「み、宮田くん!あのね…、今度の月曜日なんだけど……会いたいんだ」


          それは、今から三日前の出来事。
          宮田の携帯の受話口からやや高めの声が弾ける。
          通話の相手は、フェザー級の日本チャンピオン、幕之内 一歩。

          電話口の一歩の声は、普段のやや後退しがちな雰囲気とはうって変わって、やけに気合の入った勢いだった。

          「――うん、分かった。急なのにありがとう!それじゃあ三日後に」

          「ああ」


          そしてその勢いにつられてか、宮田は今日のこの日に会うと言う約束をしてしまっていた。
          カレンダーの日付にサッと印を付け時間を書こうとした所で、宮田はこの日が何の日であるかを悟った。


          ―――――――2月14日。

          そう。
          この日はバレンタイン・ディだ。




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          「お疲れ様でした。じゃあ、お先に」

          自分の名前の書かれた段ボール箱数個を、父親(とジム)に押し付け、宮田は足早に自分のアパートに向かう。

          この段ボールの箱を見るのが嫌で、宮田はここ数年、この日はジムには行かない事にしていた。
          普段の宮田ならジムに寄り付くのも面倒な日。
          だが、この日に彼に会える嬉しさに朝から宮田の気持ちは落ち着かなかった。

          しかし、朝から自分がここまで落ち着かなくなるとは思ってもみなかった宮田は
          体を動かせば気持ちを落ち着かせる事が出来るのではないかと考え、ジムへ行く事にしたのだった。



          白い息を吐きながら、夕刻過ぎのまた一段と冷え込みが厳しくなった灰色の空を見上げると、
          フワフワと羽根のような物が幾つも幾つも地面に向かって降り注いでいた。
          そしてその一つが、宮田の頬に舞い落ち、融けてそのカタチを無くした。

          「…どうりで、冷える訳だぜ」


          そう言えば、今朝ロードワークから帰って来た時も…微かに、ではあるが雪がちらついていた事を宮田は今更ながらに思い出した。
          あまりにもすぐに止んでしまった事と、本日の自分の予定の事で宮田は今朝の事など覚えていなかった。
          でも、今は。
          この夜の静寂にしんしんと、でも確かにその軌跡を描いている。

          「バレンタインに雪、なんて出来過ぎじゃねぇの」


          宮田は静かに微笑(わら)うと、立てたコートの襟をなびかせながらその足取りを速めた。









          「あ・宮田くん、お疲れ様。ご、ごめんね。急がせちゃって…」

          アパートの玄関扉に凭れ掛かり両手を擦り合わせていた一歩は、
          宮田の到着にパアッと顔を明るくした。


          「お前…、上がる時間は言ったろ?待ってるの、寒いだろーが」
          「え、で・でもなんか会うのが待ちきれなくて…」

          頬と鼻の頭を紅くしたまま、はにかみながらそう言うと一歩は腕に掛けていた紙袋を宮田に渡す。

          「はい、宮田くん。ハッピーバレンタイン」

          受け取った紙袋の中を宮田が覗き込むと、そこには小さな袋に3つだけ入った、手作り風のカップチョコが入っていた。

          「どうしても、今日中に渡したかったから」
 
          初めて作ったから、本当に簡単なものだけど…と一歩が照れて笑った。

          「……それに、雪が降ってきたから待った気しないよ!…ずっと空見てたから」

          「20分だな…」

          「え?」

          「お前がオレの家の前で待ってた時間だよ」

          その言葉を聞いた一歩は、思わず視線を宙に彷徨わせ、指と指を擦り合わせ始めた。
          本当に、コイツは嘘が吐けないヤツだと宮田は噴き出しそうになってしまった。

          ―――そして、何でこんなにオレはコイツが愛しいんだろう。とも宮田は思った。

          緩やかな弧を描いた唇で、宮田は一歩にこう続けた。

          「図星か」

          「ど、どうして…」

          動揺を隠せない一歩に、宮田はやや呆れたような顔で一歩に答えた。

          「川原を出てすぐに降りだしたからな。そしてオレんちはジムから正味20分」
          「うう…その通りです」


          「―――バカ」

          「あう…。ごもっともです…」

          シュンとする彼に追い討ちを掛けるように宮田は一歩に溜息と共に一言放つと、ふくよかなその頬にそっと自分の掌を添えた。

          「宮田…くん…?」


          見上げる黒い瞳が宮田に『何?』と、問いかける。
          優しく、なぞる様に頬の輪郭を確かめると、宮田は一歩を自分の腕の中にグッと抱きしめた。

          「み、みみみ宮田くん…!」


          「…こんなに冷たくなってんじゃねーか」


          いきなり抱きしめられた一歩は、慌てるやら恥ずかしいやらドキドキするやらで、先程までの寒さなど見事に消し飛んでしまった。
          宮田に抱きしめられ、彼の胸に顔を埋めてしまった所為で表情は見えなかったが、心配そうな宮田の声色に一歩も彼の背中に腕を回した。

          「雪降ってんだから、今日じゃなくても良いだろうに」

          「…うん…」

          「しかも、20分もこんな寒い中突っ立ってやがって」

          「…うん…」

          「…バカ野郎」

          「…うん…」

          宮田と一歩の触れ合っている部分が、熱い。
          それはまるで相手に自分の熱を分け与えているような感覚だった。
          そして互いの唇もまた、熱を与え合うように優しく重なった。


          世界は今だ唯白く、そして音も無く静かに、雪は降り続いていた。