11月も終わりに近付いてくると、夜は大分冷え込みが厳しくなってくる。
特に海沿いの防波堤は、海からの吹き曝しの為、風が肌に刺さるようだ。
しかし、そんな寒さを気にする様子も無く夜の中、防波堤を一人歩いてくる男の姿が見える。
ひゅう、と時たま強く吹く海風に艶のある黒髪と上着をなびかせながら、宮田は緩やかにその歩みを止め、闇に溶け込む海を見た。
何故、またここへ来てしまったのだろうか?
彼との約束を破棄しておいて尚、自分にはまだ未練があると言うのだろうか?
…そんなコトは、無い。―――――無い、筈なのだ。と、宮田は先程の気持ちに頭(かぶり)を振る。
それでも、宮田の心の中をいつも占めるのは彼―――…、幕之内 一歩なのだ。
その彼との約束を反故にして、来るべき因縁の相手に対して一心不乱にトレーニングをする時も。
千堂と急遽行った、スパーリングの時も。
そして、宮田にとって子供の頃の誓いともいえるべき運命の試合の中でも。
彼の心の中には、いつも、いつでも 『幕之内 一歩』が居た。
心の奥の、奥の方で、いつも宮田は彼に焦がれていた。
それ程までに『彼』は自分の中に入り込んで、その存在を大きく、強くしていた。
自分が約束を反故にしたあの日からもう随分経つというのに、いつも考えるのは彼の事ばかり。
あれ以来、宮田は一歩にどんな顔をして会ったらいいか分からず、会いたい気持ちを持て余していた。
でも、特に今日は一歩に無性に会いたくなってしまった。
それは今日という日が、彼、『幕之内 一歩』の産まれた日――――、誕生日…、だったからなのかもしれない。
「……クソ…ッ……!」
自分でも良く分からない感情に振り回されながら、気がつけばここまで来ていた自分に対し、
宮田は唇を噛んで、自分に対しての苛立ちの言葉を呟いた。
そうして呟かれた言葉は、自分以外の誰にも届かず、闇夜の海に沈んでいった。
It should also surely resemble love.
防波堤を抜け、程なく進むと一歩の自宅が見えてきた。
『釣り船屋』と言う事もあり、ガラスの引き戸の鍵は常に開いている事が多いのだが、
今の時間帯を考えると宮田は何となく戸に手を掛ける事が憚られた。
ここまで来てしまったが、どうやって声を掛けていいものやら宮田が悩んでいると、施錠をしに来た一歩の母親、寛子の影がガラス越しに映った。
どうやら寛子も、外側に映った黒い人影に気がついた様で、宮田の目の前で鉄壁のように立ち塞がっていたガラス戸は
寛子の手によって、カラカラと音を立ててあっけなく開かれたのだった。
「……あら、あなたは確か………」
以前にも訪ねて来た事がある、見覚えのある青年に寛子が声を掛けると、宮田は軽く会釈をして口を開こうとした―――が。
一歩の名前を言う所で、宮田は喉から声が出なくなってしまった。
高校の卒業式の時も、一歩の4度目の防衛戦の時も、宮田は彼に会いに一歩の自宅まで訪ねた。
自分の息子と同じくらいの青年が、一体誰に会いに来たのかという事は誰が見ても明白で、
一歩の名前を呼ぶ前に、寛子は宮田の言わんとする事を汲んでくれた。
なので未だに、宮田は寛子の前で一歩の名前を呼んだ事がない。
ただ、流石に三度目ともなるとどうしたものか…と宮田は悩んでしまった。
『アイツ』 では、彼の母親の前では失礼な気がして言い難い。
『幕之内』 では、苗字な為母親も当然幕之内だ。
『一歩くん』 などどは、口が裂けても言える筈も無く。
「…あの……。……いますか……?」
結局宮田は彼を指す言葉が見当たらず、語尾を少々小さくして寛子に問いかける事しか出来なかった。
それを聞いて、宮田の言い方で寛子は何かを察したのかクスリと笑うと、
「そんなに緊張しないで。普段のあなたが、あの子を呼ぶ様に言ってくれて構わないから」
「……ね、宮田くん」
と、その口元の皺を微笑みで深くすると彼の名前を呼んだ。
『幕之内 一歩』と言う存在を、自分がどれだけ意識しているかという事を寛子に覚られてしまったようで、宮田は少し照れくさくなりながらも、
「……はい」
本当に一言だけ、そう小さく答えた。
「そうそう、一歩の事ね。…ごめんなさいね…。あの子、今日は遅くなるって言ってたから…。まだ、帰って来ないんじゃないかしら…」
寛子は心底すまなそうな表情で宮田に答えた。何しろ、自宅で会えなかった事がこれで三度目なのだから。
「…そう、ですか……」
ここへ来るまでの間中、会って自分はどうしたいのか、それとも会うべきではないのではないか…、でも、
それでもどうしても一歩に会いたいという複雑な気持ちが宮田の中で鬩ぎ合い、ない交ぜになり心のバランスを揺らしていた。
こんな時に彼に会ったとしたら、きっと彼を傷付けてしまうのではないかと思っていた宮田は、
一歩に会えなかった事に対して、心の何処かでひどく安堵した。
「…すみませんでした。…それじゃあ失礼しま……、」
会わなくて、良かったのかもしれない…、と、宮田が冷静さを取り戻し、寛子に一礼すると踵を返しもと来た道を帰ろうとした。
その時、寛子が引き止めるように口を開いた。
「こんな寒い中わざわざ来てくれたんですもの、お茶の一杯でも良かったら飲んでいって頂戴な」
ニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべると、寛子は自宅に上がるよう宮田に促した。
一度目も二度目も一歩の自宅へ来た時、寛子の申し出を断ってしまっていた宮田に三度目の断る術が見付かる筈も無く。
この穏やかで柔らかい、優しい笑顔を見るにつれ、一歩のあの笑顔は母親譲りのものなのだろう…と、
幕之内家の廊下を歩きながら、前を行く寛子に宮田は彼の面影をうっすらと感じていた。
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「それじゃあ、一歩の24歳の誕生日を祝って〜〜〜」
「「「「乾杯ーーーーーーーーーーー!!!!!!」」」」
木村の音頭で、鴨川ジムのいつもの面々の持つグラスのコップが上がる。
「悪ぃな、一歩。いつもと同じ所でよ。オレも今日は、店のシゴト入れちまったしよ…。
…そん代わり、好きなだけ食ってけよ!それがオレからのプレゼントつー事で」
「ありがとうございます、青木さん。仕事入ってるのに、わざわざスミマセン……」
厨房から、青木が菜箸を振りながら『い〜ってコトよ!』と一歩に声を掛ける。
いつもと同じ『中華そば・岩田』のカウンター席で、いつものメンバーが自分の誕生日を祝ってくれている。
特別な事がなくても、一歩にはそれだけで嬉しかった。
「まー、ここが一番落ち着くし良いんじゃねえの?……ただラーメン屋で誕生日祝いってのもアレだからホレ、誕生日らしくコレも用意してみたぜ」
木村が若干厚みのある白い箱から取り出したのは、純白のクリームに包まれ、上に苺の沢山のったバースディ・ケーキだった。
「うわぁ〜、美味しそう…。ってコレ、確かデパート行かないと売ってない有名なやつですよね、木村さん!!」
「おー、板垣。流石にお前は目敏いな。実はコレの為に、先にジム上がって買って来たんだよ」
「木村さん、やりますねぇ…。それでは、次はボクから。
奈々子と一緒に選んだんですが…、これからますます寒くなりますので、いつも着けて下さいねv」
『開けてみて下さい』と、板垣に催促され渡された紙袋の中身の箱の包装を取り箱を開けると、
そこにはシンプルだけれど品の良い、肌触りの良い暖かそうなグレーのカシミアの手袋が入っていた。
世の中の情報にわりと敏感な方の木村と板垣は、こう言う事にかけてはピカイチにマメだ。
一歩は彼らのそういう所が、全くと言って自分には無いものだったので本当に感心するばかりだった。
「ありがとうございます!!木村さん、学くん。本当に嬉しいです!」
何度も何度も頭を下げる一歩を木村が制し、『主役なんだから、もちっと威張ってもいいんだぜ?』と
笑いながら一歩の胸に小さな花束を差し出した。
「こっちのプレゼントは、おまけ、な」
さすが花屋の息子だけはある。小さく纏まったアレンジメントだが、黄色やオレンジ・赤等の明るい色を基調とした
水色のラッピングで包まれた可愛い花束は、いかにも一歩をイメージしたと思われるものだった。
「……本当に…、ありがとう…ございます…」
学生の時には考えられなかった、幸せな誕生日の過ごし方に感極まって泣きそうになる一歩だったが、
そこにドカドカと茶色のビンを握り締めた、一際体格の良い大男が水を差しに来た。
「お〜う、一歩!!今日は何とも目出度い日じゃねぇか…!オレ様からのプレゼントはコレだ!!」
理不尽大王こと鷹村が、一歩の前に置いてあったオレンジジュースを勝手に取り飲み干すと、空になったグラスに
持っていた茶色いビンから、金色に光り輝く液体を並々注いだ。
「……鷹村さん!ってコレ、ビールじゃないですか!!!」
予想もしていなかった行動を取られて、一歩は先程の余韻に浸る暇などすっかり無くなってしまった。
「何おぅ?オレ様の注いだ酒が飲めねえってのか…!?ああん!?一歩!」
良く見ると鷹村の顔が少し赤い。自分の誕生日にかこつけて、どうやらすでに何杯かやった様だった。
「……あの人は主役でもないのに、威張り過ぎてはいませんかねぇ…?」
「………言うな。それを言ったら、普段はどうなる…。」
鷹村に絡まれている一歩に助け舟を(とばっちりが恐ろしくて)出せない木村と板垣は、温い目で二人を見守るしか出来なかった。
鷹村のあまりにも典型的な酔っ払いの管の巻き方に、溜息を一つ付き一歩は観念すると
「分かりましたよぅ…、飲みますよ!でも!!一杯だけですからね!」
と、グラスに口を付けた。ほろ苦く、そして爽快な炭酸が弾け喉を潤す。
普段から節制をしなくてはならないのがボクサーの常だが、今回はたまたまこのメンバーで試合が近い者が誰も居なかった。
鷹村もそれを分かっていたのだろう。
「…誕生日くらい、少しは羽目を外したっていいんじゃねーの?――ったく。クソが付くほど、いつも真面目なんだからよォ…」
一歩に聞こえるか聞こえないか分からないくらいの声量で、鷹村が独り言のように呟いた。
これも鷹村なりの祝いの仕方なのだ。
「おーい、どんどん料理出すからドンドン取ってってくれよ〜」
青木がカウンターの一つ上の棚に、出来上がった料理を乗せていく。
出来立ての湯気の中から漂う美味しそうな匂いに誘われて、一歩はまた一口ビールを飲んだ。
久し振りに飲むその味に一歩は少しだけ顔を顰めたが、その苦さを美味しさに感じる様になった自分は昔に比べ、
随分と大人になったのだなあと、一歩は思った。
一歩は父親に似ていて、酒にはそこそこ強い方だった。
が、やはり普段から飲みなれている訳ではなかったので、たったコップ一杯でも、ほろ酔いのフワフワした良い気持ちになってきてしまった。
気がつくと、一歩はボクシングを始めた頃から今までの事をぼんやりと思い出していた。
高校2年生でボクシングと出会い、『宮田 一郎』という自分と同い年の一人の人間に出会うことが出来た。
彼のボクシングにおける姿勢や、内に秘める闘志、戦い方。そして、信念。その全てに一歩は憧憬し、尊敬し、惹かれていった。
一度目のスパーで宮田が勝ち、二度目のスパーで一歩が勝ち、『決着はプロのリングで…』と言う言葉を残して、
宮田は鴨川ジムを後にし、川原ジムに移籍した。一歩と戦う為に。
その宮田の言葉を胸に、ここまで彼との約束を目指し一歩は一歩なりに努力をしてきた。
―――――だが、その約束は宮田が許しを請うようなカタチで約束を反故にし潰えてしまった。
気がつくと、あの約束から、もう、七年もの年月が経っていた。
それは、一歩にとっては長いようでいて、どこか短いように思える歳月だった。
宮田の身勝手ともいえるその行動に、最初は辛い気持ちや悲しい気持ち、やり切れない想いしかなかった一歩だったが、
月刊ボクシングファンの飯村や伊達、鴨川会長の言葉で自分を取り戻し目を覚ますと、新たな道を歩き出す事を一歩は決意した。
そして、宮田が自分との対戦を断ってきた最大の理由が明らかになると、一歩の中の、彼に対する複雑な気持ちは跡形も無く消し飛んでしまった。
宮田の想いの根幹が、彼との二度目のスパーの前に自分に語った時となんら変わる事無く、
彼の心の中に強く、深く息衝いているのだと一歩には痛いほど分かってしまったから。
鴨川ジムの面々も、当初は約束を反故にした宮田を良くは思っていなかったのが、理由が明らかになるにつれ、
仕方の無い事だったと皆、納得せざるをえなくなった。
…………そして、桜の咲くあの時に行われた、宮田にとってのもう一つの運命の試合。
あの試合で、昔からの想いをついに貫いた彼に、ますます一歩は心惹かれてしまった。
そしてこれからも、そんな彼をずっと追い続けて行きたい、と一歩は思った。
こんな風に、自分は今までも、これからもずっと彼に焦がれていくのだと一歩は思った。
唯一人、鴨川会長だけは今だに絶縁宣言の尾を引いていて、宮田親子の事に関して触れる時はやや苦い表情を浮かべていた。
幼少から宮田の事を良く知り、あまつさえも彼の父親もこのジムで育てた身である事もあり、鴨川にとっては複雑な心情でしかなかった。
しかし、春に行われた宮田の試合を見届けると、会長の中でも少しは変化が見られるようになった。
―――が、言ってしまった手前、一度口にした事を覆すと言うことが会長の性格上、多分無理なんじゃないかなあ…。と、
八木は眼鏡の奥の目を細くして、笑って一歩に言ったのだった。
『まったく、素直じゃないよね。会長も』
まだ少し残っているビールグラスを両手で握ると、一歩は酒の酔いとはまた違う事で頬を赤くし、ふふ…。と微笑んだ。
「んッ?何をニヤニヤしてやがんだ!どーせ、また宮田の事でも考えてやがったんじゃねーのかー!?」
「先輩〜〜。自分の誕生日くらい、宮田さんの事を考えないで楽しんでも良いんですよぅ〜…」
「宮田の事も良いけどよー、本日の主役!ローソクの準備が整ったぜ。一気に行けよ!!」
「吹いたらコッチ持って来てくれよ、切り分けてやっからよ。一歩、主役のお前にはチョコプレートも付けてやるからな!」
一歩に対してそれぞれが思い思いの声を掛けると、一歩の思考はすぐさま『今まで』のことから『今』に戻ってきた。
すっかり他の皆もこの祝いのムードに流されて、どこか浮き足立つ様な雰囲気になっていた。
そしてこの穏やかで楽しいひとときに感謝するべく、一歩ははにかみながらお礼の言葉を言った。
「……鷹村さん、木村さん、青木さん、学くん…。本当に、ありがとうございます!!」
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寛子に案内されて、通された八畳の居間に腰を下ろすと、宮田は何だか無性に落ち着かない気分になった。
ここで一歩が生まれて、そして暮らしていると思ったら、彼のプライベートを垣間見たような気持ちになったからだった。
置かれた座布団に正座をした足の爪先が、まだ痺れてもいないのにムズムズして来る感覚に、
宮田はやはり自宅に上がるのを断った方が良かったか…と後悔した。
寛子は宮田を案内すると、『楽にしてね』と一言言い残し、そのまま奥の台所に消えてしまった。
チクタクと、時計の秒針の音がやたらに耳に衝く。
宮田は寛子に聞こえないように、盛大に溜息を一つ吐いた。
程なくすると、湯呑みを二つお盆に載せて寛子が戻って来た。一つはいかにも客人用の茶托付きの物であったが
もう一つは、長く使っているのが分かる、少し色の褪せた湯呑みだった。
「はい、どうぞ」
「…頂きます」
ペコリとお辞儀をすると、宮田はテーブルの上に置かれた湯気の立ち上る緑茶を一口飲んだ。
まろやかな苦味と、後に残る微かな甘味のあるその緑茶は、先程まで落ち着かずにいた宮田の気持ちを解すのには十分だった。
寛子も、持って来たもう一つの湯呑みを自分の前に置くと、宮田の正面に座ってお茶を一口飲んだ。
そして、ゆっくりとではあるが、ポツリポツリと宮田に話しかけた。
「……一歩がボクシングをするようになってから、釣り船屋のお客さんの他にも、ここには色んな人が出入りするようになったけど…。
あの子を訪ねて会いに来てくれたのは、宮田くんが初めてだったのよ」
宮田の心臓が、ドクリと跳ねた。もう、ずいぶん昔の事だというのに。
「あの子が学生だった頃、そうやって訪ねてくれる子が居なかったから――、すごく、嬉しかったわ」
寛子はその時のことを随分と懐かしく思い出していたようで、テーブルに頬杖を付いて視線を泳がせた。
優しげなその瞳が、海の水面(みなも)の様に揺れている。
「宮田くんは知らないかもしれないけど、ボクシングを始めてから今まで、
事あるごとにあの子の口からあなたの名前が出てくる事も多くてね…」
宮田は自分の頬が赤く染まっていくのを感じた。
体中が熱くなる。まるで、血液が沸騰しているかのようだ。
「だから、すぐに分かったの。あの子にとって、宮田くん…。あなたは、特別なんだって」
ト ク ベ ツ ――――?
それは、ライバルとして?
自分の目標として?
はたまた、憧れの対象として?
自分は一歩にとって、どう特別だというのだろうか。
その想いは、自分が一歩に対して思っている想いと同じなのだろうか?
いや、寧ろそうであって欲しい、と宮田は願った。
お互いに決別し、互いに違う道を歩きはじめたとしても。
宮田は膝に置かれている自分の手をじっと見詰めると、不意に顔を上げ、寛子に自分の気持ちを素直に述べた。
「…それは、自分もそうだと思います」
先程の彼を指す言葉を迷っていた時に、寛子が言った事を思い出し、意を決したかのように宮田は答えた。
「……アイツに会って、自分もココまで来れたんだと思います。今の自分が居るのも、アイツがいたから――…。
…だから、アイツを産んでくれて、育ててくれて―――。――感謝、しています」
自分にとっても、一歩は特別な存在である事を寛子にだけは知ってもらいたくて、宮田はそう言い終ると感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
それを見た寛子は、一瞬驚きの表情をしたが、すぐにあの穏やかな笑みを浮かべた。
「――ありがとう。そんな風に言ってくれて」
普段の自分の口下手さからはとても考えられない位、宮田は自分の気持ちに素直になれた気がした。
真っ直ぐに自分を見詰めてくる宮田に、寛子は優しく微笑むと
「あの子のコト、大事に思ってくれているのね」
と、宮田に問いかけのような言葉を紡いだ。
宮田は気恥ずかしいような気持ちになりながらも、寛子に向かって一歩に対する想いをハッキリと口にした。
「………はい」
他の誰かや、一歩本人にはとても口には出せない事も、寛子の前では不思議と吐露する事が出来た。
『約束』があっても、なくても。
リングの上で巡り逢えても、逢えなくても。
彼との、あの初めてのスパーリングの時から、ずっと。
アイツは、オレの――――――――――……。
「………ライバル、ですから」
自分達二人の関係を形容する言葉を口に出そうとした時、宮田は僅かに戸惑った。
ライバルの一言だけで形容するのは、少し違うようにも感じていたから。
それでも、それ以外に当て嵌まる様な言葉があるはずも無く、宮田は少し苦笑いをしながら寛子にそう告げた。
そうして宮田は、湯呑みに残った温くなってしまった緑茶を一気に飲み干した。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「――――それじゃあ、皆さんありがとうございました!!」
「おぅ、気ィーつけて帰れよ!」
「先輩、お休みなさいです。では、明日の午後に仕事に行きますね〜」
「うむ。これからも、小物は小物なりに頑張りたまえ!」
皆それぞれ明日の事もあるので、誕生日祝いもこの辺でお開きになり、
一歩達は仕事を続ける青木を残して店を後にした。
店を出る際に青木にもお礼を言った一歩が、それそれの岐路に分かれる所でもう一度お礼を言うと一歩も自分の家路に向かった。
夜も更けてくると外の寒さは昼よりいっそう厳しくなったが、一歩の心の中は暖かだった。
ほろ酔いでやや火照った身体に、冷たい風が心地良い。
いつものロードワークのコースの土手を抜け、眩しい位だった賑やかな街並みの明るさは、段々と静かで灯すような明るさに変わっていった。
フワフワした気持ちで歩みを進めていたが、その吹いてくる風に僅かに磯の香りが含まれて来る頃には、一歩の酔いもだいぶ醒めたようだった。
自宅近くの防波堤が、もうすぐ見える頃になった時、
――――会えないかな…。宮田くんに…。
ふと、一歩はそう思った。
会えないかな、なんてそんな優しいものではなく、本当は会いたくて会いたくて仕方がなかった。
それが自分の中の、どんな想いから来ているものなのかは、一歩にも分からなかった。
でも、彼のことを考えるたびいつも居ても立っても居られないような気持ちになった。
一歩もまたあの時以来、彼――『宮田 一郎』に会ってはいなかった。
彼に対して会いたい気持ちは強くなるばかりなのに、会ってどう声を掛けたらいいか分からず、
グルグル悩んでしまい、気が付くと一歩も自分の誕生日まで月日を経過させてしまっていたのだった。
「……会える訳ないよね…。雪だって、降っていないのに」
独り言のように、自嘲めいた呟きを一歩は吐いた。
雪の降る時に、防波堤で宮田に会えた事が2回あった。偶然でも、運命でも宮田に会えたことが一歩はただ、嬉しかった。
――――でも。今は、あの時とは違う。…………こんなにも、一歩が会いたいのに。
一歩は空を見上げた。深く黒い夜空には、幾つかの星が瞬いているだけだった。
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「すみません、長居してしまって」
釣り船屋の店内も兼ねている玄関先で、革靴を履くと宮田はもう一度寛子に礼を言った。
「いいのよ。……それより、あなたが来てくれた事、あの子に伝えておきましょうか?」
宮田は目を瞑ると、静かに首を横に振った。
「――いえ。もう、いいんです」
ここに来るまでに抱えていた複雑な気持ちが今はとても穏やかな気持ちになっていたのを宮田は感じた。まるで、凪いでいる海のようだった。
寛子に見送られて幕之内家を後にしようと玄関のガラス戸に手を掛けた所で、宮田はあくまでもついでに、という風に口を開いた。
しかし、その表情には少々バツが悪そうに照れくささが見え隠れする青年の顔が伺えた。
「それと……、さっき話していたコト…アイツには言わないで貰えませんか」
その表情を見て、彼が一歩の前では決してそう言う事を言うような性格ではないと言う事や、
まるで好きな子の前では格好を付けてたいと思う様な、宮田のプライドが見えて隠れしていて。
この僅かな時間の中で、『宮田 一郎』という青年を少しは知ることが出来た事に、寛子はとても喜んだ。
「ええ、分かったわ。この事は、宮田くんと私の秘密、という事にしておくわね」
右手の人差し指を立てて唇に添えると、寛子は宮田に向かって微笑む。
それを見て、宮田も穏やかに笑って礼を言った。初めて見せる、彼のその笑顔に寛子は少し、驚いた。
今まで見せていた表情からは窺うこともできない、少年らしさが残っていたから。
やはり彼も、自分の息子と同じ年頃の子なのだと、寛子は安心した。
「これからも、あの子と―――一歩と仲良くしてやって下さいね」
寛子も宮田に頭を下げると、『アッ』と声を上げてクスクスと笑う。
「――って、こんなコト言うのも可笑しいわね」
口元に手を添えると、寛子は最後にこう言った。
「ライバル、ですものね」
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
寒い夜の中を、宮田は歩く。もう少しするとあの一歩と会った防波堤が見えてくる。
寛子には言わなかったが、宮田はまた一歩とここで会えるのではないかという想いがあった。
ライバル、と寛子には言ったが、こんなに相手を焦がれ、会いたいと想う気持ちは
きっとそれとは違う、別の場所から来ているような気がした。
でもそれが一体どこから来ているのかは、宮田にはわからなかった。
防波堤に向かって、一歩は歩く。
こんなにもこんなにも会いたいのに、追いかけて追いかけているのに、届かない人。
他の皆からライバルと呼ばれても、一歩にとって宮田はそれだけの存在ではなかった。
憧れの気持ちも一歩の中には多分にあったが、それとはまた違う、何か。
焦がれて焦がれて、身を焼き尽くしそうになる程の、想い。
この気持ちは一体どこから来ているのだろう、と一歩は思った。
今の二人の心の中は、自分が求める唯一人のその相手に切に会いたいと思う気持ちしかなかった。
見栄も、外聞も、体裁も、理由も、言い訳も。
全てを取り払ってしまえば、こんなにも純粋な気持ちしか残らないのに。
防波堤に着くと、お互い端から向かってくる人影を見つけて、二人は同時に足を止めた。
瞬きもせず、対峙する相手の姿を見つめる。
胸が高鳴る。鼓動が逸る。息が詰まる。喉が渇く。
ザリ…、とコンクリートの地面が音を立てた。
動いたのは、どちらが先だったのだろうか。
「――――幕之内――」
「…宮田……くん」
この想いに付ける名前を二人は未だ見つけられないけれど。
それはきっと、恋に似ているのかもしれない。