Posted by yama on 2006/04/20 22:04:12: In Reply to: 旧掲示板より Posted by 管理人 on 2006/04/20 21:45:02:
即、『手漉き和紙』の歴史・製法・原料についてであり、その素晴らしさに関してである。 今、手元に『平成の紙譜』(全国手漉き和紙連合会)・『越前和紙』(福井県和紙工業協同組合)『日本の紙』(毎日新聞社)がある。いずれも手漉き『和紙』の現物見本帳である。これらの現物から得る物は確かに「素晴らしい作品」であり、心を和ませ引きつける物ばかりだ。 雁皮は独自の光沢と肌理の繊細さを与えてくれ、楮は荒々しくも力強さを感じさせてくれる。 三椏はその両方の良さを内包しているように思われる。 良い物は良い、素晴らしい物は素晴らしい。物自体が語ってくれる、言葉は要らない。 同時にそれらの特性を最高に引き出した技術に畏敬の念を感じるのは誰しもだろう。 しかし、この見本は最高の素材ばかりでは構成されていない。パルプや他国の楮などを混入させたものも収用されている。それらを見た途端先ほどの感激は彼方に飛び去り寂寥感だけが漂う。こんなものが本当に歴史の風雪に耐えられるのか、世界に誇れる文化遺産といえるのかと疑問視するのは自分だけであろうか? 確かにどんな製品であれ全てが最高の素材・技術で作られてはいない。コストや時代の変化がそれに合うように作る事を要求するのは否定できない事実であり、重みである。 『和紙』とてその論理からは逃げられない。まして「手漉き」となればなおさらのことであろう。 「手漉き」という製造工程の手間コストや素材製造のアップがある。さらに手作業と言うことは製品のばらつきを生じやすく、また寒い時期という労働条件の過酷さは後継者難の原因でもある。ここに、『最高の手漉き和紙』の衰退の原因が指摘されてきた。 しかし、この原因が全てなのだろうか?先の見本帳から見ても手漉き製造者は未だ最高の技術と制作に対する誇りを持っていると思う。しかし、その誇りが一方では<民芸運動> に象徴されるように、日常生活用品としての和紙を工芸分野へと特殊な世界に追いやったのではないだろうか? 「最高の手漉き和紙」を追求する事自体は必要であろう。しかし、それが単なる<伝統品>として日常生活とかけ離れた箇所で製造する限り、衰退は避けられないだろう。 この限りで彼らは、<外的な衰退要因の面>から、安易な製造へと走り別の名前を付けて来たと言えよう。使う方との会話は一部の特殊な分野でしかなされていないのが現実である。別言すれば、和紙は新しい時代の要請に応えることなく、ノスタルジア・伝承に依拠し先人達の遺産で食いつないできたのだ。 行政も「伝統的工芸品」なるものを設定し、形だけの保護で来たがそれも転換する動きがある。時代の要請に応じた『最高の手漉き和紙』を日常生活の中で使い込むには、つまり生産者と使用者が現代において交流を持つには何が必要かを、双方で考えていく・動いていく必要がある。 下記の文章は「Awagami Factory」から引用させていただいた。このような問題意識が有る限り和紙の将来はあるものと信じている。 http://www.awagami.or.jp/indexj.html 「和紙は今まで素材として供給されてきました。しかし、伝統工芸を取り巻く環境から推測すると、素材として提供する分野は、他の新しいものに取って代わられ、素材としての和紙の占める分野はどんどん無くなって来ています。全国で300軒以上の紙漉き場が有ると言われていますが、今の素材としての和紙の需要を賄うのにこれほどの数が必要ないのかもしれないというのが現状です。 和紙そのものを素材として捕らえるのではなく、もう少し付加価値の高い素材或いは作品に近い商品として作り込まなければならないと考えています。 伝統工芸も含めたあらゆる産業において、新しい考え方が要求されています。それは常に自己否定をすることから始まります。和紙とは何なのか。手漉きとは何なのか。などなど。これを繰り返すことにより伝統を作り上げ、継承して行くことだと考えています。」
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