木々の新緑に、衣替えしたばかりの制服の白さが眩しいこの時期。
宮田と一歩は七月の再戦に備え、お互いに練習を積み重ね切磋琢磨していた。
スポーツ用品店でシューズを選んでくれた後に、河川敷の土手で宮田のボクシングに対する熱い想いを一歩は聞いた。
宮田が自分にそんな想いを打ち明けてくれた事に対して、一歩も宮田の想いに応えるべく真正面からぶつかって行こうと決心した。
それは、今までの二人の関係を僅かではあるが動かす切っ掛けになるのに十分な出来事であった。
夏にはまだ早い、二人を纏う熱は日を追うごとに一層高くなり晴天の空に溶けてゆくのだった。
A scene of ordinary everyday life.
「…一郎。今日は私も早めに上がるから、頼むな」
ジムでの練習も終え、シャワーを済ませてロッカールームに戻って来る息子に、宮田父は声を掛けた。
宮田以外のトレーナーもしている彼の父親は、普段、ジムの閉まる最後の時間まで残っている事が多い。
まだ高校生の宮田は、学業の事がある故に、こうやって父親よりも早い時間にジムを出る。
その為宮田の父親は八木や篠田、そして会長などと飲みながら夜の食事をとる事も少なくなかった。
そんな中でも、父は宮田との食事の時間をコミニュケーションの取れる大切な時間の一つと思っているらしく
時折、こうやって宮田と一緒に食事をする事を心掛けていた。
「OK。何か食べたいもの、ある?」
タオルで髪を乱雑に擦りながら、宮田はスポーツバッグに先程まで着ていたトレーニング着を仕舞い入れ
ここへ着いた時と同じように、制服に身を包んでいた。
「特には無い。お前に任せる」
「…分かった」
宮田は、自分が小さい頃に母親と別れていた。
子供の頃は、彼の父もそうだが二人共料理など出来る筈もなかったので、
八木の母親が作ってきてくれたと言う惣菜や、スーパーの惣菜・もしくは店屋物を取る事が常であった。
ただ、外食の食事は、些か栄養のバランスが偏りがちだし、店の惣菜では飽きが来る。何より金銭的にも無駄な事はしたくなかった。
だからと言って、いつまでも八木の母親に頼っている事も申し訳ないと思った宮田は、小学校の中学年位から必然的に料理を覚え始めた。
そんな事もあってか、高校生になった頃には宮田は家事全般の殆どが出来るようになっていた。
「じゃあ、適当に作っとくよ」
「すまんな」
「じゃ、お先。父さん」
パタン。と、ロッカーを閉めスポーツバッグを肩に掛けると、宮田は練習生の間を縫って鴨川ジムから出て行った。
駅前には幾つものスーパーストアが並んでおり、ジム帰りの買い物は、宮田はいつもそこを使っている。
自宅へ帰宅するのに多少道筋は違うのだが、駅前と言う事もあり、殆どの用事はここで済ます事が出来た。
「…何にするかな…」
まだ献立を決めていなかった宮田は、ぼんやりと考えながら歩みを遅めて道路を歩いていた。
ジムの帰りに買い物をして帰る…と言うのは、宮田にとっては日常茶飯事で、
今日もまたいつもと同じように駅前のスーパーの方向に足を向けたのだが。
「……たくぅーん!…ってよー!宮田く〜ん!!」
いつもと同じと思っていた筈が、後ろの方から自分に向かって投げられてくる言葉に宮田は顔をわずかに顰めた。
「宮田く…「――るさい!!んなでけぇ声で、人の名前連呼すんな!」」
思わず立ち止まって振り返ると、自分を呼んでいた声の主が驚いたとばかりに目を丸くした。
そこには多少息の乱れはあるものの、同じく制服姿でデイパックを背負い、満面の笑みを浮かべ自分の後を追い掛けて来た彼。
幕之内一歩の姿が。
「良かった〜。宮田くん、気付いてくれて…。」
「…んだけでけぇ声なら、イヤでも気付くぜ…」
「ご、ごめんね…」
上目遣いにオドオドと視線を向けてくる一歩に、宮田はひとつ溜息を吐いた。
よくよく見ると、息を整えている一歩の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
自分を追ってここまで急いで走ってきたのかと思うと、宮田の胸は何故かさざめいた。
そんな気持ちになっている事を一歩に見せぬよう、宮田は努めて冷静な表情で並んで歩き始めた。
「宮田くんが前を歩いてたの見掛けたから、思わず走ってきちゃったけど…。
どうしたの?宮田くんがこっちから帰るのって、珍しいよね」
「―――別に良いだろ」
買い物に行く、と言うことが一歩の前では何だか恥ずかしく思え、宮田はそっけなく一歩に返答した。
一歩はというと、宮田と一緒に歩いている事が余程嬉しいようで、それ以上言及はしてこなかった。
「お前も、もう上がりだったのかよ?」
「うん。が、学校終わってすぐジムに来たから。
帰るの遅い日は、一度家に戻るのって面倒だし時間も勿体無いし…」
「同感」
「あ、やっぱり!宮田くんも制服着てるからそうなのかな、と思ってたんだ〜」
「まーな。…確かに、練習する時間が短くなるのはオレも嫌だからな」
「だ、だよね。一分一秒も惜しいって言うか…」
「…ああ。一分一秒でもお前より長く練習して、今度もまたお前を倒してやるぜ」
「そ、そんな…。――でも、ボ、ボクだって…!」
何気ない会話だったが、そんな事をお互い言い合える様になったことに二人は少しだけ笑った。
「―――所でよ」
「うん?何、宮田くん?」
「お前、どこまでオレについて来る気なんだよ?」
「え!?どこまでって…」
話に夢中になっていた一歩がふと辺りを見回すと、そこは駅前のスーパーストアの入り口前だった。
買い物を終えた主婦達が、自動ドアから出て行くと、開いたドアの中からは陽気で暢気な音楽が流れてきた。
「――あ。ご、ごめんねっ、宮田くん…!そ、そっか、買い物に来たのかぁ…」
慌てたように、一歩は宮田の隣から離れようと飛び退いたその時――――、
自動ドアのセンサーに見事に引っ掛かり、二人の目の前で自動ドアが思い切りよく開かれた。
制服姿の男子高生二人組み、しかも何やら揉めていそうな雰囲気に、ドア付近に居た主婦達の視線は一斉に二人に注がれた。
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結局、主婦達の視線には敵う筈もなく、一歩は宮田に『お前、荷物持ちな』と一言いわれ一緒にスーパーの中に入る羽目になった。
買い物カゴをカートに入れたものを一歩に渡すと、宮田はさっさと先へ進む。
「あ、待ってよ!宮田くん!!」
慌てて追いかける一歩は、行き交う人の波をスッと避けて通る宮田のそのステップワークに、
ガラガラとカートを押しながらただひたすら感心するばかりだった。
「み、宮田くんもスーパーに買い物に来るんだね」
「……当たり前だろ。作ってくれる母親がいねーんだから」
「…えっ…?…ご…、ごめん…」
自分が問いかけた事が、宮田の母親の存在を知らしめることだったと気付き、一歩は語尾を小さくしながら表情を曇らせ俯く。
「バーカ。んな事イチイチ気にしてねえよ…。それを言うなら、お前だって…」
「え…?」
「―――いや、何でもねぇ」
「……?」
片親なのはお前だって同じだろう?…それに、オレと違ってお前は父親が…。
そう宮田は口に出そうとしたが、スーパーの要所要所で見かける『父の日フェア』と言う文字に思わず口を噤んでしまった。
中途半端に途切れた言葉に、一歩は宮田が自分に何が言いたかったのか分からず不思議そうに首を傾げた。
この時宮田は、一歩が鈍感な人物で良かったとつくづく思った。
今日の夕食に使う野菜のいくつかを一歩が持っているカートの買い物カゴの中に入れ、宮田は今度は鮮魚のコーナーへ移動した。
宮田家の食卓にはあまり魚が上らない事が多いので、そこはざっと見て次の精肉コーナーに移動しようと宮田は足を進めたのだが。
「わあ〜、美味しそうだな…。このマグロ…。丁度好い加減に脂が乗ってて。良い色だし…」
「あ、こっちのカレイの切り身も煮付けにしたら美味しそう〜」
業務用クーラーボックスの中を覗き込んで動かないでいる荷物持ちに、宮田は多少苛立ち無愛想に声を掛けた。
「…おい、早く来いよ」
「あ、み、宮田くんってお魚好きじゃない?」
「嫌いじゃねえけど、あんま食わねえな。どっちかってーと肉」
「え。美味しいよー、お魚。ボクんちは殆どそうだよ。まぁ…釣り船屋って事もあるからだろうけど…」
「ふーん」
一歩がそう言った事もあり、宮田は少し何かを考えると、口角を上げ一歩に対して面白い事を提案してきた。
「―――じゃあお前、この中でオレんちの夕飯にするもの選べ」
「…へ?……って、え!?ええーーーーーー!?」
一歩の大きくて黒い、丸い瞳が宮田のその言葉でますます丸くなった。
その驚いた表情が面白くて、宮田は更に無理難題を吹っ掛けた。
「言っとくけど、すげえ高いモンとか、美味くないモン、…それと調理がめんどくさいモン選んだらぶっ飛ばす」
「そ、そんな無茶な…」
まるで鷹村のような理不尽ぶりに、一歩は目を瞬(しばた)かせた。
思いっ切り眉を寄せてうろたえる、いかにも『困っています』と言う表情をした一歩に宮田は思わず笑い出しそうになる。
自分のからかいを含んだ言葉でも、真摯に受け止め悩んでいる一歩に宮田は心の中で『バカみたいに素直なヤツ…』と呟いた。
うーんうーん、と色々品物を見ていた一歩だったが、視線をある一点に定めると、ビシ、とその中の一つを指差した。
「宮田くん!鰹なんてどうかな?秋の戻り鰹も良いけど、今の時期は上り鰹だから
タタキにするとさっぱりしてて、暑い日に食べるのにはすごく良いよ」
一歩が指したのは、まわりを炙りの調理が施された鰹だった。
「炙ってないのも有るけど、それだと手間も掛かるから…。これなら柵を切って、下に敷く野菜を切るだけだから楽だよ!」
自分一人の時であれば、適当に残った物等で済ませられるが今日は父親も夕食を取る。
かと言って、正直な所、学校とジムで疲労した後に食事を作るのは、なるべく簡単に出来る物を作りたいのが宮田の本音だったので。
「じゃあ…、それ、カゴに入れろよ。後、その中で一番美味そうなのにしろよな」
「う、うん!じゃあ…こっちの方が血合いが少なそうかな〜」
宮田は一歩の提案にあっけなく乗ると、もう一つだけ注文をつけて、一歩に促した。
その言葉を聞いて、一歩はニコニコしながら鰹を選ぶのであった。
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「帰ったぞ、一郎」
「お帰り、父さん。丁度、夕飯作り終わった所だよ」
宮田の父は顔だけ見せに台所へ来たが、荷物を置くべくリビングへ戻って行った。
あの後、少しして買い物は終わり、二人は自宅へと帰って行った。
宮田の自宅は公園方面、一歩の自宅はスポーツランド方面と、互いに方向が逆だった為、スーパーを出た所でお互い別れた。
別れ際、一歩が自分に言ったひとこと、
『何だか宮田くんの事…、またひとつ知れて、嬉しかった』
と、はにかむように微笑(わら)った事に宮田は一歩から目が離せなかった。
一歩は大きく目を開いて自分を見つめる彼に、今の自分の素直な気持ちをつい口に出してしまった事に恥ずかしさを覚え、
『じゃ、じゃあ!またジムでね!!』
お茶を濁すかのように、それだけ言うと一歩は頬を紅く染めて走り出した。
そんな一歩に、宮田は胸の奥がくすぐったくなるような気持ちを覚えた。
「…一応、オレらライバルってコトになってんのに…。――変なヤツ」
気恥ずかしさに思わず見上げた空は、黄昏から夕闇へと変わる赤紫のグラデーションを湛え、宮田は暫しその空の美しさに見惚(みと)れた。
「ほう、鰹のタタキか…、こりゃ美味そうだ。…しかし、肉が好きなお前が珍しいな」
二人掛けのテーブルに食器を運んでいると、いつの間にやら風呂へ入ったらしく、着替えた父親がまた顔を出してきた。
「――まぁね。たまには良いだろ」
「そう言えば、お前がジムから出た後に幕之内も練習を上がった様だが…」
ゆったりと椅子に腰を下ろした宮田の父が、先程まで自分と一緒に居た人物の話題を振ってきた。
父親の口から彼の名前が出た途端、宮田の心臓がドキン、と音を立てる。
「シャワーもそこそこに、何やらとても慌てて帰って行ったな。何か大切な用事でもあったのか…」
宮田は冷蔵庫から冷えた缶ビールを一本取り出し、戸棚からグラスを出すとそれだけを父親に渡した。
「どうした?一郎。何か良い事でもあったのか」
「そう見える?」
「ああ、何となくだが…、嬉しそうな顔をしているぞ」
宮田も父親の向かいの椅子に座ると、パシュッ、と爽快な音を立ててプルトップを開ける。
そして父親の手の中にあるグラスにそれを勢い良く注いだ。
「…っとと…、悪いな。やはり手酌でやるより人に注いで貰う方がひと味もふた味も違うからな」
「よく言う」
テーブルに置かれたグラスの中の黄金の液体は、幾つもの気泡を浮かべては弾けては消え。
「父さん」
「ん、何だ」
宮田はそのグラスの中を踊る気泡を頬杖をつきながら眺め甘やかに笑うと、
「あったよ、良い事」
と、それだけ答えたのだった。
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・本日の宮田家の夕餉。
鰹のタタキ。 トマトとバジルのサラダ。 インゲンの胡麻和え。 なめこと豆腐とネギの味噌汁。 炊き立て御飯。胡瓜の塩漬け。