ねた。

     「どうだ、何か良いヤツあったか?」
     「……いきなりお店に来ても、色々ありすぎて分かんないよぉ〜…。
      店員さんに勧められて、カタログこんなに貰っちゃったし…。おまけに目がチカチカしてきた…」
     「見慣れないもん沢山見たからか?…ったく、しょうがねえヤツだな」

     目を瞬(しばた)たかせる一歩に、宮田は軽く笑うとショップ内の時計を見た。もうすぐ、ここも閉店の時間だ。

     「んじゃ、帰るか。気になったら、また来りゃ良いんだしよ」
     「う、うん…。そうだね…」

     自動扉をするりと抜けると、後ろから『ありがとうございましたー』と店員の声が小さく聞こえた。


     もと来た駅に戻ると時間は夜の八時をやや過ぎた所で、そろそろ彼等二人の共有する時間も終わりが近付いてきた。
     京葉道路に沿って二人でしばらく歩くと、河川敷が見えてきた。
     街中は、住宅の明かりや店のお陰で明るかったが、河川敷の方は頼る明かりが少なく、薄闇に覆われている。
     上を通っているこの道路に等間隔に並んだ街頭と、そこを通っていく車のヘッドライトとテールランプの明かりが、夜の闇にぼんやりと流れてゆく。


     「……で。携帯は、買う事に決めたのか?」
     「う〜ん、なんか保留って感じかな。…もう少し考えてみる。便利そうなんだけどね〜…」

     町の賑やかさがだんだんと遠くなる。その中を二人はゆっくりと歩いていく。
     流れていく川の静けさが、お互いの息遣いを余計に伝わらせるようだった。

     「…宮田くん、今日はありがとう。もう、ここまでで良いよ。帰るの遠くなっちゃうし…」

     京葉道路沿いから451号線へ進路を変え、少し行った所で一歩は横を歩いていた宮田に振り返った。
     人気の無い夜の河川敷を、二人きりで歩いている、という事を一歩は妙に意識してしまった為だった。


     「じゃあ、おやすみなさ…」

     別れの挨拶を切り出そうとした一歩の左手首を不意に宮田は掴んだ。

     「……さっき、言ってたよな」
     「…え?何、を…」
     「メールが会ってるみたい、だって」
     「あ、うん…」

     いきなりな宮田の発言に、思考をその時の会話に戻そうとしていた一歩はやや動作が鈍った。
     痛くは無いが、宮田にやや強く掴まれた左手首が熱く、痺れる。
     宮田は真っ直ぐに、一歩の顔を見つめた。
     掴んだ宮田の掌にも、一歩の鼓動がトクトクと伝わり、流れ込んでゆくようだった。

     「み、や…」

     会話の意図が分からず、一歩はもう一度彼に問いかけようとした時、今度は右の手首も掴まれた。
     バサバサ、と先程貰って来たカタログが地面に所狭しと散らばった。
     
     
     「メールなんかじゃ、我慢出来ねえよ」

     そう言うと宮田は、一歩の両手首を両手で掴むと、そのまま顔を近付け一歩の唇に自分の唇を重ね合わせた。
     あまりに唐突なそれに、一歩は目を瞑る事が出来ず、宮田の伏せられた長い睫毛を間近で見ることとなった。
     薄い皮膚の柔らかい感触に、お互い、眩暈がしそうになる。
     触れ合った時間はほんの一瞬だったが、二人にとって『それ』は、初めての出来事、だった。




     「――――オレは、お前の顔が見たいし、……こうやって、触れたい。」
     「だから、会いたいんだよ」

     掴まれている、一歩の手が僅かに震えた。
     掴んでいる、宮田の手もまた、同じく。

     夜目でも分かるくらいに、二人の顔は赤くなった。
     遠くから微かに聞こえてくるガタン…ガタン…という電車の音が、やけに二人の耳に響いていた。

     「――お前はどうなんだよ」

     きゅ、と宮田に両手を握り締められて、一歩はますます以ってその顔を赤く染め上げた。

     「―――ボ、ボク、も…。宮田くんの顔が見たいし…、み、宮田くんに……触れ、たい」

     消え入りそうな小さな声だったが、宮田には一歩のその言葉がしっかりと届いた。
     宮田は一歩の手首から手を離すと、今度は一歩の身体を抱きしめた。
     互いの心音が、少し早いリズムで波打っているのを彼等はおたがいに耳にした。

     「じゃあ、今度はお前から電話掛けて来いよな?」
     「え、ヒドイ!それじゃあボク三敗だよ…」
     「良いじゃねーか」

     太い眉を下げて、一歩は宮田を見上げた。その頬は未だに赤味を帯びている。

     「…どうせ引き分けに、なるんだからよ」

     宮田はそう言って一歩を見下ろすと、見上げた一歩の顎を捉え、その柔らかい唇に自分のそれ、をもう一度重ねた。
     一歩の瞳が潤んで揺れ、今度はゆっくりと瞼が閉じられた。
     また通り過ぎてゆく電車の音だけが、彼等の耳を微かに掠めて行った。