第40号(’22.2.25) | 第39号(’21.2.28) | 第38号(’20.2.8) | 第37号(’19.2.8) | 第36号(’18.2.10) |
第35号(’17.2.12) | 第34号(’16.2.13) | 第33号(’15.2.14) | 第32号(’14.9.13) | 第31号(’14.2.8) |
⇒“栄 光”第1号〜第10号 ⇒“栄 光”第11号〜第20号 ⇒“栄 光”第21号〜第30号
◆“栄 光”第41号(’23.2.22) 野球が開始されて150年。高校軟式野球が67年を経過した。そして、新商軟式野球部が創立されて65年 の節目を迎えた。 部の創立期からかかわってきた私にとって、いまは草創期の苦しくも楽しくなつかしい思い出として蘇ってくる。 軟式会報41号にあたり、創立期のころの思い出をふり返ってみたい。 まず、なんといっても1956(昭31)年、全国高校軟式野球大会が開催されたときのことである。当時、新潟県 には組織もなく、新商が開催案内を受けたことで、あわただしくその任に当たってときのことは、いまだに忘れる ことはできない。 そして、新商に1957(昭32)年軟式野球同好会が誕生。翌年、部に昇格し活動が始まる。道具立てもない。グラ ンドもない。ないないずくしの船出だった。バットをシャベル・スコップにかえ、グランド造りに精を出す部員たちの姿が あった。 早速、部員たち自身による部則の制定がみられた。「勉学とスポーツの両立」をモットーに、「自主性と和の精神」を 目標とする見事なものだった。私も「高遠な理想・深遠な研究・遠大な希望」(部員から三遠主義と呼ばれた)という高い 理想を掲げて、指導にあたったことが強い印象として残っている。 勿論、目標は全国大会を目指しての猛練習にあったことは間違いない。17個の四球を得ながら岡谷工に苦杯(’59)、 宿敵松商学園との熱戦(’61勝利、’62決勝で苦杯)のなかから、’63初の全国大会出場を創部6年目に成し遂げた。 以来、’65〜’71の7年間で三連覇を含めて4回の全国大会出場を果たした草創期だった。 いまも、この伝統引きついでがんばっている現役諸君にエールを送りたい。 <木山顧問 記> ⇒先頭へ ◆“栄 光”第40号(’22.2.25) このたび、会報“軟式栄光”の発行が40号となった。これは’88(昭63年、40周年を期し復刊してからの号数である。 年配の会員はすでに承知のことと思われるが、実は“軟式栄光”の発刊は、’69(昭44年の創刊号に逆上る。 58号を数えてその後復刊まで休刊となった歴史を経ている。これは創立40周年記念誌(熱球40年の軌跡)に 復刻版として残されている。 振り返ってみれば、継続して発行されてきたことが、後援会活動としての会員間の絆としての役割を果たしてき たのではないだろうか。ここで創刊号から振り返ってみたい。 「軟式野球部も10年目、百余名の会員をもつ会として一つの転機を迎えている。会員からの要望もあり、会活 動の一つとして会報の発行と会費の徴収を決議したのでご協力を」(山本会長)と。 「10年目をひと区切りに記念誌の発行と、新たに部会報(季刊)“栄光”の発刊に着手されたことは私のひそかに 念願するところで、その意義深さとともにうれしい限り」(木山顧問)という言葉でスタートを切っている。 会報は手作りのガリ版刷りで、送料も自前で費用もかけずにという苦心の作、よくやり遂げたものだなと実感して いる。 学窓を去れば同期の仲間ともなかなか会う機会もなくなる。それうえに“ぼくら離れ離れになろうとも、クラブ仲間 はいつまでも”と思える絆の会報が、いつまでも続くことを願わずにいられない。 <木山顧問 記> ⇒先頭へ |
◆“栄 光”第39号(’21.2.28) 下克上という言葉がある。これは「下・上に克つ」の意で、身分の下の物が上の物をおしのけてしのぐということ 南北朝時代から安土桃山時代の風潮をいった話である。今でもよくスポーツの世界などで用いれれる。例えばプロ 野球のクライマックスシリーズで、優勝チームが2・3位チームに逆転を許し、日本一を争う前に敗退するということが みられる。 高校軟式野球大会の過去の歴史を振り返ってみてもしばしば見られた。新商軟式野球部は全国大会へ6回出場を 果たしているが、うち3回までこのケースとなっている。県予選大会で優勝を逸しながら、地方大会で逆転優勝して 全国大会への出場を果たしている。 ’63(昭38)年は県大会の準決勝で西越高に1−2で敗れながら、甲信越大会決勝で高遠高(長野)を14ー8 で破り優勝し全国大会へ初出場。’65(昭40)年は県大会の決勝で巻工に1−2で敗れながら、甲信越大会決勝 で巻工との再戦の末2−1で破り、リベンジを果たしての優勝で2回目の全国大会出場。’71(昭46)年は県大会 で相川高に1−5と惨敗しながら、甲信越大会決勝で松商学園(長野)も4ー3で快勝、全国大会へ5回目の出場を 決めている。 振り返って、’63・71年の予選敗退時は審判長に“新商はなんで不甲斐ない!”と叱責されたことに奮起して、 ’65年は選手たちが“本番では絶対勝ってみせる!”と気概と自信をみせたことである。果たしてこれらが逆転勝利 につながったのか、何れにしても一つの要因であったことは間違いない。 このような事例からみて、野球といわず競技の世界では技術力と精神力のバランスが大切なのではないかと思わ れるある。⇒先頭へ ◆“栄 光”第38号(’20.2.8) 時代は平成から令和へ。新商軟式野球部も60周年を終えた。時に試合の勝利に歓喜し、また敗戦のに涙し、 栄光への道をひたむきに歩み続けた歴史だった。 この「栄光」という言葉は創立当初から10年毎の記念誌や、軟式会報のタイトルとして使われ続けている言葉 である。 「栄光」とは大きなほまれとか、めでたい前ぶれの光といった意味をもつ。それは一つのことが見事に成就した ときに使われる言葉でもある。スポーツの世界では勝利の瞬間を賛え表現されることが多い。 新商はかって県下にスポーツ王国の名をほしいままにしてきた。昭和30年代から40年代にかけて、軟式野球部 もその一翼を担い3連覇を含め6回の全国大会出場という輝かしい栄光の記録を刻んできた。そして、部の創草期 に「軟式耕作部」と呼ばれた時期においても、栄光への道を目ざして努力した数々があったことも忘れてはいない。 一昨年、60周年記念に当り「新潟県高校軟式野球60年」-新商軟式野球部を軸に-を発行することができた。書き 終えて気づいたことの一つとして、活動の長短はあれ県下各校ともに栄光を目ざしてのドラマを展開していることが わかった。いずれも苦難の努力のなかから生みだされた結果の栄光への記録となっている。⇒先頭へ |
◆“栄 光”第37号(’19.2.8) 創立60周年おめでとう。新商軟式野球部の栄光への軌跡いまに。この記念すべき年に合わせて、私の念願する 著書「新潟県高校軟式野球60年ー新商軟式野球部を軸にー」を編集出版することができた。 これがさる12月7日の新潟日報紙上に、「甲子園だけが高校野球じゃない」「県高校軟式野球の軌跡一冊に、 60年間の歴史まとめ出版」のタイトルで掲載された。 このなかで私の話として、「硬式の甲子園だけが高校野球じゃない。違う舞台で一生懸命汗を流す生徒の姿を 知ってほしい。軟式の魅力は硬式にも負けない。’60年代後半から、’80年代前半にかけて、新商をはじめ各校が 全国大会で8強に入った記録から、’05年新商が6回目の全国大会出場最後に北信越大会を勝ち抜けず、全国 切符を逃している。生徒には軟式を続けてもらい多くの高校が出場し、ライバル関係が生まれれば・・・」と、危機感 とともに期待感を込めた、と紹介された。 さて、去る朝日新聞(9月8日付)声欄に、KMさん(新潟県47歳)の投書があった。(1回生山本さんの紹介) それは「私は高校で硬式を、メディアも甲子園大会を派手に取りあげる。軟式とは差がありすぎ違和感をおぼえる。 軟式選手たちも同じ高校生。せめて準決勝以降は甲子園球場を使わせてあげては。硬式は裏方のメンバーなども メディアでとりあげる。中心選手となればスター扱いだ。軟式をもう少し紹介してほしい。例えば”なぜ軟式を選んだか” とか、”軟式で活躍した選手たちのその後”など。野球が好きな気持ちは硬式も軟式も違いはないと思っている」という 記事だった。 軟式を応援してくれる声に励まされるような投書に、偶然出会えたような気がしてならない。⇒先頭へ ◆“栄 光”第36号(’18.2.10) 「節目」とは、木・竹の節のあるところという意。物事の変わり目、転機という意味に用いられる。 来年の2019年にかけて、元号の平成が最後となる時代の移り変わりのほか、なにかと節目となる年を迎える 近代国家へと変わる明治維新・文明開化から、そして五港の一つといわれた新潟開港から150年となる。また、新潟の 象徴である萬代橋は私と同じ年の88年目(米寿)の記念の年を迎える。 スポーツのなかの野球では、甲子園の高校野球が大きな節目となる100年目の記念大会を迎える。そして、高校軟式 野球では、わが新潟商業高校軟式野球部が創立60周年記念の節目の年を迎える。 62年となる新潟県の高校軟式野球は、このところ少数加盟校のがんばりに支えられて活動を続けている。なかでも 新潟商業高校軟式野球部は創立以来一貫してリーダーとして孤畳を守り続けている。いま、足跡を振り返ってみるとき、 創部当初の「軟式耕作部」と呼ばれ、苦しい環境のなかでグランド造りに汗を流し、黄金期の輝ける三連覇を含め6回の 全国大会出場を果たすなかで、昨今は報われることのない低迷が続いている。結果は異なれで部員の野球にかかる思い は同じ、先輩から後輩へと受け継がれて今日を迎えているといえる。 記念の節目の年に当たり、現役部員には一層の精進・努力を重ね、よき伝統を守り、新たな道を切り開き、飛躍される ことを期待したい。また、見守る後援会には会員の協力を得て一段の活性化がはかられることをお願いしたい。 ⇒先頭へ |
◆“栄 光”第35号(’17.2.12) 今年、新商軟式野球部は創立60年目の節目の年を迎える。こうした時期、草創期から重ねられてきた年輪の厚さに思い が至るのである。そして、今もあの当時の心意気が生きているのか、とつい現実を見てしまう。 先日、新商生徒会報「芦原創刊号」「60.3発刊を見る機会があった。その中の各部紹介欄の軟式野球部に次のような 一文が見られた。 『軟式野球部創立は、’58年4月のこと。他部のような輝かしい伝統はない。わがクラブの基礎が作られたのは一昨年、 それまで軟式野球同好会は有名無実の存在、予算も認められず、自前の用具で練習場もない。創立時のモットーは「勉 学と運動の両立」、身心ともに優れた生徒の育成だった。そして、創立1年目見事に県総合体育大会・軟式野球大会で 初優勝を飾る。ここで、後輩諸君に一言。第一に真面目に練習すること、スポーツは身体を鍛えるだけでなく、精神をも鍛 えるものである。練習中に体得した不撓不屈の精神力、底抜けの明朗性、どんなことも一丸となってやる協調性など。第二 は合理的な練習をすること。これは決して楽な練習をせよというのではない。無駄を省けとううことである。楽な練習はでは 決して強くなれない。苦しい辛い練習に耐えてこそ始めてプレーに対する愛着が湧き、更に大きく飛躍するのだ。合理的な 練習を考えだし、わが部のモットーである“勉学と運動の両立”を実践してほしい』というものだった。 この伝統を受けつぐ現役・OB[会ともども昨今やや生気を失いかけているようで、さびしい限りである。甦えりを期待したい。 ⇒先頭へ |
◆“栄 光”第34号(’16.2.13) 今年、高校軟式野球は60年を超える歴史を刻む。私も新商軟式野球とかかわって60余年ということになる。新商のこと もさることながら、新潟県の高校軟式野球の記録というか歴史が遺されていくのだろうか、と思い始めている。このまま埋も れさせてはならない、そんな残念な思いをしたくないと、急に筆を取り始めた。 いま、60年余年のあれこれを思い浮かべながら、思い出をたどり記録の編集にとりくみ始めている。いろいろな困難は 承知の上である。高校野球(硬式・甲子園)の記録に比較すれば、とどめられている資料が極端に不足しているのが高校 軟式野球である。 高体連時代(昭31〜昭52)の年報や、高野連年報が発刊されてからの記録は残るものの、残念ながらまとまった資料 を持ち合わせていないのが実情である。硬式野球のようにマスコミが豊富に保存してくれていれば別だが、悲しいことに 軟式野球の報道はとるに足らぬもので、この方面からみてもきびしい現状といわねばならない。 まだまとまった構想は未だしだが、軟式野球含め広く野球とはの歴史、高校軟式野球の発祥から草創の歴史、新潟県 の高校軟式野球60年(副題に新商軟式野球を軸に)、さらに記憶に残る記録と野球メモなど。最後に不十分ながら60年 間の大会記録を付す。夢の実現に向けて。⇒先頭へ ◆“栄 光”第33号(’15.2.14) ◆“栄 光”第32号(’14.9.13) ◆“栄 光”第31号(’14.2.8) |