Gateau au chocolat
「あのね、店員さんに甘いのが苦手な人でも食べられそうなケーキを聞いてみたんだ」
箱を開いた瞬間にふわりと漂ってくる、カカオと洋酒の芳醇な香り。
「そしたらコレがおススメだって。ちょっとほろ苦くて、お酒もほんの少し入ってるんだって」
箱から顔を出したのは、深く、濃いこげ茶色のやや小振りなケーキであった。
表面に粉砂糖をあしらい、中央に細かな金箔の飾りがのっている見た目も落ち着いたチョコレートケーキ。
だが、この鼻を突くチョコレートの甘い香りと、小さい割りに大きく感じる存在感のあるこの焼き菓子を宮田は以前に見たことがあった。
「確か…、ガトー・ショコラって言う名前だったかな?」
店の人から聞いたケーキの名を思い出し、一歩は宮田にそう言った。
宮田はこのケーキを見て、とある日のことを思い出した。それは――、毎年やって来る、チョコの襲来の日。
2月14日のバレンタインデーに女性のファンから山程送られてきた物が、まさしく今一歩が言ったコレだったのだ。
「気持ちはありがたいけどよ…。…遠慮しとく」
「ええ!?な、何で?」
「前に食ったことあるんだよ…、ソレ」
何故かは分からないが、今年はとにかくこのケーキを贈ってくるファンがとても多く、川原ジムでも話題のネタになっていた。
川原ジムに届いた、宮田宛のガトー・ショコラは手作りのものや、有名店のものや、高価なものと色々。
それらが甘い匂いと、洋酒の香りを放ちジム内に充満した。
普通のチョコよりも期限も短いので、ジム生達と分けて食べる事となり、宮田も自分宛…と言う事で仕方なくその一部を少々食べる事になった。
しかし、このケーキは宮田にとっては非常に相性が悪かった。
ガトーショコラは卵・砂糖・チョコレート・バター・生クリーム・ココアや小麦粉等を使って作る焼き菓子であるが、
焼き菓子、と言っても小麦粉の量はほんの僅かで、チョコレートとバターがかなりの割合を占めるのだ。しかも材料も全てカロリー的には高い物ばかり。
おまけにケーキの中でも濃厚さはヘビー級なコレに対して、普段からカロリーを気にして質素な食生活を送っている東洋チャンピオンの胃には負担が大きすぎた。
「確かに、そんなに甘ったるくはねえし、味も悪かねえと思うけどよ…」
「うん、だから良いかな〜と思ったんだけど」
珍しく甘いものに対して否定的な意見ではない宮田に、一歩もうんうん、と頷いたのだが。
「三口食べた所で、胸焼け起こした」
「…………」
苦い記憶をよみがえらせてしまい、宮田の眉間に皺が一つよった。
その表情を見て、一歩は乾いた愛想笑いしかできなかった。
「それから、後から知ったんだけどよ。チョコはどんなんでも、カロリーはあんまり変らないらしいぜ」
「……え?って事は?」
「苦いのでも甘いのでも、カロリーは同じくらいだって事」
「え、ええええ!!!!そうなの!?」
「つー訳で、お前にやる」
甘いものが苦手な宮田に対して、気を利かせたつもりの一歩だったのだが、どこか間が抜けているようで。
このケーキのカロリーと濃厚さまでは頭が回らなかった為、結局のところ、詰めの甘い結果になってしまったのだった。
「う〜…、これなら大丈夫かと思って買ってきたのに、ボクが食べたら全然意味ないよう…」
流石にここまで言われてしまっては、一歩も宮田にこれ以上このケーキをすすめる事は出来る筈も無く。
自分の目の前に置かれたガトー・ショコラにさくり、とフォークを入れると一歩はひとくち、口に入れた。
そして、もぐもぐと咀嚼すると申し訳なさげにチラリと宮田を見た。
再びケーキをフォークで切るとパク、と、ひとくち。もぐもぐ、チラリ。
さくり、パク。 もぐもぐ、チラリ。
さくり、パク。 もぐもぐ、チラリ。
せっかく一歩が自分の為に買って来てくれた物であったが、にべもなく断ってしまい宮田は少々胸が痛んだ。
そんな胸中であるが故に、一口ケーキを食べるごとに自分を見る一歩の視線が非常にいたたまれない。
何だか彼に対して、とても悪い事をしているような気にさえなってきてしまった。
『目は口ほどにものを言う』とはまったく良く言ったものだと、宮田はこの時ひしひしと感じた。
「……―――っああ!分かったよ!!だったら一口だけ、それだけだからな?」
諦めの悪い一歩の視線にグシャグシャと黒髪を乱して頭を掻くと、とうとう宮田は音を上げた。
「ほ、本当!?じゃ、はい!こっち側ボクの食べかけだから、宮田くん、こっちの端から…」
たった一口でも宮田が食べてくれる事が嬉しくて、一歩は残り半分程になったガトー・ショコラを宮田の前に出した。
一歩の気を遣った言葉も気にせず宮田は添えられていたフォークを取り、食べかけの方からスッと一口大の大きさにケーキを切った。
そしておもむろにそれを刺すと、一歩に向けてこう言った。
「口、開けろ」
「………?」
彼の口に運ばれる予定だったものが、今、自分の鼻先に突き付けられている事に多少の疑問を感じながらも、
一歩は宮田の持っているガトー・ショコラを身を乗り出してぱくりと口に入れた。
「よし、食べたな」
宮田の質問に対して言葉では答えることが出来ず、ただ口を動かしてうんうんと頷く一歩。
一体彼は何を考えているのかと、一歩はますます首を傾げた。
「それじゃあ…、」
言うが早いか、銀色の食器を皿に置き、宮田はローテーブルに身を乗り出すと一歩の手首を掴んで引き寄せた。
バランスを崩しそうになりながらも、一歩も宮田と同じくテーブルの上に身体を乗り出す。
身を乗り出した振動でテーブルが揺れ、カラン、とグラスの中の氷が一つ、飲みかけの麦茶の中にとぷんと沈んでゆく。
「一口、戴くぜ」
掴んだ手首はそのままに不敵な笑みを浮かべて一歩を見つめると、宮田は自分の唇を一歩の唇に重ね合わせた。
驚いた一歩の一瞬の隙を突いて、宮田の舌が一歩の咥内に滑り込む。
「―――――――…!!!!!」
咥内に入り込んで来た異物の正体に、一歩はビクリと肩を上げると咄嗟に目をつぶり、身体を固くする。
緊張している一歩を余所に、彼の舌の上にあったケーキの欠片を宮田は自身の舌で掠め取り、ようやく唇を離した。
お互いの唾液で濡れた唇を宮田は手で拭うと、もう一度口の端だけ上げて意地悪く笑った。
「ご馳走さん、美味かったぜ」
「み、みや…ッ…!宮田く…ッ!!!」
後に残されたのは、鯉のように口をパクパクさせ今にも湯気が昇りそうな全身を真っ赤にした一歩と、食べかけのガトー・ショコラだけだった。
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甘さと共に濃厚さもある、甘い物好きにはたまらないガトー・ショコラ。
意地悪く攻めてほんの一口。
ちょっぴり大人風味のお酒を効かせたビター・スイート。