11月23日 AM4:00
ジリリリリリリリリリン、
まだ夜も明けない静寂の中、セットした目覚まし時計が一歩の部屋に鳴り渡る。
時計の針は、ちょうど四時を指している。
普段のロードワークをする時間よりも早目の起床。
今日は朝釣りの団体客がこの後に来る事になっているのだ。
そして鴨川ジムは本日は休日。
祝日と言う事もあり、今日は朝から夜まで家業の仕事が目一杯詰まっている。
「う〜〜〜ん」
目覚まし時計を止めて、部屋の明かりを付けると一歩は大きく伸びをした。
台所の方から、ガタガタとせわしなく動く音がする。どうやら寛子はもう起きているらしい。
「――さ、今日も頑張らなくちゃ!」
大きく息を吐きパジャマ姿のままで気合を入れると、一歩は布団をたたみ始めた。
一番近くて、一番遠い。
ジムは休みであっても、毎朝毎晩欠かさずやっている習慣は身体に染み付いていて、どうにもそれを行わないと落ち着かない。
軽く流す程度に留めると決めて、一歩はいつものコースの河川敷の土手を走っていた。
町は朝もやの中で、凛とした静けさに包まれてる。
日中は穏やかに暖かい日も多少はあるが、やはり早朝のこの時間は寒さが厳しい。
いつもの日課のロードワークも時間が違うだけで、まるで別の場所を走っている気に一歩はなった。
「…今日はこのくらいで止めておこうっと」
吐き出した息は白く煙り、言葉と共に霧散する。
いつもの半分程度のロードワークで切り上げると、一歩は朝食の仕度をしている母の元へと戻って行った。
***********************************************************************************************************************
同時刻、釣り船幕之内から離れたとあるアパートでは。
フッと意識が冴え、瞼を開けると宮田は目覚まし時計より数秒早く起床した。
通常のシフトとは違う早朝からのバイトだからだろうか、心なしか気を張っていた事に宮田は気付く。
布団に入ったままベッドサイドにある目覚まし時計に目をやると、チッチッチッと規則正しく秒針を動かしている。
時間を確認したまさにその時、長針がひとつ進み、カチリと言う音に次いで電子音が奏で始められる。
……筈であったが、その瞬間宮田の手によってそれは遮られてしまった。
「悪ィな、使わなくて」
目覚まし時計の役割を果たさぬままのそれを尻目に、宮田はベッドから降りると部屋のカーテンを開けた。
通常ならまだ眠りの淵に落ちている自分と同じく、町もまだ目覚める様子はない。
遠くに聞こえる新聞配達のバイクの音だけが、外の世界にある唯一の音のように宮田には感じられた。
パチン、とスイッチを点けると部屋の中が一瞬にしてに明るくなった。
薄闇から人工的な明るさに切り替えられ、まだ目が慣れていない宮田はまばたきをする。
蛍光灯から目を離した後、次に彼の目に入ったものはカレンダーだった。
目に留めたのは赤色で印刷された本日の日付。
世間では祝日の、勤労感謝の日。
「今日…、アイツの……誕生日か」
そして、自分のボクシングの世界に常に居た―――彼の、誕生日。
同い年の彼がプロテストを受けるのがいつなのか気になり、以前鴨川ジムにいた時、宮田は八木から彼の誕生日を教えてもらっていたのだ。
真面目で勤勉な姿勢の彼らしい日付の誕生日に、『まんまじゃねーか』と思わず笑ってしまいそうになった事を思い出す。
それ以来、宮田は一歩の誕生日を忘れる事は無かった。
「……顔洗うか」
脳は覚醒したものの、直結している身体はまだ夢うつつのようで宮田はぼんやりとしながらも、完全に目を覚ます為洗面所に向かっていった。
***********************************************************************************************************************
AM4:40
「おはようございます!」
梅沢が抜けてから、『釣り船 幕之内』のアルバイトをかって出てくれた板垣の声が冬の早朝に響く。
店内の一歩はこれから船に運び込む荷物の確認をしている所だった。
船から一旦戻ってきた寛子が、優しく板垣に声を掛ける。
「板垣君、おはよう」
「おはよう!学くん。もうすぐお客さん来るから中で着替えて。で、コレとコレ、搬入お願いね。ボクこれ持つから」
「はーい!了解でーす」
朝の時間はあっと言う間に過ぎてしまう。
寛子と一歩は慌しく店内外を動き回り、廊下の離れたところからワンポがそれを大人しく見ている。
「おはよー、ワンポ」
仕事着を手に持ち店内から自宅に上がると、板垣は反対側の手でワンポの頭をなでた。
ザザァ、ザザァと波の音が一層強くなる。
寛子の操船で船は東京湾まで順調に進み、沖まで出たところで朝まずめのポイントに到着した。
寄せ餌を撒きながら、一歩は板垣に話しかけた。
「ごめんね、お休みの日なのにこんな朝早くから手伝ってもらって…」
「いーんですよ!先輩!!今日はジムも休みだし、どうせウチに居たって暇ですから〜」
『そ・れ・に、』と、板垣は区切って付け加える。
「今日は先輩の誕生日じゃないですか!!ボク、一番乗りでおめでとう、って言いたかったんです」
「――――あ、そっか。そう言えば…、…ありがとう、学くん」
ニコニコと屈託無く笑って話す板垣に、一歩もつられて照れてはにかんだ。
今日も穏やかな一日が始まりそうな予感をさせる、二人の会話であった。
AM6:25
出航してから一時間と少し経過した船内は、釣れ始める人はまだ少なく、静かに時が流れていた。
今日の海は波も高くなく、非常に凪いでいて船はゆるゆると穏やかに海上に浮かんでいる。
遠くで海鳥の群れが鳴いている声が、波に乗って微かに聞こえてきた。
暗く閉ざされていた空も、段々と表情を変えその瞬間を待っているかのようだ。
濃紺色な空の遥か彼方からまばゆく光が差し込んでくる。水平線の向こうの雲の中、太陽が昇り始めた。
薄明の中、それは白から金色に色彩を変化させそこかしこを包んでゆく。
鏡のように光を反射させている海の表面が、キラキラと揺れ動き輝いている。
「皆さーん、夜明けですー!」
一直線にこちらに向かってくる朝日に目をくらませながら、一歩は釣り客達に呼びかけた。
釣りを楽しんでいた客達も、ひとときその手を止め、暁の空に目を向けた。
「いつ見ても、海から見る夜明けは良いもんだねぇ…」
常連客の一人の男性が、目を細めて明けてゆく空を眺めながら、フッと小さく呟いた。
「そうですね、特に今日は素晴らしいですね…」
まるで自分への誕生日の贈り物のように感じて、一歩は心なしか嬉しくなった。
朝釣りのときはこうして日の出を見ることが、一歩達は多々ある。
だからといって、それが変わりばえのないものになっているかと言えばそうではない。
その時の季節、天気、時間と言う状況や様々な要因の違いで同じものは二度とは見られないのだ。
そして、その中でも特に息を呑むほど美しい夜明けを見られるのはなかなか稀な事なのである。
穏やかに波打つ海と澄んだ空気の中、まるで心が洗われるような美しい夜明けに一歩の心は解れていく。
――――会いたいな…―――
無意識に心の奥に浮かんだのは、かつて恋人と称された彼。
偶然会うことは割とあったが、一歩はあれ以来宮田と会っていない。
約束の反故の理由も分かり、ランディーとの試合も見届けた。
ジムの皆や会長も約束を反故にした宮田に対する気持ちは、この試合で言葉にはしなくても変化していった。
それでも、今までのように会いに行く事は一歩には出来なかった。
彼の努力と才能、そしてボクシングに対しての強い情熱、そのすべてがすごいと一歩は感じた。
あの事件があっても尚、宮田は今でも一歩の追いかけるたった一人の憧れの人だ。
だから、東洋太平洋の王座統一戦の後に、おめでとうの言葉一つだけでも一歩は言いたかった。
しかし川原ジムへ会いに行く決心は付かず、一歩の心はこの船のように迷いでゆらゆらと揺れていた。
だが今は、気持ちの澱みはまるでどこかに消えてしまったかのように、まるでこの海のように凪いでいる。
――――宮田くん……――――
白んでゆく空をじっと見つめながら、こんな綺麗な夜明けを自分と同じく彼もどこかで見ていて欲しい、と一歩は想いを馳るのであった。
***********************************************************************************************************************
同時刻、東京湾からだいぶ離れたとあるコンビニ。
今日のシフトは宮田と店長と、いつも自分と入れ替わりで帰ってゆく四十代くらいの主婦の三人。
普段は帰り際な為会話も少なめだが、『いつもは私の後に入るけど…早朝って珍しいね』と母親のように優しく微笑まれ、宮田は何だか照れ臭くなった。
「宮田くん、駐車場ちょっと掃いてきてくれる?そしたらゴミ纏めちゃうから」
「はい」
お弁当コーナーの整理から戻ってきた店長に、仕事を頼まれると宮田は二つ返事で引き受けた。
バックルームに戻り、コンビニのブルゾンを羽織ると、宮田は裏口から駐車場に出た。
頬に当たる外気はひんやりと冷たく、宮田の乾いた肌に刺さるようにすり抜ける。
箒と塵取りを使って、宮田は所々に落ちている落ち葉やゴミを片付けていく。
ふと顔を上げると空はだいぶ白み始めており、東の空から太陽が顔をのぞかせていた。
「……夜明けか…」
ボクサーと言う職業柄、早朝のロードワークで夜明けを見ることは多い。
だが、今日の夜明けはいつも見ている夜明けとは、比べ物にならないくらいに違っていた。
建物の隙間から光が差し込んでくる。真っ直ぐに。金色に。こちらに向かって。
逆光で良く見えないが、遠くのマンションらしきシルエットの奥に浮かぶ朝日。
あまりのまばゆさに、宮田は片手をかざして目を細める。
光の中に居る。そんな錯覚を起こさせるような、美しい日の出だった。
――――宮田くん……――――
不意に誰かが自分を呼んだような気がして、宮田は店の方を振り返る。
他のメンバー二人は店内でめいめいの仕事をこなしている。
駐車場には宮田以外には誰も居らず、客のトラックが一台と乗用車が一台止まっているだけであった。
耳に残る、青年にしてはやや甘さの残る高めの声色は自然と誰かを連想させて、宮田の心を苦しくさせる。
もう、あれ以来会うことも叶わなくしてしまった唯一の存在に宮田は想いを馳せた。
自分でその糸を断ち切ってしまったくせに、宮田はこうして日々彼を思い出すのだ。まるで、何も変わらなかったように。
そして、えも言われぬ焦燥感に苛まれるのだ。もう、約束は無くなった筈なのに。
「……アイツも、見ているのだろうか」
明けの明星を見つめると、宮田は誰にも聞き取れないような小さな声で呟いた。