四宮の地名の由来


[コメントツリー表示を見る] [発言時刻順表示を見る]

Posted by on 2006/04/20 21:58:52:

In Reply to: 旧掲示板より Posted by 管理人 on 2006/04/20 21:45:02:


    現在の上井草2丁目近辺の昔の町名である「四宮」
    母校の四宮小学校の「四宮」とは、どうして名づけられたのか常々疑問に思っていたので、昨日の日曜日は雨が降って暇だったので、図書館に行って調べてみました。

    府中六社明神社(大国魂神社)は、毎年五月五日の例大祭には、本社、御霊、一ノ宮より、六ノ宮までの計八基の御神輿渡御がおこなわれ、近在の村々より神輿を担ぎに行く習慣がありました。
    各村々には組があって、奉仕するお宮か゜決められていました。
    大昔の井草村は、四ノ宮(秩父大神)の御神輿を担ぐことになっていたので、「四宮」の地名が生まれました。しかし、いつの頃か、五ノ宮(金階大神)の御神輿に奉仕するように変わり、戦前まで若者達が御神輿を担ぎに行ってました。

    ついでに近隣のことも・・・・

    三谷   三家(後の三谷町)は、三戸の草分け百姓(最初に土着した農家)があったので、三軒家と呼ばれ、略されて三家になったそうです。

    八成   観泉寺の住職が、千川上水の橋に、ダルマ雑集論という経典の経文を引用して、八成(はっせい)橋と名付けましたが、土地の人は、「はちなり橋」と読み、地名もそうなったという伝承があります。なお、八成の「八」は開くという意味で、八成は、新しく開いた土地という意味です。

    沓掛   昔、青梅街道がまだ開設されていない時代には、江戸と青梅方面を結ぶ道を。馬場下道(江戸ー高田馬場ー井草ー青梅方面)といって、井草の長左衛門家 (清水2-19)の前を通っていました。1477年、太田道灌が、豊島家の石神井城を攻略した時、この道を通り、当地で軍を休め、攻撃に先立ち、全軍に沓 (わらじ)の履き替えを命じ、道灌自らも沓を履き替え、破れ沓を傍らのさいかちの木に掛けて進発しました。以来この地を沓掛と呼ばれた。

       以上 「杉並風土記」上巻より

    ローカルな話ですが上井草スポーツセンターの由来も

    大正の末頃まで、運動場付近は、入ったら出られないくらい深い山で、崖には豊島合戦の落武者が隠れていたという横穴が何ヶ所もあり、乞食や無宿者が住んでいたそうです。
    昭和初年、井荻町区画整理の工事中に西武鉄道が区画整理地の北部を通ることになりました。当時は村山急行電車と呼ばれ、駅間は、1.6キロ以上にする建設内規で、井荻駅のみが設置ちれる予定でした。内田町長は、町内に三駅を設置するように要望しましたが、西武鉄道は、採算が取れないと断りました。
    内田町長は、豊島園のような遊園地を作って行楽客を誘致すれば、採算が取れるだろう、その用地を提供するからと交渉し、ついに2.4キロの区間に上井草 井荻 下井草の三駅を開設させました。その代償として、整理組合保有地から一万八千坪の土地を地域の発展に資する事業で。営利を目的としない公共事業にのみ使用することを条件につけて、西武鉄道に提供しました。

    昭和二年、西武鉄道が開通後、山の一部が伐り拓かれ、400メートルトラック・水泳プール・ブランコなどがある遊園地が作られました。利用客が少ないのでプールには、蛙の卵がいっぱいうかんでいたそうです。
    昭和十一年八月、西武鉄道は客寄せのため、上井草球場を開設し、11月3日に職業野球団の公式戦が行なわれました。いつも閑散とした上井草駅に、数千人の観客が乗り降りしたので、地元の人はびっくりし、球場が土地の発展に寄与するだろうと期待したのですが、翌12年9月に後楽園球場が開場したため、上井草球場の試合は、7月11日の公式戦が一応最後でした。
           つづく


このメッセージに返事を書く

ハンドル:
タイトル:
内容: