春にはまだほんの少し早い、三月の初旬。
     早朝のロードワークをこなして帰って来くると、いつもなら丁度体がポカポカ温かくなるくらいの、まだ少し肌寒い時期。
     そんな時期だと言うのに、額に汗をじわり、と滲ませてボクは河川敷を通って自宅に帰って来た。

     ……何だか今日は、冷え込みが随分ゆるい気がするなぁ。
     
     早朝のテレビから流れてくる天気予報士の声が、ロードワークを終え廊下にいたボクの耳に良く響いた。

     『本日は、本州から南にかけて、非常に良い天気と陽気になるでしょう。尚、本日の最高気温は23℃と五月の…』

     朝食の支度をしていた母さんが、テレビに目を留めると、一言。

     「今日は洗濯物、良く乾くわね。一歩、アンタも洗うものあったら出しておいてちょうだい」

     と言うので、ボクは朝イチからまた服を着替える事になってしまった。
     仕事も今日は午後からなので、母さんは絶好の洗濯日和にニコニコしている。

     「今日は本当に暖かいなあ〜…」

     こんな良い陽気に彼と会う約束をしているボクは、本当に幸せだなぁ…、と、そう思ってしまった。




     ハルウララ。



    少し小走りになりながら、待ち合わせの場所に向かう。
     桜の木々が立ち並ぶ運動場が今日のボクと彼との待ち合わせ場所、だ。
     敷地内の柱時計を見ると、時間は待ち合わせの十分前。良かった、まだ彼は来ていないみたいだ。
     近くのベンチに腰を下ろすと、背もたれに寄りかかりゆっくりと空を見上げてみる。
     雲ひとつ無い青空をバックに、桜の枝が幾つも重なって見える。
     枝はまだ蕾を芽吹いたばかりで、この陽気とは対照的に春の訪れを未だ告げることも無く、ひっそりとした姿でそこに佇んでいた。

     「…早く、来ないかなあ…」

     背もたれに体を預けてボクが発したこの言葉は、彼に対して言ったものなのか、春の訪れに対して言ったものなのか。
     自分でも良く分からない曖昧さを持って、青空の中に吸い込まれていった。



     こんな風にぼんやりとしながら彼を待っていると、不意に、チリン…。と鈴の音が聞こえたのでボクは辺りを見回した。
     足元を見ると、少し離れた所から青い首輪に銀色の鈴を着けた一匹の猫がボクを見ていた。
     首輪や雰囲気からして、どうやらこのコは男の子のようだった。
     宝石のような綺麗な緑色の瞳。艶のある漆黒の毛色。ピンと立った耳に、どこか気品のある居住い。
     そんな中で、緩く吹いてくる暖かな風に尻尾の先だけをパタパタと揺らしている。

     そんな、どことなく誰かを連想させるこの黒猫がボク向かって一声。

     「にゃあ」

     と鳴いたので、ボクもこの猫に話し掛けてみた。

     「…おいで」

     この近所で飼われている猫なのだろうか。ボクが目の前に手を差し出しても、逃げる様子も無くそろそろと近寄ってきた。
     動物のニオイがするのが気になっているのか、しきりにクンクンとボクの指先の匂いを嗅いでいる。
     くすり、と微笑うとその黒猫はもう一度、「にゃあ」と鳴いてベンチに座っているボクの隣にポン、と飛び乗って来た。

     「…キミも、待ち合わせ?」

     黒猫は尻尾を先程より揺らすだけで、ボクには答えてくれなかった。
     暖かく優しくそよぐ風に、青い空から降り注ぐ日差し。ボクの腰掛けているベンチの隣には、黒い猫。
     まるで雲の上にいるかのようなフワフワとした気持ちに、ボクはゆるく瞼を閉じた。












     「―――おい。…おい!!」

     軽く肩を揺すられて、ボクはハッと目を覚ました。この暖かな陽気に釣られて、僅かな時間だが寝入ってしまっていた事に気付く。
     まだ焦点が合っていないボクの視界にぼんやりと映り込むその人物は。
     色素の薄い、でも強い光を持つ瞳。艶のある青みがかった漆黒の髪。スッと通った鼻筋に、孤高を感じさせる雰囲気。

     「…っおい…。まだ、寝てんのかよ…」

     彼の輪郭をピントを合わせるかのように一つにしていくボクに、いまだに夢見心地でいると思った彼は溜息混じりにまた声を掛けた。
     その声の主が誰であるかは一目瞭然。ボクは瞼を擦りながら彼に答えた。


     「…あ、…宮…田く…ん」
     「…やっと起きたか。お早う、って言う時間じゃもうねえぞ。遅よう、だ」

     見ると、柱時計の針は待ち合わせの時間を十分過ぎた所を指している。

     「わ!ご、ごごごめんね!!ボク、すっかり良い気持ちで寝ちゃってて…。
      て言うか、宮田くん!着いたらすぐにでも、起こしてくれて構わなかったのに…!」」

     待ち合わせに来た時から計算すると、約二十分は転寝をしていた事になる。
     ボクは思わず恥ずかしくなって顔を横に向けた。
     気付くと、隣に居たあの黒猫もいつの間にか姿を消していた。

     「あんまり気持ち良さそうに寝てるからよ…、起こし損ねた。……でも、良いモン見られたぜ?」
     「えっ…?何?」

     彼もあの黒猫を見たのだろうか?と思っていたボクに降って来た彼の言葉は、ボクの顔を羞恥で染めるようなものだった。

     「――幸せそうなツラして、ヨダレ垂らしてるお前のカオ」

     「え、え、嘘ッ!!!お願い宮田くん、忘れて〜〜〜!!!!!」 
     「…冗談。ホント言うとオレも今来た所。悪ぃな、遅れて」
     「え?そうだったの!?良かった〜。あ、うん。全然平気だよ。寝てたし!!」
     「…お前なあ…、待ち合わせでスヤスヤ寝るのもどうかと思うぜ…」
     「…ス、スイマセン…」

     いつもと変わらない、彼のボクに対するやや意地悪な口調。
     でも、その顔は穏やかに微笑んでボクを真っ直ぐに見つめている。
     宮田くんの、こんな表情が見られる日が来るなんて、以前のボクなら夢にも思わなかった。
     幸せすぎて、まだ、夢を見ているみたいだ。
     あの宮田くんとボクが…、…その。お、お付き合いしているなんて。






     「…あ、でもどうしたの?宮田くんが待ち合わせに遅れるのって珍しいね」

     隣に腰を下ろした彼を見ると、いつもの彼の雰囲気とは多少異なって見える。
     なんて言ったら良いのかな…、まるでこの陽気のような、ふわんとした感じと言うのだろうか。

     「バイトだったんだよ、急遽。…しかも深夜過ぎから早朝まで」

     口に手を当てて、ふわぁ…とあくびをする彼。長い睫毛に彩られた目尻に、うっすらと滴が浮き出た。
     こんな表情でさえ、ボクにはカッコ良く見えてしまうんだから、本当にボクは重症、だ。
     少しの間、彼に見惚れていたボクだったが、はた、と今の時間から彼のバイトの終了時間を計算する。
     え…と言う事は…。

     「――じゃ、じゃあ、宮田くんあんまり寝てないじゃない!それならいっその事、今日の待ち合わせを変更しても良かっ…」

     今日を楽しみに浮かれていたボクだっけど、睡眠不足の彼に悪くて、思わずそう言い掛けた途端――、
     ボクの頭にビシッ、とチョップが飛んで来た。

     「痛っ!」
     「いーんだよ。…今日逃したら、また暫く会えねぇだろ」

     スッと横を向いた彼の頬がわずかに赤くなっていたのをボクは見逃さなかった。
     会うことを楽しみにしていたのは、自分だけではなく、また彼もなのだと思うと鼓動が早くなる。

     「…だから、ここで寝かせてもらう事にする。陽気も良いしな」

     そう言い終らないうちに、宮田くんは座っているボクの膝の上にゴロリと寝そべると

     「三十分経ったら起こしてくれ」

     と、その強い光を湛える瞳を瞼で閉じてしまった。


     え。
     こ、これって、これって…。
     ボク、宮田くんに膝枕してるんですけどーーーーー!!!

     心臓がドキドキと激しく音を立てる。きっと今のボクの顔は赤くなってる筈だ。
     慌てて辺りを見回してみる。幸い近くに人は居なかったのでボクは胸を撫で下ろした。
     もっとも、この場所は運動場の奥まっている場所で、木々に隠れて見え難い場所にあった。
     桜もまだ咲かないこの時期では、たとえ今日のような陽気でもこの場所に来る人は僅かだろう、と思えた。

     …でも、こんな時間に、こんな場所で、こんな事をしているボク達を他の人が見付けたらどう思われるだろう?
     こんなボクの心情なんてちっとも気が付かないのか、宮田くんは既にウトウトと眠りに就いていた。

     「宮田くん…。寝るの、早いよ…」

     これはもう観念するしかないみたいだと、ボクは一つ溜息を吐いた。





     規則正しく繰り返される、彼の呼吸。
     普段のイメージからは想像できない、綺麗だけれど、あどけない寝顔。
     彼が微かに身じろぎをすると、サラサラと黒くて美しい髪の毛がボクの膝にこぼれる。
     薄い唇からは、静かな寝息が聞こえてくる。


     こんな宮田くんを間近で見ているうち、ボクはだんだんヘンな気分になってきてしまった。



     宮田くんに――――、 キス、したい。


     そんな事を考えてしまった自分に、頬がカッと熱くなる。

     普段のボクは、自分から宮田くんにキスする事なんて無く、大概が彼が仕掛けてくる側だ。
     彼からも、『たまにはお前からしてみろよ…』なんて言われたりもしたのだが、やはり恥ずかしさが勝ってしまい
     どうにもこうにも進まない、どころかまるで油の切れた機械人形のようにギギギと動き、彼を苦笑させてしまった事があった。

     でも、今なら。

     こんな無防備な宮田くん(しかも完全に眠ってるし!)になら。


     ボクはもう一度辺りを確認する。人の通る気配は…どうやら、無いみたいだ。
     軽く深呼吸をすると、ボクは背を屈めて、膝の上の彼に近付いてゆく。

     うわぁ……。近くで見ると宮田くんって、本当に整った顔立ちしてるなあ…。
     あ、睫毛の先が僅かに震えてる…。それにしても、睫毛長いなあ…。

     これから自分がする大胆な行動とは裏腹に、考えている事はなんて暢気なんだろうかと、頭の片隅でボクはぼんやりとそう思った。
     お互いの鼻先が、触れ合う距離まで来た所でボクはギュッと目を閉じる。
     掌が緊張の汗で湿っている。必死でそれを握りこみ、また更に顔を近づけた。
     額に、宮田くんの髪の毛が微かに触れる感触。
     後残り数センチだろう…と言う所で、ついさっき聞いた覚えのある声が。

     「にゃあ」

     と、ボクの耳に届いた。

     その鳴き声に弾かれるようにして、目を開けると。
     目の前には至近距離の彼の顔。…と言うより彼のこげ茶色の瞳がボクの視界一杯に―――。
     …ん…?…瞳…?…って事は………。



     「わ、わぁぁぁーーーーーーーーーーー!!!!!」

     ボクは思わず飛び退きそうになったけれど、いまだ彼の頭が乗っている足では身動きが取れず、上半身だけを思い切り仰け反らせた。

     「み、み、宮田くん!?いつ起きたの!?」
     「…うるせえな。至近距離で叫ぶなよ…」

     片耳を押さえながら、瞼を瞬かせゆっくりと起き上がろうとする宮田くん。どうやら完全には目覚めていなかったらしい。
     どうか、ボクがしようとしていた行動が気付かれていませんように…と、ボクは祈った。

     「お陰ですっかり目が覚めちまったぜ」
     「ご、ごめん…」

     眠りを妨げられた事に対しては、言葉を出してきた彼だったが、もう一つの事の追求が来なかった事に、ボクはホッと安堵した。

     「まぁでも、少しは楽になったか」

     腕を上げて軽く伸びをすると、宮田くんはスッとベンチから立ち上がった。
     立ち上がったその先には――――、さっきボクと一緒に居たあの黒猫が。

     「…あ。さっきの…」

     ボクの視線の先に気付いたのか、宮田くんはその猫の前に立つと問いかけるように話しかけた。

     「お前が起こしてくれたのか?」

     彼に良く似たその黒猫は、返事をする代わりに宮田くんの足元にすり、と体を擦り付けた。

     「あ、あのね、宮田くん。その猫、さっきね…」
     「…お前…」

     彼を待っている間に現れたその黒猫の事を話そうとボクが口を開いた途端――、宮田くんはボクに背を向けた侭、遮るようにこう言った。

     「不意打ちは汚ねえんじゃねーの」
     「!!!!!!!!」

     やっぱり、気付かれてた…!
     未遂となってしまったが、今更自分の衝動的で大胆な行動に、顔から火が出そうになる。ボクは思わず下を向いた。

     「みッ、み…、宮田くっ…その、これは…」

     もはや弁解の余地も無いボクだけど、何か言わなければと、俯いたまま口だけをパクパク動かす。
     そんな中、ボクの足元が急に暗さを持った。
     フッと、光を遮るかのように自分の体に影が落ちた事に顔を上げると、ボクの目の前に宮田くんが立っていた。
     ボクの右肩に手を置いて、宮田くんの顔がボクに近づいてくる。
     先程と同じような流れが今度は彼から起こされて、ボクはまた下を向いてしまうと、目を瞑った。
     しかし、彼の唇はボクのそこには向かわず、耳朶を掠めるとこう囁いた。





     「発情期かよ…?」


     「は、発情――!?!!!!」

     宮田くんのその発言に、ボクはボンッと音が出そうなくらい体中を真っ赤にさせてしまった。
     ボクのその姿を見て、当の彼はプーッと口に手をあてて肩を震わして笑っている。

     「…すげえ、真っ赤。タコみてぇ」
     「み、宮田くんがヘンな事言うからだよぉ…」

     からかわれたのだと分かっても、さすがに心臓に悪いよ…。宮田くん。

     「ま・もうすぐ春も近いし、そういうことにしとけよ」

     そう言って軽く笑うと、彼は今だその場所に佇んでいた黒猫に振り返って、

     「な」

     と言うと黒猫は、また一声だけ、

     「にゃお」

     と、宮田くんとボクに向かって鳴いたのだった。