きっと、―――――そこが、ボク達の辿り着く所で。
          きっと、―――――そこが、答えのある場所。






          華 雪   (5)






          一歩は目を疑った。やや大きめの黒めがちな瞳が一瞬、ひどく頼りなさげにゆらりと揺れた。
          それと当時に、一歩の血液が沸騰しそうなほど激しく脈を打った。



          どくん どくん どくん どくん どくん どくん どくん どくん


          ごくり。と、唾を飲み込む音が一歩の耳の中でひどく大きく響いて聞こえた。



          どうして。
          どうして。
          どうして。
          どうして。



          一歩は、震えそうになる唇に、自分が焦がれている人物の名を乗せて、その相手を呼んだ。



          「…宮…田くん……」

          「……よぉ…」















          宮田と一歩は何も言わずに、着かず離れずの距離であの桜並木を一緒に歩いていた。
          もう散っていくばかりな桜と、日中とは異なる時間と、裏道のような並木道の為、ここを通る人は殆ど居らず、
          今この場所にいるのは、宮田と一歩の二人だけの様であった。



          宮田は、桜の木に凭れたまま一言だけ一歩に返事をしたが、それ以上は口を開かなかった。
          だが、宮田の格好はジャケットとGパンと言う普段着で、ここをロードワークに使っていた訳ではなく、まるで一歩を待っていたかのようで。
          そして宮田は一歩に対して『ちょっと付き合え』と、暗に言っているように
          一歩に背を向けると桜並木をゆっくりと歩き出した。

          一歩も、何も言わずに歩き出した彼の後を、着いていくように歩き出した。
          沈黙が、今の彼と一歩の上に重く伸し掛かり、それがまた新たな静寂を生んでいた。


          は ら り。  は ら り。 は ら り。 

          どこまでも続く桜並木の中、二人は今だに口を開こうとはしなかった。
          その静寂の中、桜の花びらだけが、まるで何かを言おうとしているかのように、それを地面に落している。


          音も無く降り落ちるそれは、地面に落ちて敷き積もり、街灯の薄明るい淡い光に照らされて、柔らかな花の絨毯を造り出していく。
          その上を、宮田と一歩は一定の距離を保ちながら、何も言わずに歩いていく。


          ふと目にした街灯に照らし出された桜の花弁は、色味を失い、薄白く舞い落ちて、一歩の瞳の奥に焼きついた。




          瞳の奥から伝達される、頭の中を駆け巡る真っ白なイメージ。
          そうだ、これは―――――――――――。




          一歩がそう思った瞬間、一陣の風が一歩の後方から、この沈黙を振り払うかのように一瞬。びゅわあ、と、吹いた。
          ざざあ、と桜の木の枝が揺れる。梢が撓る。……そして、舞う花びら。
          そして、その桜の花びらは先程よりももっともっと、数え切れないくらい数多に、彼等二人に降り注いだ。






          「…わ……」

          「……すげ…」


          これには宮田も一歩も足を止めて、ただただ自分の頭上を見上げて、無意識に呟いていた。




          二人の上に降り注ぐ、闇に鮮やかに浮かぶこの桜の花びらはまるで。

          高校の卒業式の帰り道の、三月にしては肌寒い、あの時のように。
          一歩の四度目の防衛線の前の、あの時の冬の日の夜のように。


          二人の記憶が、いつかのあの日に蘇る。






          「「……雪…」」






          「みたいだね」

          「みてえだな」



          同時に口にした同じ言葉に、宮田と一歩はお互いの顔を見合わせて少しだけ笑った。
          今しがた吹いた強い風の名残はまだわずかに残っていて、それは宮田と一歩の遥か後ろで小さな風の渦を作り、
          降り落ちた花びらをくるくると巻き上げながら、まるでダンスをしているかのように、ふわりふわりと踊った。


          先程までの重い沈黙が、僅かに、少しだけ和らいだ。




          「………この前は…」

          不意に、今まで黙っていた宮田が一歩に向って話し掛けた。
          ………と言っても、宮田はまた前を向いてしまい、それは一歩に対して話し掛けたと言うよりも、どこか独り言のような呟きを含んだ言葉だった。

          「急に、…抱きしめたりして……悪かった」

          今だに前を向いたままの宮田が、どんな表情でこの言葉を言っているのか、一歩はとても知りたくなった。

          「…宮田くん…」



          今なら。
          今なら、その理由を彼に聞けるかもしれないと思い、一歩は意を決した様に唇を開いた。



          「………どうして…?」

          「どうして、ボクを抱きしめたの…?」





          その一歩の言葉に、今まで一歩の方を向こうとしなかった宮田が、僅かな逡巡の後、一歩に向き合った。
          普段見せる、彼の強い瞳の色に今日は幾分か何か混じり、眼差しの色を変えさせているように一歩は思った。
          宮田は表情を苦くすると、覚悟を決めた様に口を開いた。


          「…自分でも良く分からねぇんだ…。……ただ、あの時は……」

          躊躇いがちに紡がれる彼の声色は、自信に溢れ、凛としたプライドを持った低いが良く通るいつもの声とはどこか異なっていて
          一歩は自分の中の、彼の知らなかった一面を初めて垣間見た様な気がした。


          「…お前を抱きしめたい。って、そう思ったんだ」

          あんな事を自分にするなんて、何か理由があっての事だと思っていた一歩にとって、
          思いも寄らぬ宮田の言葉は、一歩の胸をどくん、と一度高く鳴らした。

          「……宮田くん…」

          「――――いや、違うな。……分かっているのに、知らないふりをしていただけ、なのかもしれない」

          一歩から視線を外すと、宮田は一瞬、微笑んだ。自嘲めいた、微笑だった。

          「……え…?」

          宮田が何を言いたいのか、何を言おうとしているのかが分からず、一歩は宮田の顔を不思議そうに見つめた。
          その不思議そうな顔を宮田は穏やかに見つめ返すと、目を細め、桜の絨毯をきゅっと踏みしめて。
          一歩との距離を微かに詰めて、こう言った。





          「『幕之内 一歩』と言う一人の人間の存在が……オレの心の中を酷く、占めて、いるんだ」


          「…みや…た……くん」

          一歩は宮田が今、何を言ったのかが理解出来なかった。
          それは言葉として理解できなかった訳ではなく、宮田が自分に対して思っている感情に対してであった。


          それは。


          まさか。


          一歩の心臓の鼓動がその音を大きくする。


          「それがライバルとしてなのか、それとも別の感情からきているものなのか、自分の中でずっと…、計り兼ねていた」

          ――――――彼が。――彼も、自分と同じ気持でいたなんて。
          一歩の鼓動が早鐘を打つようにドクドクと音を立てる。
          完璧で、冷静で、迷いがなくて…、とても心の強い人だと思っていた。
          けれど今の宮田を見て一歩は、彼のそんな所をとても人間くさいと思い、愛おしい、とも、思った。


          「…………でも、この前お前を抱きしめて、やっと答えが出た気がする」

          一歩の心中を察しているのか、いないのか、宮田は途切れ途切れになりながらも言葉を紡いでいく。
          そして、また一歩との距離を詰めると。


          「……オレは、お前の、コトが…」

          宮田と一歩との距離は、もう、体一つ分もなかった。


          宮田の言葉が、吐息が、鼓動が。




          ――――――――華が、風に煽られ、また降りしきる。








          雪のように。




          「…好き…なんだ…」






          降り積もる。







          宮田は一歩の体をきつく抱きしめた。華雪は、まだ、止まない。




          「………宮…田、く……ん…」

          一歩は宮田にされるが侭に、抱きすくめられていた。

          「…男同士なのに、変だよな?―――でも、オレは不思議と嫌悪も抱かなかったし、そう認めた途端、
          今まで騒いでいた訳の分からない感情が静まっていくような気がしたんだ」

          宮田は、一歩の肩に顔を埋めた。サラサラと艶のある綺麗な黒髪が、一歩の肩から流れるように零れ落ち、宮田は一歩に緩く体を預けた。
          一歩は何も言わず、彼の唇から紡がれる言葉に、ただ、耳を傾けていた。

          「それに…好きになっちまったもんは、男だろうが女だろうが関係ねぇし、な」


          決定打を苦笑混じりに口にした宮田だったが、
          そこには一歩の知りうるいつもの宮田の真っ直ぐな意思が見え隠れしていて、一歩は少しだけ安堵した。

          「――――でも。同時に、お前に対してこんな想いを持って、お前との来るべき試合に臨む事は、ボクシングに対しての冒涜の様にも思う。
          約束は、純粋にボクシングを通してオレとお前が果たそうとしているものなのに、オレは、それとは別の感情をお前に抱いている……。
          ……こんなコトは、とても許されるべきじゃない」

          一歩の肩に顔を埋めたまま、宮田は言葉を続けた。震えるような、声色だった。

          宮田は、――宮田もまた、一歩と同じようにこの桜に何か見出せるのではないかと思い、ここに来たのだろう。
          そして、一歩と同じく気付いてしまった感情を持て余していた事も。
          宮田のそんな思いを初めて目の当たりにした一歩は。


          ああ。矢張り、なんて彼はボクシングに対して純粋で、誠実で、不器用なほど真っ直ぐなひとなのだろうか、と。
          そんな宮田が好きで好きで、一歩はとても泣きたくなった。



          そして。もっともっと、このひとをすきになりたいと。




          「……ボクは…。……ボクも…、…宮田くんのコトが、好き、だよ」

          そう思った途端、気が付くと一歩は自分に寄り掛かってくる宮田をそっと抱き返し、自分の宮田に対する感情を吐露していた。
          その行動と、言葉を聞いた宮田は、驚きに顔を上げ、ゆっくりと一歩の方に顔を見遣った。


          「ボクも、気が付いたんだ…。理屈で人を好きになる訳じゃないし、それが同性であっても、なくても、宮田くんを想うこの気持は変わらない。」

          「…お前…」

          宮田が見た一歩の瞳は、普段の大人しい彼からは思いもよらぬ程強い光を放ち、
          その光から目を逸らす事が出来ぬまま今度は、宮田は一歩の紡いでいく言葉を静かに聞いていた。


          「………宮田くんの考えているコトは、とても尊いコトだとボクは思うけれど、その答えの出し方はきっと、とても苦しいと思う…。
          大事なものは、一つだけ、なんて。決めてしまうから捨てなきゃいけなくなる。
          ――けど、そうやって犠牲にしなければいけないようなものなら…、ボクは最初から持ちたくはない、よ」

          宮田の目が大きく見開かれて、一歩の瞳を見つめる。一歩の黒い大きな瞳に映っているのは、宮田ただ一人。



          「ボクは、『ボクシング』も、『宮田 一郎』という一人の人物も同じくらい大事で、同じくらい好き、だ。
          比べようとするから、いけないんだよ。大事な気持は全部同じなんだもの、比べられっこなんて…、…ない。
          ―――だからボクは、この想いを抱えたままリングに立つと思う。大事な想いはすべて、持ったまま」


          一歩も、宮田の瞳を見つめ返した。宮田の瞳に映っているのも、一歩ただ一人であった。
          そして、その覗き込んだ宮田の瞳が段々と強い力を取り戻していくような色を帯びてゆくのを、一歩は感じていた。

          宮田の腕が、一瞬、強い力を込めて一歩の背中を掴んで、…そして次の瞬間にはその腕も離し、宮田は一歩を解放した。
          風はもうすっかり凪いでいて、降り落ちていた花びらはもう、雪を思わせていた面影を残していなかった。でも。

          それは確かになにかが変わっていくような出来事だった。


          「…お前は……、強いな」

          宮田は、何処か遠くを見るような眼差しで、一歩に向ってポツリと唇を動かした。

          「ううん、ボクは存外、欲張りなだけ。」

          それに対して一歩は小さく首を横に振ると、泣きそうなほどに綺麗な微笑みを浮かべた。

          「…そうか…」

          「…そう、だよ」

          そうしてまた二人は、お互いの顔を見合わせて少しだけ笑った。











          「じゃぁ…。…もう、行くね。母さん、心配してるだろうから。」

          桜並木から遊歩道を通り、住宅街の明かりがまばゆくなり、いつものロードのコースの土手が見えてくると、一歩は前を歩く宮田に向って声を掛けた。
          あの桜並木で顔を見合わせて笑った後、家路に帰るようにここまで戻って来た二人であったが、その間二人は殆ど言葉を交わしていなかった。
          でも、その沈黙は先程のものとは違い、とても穏やかなものであった。



          「ああ…。オレも、戻る…」


          ここの通りの分かれ道で二人は別れる。


          一歩は、右に。
          宮田は、左に。




          「…じゃあね」

          「…じゃあ、な」


          別れの言葉を言って歩き出したものの、その数秒後、二人共同時に後ろを振り返ってしまった。




          「…負けないからね」

          「…こっちこそ」





          そう言うとお互いに背を向けて再び歩き出した。
          来るべきその約束の場所に向って、同じ想いを抱えて歩き出した二人。



          二人とも、もう、振り返らなかった。









          FIN.



          桜の花の散りゆくさまが美しくて、桜を題材にした切ないようなどこか優しいようなお話が書きたい!(しかも続き物…)と言う
          漠然とした考えのもとスタートした初一歩SSでした。
          自分の中では納得の行くような方向で最後まで書けたので満足しております。(所詮は自己満足ですが…・笑)

          2004年から随分経過してから、宮田くんにとって『桜』と言うものが特別な意味を持っていた事が分かって、
          個人的にものすごく嬉しくなりました。