2016コラム

Colume





地震はあるのに?
29日朝、稲田防衛大臣が8月の大臣就任以降初めて靖国神社を参拝した。靖国神社は東京裁判A級戦犯が合祀されている。早速報道各社は、中国、韓国の反発を予想されると、相手の顔色をうかがうようなそれでいて煽るように聞こえるコメントを出した。よその国の人がどのように考えるかそんな事にお世話を焼くこともあるまいにそれを一生懸命伺おうとする癖は、どうも日本人に共通して植え備わっているらしい。それは極力もめ事やいさかいを避ける”和”を重んじてきた日本人の伝統精神なのかもしれないし、よその人の物差しに合わせようとする病的な気配りが働くようだ。国際・世界という言葉に私たちは弱い。考えてみると、これまで国際・世界というのはほとんど欧米が作り上げてきた言葉である。例えば、世界基準(グローバル・スタンダード)は世界遺産始め沢山あるが、住みやすい都市、観光都市、報道の自由度、スポーツ、etc…世界ランキングがその例だが、すべて欧米発であり、私たち日本人は国際・世界という言葉に振り回されているように思われて仕方がない。私は、団塊の世代にあるようだが戦後のアメリカ占領政策によって自虐史観の教育を受けた。自己主張などとんでもない事で自発的なことには一切無関係でいつも相手に合わせていた。しかし、近年、馬齢を重ね気兼ねしなくなって利己的でわがままになった。ところで、武田邦彦(工学博士)氏の『真相深入り虎ノ門ニュース』で述べているのは、日本人は外国人からすると気持が悪いという。何故かというと、まず日本は小さな国でありながら史上ほとんど戦争に勝っている。台湾、朝鮮を併合した際欧米列国がしたような植民地政策とはまるで違って、日本国内の主要都市に先駆けて台北、京城に帝国大学を設置したりした。又日本の調査捕鯨船に追突したシーシェパードの乗組員を、よその国だったら海水に放り投げるか銃撃されるのに、船室に迎えコーヒーで接待する。経済大国になった中国に無償援助は終了したもののODAは少ないながらまだ続いている。さらに自動車王国のアメリカでは、かって日本車脅威として市民がハンマーで車を叩いている姿があった。これほどすぐれた日本である。にもかかわらず、威張ることもなくひたすら謝る。こんな姿を見ると外国人はどう対応したらよいか面食らってしまう。日本人は気持悪いと思うのは武田氏の言う通りである。威張ることはないがもっと毅然とした態度を前面に出しても外国の人は違和感はないだろう。いやそれを望んでいるかもしれない。それでも日本人は”謝る”のである。そういう日本人の姿を見たくない、少なくても私は思う。勿論、日本国内ではあ・うんの呼吸でそのまま日常生活では困らないけれども、せめて国外に対しての顔はそろそろ自信をもって変えていかなければいけないのでは。(12月30日)


短歌・俳句を詠む
1996年アトランタ五輪の女子マラソンで有村裕子選手は持てる力を出し尽くして3位でゴールした。彼女は直後のインタビューで「初めて自分で自分をほめたいと思います」と言った。今となればずいぶん昔のことだが、以来この言葉は<名言>とまで言われるようになった。ところが、近年アスリートを中心にこの言葉がよく使われているのを見聞きすると、私はちょっとだけ違和感があった。というのは、私たち世代では他人をほめることはあっても自分をほめることは考えもつかなかったからである。もしかしたら、私などはほめるという言葉は人様に対して使う言葉と思っていたかもしれない。今では、教育の現場でほめることは教育効果を向上させるキーポイントだというのが定説になっている。しかし、それでも私には自分で自分をほめるというのは私の中で相いれないものであった。ところが、先日『広報みなみあいづ』(2016.12.№29)を読んでいたら、突然めくったページを見てハッとした。馬場忠子(80)という人のお名前と写真が目に入ったのである。更に読んでいくと、第5回花見山福島県俳句大会にて栄えある「NHK福島放送局賞」を受賞し、又福島県芸術文学部門俳句大会では”優秀賞”を受賞したとあった。馬場忠子という方は長年私が福島民友新聞を購読していて必ず目を通す短歌・俳句に時々登場する人だった。この方は、同じ南会津町(南郷)出身の方だということだけで風評は勿論のこと面識もなかった。只以前からどのような方だろうかという憧れにも似た思いがあった。他の人の句とは微妙につやがあって違っていた。題材が大胆にして清廉かつ上品で詠んだ後でとても爽やかな気持良さがあった。もっとも、私は俳句を作ったこともないし心得もない。とても人様の句をあれこれ言える立場どころか見識もないが、なぜかこれまで短歌・俳句はずっと口ずさんできたので自分でもわからないが好きなのだろうと思う。これまでにも、この地域では他に柏倉清子(私のホームページで紹介)さんとこの方の句を探すようにして追って詠んできた。今回広報みなみあいづを見て、県内で1人しか選ばれないという栄誉の持ち主だったというのを改めて知った。それからは、私の俳句に対するー誰も認めてはくれないだろうがー考え方や良い句の選び方にも大雑把だが間違っていなかったことや、あたかも自分が評価されたようなとても良い気分になっているのだが、それとは別に、恥ずかしながら、初めて自分で自分をほめてもいい気持にもなっている。(12月25日)


幸せは自分が決める
豊かな国の人ほど、お金持ちの人ほど、今日は好い1日でしたかというような質問に対して、いいえ、という否定的な答えが返ってくるという。そのようなことをYouTubeの『真相深入り虎ノ門ニュース』でやっていたが意外だった。しかも日本国はそのような人の割合がすごく多かった。経済基盤がしっかりしていれば何も不安や不満はあるまいと思ってみたが、一方でそういうものかなと正直愉快だった。でも、よく考えてみると案外そういうものかもしれないというのを感じてほっとしたのはどういう訳だろう。世の中に存在する物や物事は大方お金で解決できる。そう思っている人は多いはずで、何か解決できないことがありますかと反対に問われそうである。しかし、そういう人でも人の気持までは買えないと躊躇するものだが、今日は好い1日だったというのと何不自由なくお金が使えるというのとでは同じではないのもよくわかる。さらに、楽しく明るいことは善で楽しくない暗いのは悪だという考えをする人は結構いる。かって、私は、『文藝春秋』主催の講演会で五木寛之氏の「暗愁」(あんしゅう)という言葉について語ったのを聞いたことがある。暗愁とは、元々は何とも言えない心の中に横たわっている根源的な愁い。言葉にならない感情に見舞われふさぎの虫が活発に動き出し心萎える瞬間のことで、暗愁を心に抱くことは大切だという。言い方を変えれば、人生には良い時も悪い時もある。絶望の暗さを知っていることこそ希望を光明と感じられ、明るさや元気だけではなく暗愁とも仲良くしていくことが元気で生きる力になると彼は言っていた。そして、蛇足ながら私が思うのは、空の星は日中は明るくて見えないが夜になるとその姿を現わすことができること。花はどれも美しいが、しかし根の存在を忘れたらその花の姿は見ることは出来ない。人は生まれつき明るく楽しい人がいる一方でそうでないいつも引っ込み思案で暗い表情の人もいる。だからこそどちらが良いとか悪いとかは神様でも言えまい。楽しく明るいところには笑いがあるが、だからと言ってのべつ笑っていては笑いのエッセンスは失ってしまう。いつも笑いを提供しているお笑いのプロはおそらく仕事以外ではまさかこの人がと思われるくらい無口でとっつきにくい人にひょう変しているかもしれない。そこで、私は、暗いイメージの魅力に大いに目覚めそしてそれが切っても切れない明るさの片割れであることを改めて自覚するのである。(12月17日)


来年は酉年
今年は何だか変な師走である。年賀状の年…もないのである。いつもの年なら12月ともなれば来年の干支の話や年賀状のことが話題に上るはずなのに耳にしないばかりか、ほとんどテレビは見ないのでわからないが、肝心な新聞でもそれらしい情報を見ていない。そればかりか、10月末からあれほど年賀状の購入を宣伝していた郵便局の幟がどことなく威勢がないのである。今朝、わが家の若夫婦にもその異常さを尋ねてみたら、やはり私と同じ考えが返ってきた。まだいくらか年賀状を出すには早いのかもしれない。が、確かに私自身例年に比べると1週間は早いかもしれないが、私だけ先行して準備をしているのが何か異様な感じがしてしまうのは思い違いなのか。年齢と共に徐々に年賀状を出す枚数が減っていくのは事情はわかるし仕方のないことかもしれない。しかし、たとえ電子メールが年賀状の代わりを担っても、やはり手や心のぬくもりを感じる年賀状は私の年末年始には欠かせない風物詩である。年賀状には、相手の、年が変わった去年とは違うというけじめや決意のようなものを感じるのである。元旦、正月にかけて年賀状をポストから取り出しながら大雑把にその枚数を確かめ、家の中に入ってテーブルの上に年賀状を1枚1枚、一刻も早く読みたい気持を押さえながら作業をする時の心の高まりは中々愉しいものである。それから自分だけの空間でゆっくり又1枚1枚名前を確かめながらお顔を思い出していくのはまさに至福の時である。多くの方は何年もの間お顔を会わせていない人だが、中には半世紀以上も会っていない人もいる。もしかしたらお顔を合わせても思い出すまで時間がかかるかも知れない。それだけに年に1回の年賀状は懐かしいが、時代と共に通信手段が変わって年賀状を出す習慣が廃れてしまうのを私は危惧したり嘆いたりしている。近年、年齢層は上部が高齢者の三角形が理想的な形をされるが逆三角形となって極端に高齢者が多くなってしまった。少子高齢化社会とはいえ、いつの時代も変わりがないのは、世の中を作っていくのは若者だというのをしみじみと感じる師走である。(12月11日)


話せばわかるは相手による
前回のコラムの続きになるかも知れない。10日までに図書館に返却しなければならない2冊のうちの1冊、柴五郎著書『北京籠城・他』を読んでいる。明治33年(1900年)6月に始まった義和団事件のあらましが書かれている。少し紹介すると、義和団という清代の秘密結社・自衛団が日清戦争後、列強の清国侵略、外国人の国内横行に伴ない、清国人の教民(キリスト教徒)が外国を崇拝し外国人宣教師と結託して横暴なふるまいをするようになる。義和団はこれを憎んで教徒の排訴を唱え自分たちを守ることを説いたが次第に過激になり国際問題にまで発展してしまう。当初は清国官兵は傍観していて義和団を取り締まらないばかりか各国公使館に攻撃までするようになり、ついには北京城に籠城する日、英、米、露、独、仏、伊、墺の8ヶ国の守備隊及び外国人そして教民に攻撃をするようになる。天津に上陸して各国の救援軍が来る8月15日まで壮絶な戦いがあったという義和団事件の北京籠城は一部である。私は、この本の巻頭に書かれた大山梓(大山巌・捨松夫妻の孫)という方の「解説」で知ったことだが、露国について次のようなことを記していた。各国連合援軍は北京に入る前に「通州」という場所で、各国将官会議を開いて北京の総攻撃は15日と決定した。しかし、露国のみが13日独断で偵察隊の攻撃をした。頑強な抵抗を受けて結局は外国軍の応援を求めるにいたったという項。さらに義和団事件(日本では北清事変)の調印以来、列国の兵もしだいに撤収されたが露国は満州を占領し容易に徹兵せず、ついには日露両国の戦争となったという項があった。勿論、私は初めて知ったことだが、記憶にあるのは、先の大戦でわが国は8月14日にポツダム宣言を受諾して15日に知らされた。ところが、その4日後の19日に露国はわが国の北の領土に侵攻してそれを掠奪して現在にいたっている。今、わが国はその国と平和条約を結び経済的な友好関係を促進して領土問題について大きな突破口を開こうとしている。今月15日には山口県長門市で日露首脳会談が開かれる予定になっている。すでに岸田文雄外務大臣がその会談に向けモスクワを訪れていて、今朝の新聞によれば、プーチン氏が対等な立場にない閣僚と会うのは異例だという。会談後、外相は記者団に、大統領訪日を最大限意義あるものにするための首相の決意を伝えたと強調している。以前プーチン大統領は「引き分け」という言葉を使っていた。私たち日本人が考える痛み分けということになるのか。今、私は「過去のことは水に流せない。仲直りは出来ないけれども仲良くは出来る」と、ある酒造会社の社長さんが言っていた言葉を思い出す。(12月4日)


ふるさとを惚れこむ
久しぶりに町の図書館で本を借りることになった。実際は県立図書館にお願いして送ってもらうことになったのだが、その本というのは、柴五郎著書『北京籠城』と岡倉天心著書『東洋の思想』という2冊。以前から本の存在は知っていたが是が非でもというほどではなくて、そのままになっていた。それがどうしてその気になったのは、再読が始まった陳舜臣中国ライブラリーの『中国の歴史の旅』という本の北京の旅のとろで、義和団事件を扱ったアメリカ映画『北京の五十五日』の中で伊丹十三が柴五郎中佐を演じていて更に柴五郎著書『北京籠城・他』(平凡社東洋文庫)を紹介していたからである。柴五郎といえば会津藩出身の方。その名声と功績は知る人ぞ知るところである。そんな方の本ならと図書館に足を運んだのだが…ちょっと横道にそれてしまった。『中国歴史の旅』の本に戻る。この中で著者陳氏は、わたしはひそかに「北京酔い」ということばを使っています。よそからきて北京に惚れこむこと、酔うが如し、といった状態になる人がいます。そして北京酔いは一つ一つの場所に惚れこむというよりは、ぜんたいの雰囲気に魅せられるというのが、その特異な症状らしいのですという。明治の頃二か月以上も中国各地を旅行していた芥川龍之介をその人に挙げているが、この辺りの文章を読みながら私は、二十年ほど前に山形県高畠町に行った時のことを思い出していた。何の研修だったかどんな人たちと一緒だったか忘れてしまったが私が門外漢だったことだけは記憶にある。そこで、あちらの方の話の中に高畠町に来た人は必ずと言っていいほど「高畠病」になってしまうというのを聞いた。それは高畠町で何日か過ごすと居心地が良くて帰りたくなくなってしまうというのだ。それを聞いて、それまでにも高畠町には何度か来ていた私は、確かに高畠駅の中に温泉があったり町中にワイナリーがあって気軽にワインが飲め、今も仙台と山形を結ぶ重要な地点として変わりなく発展してきた高畠町は安久津八幡神社を代表する中古以来の歴史もある。そして何よりも、田園風景が広がる緑ゆたかなことも、さりげなく、いや、、まったく意識せずに、そのふしぎな魔法の中に訪れる人をやんわりと包みこんでしまう。私が再訪しているのに魅力的でないはずはない。一方で、わが町はどうだろう、私は真面目に考えてしまう。わが町を訪れた人が帰りたくなくなるというのは聞いたことはないが、あと来なくてもいいというのも聞いたことはない。機会があったら再び来たいと思った人はきっと多いはずであるが、果たして、よそからきて南会津町に惚れこむこと、酔うが如し、といった状態になる人がどれだけいるだろう。郷土の歴史を時々虫干しするように紐解いて楽しみ、生活の中にも少し自然と慣れ親しむ工夫をしながらちょっと美味いものを作ることに苦心し、都会ふうにならないように心がけ、私たち自身が町を惚れこむようになれば、よそからくる人は安心してくれるだろうか。(11月27日)


高齢者の車事情
昨今高齢者の運転による事故が多発して多くの犠牲者が出ている。ほぼ連日のように起こるのは一体どうした訳だか。まるでインフルエンザウイルスがうつっていくように連続して事故が起こるのは不思議なくらいである。それも歩道を乗り上げ人をめがけて突進して行くような人身事故だからどうかしている。私も一連の事故には他人事ではないと自分自身に注意を喚起しているが。ところで先日、出かける段になって、こともあろうに車が始動しなかった。こんなことは未だなかった。キーを差し込んで回してもうんともすうとも言わないのである。ダッシュボードのメーター類は点灯している。昨日までは普段と変わりなく走行できたのにという強い思いがあり、したがって原因がバッテリーにあるというのはまずは度外視していた。そして、身体の具合が悪くなった時に、もしかしたら重大な原因が隠れているのではないかと勝手に予測したり想像しがちであるように、スターター本体に不具合があるのではないか、電気が通じないのなら断線しているのではないか、果ては電子制御に問題があるのではないかと大ごとにして頭をめぐらした。が、結局は下手な考え休むに似たりというのに収まって素直に専門家にお任せすることに決めたのは正しかった。まず頭に浮かんだのは車検など車のことは会津若松市にあるホンダ・カーズである。さっそく電話をしようと思ったが、車を持ち込まなければいけないようだったらちょっと遠すぎる。そんな事を考えていてふと思ったのは、近年車の保険料が高くなっていく中でロードアシスタンスが利用できるようになったことだ。これまで私は車の保険を一度も利用したことがなかった。冒険するような気持で初めて使ってみることにした。損保ジャパンの保険証を見ながら専用デスクに電話をすると東京(私はその方の居場所を尋ねた)の案内係に繋がりそこを通じて隣町の提携自動車修理工場の係員が1人がやって来た。待ち時間はほぼ40分くらいである。すでに内容は承知していたようで蓄電器を私の車のバッテリーに繋いだら一発でエンジンが回った。私はまさか! と思ったのは言うまでもないが同時にあまりにセオリー通りだったので正直呆気にとられたのである。それでも私の心の中にはバッテリーが上がっているというならわずかでもスターターは回ってもよさそうなのにと思いこれまでの経験が打ち砕かれた思いだった。私は係員にお礼を言った。その後で、私はエンジン音を聞きながら、近くの自動車部品を扱う店に行く準備をし、そこに行ったらバッテリーを充電するのではなく交換するつもりだった。幸い同じものがあって直ぐに交換してもらった。考えてみれば、自宅を出るのに急に車の不具合に気づき、それからおよそ1時間でスピード解決したこの小事件。おかげで、およそ関係はないが、高齢者にとっていつか来る運転免許証の返還を意識し、いつになるだろうか考え、そんなに遠くない日だというのを自覚したのである。(11月20日)


文化祭雑感
先頃町の文化祭が終った。例年、私は楽しみにしている町の大イベントだが今年は特に念入りに心置きなく見たせいか過去にないほど楽しむことができた。いつもの年だと町体育館に展示された各コーナーを見ながらひと回りするのにせいぜい1時間もあればよかったのに今年は2時間以上を費やしていた。理由の1つとして、回る順序を逆にしたからかもしれない。いつも最後になる短歌、俳句をじっくり味わう時間を取っていなかった。じっくり腰を据えて文字を詠み心の中でそれを咀嚼して楽しむのは時間がかかるもの。疲れ切って詠む元気がなかった。佳句に出会ったときなどはなおさらである。私の言う佳句というのは、字面だけですんなりわかってしまうというのではなく、更に一歩踏み込んだところに核心を感じることができるものだが、そういう句を作るのは私はからっきしダメである。詠むことは出来ても表現は出来ない人間なのだ。パッチワーク・キルトでは、2点の作品が気に入った。どうしたらこのようなデザインと配色が思い浮かぶのかいつも不思議でならない。感心するばかりである。次に盆栽が並んでいた。ここでは作品というよりも製作者の中の1人に坂田金之進さんの名前があったことだ。この方とは長いお付き合いだが、初めは、漁業組合の役員をされている時分で、そんなに竿さばきが優れている方だとは思っていなかったのに、その後、カラオケ、習字、篆刻そして盆栽といずれも卓越した技能を持っているのを知るようになって心服していたところである。まったく年齢を感じさせないばかりではなくこのような方を私は他に知らない。篆刻といえば、今回の文化祭で一番進展を感じさせるコーナーではなかっただろうか。十分に鍛錬された作品が数多く展示されていたし、これからも益々愛好家が増えていく予感がした。その後で習字と絵のコーナーに立ち寄った。習字は相変わらず内容は理解ができないものの字体の美しい作品はいくつもあった。いつもながらそれ以上のことは私自身が不勉強で理解を深めることは残念ながらできなかった。絵では、ここ数年蓬田さんの作品を注目している。薄学な私がいうのは何だが、今回のコスモスを描いた作品は気品溢れていて見ごたえがあった。が、それはバックの色彩(全体は灰色がかっていて桃色の線が横に何本か入っている)が一層作品を引き立たせているのだと私は思った。写真のコーナーには、私と同級生の室井昭二くんの蕎麦を刈り取った後の風景、湯田耕衛さんの二岐山を背景にした朝焼けの風景、そしてかって県知事賞を受賞したことのある廣野資郎くんの変らぬ上品な趣のする風景写真2点はいずれも私が足を止めてゆっくり観賞した作品だった。例年文化祭は私の心のオアシスである。歴史と文化が重んじられ、町の人や観光に見えた人たちが自由に交流できる無料の休憩所が更に賑い、それと私が持論としている、わが町の地産地消がお題目ではなく本当に地に着いたものになれば、田舎暮らしをそんなに卑下したり落胆することもなくなる。(11月12日)


おばちゃん
おばちゃんが入院するようになったという電話を貰ったのは今年の会津田島祇園祭の数日前のことだった。おばちゃんというのは、野田市生まれの桶屋の娘で縁あって田島に住むようになった小沼勝(88)さん。私が電話の主チカ子さん宅へ行くと、野田市から姪に当たる方が家の戸締りをする一方で生活の一切を休止するための手続をしている最中で、おばちゃんはそれが終るのを待って茶飲みをしていたが、これから入院するという緊張感のようなものはなかった。いつものように遠慮のないお笑い漫談を聞くような二人の会話。どうして入院しなければいけないのかしらと私は思ったくらいである。すでにおばちゃんの息子さんは会津若松市北会津町の「西病院」に入院しているというのを初めてその時に知った。おばちゃんの入院の理由は気の毒なくらいにむくんだ足だ。もしかしたら糖尿病が悪化してのかもしれない。その時私は一時間ほどいて入院したら見舞いに行くことを約束し、それから何回かチカ子さんからおばちゃんの病院での様子を聞いていた。それによると、見舞客に対する異常なまでの病院の警戒心やおばちゃんの衰弱ぶりを聞かされ、何故か私はくやしさがこみ上げてきたがどうすることもできなかった。おばちゃんとは20年以上のお付き合いをさせてもらっている。おじちゃんがまだ存命の頃からである。韓国籍のおじちゃんのおかげで私の世界観が広がった。その頃、台湾や上海や韓国に毎年のように旅行したのはその影響があったからにちがいない。勿論、近隣県にもおばちゃんの「言いだしっぺ」があってよく出かけた。メンバーは、おばちゃんと私の古くからの友人平山忠吾くんや室井均くんそして私である。話題になっている日本酒や花や美味いものがあると車で遠出した。そんな自由気ままな時間を送れたのはおばちゃんのずば抜けた好奇心と見識があったからで、普通のおばちゃんだったらこうはいかない。せいぜい集まって茶飲み話くらいが相場である。おばちゃんが入院してしばらくして同じ市内にある介護老人健康施設『ライフケア鶴賀』に転院したというのを知ったのは10月下旬のことだった。これまでの病院と違ってとてもアットホームな趣のする場所だと再びチカ子さんから連絡があったのでさっそく3人で訪れた。受付で手続後すぐにエレベータ前で出会った車いすの群れの中におばちゃんの顔があった。うつむき加減で笑顔を忘れた無機質の顔がまず第一印象だった。そればかりか職員に案内され私たちだけのテーブルを囲んでからもその表情は変わらなかったし、時折顔を上げて私たちに返す言葉も実に弱々しかった。唇の端からは一筋のよだれが流れ出ていて私は見ない振りをしようとしたが一方で、しっかり現実を見なくてはいけないという思考も働いた。私は、機知の富んだ歯に衣(きぬ)着せない物言いをするおばちゃんがずっと好きだった。が、目の前のおばちゃんは普通の老人だった。情なかった。同時にとても淋しかった。ある時皆で北茨城の回転寿司を食べに行った。おばちゃんは大きなエビが目の前を通り過ぎて行ってしまったとひどく落胆したことがあった。食べ物に関する逸話は多い。そのおばちゃんに今何が食べたい? と尋ねるとメロンと言った。(11月4日)


田沢沼
町の中心から南西方向というか田島小学校に向かう道筋から途中、学校前の橋の手前を右に折れ1㌖ほど行くと田沢沼がある。町の人なら大概の人の知っている何の変哲もない小さな沼である。現在は沼の北側に5、6軒の家があり生活の道として舗装されているがその先は昔のままの砂利道である。沼の傍から二手に分かれる道はそれぞれ小田沢、大田沢といい、山仕事や山菜取りに行く人たちが利用している道となっているが行き止まりの道である。その昔、大田沢といわれる方の道は通り抜けができて荒海方面に行く国道筋の「油燈」に抜けられたというが、そう言えば田沢沼までの間には往時をしのばせる苔むした馬頭観音の石碑が二ヶ所ある。その名残かも知れない。近年、わたしは、朝の散歩にこの道を通るようになった。ほとんどは途中にある大山祇神社(おおやまずみ)で参拝して引き返しているが、その先の樹齢30年ほどの杉並木の切れた辺りにぽっかりとひときは明るい空間を見ると、つい自然と足がそちらの方に向くことがある。勿論、その先には100㍍も歩けば左側にはいつも変わらない田沢沼がある。山奥から流れ出てくる水や小石がこの沼の生命源である。わたしが小学生の頃には学校が近かったので帰りには川原を遡って小魚や沢カニを採ったりしてよく遊んだ。沼は流れがなく水深3㍍ほどあって冷たいというので遊泳禁止とされていたがそれでも勇者はいた。が、多くの子どもたちは、流れ込む側の浅瀬で男も女もパンツ1枚で遊んでいた。あらためて堤の上から沼を眺めてみると、もっと大きかった気がするが意外と小さかった。100㍍四方くらいはあるだろうか。今はどこまでも静寂の中にあるが記憶の奥からは子どもたちのはしゃぐ声が聞こえて来そうである。振り向くと二本の大きな赤マツがある。変わっていないと思ったがそんなはずはないと即座にそれを否定した。日中は時々高齢者が釣り糸を垂らしている姿があるものの子どもらの姿は皆無である。もうとっくに皆から忘れられてしまった場所なのだ。かってこの場所に警察の官舎があったことを知る人はどれだけいるだろうか。同級生の蓮沼くんや本柳くんや桑原くんそして苗字は忘れてしまったがのり子さんという女性が1人いたような気がする。帰る途中、舗装との境の道端の一角に生気を失った一本のアザミが目に入った。さらに、薄暗い杉の木の下草に混じって小さい粒のような小さい紅い花を付けたミズヒキが列を作って咲き誇っていた。(10月29日)


心に止めていれば2
一度は見てみたいと思っていた郷土の画家村山三千男氏の描いた絵をやっと目にすることができた。小躍りするほど嬉しかった。三千男氏のことは渡部盛造著『南会津の語り火』で知った。著者と会津高校で同級生だったらしくその頃から絵は上手だったらしい。上京して日本画の伊東深水に学んで活躍した時期があったが、姉を頼って満洲に行ったきり…と書かれている。わたしが目にした絵は、色紙の大きさにやや左に鳥がそして挟むように左右に植物が1本づつ描かれている。カラスのような鳥は嘴鋭く後向きになって遠くを見ている。植物は葉の形や茎の模様からするとイタドリかもしれない。印象に残る絵である。わたしは、三千男氏について別にコラム(心に止めていれば/2016.2.9)でも書いている。『南会津の語り火』の本を読んだのをきっかけにして三千男氏のことを知る人を尋ねた。その中で、大先輩の湊田幹夫氏が所有しているというので伺ったが、あるはずのモノが無かった。次に古くから懇意にしている黒井良子さんから三千男氏の生家に知人がいるから残っていたら見れるかも知れないという時も期待外れだった。更には、わたしの三姉の同級生が姪に当たる人で聞いてもらうと絵は残っていないということだったが、それが最後で、しばらくはこのことは忘れていた。ところが10月15日に突然幹夫氏がやって来て、あった! という。向かったのは彼の経営するアメヨコ『ミナト』のオフィスだった。拝見して写真でも撮って帰るはずが結局買う羽目になってしまった。懐にお金があったのがいけなかった。初夏の頃、病院に支払った入院費の一部が戻ったものである。ところが入手した絵を家に持ち帰って改めて絵を見たらまだ薄汚れているのが気になった。気になりだしたら止まらないわたしの性分。額縁から絵画と板ガラスを外していざガラスの汚れを落とそうと水道の蛇口に近づけたところで手が滑った。素手にそのガラスが右手の甲の人差し指と中指の第一関節あたりをほんのわずかにかすった。鮮血が流れ出た。チリ紙を束ねて傷口を押さえたが止まらない。血液をさらさらにする薬を飲んでいる。時計を見ると午後4時を回っていたが、とにかく県立病院に電話をしてから車で駆け付けると運よく外科の先生がいて、いきなり二本の指に注射をして麻酔をかけてから人差し指は二針縫い中指は傷口を電気ゴテのようなもので焼いて閉じた。とにかく治療が終わったというか血が止まったらホッとしたが、予期しなかったお金が入って、喜びもつかの間、再びわたしの手から離れて行くのは実に早かった。(10月22日)


物づくりの大切さ
久しぶりに大沼郡三島町を訪れてみた。前回は確か研修旅行? という名のもとに友人の大橋清隆くんと共に、近い将来、意図的につくられた観光地に飽きた観光客が、特に外国からの人にはきっと絶賛されるにちがいない手つかずの自然の景観やそこで暮らす人たちの正直な生活をこの目で見るためだった。その時、昭和村の『ファーマーズカフェ大芦家』と道の駅『尾瀬街道みしま宿』に入って昭和村や三島町の人たちが明るく堅実な生活をしていることを知ることが出来た。今回の目的は、一度は見学して見たいと思っていた三島町の【工人まつり】だった。ところが、どう間違えたのか直前になって実は「編み組工芸展」ということがわかった。それでも二人の出掛った勢いは止められない。好天に恵まれたのを機に船鼻峠(400号)を越えて右に折れ喰丸トンネル(401号)から更に県道32号を走り柳津町琵琶首を経由して252号に出て三島町に入った。会場はすでに何度か行ったことのある「生活工芸館」と「交流センター山びこ」である。午前10時頃の到着はすでに遅しという感がした。この一角は只見川を見下ろす高台で桐の木とナラの木がいい具合に混在していてとても居心地の良い空間の中だった。林の中で親子連れがドングリを拾っている姿があり又中央を走る路を挟んで2つの建物には大勢の見物客で賑わっていた。多くの中年女性が手には袋を下げて歩いている。その袋の中がここで作られた製品だというのは一目でわかった。工芸館には作品が展示されていて、中でもわたしが興味を引かれたのは非売品のヒロロ細工、まるで布で織られたビロードのような風合いでいかにも上品な感じがするものだった。一方路を挟んだ山びこでは入り口を入るとすぐに行列ができていた。係の人に聞くと、製品を買ってレジに並んでいるのだという。それを聞いてわたしは驚いてしまったが、人をかき分け奥へ進むと陳列台には製品がいくらもなかったのには更に驚いてしまった。並んでいる女性の手にはヒロロ細工、山ブドウ細工、マタタビ細工を2つ以上を持っている。ひよいと覗いて値札を見るとヒロロ細工のものはおおよそ30,000円以上で、合計すると50,000円以上の買い物になっている。わたしは思わず唸ってしまった。家庭で財布を握っているのは大概が女性。男には到底できない買い物である。まさに女性の歩くところお金が動くである。同時に、三島町女性の厳しい冬を乗り切り明るく元気に過ごす力はこんなところにあったのかとわたしは思った。地方で生き残る道はこれだとも思った。帰りに寄った山びこ前の『どんぐり』という店の入口の壁にテレサテンが来町した時の写真が貼ってあった。これも又三島町の隠れた財産である。この行事は明日もある。(10月15日)


地縁・血縁
午後の散歩の途中で時々、木製の引き戸の門が開いている家がある。中をのぞくと小さな池があっていつも清潔で端正な雰囲気がそこを通って感じたときは儲かった気分になった。初めて家主の杉原義雄くんから声がかかって中に入ったのは一週間ほど前のことだった。その時、椅子に座って池を眺めながら珈琲をご馳走になった。彼とは付き合いは殆どなかったが同じ上中町の住民ということで顔見知りではあった。そして彼が博学な人であることも何度か話していて感じていた。しばらくしてから彼は話を中断し奥から家系図を持って来てわたしに見せた。彼と従兄のわたしも知っている杉原一成くんがまとめたらしい。それは一見して見事なものだった。左端から系統的に書かれたもので右の方に広がっていくものと思っていたら実は上下縦に伸びていて驚いたが、各人の生年月日、没年が入っているという念の入りようだった。血縁といえば、今年3月に100歳になった父の兄弟姉妹は計9人いた。明治・大正・昭和初期にはこのような家庭は珍しくはなかった。大勢で貧しかったから成長すると揃って皆都会に出た。おそらく無我夢中で働いたことだろう。その甲斐あってそれぞれが家庭を持って人並みの暮らしをするようなったが、気がついてみると、兄弟姉妹の付き合いは思うようにできなかった。正直わたしもオジ、オバの子すなわち従姉妹・従兄弟の名前すら思い出せなくなってしまった。それは長い年月を経たせいでだけはない。記憶が不確かになったことと遠くの親類より近くの他人という言葉通りなのだ。先日父の一番下の弟が亡くなった。わたしにとって叔父は比較的年齢が近かったこともあり身近に感じられた。若い頃叔父は、一時期、映画の撮影所で照明係の仕事をしていたことや田子倉ダムの建造で電機関係の仕事をしていた。そして、記憶に鮮明なのは、年の離れた二姉(わたしには伯母)の面倒をよく見ていたことが思い出される。夜仕事が終わってから姉を田島(現南会津町田島)に送り迎えしていた頃が一番血気盛んだった。明日わたしは告別式に出席するため東京へ行く。こんな時にしか上京できないというのは情ない話で、遂にその日が来たという思いである。東京は実に久しぶりである。東京駅から総武線快速が出ているのさえわからなかった。乗り換えが不安。人ごみの中も不安。まして切符を買う方法さえわかるかどうか。それでも久しぶりに在京の親類の方々と会えるのは楽しみである。会えばやはり血縁というのを強く感じるのはわかっている。(10月8日)


わが町の自慢は
カラスの鳴かない日はあっても4年先の東京オリンピック・パラリンピックの話題は新聞やテレビの報道に上がって止まない。それに比べ、わが町に来春、浅草から特急列車が初めて来るのに何の動きも見られないのはおかしい。少なくても現時点で、わたしは駅舎に懸かった告知の垂れ幕しか見ていない。確かに東京浅草(190.7㎞)まで時間的に短縮されれば、那須塩原駅まで車で行って新幹線に乗って高い料金を払うこともあるまいが。東武鉄道によると、2017年春に導入予定の新型特急「500系」を東武鉄道の起点である浅草より野岩鉄道会津鬼怒川線を経由し、会津鉄道会津線会津田島まで乗り入れることに決定した。1986年の野岩鉄道会津鬼怒川線開業に伴い、浅草~会津高原(現会津高原尾瀬口)間において、更に1990年には会津鉄道会津線会津田島までの直通運転を開始し、そして今回は新型特急車両「500系」の乗り入れにより首都圏から川治温泉、湯西川温泉、塩原温泉といった日本有数の温泉地を有する会津エリアへのさらなる誘客を図り、ひいては交流人口増加による栃木、福島エリアの活性化の一助になることを目指すとしている。また、毎日新聞によると、町では町内の観光を巡るタクシー路線の拡充を検討しており、町商工観光課の担当者は「特急運行に絡めた、さまざまな観光事業を展開したい」と話しているという。わたしが思うのは、もし観光でおいでになる人に目を向けるとしたら、特急が来るようになったらどうするかというよりは、これからの南会津町の生き残る道を真剣に探り考える良い機会だと思っている。今すぐにできることは、まず町民の気運を高めるために話題を効率よく知ってもらうことだろう。それから助成金に頼らないで自分たちの手で日常的に歴史的建造物周辺を清掃したり町中を美しくすること。そして、よその土地の真似ではなく都会の人たちにはすでに過去のものとなって経験できないこの土地ならではの素朴で飾り気のないもてなしではないだろうか。ここは、こんな所です、と皆が自信をもって言える正直な町民こそが観光客にきっと喜んでもらえるはずである。産物は十分にある。他に強いて行政にお願いするとしたら、田島駅前隣の郵便局駐車場を広葉樹の木々のある公園のような憩いの場所に改造は出来ないものか。そこにベンチがあったら尚いい。田舎は田舎らしくありたい。そして肝心なのはネットの活用である。再訪していただくための秘訣…それは、そこに住む人たちのおもてなしをする心構えこそが大切あるとわたしは考える。友人である大橋清隆くんは繰り返して言う。特急電車は毎日来るんだよ! と。(10月1日)


年寄り笑うな行く道じゃ
恒例の敬老会が今年もやって来た。長年この地区にお世話になったのだから少しでもお返しをしなくてはいけない、そう思って一昨年に地区の役員を引き受けた。その時に頭に浮かんだのは、いつの頃だったか覚えていないが、地区の役員だった渡部善久さん、星五郎さん、猪股英助さん、野中賢さん、室井周行さん、湯田武夫さん、猪股勇二さんたちの在りし日の姿である。行事で特に印象にあるのは、今は無くなった町民運動会である。選手はほぼ決まっていたが、それでも探し出すのにはいつも苦労をしていたようだ。夜、仕事が終わってから選手が集まって、ヤマトカメラ周辺の街灯の下でムカデ競争の練習をしていた。強敵の田部、水無、栗生沢地区のチームに一矢報いるためだ。ところが、いざ大会当日には全く歯が立たなかったのである。野中賢さんは実に足が速かった。それは高齢になってからも変らなかった。又野中商店に住み込みでいた故谷井徹くんが小まめに動いていた様子が目に浮かぶが、その頃のわたしは、地区のことなどまるで関心がなかった。只頼まれたことを最小限に手伝うのが関の山だった。若かった。それが今、75歳以上の高齢者と言われる人たちの敬老会の手伝いをしている。テーブルを囲んで食べ物や飲み物を目の前にすると、長年同じ地区に住んでいても顔見知りほどの人たちが自然と和やかな雰囲気になった。会場は『丸山館』の大広間。区長の長谷川次男さんの挨拶の後の光景である。上中町区長寿番付によると、75歳以上29人のうち90歳以上は男性4人女性1人でわたしの父は横綱の1人。とても元気だが耳が遠くては楽しめない。欠席した。いつかカラオケが始まった。トップは今年から仲間入りした星一雄(75)さん。日頃芸達者な一面を見せていたが、歌いながら器用に身振り手振りをしてこれほどまでに会場を湧かせるとは驚きだった。それからは一気に会場の緊張の糸が切れたようにあちらこちらで話し声が聞かれた。続いたのは、星一(87)さんである。「白い花が咲く頃」を歌った往年の岡本敦郎を彷彿とさせるような甘い歌声で聴衆を魅了したが、わたしは毎年この方の歌を聞くのを楽しみにしていた。他にも、この日自慢のノドを披露してくれた方は、猪股耕助(82)さん、猪股昭八(77)さん、湯田ミツ子(83)さん、そして今回初めての西村功(76)さんと上中町区は歌手ぞろいである。予定していたアトラクションが中止となってしまったがそれに見合うだけの楽しい時間を過ごすことが出来てお年寄りは大喜びだった。それに、こんな事だったらいつでもしてあげられると思うようなちょっとしたことをされてとても嬉しそうだった。わたしも同感。近い将来、わたしにも敬老会の招待状が届けられる。(9月21日)


性懲りもなく行って
団塊の世代が多いことろ、即ち昭和40年前半に高度成長の名のもとに若者が集中した場所こそが、今になって急速に高齢化が始まっている。したがって、その自治体は高齢者のために使わなければならない費用が大きな負担になってくるだろう。更に空き家こそ都市部に多くその対策は容易ではない。都市部が栄えて地方が廃れるという理論は成り立たなくなる。大筋として言えることは、これからは地産地消の促進が生き残る道かも知れないー㈱日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介(もたにこうすけ)氏の基調講演の主旨。10日、孫の運動会を見に保育園へ向かって歩いていたら、丹藤踏切付近で町の案内人代表の山田明さんに会った。町の案内人はわたしの同級生の故小椋宏夫くんが立ち上げた集団である。近年益々活躍していると聞いていたが、この時山田さんから「第39回全国町並みゼミ大内・前沢大会」が下郷、南会津両町で9日から11日の3日間の日程で開かれ、今日は分科会があり午後2時からだと知らされた。誘われはしたがはっきりした返事はしなかった理由は、こういう風な国や県や町主催のフォーラムは、ほとんどが現状にそぐわない形式ばかりのものであることをこれまで散々見てきているからだ。しかし、わが町のこととなれば知らぬふりは出来ない。案の定、わたしは時刻が気になっていた。会場となった御蔵入交流館へ行くと関係者が100人ほどいて、地元の知り合いの方の姿も見られたが、多くは遠くからやって来た大学の関係者や各地の町づくりをされている方々だった。自己紹介では、新潟市、栃木市、茨城県、九州…という地名があった。会の冒頭の基調講演は先に記述した通りである。まもなく新潟大学の先生の司会により分科会に入った。中央の大きなテーブル2つにそれぞれ20人ほどの人が椅子を進めたら、テーブルの上には南会津町田島の地図が置かれていた。すでに午前中、町中を散策した人たちは各人が町の中で特に印象に残った場所の名前を書いたカードをピンで留め、それが終ると、あらかじめ決められていた代表の人がそれをボードに貼って聴衆に向かってカードを読み始めた。只それだけだった。わたしはその作業に加わらないで両隣の人と話をしていたが、実はこちらの話の方が意義深かった。わたしとしては、印象に残った場所を点と考えれば、その点をつないで線とし更にそれを繋いで面としながら、どのように町づくりをすればいいのか、そのことが提示されるのを期待したが、そこまでは語られず任せられて終った。やはり…とわたしは思った。しかし、この分科会での収穫は他にあった。多くの人から何度もベタ誉めされた旧郡役所の管理人のミっちゃんこと中村美智子さんである。彼女から受けた対応がよほど嬉しかったようだ。常々わたしたちも同じようなことを感じていることだが、改めてわたしが確信したことは、町づくり町づくりというけれど、要は人づくりこそが町づくりなのだと思った。(9月14日)


先生
凡そ在学中に先生から関心を抱かれることはなかった。わたしは平凡な人間だった。わたし自身に取り立てて特徴がなかったということにもなるが、この場合の先生というのは、いわゆる学校という組織の中にいた先生で、在学中という三文字を除けば成長段階でいろいろな機会に先生方にお会いし十分にお世話になり影響を受けたことは間違いのない事実であると思う。初めての先生の出会いは、斉藤一(はじめ)先生で、わたしの二姉の夫だった人である。何よりも公平・公正を重んじ子供を愛しとても子供たちから慕われた人だった。が若くしてお亡くなりになった。葬儀の時、会場を埋め尽くした父兄や子供たちの姿が先生に対する信望の現れであったとわたしは思う。寿司を握るのが上手だった。珈琲にもこだわっていた。それでいて酒豪だった。わたしの母はそんな先生の一番のファンだった。記憶に残ると言えば、近年では渡部洋一(よういち)先生である。近所にお住まいだったこともあり、先生が退職されてからは、ひと回り年上にしてまるで友達のようにお付き合いをいただいた。一緒によく飲み歩き放蕩をつくした。先生と名のつく人でこれほどまでに自分の気持をありのままに出された人をわたしは知らない。それだけに、ついわたしは気安くしてもしかしたらご無礼を申上げたのではないかと今になって思ったりする。ある日突然お亡くなりになったが、一緒に飲みに行くときに見せたあの喜びの笑顔や町内の愛宕山(標高749㍍)に登った時の後悔に満ちた悲鳴と苦痛の顔が思い出される。そして、加藤弘(ひろし)先生である。先日三回目の訪問をしたら、この時も大変喜んでいただいた。話が弾んで帰宅した頃には暗くなって到着の連絡もしないで先生には心配させてしまったが、先生との出会いは半世紀を遡らなければならない。わたしが高校三年生の時に個人的にほぼ一年間ご指導を頂いた。お陰でわたしは大学に入学ができその後は理系の道を歩むキッカケになったが、それからずっと疎遠になっていた。しかし、当時先生が下宿していた”みずや”の二階で勉強(数学)をしながら、休憩時には、先生の弾くスチールギターを聞きサイフォンで珈琲を点ててもらったことはずっと忘れてはいなかった。近年、遠藤谷吉著『邪馬台国は耶麻郡だった』という一冊の本が縁で山都、高郷そして会津坂下町に興味を抱くようになって先生の出身地と重なった。初めてお目にかかったのは今年の7月18日の海の日だった。この時は玄関先で失礼したが、広い廊下に奥様の後に立っていた人こそがまさしく半世紀前に見た先生のお顔だった。(9月8日)


古代のロマン
古墳に興味を持つようになったのはつい最近である。何かをしていないと心身ともに落ち着かないわたしの性分からして、この古代の歴史についてもいつかは触れなければならない道だったのかもしれない。残念ながらわたしが生まれ育った南会津町田島には古墳はなかったようだ。それ以前の縄文時代や石器時代の痕跡は残っている。いろいろな土器や住居跡が発見されるのはその証である。そこで思うのは、古墳と水田は切っても切れない関係にあるに違いないということだ。そういうことからすると、わたしの身近にある山間地に古墳がないのは理に適っているのもしれない。また世の中にはいろいろな考え方を持っている人がいる。古墳は古代の墳墓だという通説に異議を唱えている。つい先日、いつものようにYoutubeで小名木善行という方の「目からウロコ 日本の歴史」と題して、古墳時代の嘘~実は墓ではなかった? という動画があり面白かったので紹介してみよう。この方の古墳に対する考え方によれば、水田に欠かせない水を常に水田に供給するには水路が必要。その水路を作るために土を掘りその残土を置く場所は盛り土となる。それを崩れないように固めたり囲いをしたりしたものが古墳になったという。更に、その盛り土した場所にその地方で貢献した人が亡くなった後に葬られたのは自然のなりゆきではなかったか、というのである。この話を聞いてわたしは、何かあまりにも自然で何の疑問も抱くことがなかったが、全く素人のわたしが得心したからといって大したことではないが、腑に落ちたことは確かである。これまでにわたしが唯一この目で見た古墳で会津坂下町の北東にある亀ケ森古墳(前方後円墳/全長127㍍)や鎮守森古墳(前方後方墳/全長60㍍)など東北でも最大級の古墳とされる大形2基について言えば、いつものように1人でゆっくり見て感慨深かったが、今になって考えてみると、有力者のための墓というよりはむしろ水田に送る水路を作る時に出た残土の山といった方が合理的かなと思わぬでもなかった。時期同じくして、わたしが懇意にしている同町の境ノ沢古墳の現地説明会が8月27日にあるというのを新聞で知り、躊躇いなく行くことになった。2年前までは想像もしなかった行動である。生れて初めてのことだった。おそらく当日集まった20人ほどの中でわたしが一番門外漢な場違いな人間だったのではあるまいか。ずぶの素人である。常人なら恥ずかしくて行けないかもしれないが、年齢を重ねたら恥も外聞も無くなったわたし。当然のことながら、見るもの聞くものがとても新鮮だった。小高い山(標高226~242㍍)の山林の中だった。頂には何本かの松の木の切った跡があり19の古墳が所狭しとあった。いずれもひどく小さい。古墳18号の西側で発見された直径6㌢の銅鏡は、あった場所が珍しいという。上層部にあった土師(はじ)器の形状からして4世紀頃とされ、神秘な青色が印象的だった。(9月2日)


ハチはハチでも…
今年みたいに雨の少ないのは珍しい。雨が少なかったせいで家の周りの草取り(草むしり)のタイミングを失った。いつもの年よりまんべんなく草取りが出来なくて場所によっては草が生え放題である。他に草取りをする人がいるのならそれほど気にならないのかもしれないが、見渡して見ても、私以外にいない。そこで、そろそろ桜の木の周辺の草が目につくようになったので草取りをしなければならないと思っていた。一昨日やっとその順番がやって来た。進行方向に蚊取線香を置き少しづつ前に動かしながら草取りをしていく。中腰の姿勢は結構疲れる。年々それを感じるようになり、いっそう除草剤を散布しようかと思いつつ、いやもうしばらく頑張ってみようということになった。一匹のハチがわたしの目の前を通り過ぎて行った。スズメバチ以外のハチだったら邪険なことをしなければ気に掛けることもないが、今通り過ぎて行ったハチは間違いなくスズメバチ。何気なくハチの行先を目で追ったら桜の木の一㍍ほどの高さに表面がこぶのようになった個所に30㌢くらいの穴がありそこに吸い込まれるように入った。おや? と思って凝視すると同時だった。そこには無数のハチが群がっていた。一瞬わたしは身の毛だった。静かに後ずさりしたのは言うまでもない。まさかこんな場所に巣があろうとは知らなかったし夢にも思わなかったので、驚いて蚊取線香や移植ベラなどは置き去りにされた。スズメバチじゃ手に負えないと思ったのも実に早かった。なまじ退治しようなどと思って仕掛けても、最後の一匹にでも刺されでもしたら元も子もない話。病院通いになるのは必然である。こういう事は専門家に限る、そう思って日頃は疎遠な役場の担当者に相談したらシルバーセンターを紹介された。電話をするとまもなくそれとわかる人がやって来た。見れば知っている人である。というより知る人は多い。全国的かもしれない。この人は、何年か前、テレビ番組、所ジョージの『日本列島 ダーツの旅』に偶然? に出演した。確かあの時もハチに焼酎を入れたものを健康のために飲んでいるというので番組では笑いを博していた。その時にはすでにシルバーセンターの仕事をしていたかどうかわからない。とにかく宇宙服のような防護服を着てスズメバチを駆除する姿は手慣れたものだった。父とわたしは10㍍ほど離れた家の陰で覗いていたが、段取りよろしく殺虫剤を穴の中に噴射しながら目の前を狂乱するスズメバチを拝むようにして両手で叩き落としていた。その時、わたしは、どうしてもっと殺虫剤を使って容易に駆除しないのか不思議だった。それから穴の中の巣をデレッキや手を入れて壊しながら下に落とし、そしてほぼ壊滅作業が済むと、今度はおもむろにそれをビニール袋に拾い入れて回収したのである。時間にして30分はかからなかったにちがいない。わたしは一連の作業を見ながらある事が気になった。それは戦利品の行方である。テレビに出た時のことが印象に残っていたから、もしかしたら作業終了の報告後は…と思ったが、何はともあれ、これでスズメバチ騒動は一件落着した。(8月26日)


リオ・オリンピックが教えるもの
2016年リオ五輪がいよいよ終盤戦を迎えた。四年に一度の祭典だがいつも開催に当たって是が非でも観戦したいという競技はない。ところが、いざ始まると次々といろいろな競技の感動画面がテレビやネットで届けられると、ほっとくことができなくなり、つい観戦しては感動し更に見たくなった。さすがに世界の強豪が集結した競技だから迫力満点なのは言うまでもない。特に、わたしが今大会でまず注目したのは、ウエイトリフティング48㎏級の三宅宏実(30)選手である。あの小さな体でトータル188㎏を持ち上げる技と精神力は見事だった。メダル決定の瞬間に見せたバーベルのプレートにやさしい愛撫が涙を誘い、同時に父義行氏や伯父義信氏の東京オリンピックでの大活躍とが重なった。次に注目したのは、卓球男子団体が決勝戦まで残ったことである。わたしはまだその実感が湧かないでいる。まさかあの中国と戦って1勝できたということがどうしても信じられないのだ。卓球は中国には勝てない、絶対に、という強い思いがあったのは否めない。それはわたしが卓球を始めた荻村伊智朗(1932~1994)氏や深津尚子(1944~)氏らが活躍していた時代の頃からである。それからしばらくして、わたしが大学で卓球部に籍を置いていた頃でも中国の卓球は世界では群を抜いた強さがあった。蛇足ながら、3年のときの関東大学卓球選手権大会のダブルスで、当時学生チャンピオンだった鍵本・斎藤(早大)組と二回戦で当たる組み合わせ表を見た時の天にも昇るような興奮が今でも心に残る。只残念なのは、そのことだけが印象に残っていて後のことはよく覚えていないのである。いつかわたしのパートナーだった同学年の脇本欣也くん(新日鉄)に聞いてみようと思っていたがまだ果たしていない。今回、急に卓球が気になりだしたのは水谷隼(27)選手が個人戦で銅メダルを獲得して、もしかしたら団体戦にそれが効果的な結果に繋がるのではないかと思ったからである。わたしの感は当たった。対ドイツとの準決勝で水谷選手が勝ち、勝利の女神を日本側に呼び入れた印象があった。しかし、決勝戦でもしかしたら中国に勝てるかも知れないと報道陣は囃し立てたが、わたしは何と愚かなことよ、と思った。熱心な卓球ファンなら中国卓球の実力からしてまだ勝てないことぐらい知っている。中国と決勝戦で戦える幸運を喜ぶべきで胸を借りるつもりという心構えであったらむしろ伸びのびと面白い試合ができたかもしれない。水谷選手がシングルスで勝ったのは、水谷選手のそれまでの勢いが許(=日へんに斤)選手の一度も負けたことがないが故のプレッシャーを更に後押しした結果であるとわたしは思った。改めて二人が試合をしたらおそらく水谷選手は今度のようにはいくまい。それにしても、今五輪は日本人の粘り強さと諦めないという精神力の強さが目についた。レスリング女子の快進撃がそれを象徴している。伊調馨選手の四連覇はまさにそれを物語っていたし、残念ながら吉田沙保里選手の四連覇はならなかったが、後輩が大きく成長していたのは金を獲得した以上だ。(8月19日)


過去のお盆では
盆というのは盂蘭盆(うらぼん)の略だそうだが、わたしには返ってわからなくなる。先祖の神霊(たましい)を死後の苦しみの世界から救済するための仏事と聞いているので、どうもあの世に行っても苦しみはあるらしい。そうであるならば、残っている人によく供養をしてもらわなくてはと思うこの頃である。季語では秋になるらしいが、日中の暑さは、ここ数年は益々厳しくなっている感がする。ところが、わたしのお盆に対するイメージは、まさに”盆と正月が一緒に来たような”に象徴されるようにとにかく忙しいということだった。過去形なのは、ここ何年か前からはそうではなくなったのだが、それまでは、ずっとお盆には同級生が集合してゴルフをするのが恒例になっていた。今思えばとても楽しかった。ところが、14,15日ではなくて16日だったためその日一日はとにかく忙しかった。ゴルフ場は地元の高杖カントリーかメンバーになっている人の多い白河メドウのいずれかだった。県外から小沼七郎くん、星要吉くん夫妻、湯田正昭くん、地元から星信雄くん、星喜太郎くん、室井昭二くんとわたしの8人である。遠慮や気兼ねの要らない知り尽くしている間柄となれば楽しくないはずはない。要吉くんと信雄くんの二人は他の6人とは腕が確実にランクが上だったが少しも得意顔しないところがこのメンバーが長く続いた理由の一つだった。とても気の良い二人だ。プレー後はそれぞれ(実)家に帰ってから改めて町へ出て来て決まったように『祇園』や『こまどり』という贔屓の店で一緒に飲んだ。要吉くんの奥さんも一緒で紅一点の宴席はいつも盛り上がった。気立てがよくてその上美形だったから人気があった。羽振りの良かった要吉くんに散在をかけることもあった。勿論、地元で建材業を営んでいる信雄くんにも余計な出費があったのも記憶しているがいつも嫌味がなかった。酒飲みが一段落する午後9時頃になると今度は盆踊りに繰り出した。田島駅前の会場はひと頃ほどの盛大さは鳴りを潜めてしまったが、2,3人が踊りの輪の中に入るとすぐさま続いて次々と入り込む。そして、いつの間にか輪の一部が同級生で占めた。昔とった杵柄、おしゃべりしながらでも手足は自在である。他には小椋宏夫くん、渡部章三郎くん、皆川次男くん、阿久津伸一くん、そして忘れてならないのは留あんにゃ(昔からそう呼んでいる)のいつもの顔ぶれがあった。そして、3,4周ほど踊ったら、これも決まったように踊りの輪から一人抜け一人ぬけしてスナック『ルボー』(ルボーが閉店してからはラブ)に流れた。今ではその元気は失せてしまったが、こんなことが何年も続いた。星要吉くん、小椋宏夫くん、星喜太郎くん、渡部章三郎くんが鬼籍入りしている。16日を明日にしてふと思い出された。(8月15日)


イチローに学ぶ
7月28日のカージナルス戦で2998安打目を放ったが以来7試合無安打だったイチローが、8月8日ついにメジャー史上30人目の通算3000安打を達成した。メジャー16年目通算2452試合目の偉業だった。達成した瞬間、敵地ファンはイチローをスタンデング・オベーションで祝福した。イチロー本人は祝福してくれたチームメートに「あんなに喜んでくれて…」と喜びを見せたが、意外だったようだ。米国は厳しい競争の世界、それは日本の比ではない。失敗すれば公然と非難されるか無視される。その代り勝者には惜しみない賛美がありお望みのものが手にすることが出来る。まさに米国は弱肉強食の世界でスポーツに限ったことではないのはご存じのとおりである。そんな中でイチローは、メジャー苦節16年、イチローのプロ野球選手としての苦労は、とても文字や言葉で容易に表すことは出来ない。想像さえ出来ない。只これまでの彼の言動や行動を見るに、イチローだからこそできる単純で同じことの繰り返しをしてきたに違いない。それも淡々として何でもないように…。それがイチローの凄いところである。そのイチローがオールスターには出場できなかった。イチローにとってメモリアルイヤーの今季はチャンスだった。ピート・ローズの通算安打記録を塗り替え大リーガ通算3000安打にも迫っていた。それが見送られたのだ。たとえ大記録保持者といえども控えの選手や代打の要員にもされる。わたしは、米国のフェアプレー精神の一端を見るようだった。こんな事があった。イチローの3000安打が達成されるのが近くなった試合で、イチローが打席に立つと敵地にもかかわらず球場では歓喜のスタンデング・オベーションが起こった。観客が一斉に立ち上がって拍手喝采、まさに敵味方のないフェアプレー精神である。鳴り止まない。捕手が捕球する構えをすればいいものを、それをしなかった。捕手はホームベースの周りを行き来するばかり。小石を拾うかのような格好も見せた。捕手は球場の空気を読んでいた。まさに捕手という名のピエロを演じていたのである。わたしはその記事を読んで、味なことするアメリカ人だと思った。そして、わたしは、その捕手の見事な演技に深い親しみを覚えたのである。後にその捕手は、イチローを影ながら尊敬しているのだと語っている。(8月8日)


苦しい時の神頼み
三歳と八ヶ月になる孫が遊んでいて転び左腕を折った。男の子で人一倍はしゃぎ回る方だからそれもあるだろうと思っていたし普段から男の子の切り傷やかすり傷は当たり前と吹聴していたわたしだったが、電話を切ってわれに返った。どの程度の骨折なのか、姿が見えないだけに心配がつのり、ついには痛かっただろうなと孫に同情を寄せた。第二子の孫が誕生して現在は嫁さんの実家にいる。これでわが家に戻って来るのが遅くなった、とわたしは思った。一緒にいる時はこの頃話題になっている<孫疲れ>もあったが離れていて姿を見ることが出来ないと妙に寂しいものだ。出来るだけクールで行こうと思っていた孫との関係、しかしながらわたしも人並みだったことがわかった。そして、親と子の二世帯は珈琲の覚めない距離にという言葉が改めて思い出された。こうなってはじたばたしても仕方がない。じっと待っているしかない。時間が経てば完治するものだと自分に言い聞かせたものの、しかし何か空虚な気分だった。ふと気がついたのは、神頼みである。つまり手を合わせてみようと思ったのだが、こんな経験はありますか。確実に自分の無力さを知り神仏に事の成就を祈願することだった。そしてすぐに頭に浮かんだのは、それに見合う千手観音の存在である。通常現代人の理性的判断から見て不合理と考えられるこの行為。しかし、現実に自分の心の置き場所に困っている。何も出来ないでいるわたしの憂えを少しでも解消できればと思って考え付いたのだが、こうするに至った下地がわたしにはあった。随分昔、家族の誰かに聞いたことだが、わたしの母は願懸け(がんかけ)を何度か行っていたらしいが、信心深かった母のことだから納得はできる。その話を聞いたとき、わたしは母のえも言われぬ深い愛情を感じたものである。会津坂下町の恵隆寺(通称立木観音)の本尊は十一面千手観音菩薩である。一か月前の暑い日、友人の大橋清隆くんと一緒に参拝して来たが、効力はもう失われたであろう。が、町内西町の千手観音(稲富家所有)を思い出し、さっそく日参が始まった。建物は新しいがお堂の入口に建つ石碑は嘉永7年(1854年江戸後期)と刻まれている。朝の涼しい時間に散歩するのも気持がいいものである。(8月02日)


ポケモンと演歌
いよいよわからない時代になって来た。わたしたち中高年の者には予測のつかない全く見通しなどが利かない状況下に置かれている。携帯電話が普及し更に進化してスマートフォンになって使い勝手が一段と良くなったと思ったら、色々な問題が発生し、とても危なっかしい世の中になったものだと心配していたら、更に心配する事態が起こった。ポケモンGOなる画期的なゲームが出現したのである。一足先に使われるようになった米国では早くも過熱して事故やトラブルを起こし、後発の日本でも、運転中にスマートフォンの画面に見入っていて道路交通法違反の疑いで検挙された。こうなると益々道を歩くのがぶっそうどころか危険になって来た。そうでなくても近年、歩道を歩いている人の中にいきなり自動車や自転車が突っ込んで来て亡くなったり大けがをしたりした事故が後を絶たないので、わたしは歩道でも出来るだけ車道寄りは避けて歩いている。この場合、運転手は酒飲みか覚せい剤の類をやっている人で、さすがに携帯電話の使用中というのは少ない。が今回のポケモンGOのようなゲームをする人が蔓延するようになれば、スマートフォンの利用者は多いから、街中でスマートフォン片手にゲームに夢中になっている若者の姿がこれまで以上に見られるようになるだろう。そうなれば、全く予想のつかない若者たちの心持に翻弄され、価値観のせめぎ合いの中で、お互いがこれまで以上に離反していくような気がしてならない。きわめて危惧している。ところが、それを補うように、先日、わが町の祇園祭に矢吹町出身の歌手津吹みゆ(20歳)がゲスト出演としてやって来た。普段から若い人の歌をほとんど聞かないわたしだが、この時ばかりはいそいそと会場に行った。本人に直接会えるのでわたしは行く気になったのだが、駐車場に設置されたステージに現れた彼女はきれいで弾むような若さがあった。歌はすでにYoutubeで何度か聞いていてその実力のほどは知っていたが、実際に目の前で歌う彼女は、音響効果の期待できない野外に在ってもとても上手だった。デビュー曲「会津・山の神」と次作「望郷恋歌」の他に2,3曲歌ったが将来大物になる素質は十分に感じられた。以前、わたしがこのコラムで紹介した歌手の福田こうへいが鮮烈なデビューをしてその後NHK紅白に出場した時と似ている。そう遠くない日に彼女も同じような道を辿ることを確信しながら、この時、わたしは、若者とのつながりが演歌にあると思ったら、いくらか元気が出た。(7月25日)


時代錯誤
懸案になっていた福島大学の新たな農学系学部の設置場所が、福島市金谷川のキャンパスに2019年春に開設されることが決まった。これまで誘致には県内8ヶ所の市町村が表明をしていたが、これで決着がついたことになる。福島大学長によると、将来に渡って運営経費や学生の利便性などを考慮し「二つ目のキャンパスを設置することは困難」と判断しながらも、キャンパスが分かれれば学生生活の支援や就職支援のための事務職員を新たに配置する必要が生じるから、厳しい財政状況を踏まえれば実現は難しい状況と記者会見で明らかにしたという。わたしはこの新聞記事を読んで、農学部は会津に、という強い思いがあったのでこの決定を聞いてがっかりした。そもそもこんな事は初めからわかっていることだと思った。これじゃこれまで誘致を目指してきた福島市・郡山市(一部を設置)を除く天栄村と誘致を目指していた鏡石町、白河市、南会津町、会津坂下町、田村市などの市町村の努力は何だったのかという疑問が残る。当今大学の学部によってキャンパスが分散しているのは珍しいことではない、むしろほとんどの大学がそうしている。キャンパスの分散がもたらす優位性は、離れているが故に逆に大学の結束が強まったり、名声が広まったり、そしてユニークな発想を養うにはお互いが離れていることがプラスに向かうこともある。ましてや農学部は、田園風景が広がる農作業をしている人の姿が普段から見られ、更にはドローンが自由自在に飛行のできる広域が確保された場所で、一からじっくり農業を学び専門家を育成していくことが大事ではないだろうかと思われる。わたしの住む南会津町はそういう意味では他に譲らなければならないが、農業基盤のしっかりした会津坂下町は最適だったはずである。わたしの稚拙な知識によれば、会津坂下町・湯川村周辺は稲作を始めたのは東北でも歴史的には先進地である。日本海から阿賀野川を遡上して朝鮮半島の文化や生活様式が伝播し、その結果13ともいわれる古墳群がある。又現在一軒当たりの人数にしても比較的多いことからしても農業に従事している人は多いに違いない。繰り返すが、農業を一から勉強して専門家を育成するというのはこういう場所ではないのか。浜通りや中通りには震災復興を前進させるための国家主導の民間研究機関が次々に新設されている。せめて、農産物の生産とその研究機関の拠点を決めるにあたっては、福島大学という一機関ではなく県もしくは国主導で決められなかったものか。わたしは、一極集中の弊害は日本の中の東京に見るように、地方でも同じことが言えるのではないかと思っていたので、大学の農学部設置は、会津地方に、というのが自然の流れではなかっただろうか。(7月16日)


108号室
鼠径ヘルニアというのをご存じだろうか。というよりは脱腸と言った方が通りがいいのかもしれない。下腹部の左か右にぽっこりとしたしこりが出来る。重いものをたがく頻度の多い人がなり易いというのだが、年齢と共に身体の筋肉が衰えてもなるから高齢者が多いと言われている。一昨年の師走、わたしは左を手術している。今回は右である。後はないだろうと思うが終ってみれば、手術とは言っても容易な方に違いない。その証拠に、午後3時頃から始まった手術が1時間ほどで終わり、2時間後にはもう歩いて病室に戻れるというものだ。左のときは術後は勿論その後もずっと全く痛みを感じなかったので、本当に手術ををしたのだろうかと思うくらいだったが、今回は顔をしかめるほどではないがさすがに痛みはある。それはそうだ。3,4㌢下腹部を切り中の垂れた腸を探り当ててそれも切り、切り口を何か人工的なモノでくくり付け、そして開いた腹部を元通りに縫い合わせるのだから血も出ただろう。それはそうと、わたしが大部屋に案内されたとき、ベットが1つだけ空いていた。まもなく一人は翌日に退院した。その人はわたしと同じ病気だった。他の二人はもうしばらく入院生活を余儀なくされるに違いない。詳しくはわからないが、わたしよりは重症らしい。わたしはその二人と比べるとはるかに軽傷。どういう訳か、見劣りがするというか肩身が狭い気がしてならなかったが、病気の程度がそんな気にさせたのか妙な気持だった。あまり適当な例ではないが、時代劇映画で牢屋内の居住まいが罪の程度によって差があった部屋の雰囲気が想像された。ところで、一番重症と思われる人に見舞いの客が来た。入るなり開口一番に、お~ずいぶん痩せたなぁ。うん あんまり食っていないんだ。しょうがあんめい それじゃ…。食わんに(食べれない)時にはヨーグルトがいいぞ、あれは栄養もあるし…。少し話をしてから見舞客は、じゃおれ買って来るからといって病室を出ると、まもなく手に袋を下げて戻って来ると又話が弾んでいた。医師や看護師はマニュアル通りである。が、肝心の病人の容態を直視しているとは思えなかった。食事は食べれないし睡眠もとれていない。気の毒なくらいに痩せこけていた。どうにかならないものかとわたしは思っていた。そうしたら、思いがけなく、友達思いの見舞客が来て、わだかまりのない率直で明快な会話を聞き、わたしの心は明らかに解放された気分になった。二人のやりとりが実に羨ましかった。(7月13日)

※ 14日朝、新聞の「お悔やみ」の欄にこの方の名前(川原田松男さん)が載っていました。無念。合掌。


歳月人を待たず
田母神俊雄という人をご存じだろうか。日本の国が良い国だと言って辞めさせられたとユーモア巧みに自らを揶揄している人。流暢とはいえないが確かな話し方で、職業柄いかにも国際人の趣があり、正しくは、第29代航空幕僚長をされていた方である。先の東京都知事選に立候補しネットでは爆発的な人気を博した。安倍首相に一番近い候補といわれながら、与党の推薦はなく、61万人票を獲得したが敗退した。そして、まもなく彼は公職選挙違反(運動員買収罪)で逮捕された。わたしは彼のファンだった。勿論現在もその気持に変わりはないが、その時思ったのは、不慣れな選挙活動と一筋縄ではいかない伏魔殿に例えられる政治の世界に立ち向かうには、余りにも無防備だった気がしてならない。元々軍事戦略の専門家で日本の防衛・災害など国土を守る実態を一番よく知っている人だけでなく、人生観にブレのない見識のあるきわめて貴重な人だと思っている。田母神氏(郡山市/67歳)とオーバーラップして見えてくる人がいる。それは同じ福島県岩瀬郡仁井田村(現須賀川市)出身の根本博(1891年~1966年)元陸軍中将である。窮地に立つ台湾を救った実に立派な方だった。興味のある方はぜひネットで検索を試みてほしい。田母神氏が東京地検特捜部に拘束されたのを機にマスコミは一斉にまるで悪人扱い。公判中にあるにもかかわらず、である。本人は「報酬として現金は配ったことはない。道義的に責任は感じているが無罪を主張する」と否認している。さらに番組の司会者やコメンテーターと称する人までが手のひらを返したように、こうなるのは初めからわかっていたなどとうそぶく姿には呆れ果てる。世間というのはそういうものだというのは承知していても、それにしてもあのひょう変ぶりには言葉がない。番組は相変わらず平然とつづいている。が、化けの皮が剥がれた以上わたしはその人の出る放送は見ていない。いつか亡き母が言っていたことを思い出す。貧乏になると人は寄って来なくなり、少しお金に余裕ができると知らない人までやって来るものだ、という処世術だ。7月2日、田母神被告ともう一人の被告は業務上横領罪について嫌疑不十分で不起訴処分とされ、さらにもう一人を起訴猶予処分にしていたことがわかった。一旦信頼を失うと再チャレンジのチャンスを与えられない日本だが、ぜひ再起をはかっていただきたい。(7月05日)


自筆のお便り
うれしい事や楽しいことは、自ら求めないと、享受できないものだ。この頃、わたしは、加齢と共にやって来る体力の低下が思考や行動に衰えを感じさせ、人任せが多くなりそれが通常的になってさえきた。そして、他人が計画した催し物に便乗して行くのがいかに楽だというのを知った。だから、自分で計画して行動するのが得意と豪語していたのがまるで嘘のようである。ところで、うれしい事と言えば、お礼の電話をもらったときなどはとてもうれしい。しかし、電話というと、忙しい今日の社会環境からすればあれこれ言うことはないのだが、正直何か物足りないと思うのはわたしだけだろうか。そんな時、例えば、「有難う 美味かったよ!」ほどのことを書いたハガキをもらったらどれほどうれしいか。電話ではなく手紙をもらったときなどはうれしいことの最たるものに違いない。年賀状をもらった時がそうだ。もう忘れるくらい長い間会っていない人からの年一回の便りにもかかわらず、漢字の名前を見ながら突如として相手の顔が浮かび昨日のことのように懐かしく思う。又来るはずの人から賀状が届かなかった時の何とも言えない寂しさは何だろう。こういう時代だからこそ、物事の運びにはゆっくり穏やかにと思うのだが。もっとも、人それぞれだからそんなわがままは言えない。お礼と言えば、つい先日、わたしの拙著な本『スライドショーⅢ』をお配りした方からお礼の手紙が届いた。それだけでわたしは小躍りするほどうれしかったのに、読後、とても勇気づけられた。これまで、この人の作る短歌・俳句をわたしはいつも注目していて彼女のファンとして自負していた。日々の何でもない出来事を題材にある時は森羅万象に生を持たせ絶妙な句を作る。そのため、広く多くの人に詠んでもらいたくてわたしは自分のホームページに週替わりで無断使用して載せている。これまで表だって句に対する反応は無いが、わたし同様感慨にふけっている人はきっといるに違いないと密かに思っている。そうそう、手紙の内容だが、彼女は、わたしが生涯忘れることのできない今は亡き二人の同級生について書いた「人生最初の弔辞を読む」と「悲しい友との別れ」を読んで、小椋宏夫くんには、秋蝉の鳴き尽したる軽(かろ)さかな。そして7月4日に亡くなった星喜太郎くんには、手を握るだけの目語(もくご)や星祭り。と、それぞれに弔句をいただいた。いずれもとても心温まる一度詠んだらいつまでも記憶に残る秀句だ。柏倉清子さん、ありがとうございました。(7月02日)


プレミアム商品券
デフレ脱却からまだ抜け出していないといわれ、更には消費税率8%になって以来個人消費はまだ回復(いつの時点からなのかわからないが)していないという昨今。大企業だけの収益が向上し、連動するように公務員の給料が上がり、一般に働く人との収入の格差が益々広がっている。政府は、これらの対策として、「地域消費喚起・生活支援型」のプレミアム商品券の発行財源となる地方創生の交付金を自治体に配分しており、近年、わが町でも何度かその恩恵を受けているが、再び今日25日と明日に商品券が販売されることになった。町の商店と大型店の両方に利用できる商品券には10%のプレミアムが付き、町内の商店に限られる商品券には20%のプレミアムが付き、さらに18歳以下の子どものいる家庭には30%のプレミアムが付く。一人50,000円までという上限付きで、今年12月末日まで利用できるというものだが、こんなに得することを見過ごすわけにはいかない。早速わたしももっぱらガソリン代に使うことを目的で並ぶことにした。販売開始は9時というので8時少し前に到着するように家を出た。前回は販売開始時刻前からずいぶんと行列が出来ていて、しかも日が照っていて汗ばむような暑さだった。その時のことを知っている人は早かった。わたしもその一人で、経験を無駄にしまいと思って『まちなか楽座』へ行ったら、誰もいない。あれ…? 時間を間違えたかなと半信半疑で覗いて見ると、商工会の担当者も経験のない新人だったのか、少し早いのではというような怪訝な顔をしている。それでもわたしはやゝ強引に店内に入って待たせてもらうことにした。まもなく8時を過ぎると堰を切ったように次々にやって来て、店内の12、3人ほど座れる長椅子から洩れた人は国道に面した舗道に列を作るようになり、それがあっという間だった。店内は一見して女性が多くしかも若い人。男の人はわたしと他に3人でやはり家庭の財布を預かるのは昔も今も変らないと思った。ここでは夫婦別姓などという理屈は発生しない。顔見知りの人が何人かいた中に、奥さんがわたしの同級生で幼友達のテルちゃんの旦那がいた。久しくご無沙汰していたので二言三言の話をした。又隣に座った女性は栗生沢のわたしより年長の母と娘。やりくり算段の上手な仲の良い親子で羨ましくなるような雰囲気があった。いつか何かの本で知った栗生沢の山の神(大山祇神社)様のことを聞いたら、つい先頃お祭りが終ったという。わたしの家から10分ほどの距離にも大山祇神社があるが、ずっと母から聞かされていた、こちらの神社は、大山祇神の姉妹の子どもの姉石長姫(イワナガヒメ)だという。結局、この日プレミアム商品を一番はじめに購入したのはわたしだった。何事において、後にも先にも一番というのは初めてである。(6月25日)


イチローはMLBの常識を破壊している
6月15日、イチロー選手がパドレス戦で二安打を放ち日米通算4257安打を達成した。この快挙をどう祝福してよいのかわからない。それは、彼の名言「調子の悪いときこそ全力でプレーすることが大事」「小さいことを重ねることがとんでもないところに行くただ一つの道」という言葉に心服するからである。それに加えて今回、かれにとってこれまでいろいろな場面で笑われたことがバネになっていることがわかった。イチローにしたらこの記録も単なる通過点と考えているのかもしれない。日米通算という記録にこだわるローズの発言に反論することもなかった。ローズが祝福のコメントを口にしていたら自身の株も上がっただろうにとわたしは思ったが、しかし多くの大リーグファンは素直に喝采することを忘れなかったのはさすが野球王国アメリカだと思った。中でも、現マリナーズ打撃コーチのエドガー・マルティネスは祝福の手記を残しているので紹介してみよう。イチロー おめでとう。日米通算だろうが素晴しい記録には変わらない。彼の打撃技術、能力、試合との向き合い方、準備—すべてを考えたとき、もし最初から大リーグでプレーしていたらどうだったのか、そう思わせる。大リーグだけでもピート・ローズを超えていたかもしれない。本当に特別な選手だ。さらに、かれは1999年の春季キャンプのときに、オリックスにいたイチローが何人かの選手と一緒にアリゾナで行われていたマリナーズのキャンプに参加のとき、イチローのことは知らなかったと言いながらも、打撃練習では広角に打ち分け、引っ張ったときにはパワーを見た。後で聞いたら、日本でずっと首位打者を取っているとのことだった…イチローはMLB(メジャーリーグベースボール)の常識を破壊していると言っている。わたしは、イチロー選手といえば、帽子を逆さにかぶりサングラスをかけフリー・バッテングやランニングをしているひょうひょうとした姿がずっとわたしの印象にあった。昨年8月にこのコラムで「イチローが4191を超えた」を書いたときも、正直そういう思いがあった。しかし、今回記録となった一打を右翼に放って二塁ベースに走り込んだ後、スタンドの歓声に応えて帽子を脱いでゆっくりターンしたとき、彼の頭髪に白いものがあるのを認めた。そのとき、わたしはあらためて4257という数字の重みを感じないわけにはいかなかった。おめでとう! (6月19日)


散歩に出よう
田舎ならではの出来事に違いないが、いつものように午後の散歩に出たら三組の知り合いに出会った。小さな町だから知り合いは当然多いけれども立ち話が出来る人となれば限られる。散歩するコースは特に意識しているわけではないが、家を出る時にいつの間にか決まっている。このところ日中はかなり暑くなるが、日の長くなったこともあり午後4時ごろでも日差しは強い。にもかかわらず、思いの外暑くないのは海抜550㍍の山地で吹く風のせいであろう。大門川沿いを歩いていたら、同級生の渡部貞輔くんの自宅の縁先で見慣れない若者がいてどうやら家の中の貞輔くんと話をしているようだった。そういえば今日は日曜日で休みだ。簾が架かって家中をはっきりとは確認できなかったが、わたしは左手を挙げてオーッと声をかけて通り過ぎた。若い時は酒豪で猛者だった彼。でも、彼との立ち話はいつも同病相憐れむ話になってしまう。何年か前までは釣りが好きだったはずである。わたしも一時釣りに傾斜していた時があったから彼の心根はわかるような気がする。気持のいい男である。奥さんんも同級生だから気兼ねが要らない。川沿いを離れ薬師寺通りに入ってすぐに自転車に乗った星佑子さんに出会った。颯爽と自転車から下りる彼女の姿は、わたしより年上だが、いかにもお歳を感じさせない軽やかさがあった。話は自然と故川井幸一良さんのことになったが、単に共通の友人だったというより川井さんの魅力に惹かれた人たちの中の星さんとわたしである。あの人は、この地方では時代を先取りしていた人だったとわたしは今でも思う。又思い出してしまった…。それから10分くらい経ってから、わたしは、国道バイパスを歩いていた。二人の親しい友人に会い、歩いていて”儲かった”ような幸せ気分になっていた。ふと先を見ると、100㍍ほどの所を二人の女性が肩を並べて歩いている。よく見ると、もしかしたら『姉妹』という店の姉妹だと感じて急いだら、昨年オープンした『ダイユーエイト』の駐車場に入ったところでようやく追いついた。よかった! 間違いなかった。姉妹で飲み屋を始めてから四半世紀を超える。その間二人の屈託のない人柄に人気が集まり、わたしも例外ではなく、同級生の男たちと還暦の頃までよく通っていたので話題には事欠かない。もうドキドキするような歳ではないといっては何だが、普段着で店の外で対面するのも粋なものである。5分位立ち話をしただろうか。二人は買い物に来たのである。ヒマなわたしにいつまでも付き合わせてはいけないと思い警察署の方に向かって少しずつ歩き出した。立ち止まっていた時の蒸し暑さが嘘のように涼風が吹いて心地良かったが、西日はまだ勢いを失ってはいなかった。(6月13日)


だから、どうなの?
よそ様にはまったく関係のない話で恐縮です。こんな話は、おそらく誰にでもある話で一々覚えていられないというのが本当のところだと思うが、記録しておけば、いつか、退屈したときの話のタネにでもなればと思って書きとめておくことにする。昨日、昼食後にいつものように新聞を開いた。いつもは新聞は最後のページから読んでいるが、この時はおそらく朝食時にいくらか目を通していたのだろう途中からページを開いていた。ひょいと見た最初の目線の先には見覚えのある名前が載っていた。わたしの息子だった。詳しく読んでみると、南会津地区安全管理者協会の総会で優良安全運転管理者として受賞者の欄に名前を連ねていたのだった。今晩あたり話題にしようと思いながらもどういう訳か自分のこと以上に嬉しかったのだが、それより嬉かったのは、タイミングを計ったように旧い友人の鵜名山くんからの電話だった。会津若松市で店を構え一人で長年自動車関連の仕事をしている彼だが、今朝新聞で知って連絡しようと思っていながら福島市にやって来て思い出したので電話をしたというのである。朝新聞を見たからとかいうので電話をもらうことはよくあることだし、嬉しくもあり有り難いことではあるがそれほど驚く話ではない。驚愕したのは、わたしが息子の名前を発見したのと同時に電話をもらったことである。それが今もって不思議でならないが、そう言えば、先日これと似たようなことがあった。以前このコラムで『「特急」浅草行き』(4月22日)というのを書いた。来春、東京浅草から会津田島まで特急が走るという内容だった。その際、書き入れようと思ったが意図が変ってはと思い省略したが、新聞に特急の乗り入れのことが載ったとき、遡って1986年10月に開通した当初の会津鬼怒川線の盛況ぶりを思い出した。そして、開通を記念して募集された小学生の優秀作文(開通したら田島駅周辺がどのように賑い変貌するか)を興味深く読んだことがふと脳裏に浮かんだ。ところが翌日、その作文を書いた女の子のお母さんの姿を町中で遠くから偶然見かけた。同じ町内に住んでいながら近年姿を見ていない。よその人と立ち話をしていたので声を掛けるのを遠慮したが、実に不思議な気分だった。(6月7日)


口は禍の門
この頃気になることに言葉使いがある。自分のことをさておいてという観がなくはないが、近年あまりにもひどすぎて目に余るものが多く、どうしてもこの欄に登場させてみた。例えば、何かの集団が使うようになったオール○○という言葉、オールという意味を、ろくに精査もしないで、実際はほんの一部の人にもかかわらず報道関係者は乗じるかのように安易にそのまま使っていることや、死ねなどという言葉にしても不用意に使っている政治家など、言葉の乱れこそが世の中の乱れと思わざるを得ない。わたしがいつも応援している科学者の武田邦彦氏がいる。この人は言葉使いについて一段と厳しく熱っぽく語っている。特に暴力的な言葉には否定的で、周囲に及ぼす影響は限りなく悪だと言っているが、わたしも同感である。およそ人の使う言葉というのはその人の人格そのもので、言った言葉には責任を持たなければならないし、どんなにその人が立派だとしても人間性が問われ、言葉に品性がなければゲスである。そんな折、タイミング良く福島民友新聞に、教育者の土屋秀宇(つちやひでお 1942年)氏が書いた『許し合い補完して共生』という文が載っていた。副題には、「鈍刀人を截らず」「言葉の過激化 品性失う」とあったが、いかにも当世を反映していると思った。そこには土屋氏が、京都大学の佐伯啓思教授の書いた『致知』(2014年12月号)を引用している「近年の日本を見ていると、些細な問題で徹底して責任を追及したり、自分が攻撃される前に誰かを攻撃し始めたり、と何かと窮屈になったものだと思います。ヒステリックなマスコミ報道や、いわゆるモンスターペアレントなどはその典型でしょうが、日本全体がそういう空気に煽られています。」という個所に、わたしもまさにその通りだと思った。それにしても、今日6月1日は、昨今話題になっている舛添要一都知事が都議会で所信表明の演説が行われることになっていた。夕方、わたしは録画を見た。が、「多大なるご迷惑をおかけしていることを心から深くおわび申し上げたい」という言葉には口は口心は心という感じがしていかにも空しかった。(6月1日)


道の駅は、町の顔
駅といえば鉄道の駅。駅はその土地の顔だった。列車から降りて構内を歩きながら、この町はどんな場所だろうかと好奇心にかられ、漂う雰囲気や匂いなどからその町の様子を伺っていたのである。今では懐かしいが、道の駅がそれにとって代わってからどの位経っただろうか。移動する手段が自動車に大きく様変わりしてからである。わたしも遠出する時にはこの施設を利用するようになった。トイレ休憩という目的ひとつとってもとても便利である。福島県には29ヶ所あり、近県では宮城県13、山形県19、栃木県22、新潟県38となっていて、設置数は県土の面積に比例しているようだ。鉄道の駅のシンボルとしての役割が薄らいだ代わりに道の駅の存在感は俄然高くなっているが、道の駅に共通しているのは、広い駐車場と清潔なトイレである。また中に入ると、一目でこの地方の様子がわかるというのも特徴でまさに町の顔である。これまでに利用した印象深い道の駅は沢山あるが、一昨日初めて入った『尾瀬街道みしま宿』は記憶に新しいというのもあるが、特筆しておきたい良い駅だった。わたしの好きな只見川を望む高台に立地というのがまず立ち寄る理由になった。気が利いていたのは、車を降りるとすぐに本館から少し離れて別棟にトイレがあったこと。しかも、感心したのは女子用2、身障者用1、男子用1という順にそれぞれあったことである。さらに、本館の入口のドアを開いた瞬間、人口1638人、673世帯の小さな三島町はこんな町ですというパワーをドーンと身体に受け、あらためて、内部を見渡すと、あまり見慣れないモダンな建物の中は楽しさで一杯だった。特産品が盛り沢山の棚が並び只見川の見える味処『桐花亭』は満員の客で賑わう。4本の大きな垂れ幕に墨で書かれた全国大会云々という俳句が披露されている。二階への昇り口には城戸真亜子(きどまあこ)氏の油絵が飾られ、二階には、特産品の桐のタンスが常設されているという。さらに、わたしが目を引いたのは、先年、わたしがこのコラムの欄で紹介したことのある桐材で製作した実物大のサーフ・ボードが展示されていた。途中で製作を止めることなく根気よく続けられていたのである。わたしは感激しながら旧知に会ったようにとてもうれしかった。そして、町の顔が鉄道の駅から道の駅に変った今日、この道の駅『尾瀬街道みしま宿』こそが三島町の自信に満ちた顔だった。(5月24日)


石花
ワイド!スクランブルというテレビ番組を見ていたら、神業的と思わせるようなことをやっている人がいた。それは、河原に転がっている形も大きさも全く違う何の変哲もない石を、バランス良く積み重ねるというものだった。その男の人は、ごく普通の人のようであるが、まるで超能力者の仕業だった。石を積み重ねていって静止した瞬間、わたしは思わず、オー! と声が出そうになった。まさにその美しさはシンプルで媚びることのない端正な姿で、見る人を清廉潔白な気持にさせる、まるで、接着剤か何かで貼り付けた後の場面を別に撮って置いてそれを合成したしたかのような完璧な光景だった。流石に立ち合い取材した人(井筒和幸映画監督)の驚きようはなかったが、それを見た後で、勧められるままに自らも何度も挑戦してみたら見事に出来たのだから、およそ、出来るはずのないと思われる事でも試みて見るものだと、あらためてわたしは思った。成功した秘訣は、神の手を持つと言われる人の一言だった。積み上げる際に重心となる三つの点を見つけることだというのである。その三つの点が上手に見つけ出された時にはじめて神業が成立するのだと。取材者が途端に成功を収めたのはそれからである。わたしは、鍵はその三つの点を見つけ出す資質が備わっている人とそうでない人がいるかもしれないが、鍛錬すれば向上するのだろうと思った。見終わった後、わたしは「三」というのが妙に心に残って、いつの間にか三と名の付く言葉を探していた…三種の神器、三顧の礼、三割打者、三位一体、三羽烏、三人娘、三匹の侍、(会津)三方道路、三行半(みくだりはん)? いずれの言葉にも安定・安穏というのが付随しているのがわかる。そう言えば、わたしの家族は四世代が一緒に住んでいて今のところ騒動もなく穏やかであるのは、もしかしたら、世代間を結ぶ何かがあってそれが三つで安定が保たれているのかもしれないと思って探したら、いつも不退転なのは挨拶だった。一日三回である。ちなみに、石花(いしはな)とは、積み上げられた石の美しい姿を見て、ご本人が命名したものだという。(5月18日)


爽やかな朝
夜が明ける時刻が早くなってきた。目を覚まして時計を見るとおおよそ5時半頃である。それから着替えて草取りをするのが日課になった。がそれは平日のことで、土日曜日には田沢の大山祇神社まで散歩をしている。今朝は何を思ったか、片道20分ほどの距離にある、阿賀川へ行きたくなった。しばらく行っていない。早速、手にはカメラ耳にイヤホンを付けて家を出た。今日は田島小学校の運動会と聞いていたが普段よりいくらか学校通りが車の通行で騒がしい。きっと運動会を見るための場所の確保に急いでいるのかもしれない。丹藤踏切を過ぎて農協角の交差点を渡ろうとしたら青が点滅した。走れば間に合うタイミングだったが急ぐことはあるまい、そう思うようになったのはこの頃である。おかげでFamily Martの看板が目に入るだけの余裕が出来たのを幸いに店に入った。勿論お目当ては一杯ごとにその場で挽く珈琲で、河川敷に腰を下ろして清流を眺め、モーニング珈琲と洒落て見たいと思ったからで、友達の家へ訪問する際に何度か寄って買っていた。その時の経験から味は実証済みだった。雪らしい雪が降らなかった今シーズン、川の水量はきわめて少なかったのは当然と言えるかもしれない。それでもヨシキリのさえずる声や花束にも使えそうな大きな株の黄色い花がわたしを迎えていた。青い空に遠慮がちに浮かぶ雲に向かって大息をついた後、器の蓋を取って二口飲んだところで、何と贅沢な時間だろうと思った。時折堤防を走り抜ける車の音に度々われに返ったが、至福の時間はそう長くはつづかない。時計をのぞいたら、いつの間にか7時30分を過ぎていた。わが家の朝食は8時から半までの間が目安。惜しい気持もあったが上着を手に帰途に就いた。途中飲み終えた紙コップ(黒地に白文字と青緑の線が2本入ったしゃれたデザイン)を買った店で捨てるつもりだったが、そうしなかった。よくよく考えると、その理由は、40年前に遡らなければならない。当時「手にジャーナル心はマガジン」「右手にジャーナル左手にパンチ(平凡パンチ)」というのが流行した。ジャーナルというのは、学生運動が華々しかった頃の『朝日ジャーナル』のことでろくに読みもしないのにー読んでもよくわからなかったーファッション感覚で持ち歩いていた。東京が輝いていて何もかもが眩しかった時代である。その時と同じような気分にわたしはなっていたのかもしれない。(5月15日)


静の一子、佐兵衛義高
吉川英治氏の随筆新平家(昭和35年4月発行)を読んでいたら、自身の小説「新・平家物語」では、源義経の愛妾静御前(正室・河越重頼の娘)が京都から鎌倉へ護送された際、頼朝の側近の安達清経邸が宿所となり、後、静が産んだ子が男子であった為、頼朝は、これを由比ヶ浜(鎌倉市の南部で相模湾に面した)に棄せさせたのを安達清経は、人手に渡して助けたと書いている。吾妻鏡でも、”ー臺命ニ依ッテ由井ヶ濱ニ棄テシムー”となっており、君命で棄てさせたとあるが殺したとは記録にない。歴史に口碑はつきもの。真偽のほどは勿論わからないが、吉川氏が執筆中にもいろいろと読者からのお便りがあるという。義経の子が生き延びていたとする郷土史家からの長文もその一つで、随筆新平家に書いている。宮古市の佐々木勝三氏から史據と共に「義経と静の仲の一子は殺されていない。東北の一隅に長らえていた。だからあなたが自分の空想だと断っているのは間違いでその空想は史実と一致するものです」と、わざわざ云ってよこされた。さらに、筆者は、長文の要点だけ書いている。義経の一子は密かに佐佐木四郎高綱の許で育てられ、佐兵衛義高となって、のちに、岩手県閉伊郡田鎖の領主となった。そして文永四年の八十二歳まで生き、没年から逆算すると、生まれ年は、ちょうど文治二年静が鎌倉へ召された年に当たり、その点、全く符合する。更に当地方の郷土史から豪族系譜を拾ってみると、「田鎖殿ト申スハ、九郎義経公ノ御捨テ子、佐佐木四郎高綱、密カニ養育シテアリシヲ、後、高綱、世ヲ恨ミ申ス事アツテ、実朝公ノ御代ニ高野ニ隠レ居給フ、コノ時、内裏へ彼ノ若君ヲ伴ヒテ参内、仔細ヲ申上ゲ、奥州閉伊郡ヲ下シ賜ハル也、閉伊郡ハ内裏御領ノ内」。他にも種々研究に足る史料は少なくない。いずれにせよ「静の子は死なず」と云ってよいと思う。真偽はともかく、新春の一茶話には、値しようか。佐々木氏の長文に対して吉川氏は好意をもって感謝している。いい話を聞いたとわたしは思った。(5月04日)


新井・父子
プロ野球広島東洋カープの新井貴浩内野手(39)が、26日のヤクルト戦でプロ野球47人目の通算2000安打を記録したという。近頃、プロ野球のテレビ中継による観戦から久しく遠ざかっているわたしだが、このニュースが飛び込んできたときにはさすがに平然としてはいられなかった。新井選手はわたしの好きな選手である。バットをほぼ垂直に構えオーソドックスな振りから豪快なホームランを打ったかと思うと鮮やかな適打を放ったりする。不器用な選手という印象があるのは大きな体(189㌢、89㌔)からくるもので、人柄が誠実で頼りがいがありそうだ。広島の2000安打達成者は衣笠祥雄、山本浩二、野村謙次郎、前田智徳に次いで5人目というのも素晴しい。そして、この大記録の達成の陰には、長年見守って来た父親の姿があったことが報道され、久しぶりに感動した。こんな父親がいたかと思ったら涙が出るほど嬉しかったね。この父あってこの子あり、という気がした。以下スポーツ報知4月27日(水)8時2分配信の記事をそのまま載せた。ー父は「毎年12月になったら解雇されるんじゃないか」と語る。プロ入り18年目の快挙に父浩吉(65)は「想像もつかなかった」と文面からしてとても厳しい父だったように思う。私生活では父はとても厳しくて、中学生の頃、学校から電話があって隠れてガムを食べたと、何でそんなことをしたと聞いたら「友達が食べろって言うから」と言い訳した。初めてボコボコにしたという。ガムを食べたことに怒ったんじゃない。人のせいにするのは絶対にだめじゃと。顔が腫れてね。次の日家内は休ませろっていうけど、私は行かせた。筋の通らんことだけはしちゃいかんって、それは言ってきたつもりです。本塁打王にもなったけど、試合に出られない時期もあって苦しんだと思う。貴浩が最も悩んどったのは07年のFAの時。相談というか、悩んどるいう話を聞いて「どこでやっても野球は野球じゃ」とだけ言いました。もう一つ本人に言い続けてきたことがあります。人の価値はお葬式の時にどれだけの人が本気で泣いてくれるか、だと。人に背くようなことだけはせずに、残りの人生を全うして欲しいですねー。新井選手はわたしの息子と同年である。果たして、新井選手の父親のように息子を育てて来たかと言われるとわたしは情ないかな自信はない。(5月01日)


薫風に誘われて
何事か一段落した後は得もいわれぬ開放感がある。同時に、ぽっかりと空いた気分を充足したいという気持にもなる。先日の歯の治療が終わったときがそうだった。今回はここまでにしておこうと自分から区切りをつけた。そうでもしないと、わたしの意に介さないで歯科医はさらに別の歯の治療に取りかかろうとする…?? 外はうららかな陽気。数日前、室井皆共展があることを新聞で知った。5月下旬までの開催とあったが思いついたら吉日、早速、喜多方市美術館へ向かった。勿論いつもこんな場合は一人である。身勝手と言われれば身勝手かもしれないが、物見遊山で出かける場合を除いてわたしは大概、特に芸術作品に触れる様なときには一人でゆっくり時には素早く自分流で見たいのである。途中、この時季の美里町から坂下町までの田園風景はまるで一枚の絵を見る様な錯覚に陥った。飯豊連峰、水の入ったわずかな田んぼ、菜の花畑の白青黄色の色彩が青空の下に冴えている。南会津では目にすることのできない大パノラマで、写真に撮って印画紙に載せるには申し訳ないほど瑞々しい。美術館に到着したとき日差しは眩しく、逃げるようにして入った蔵造り風の館内は予想した以上に涼しかった。一人だった。入館料を払って進もうとした時、入口で作家の経歴を書いたパネルにくぎ付けになった。それによると、昭和31年に南会津郡田島でほんの1ヶ月ほど教壇に立っていた。そこでわたしは得心した。そもそもわたしが今回俄かに見に行きたいと思ったのは、一つには新聞に載っていた『熊野神社長床』の朱色と灰色の色調に惹かれ直に作品を見たいと思ったこと。それよりも、画家の室井皆共(みなとも)氏はわたしが小学生の4、5年生だったある日、朝礼で図画の先生として紹介されたのを覚えていた。記憶によると、先生は背が高くやや前かがみの背広のポケットに無造作に手を突っ込んでいても似合いそうな人だった。以来先生とは一度もお会いしていない。風の便りにご健勝であることは聞いていたが作品を目にすることはなかった。機会があればぜひ観賞したいと思っていたところである。静かに、たおやかに思う存分作品を拝見できた。1枚1枚に先生の魂が感じられた。それらは力強くやさしかった。リストによれば47枚展示されていた中でもわたしが時間をかけて対峙したのは、ヨーロッパに行った時の作品と思われる「青きドナウ」、そして会津が舞台となった「観音沼」「雪原」「冬立木」「雨上がり」「只見川」「デコ平ブナ林」「熊野神社長床」の8作品である。先生は、1930年に南会津郡楢原村(現下郷町)で生まれ2010年に亡くなっている。(4月28日)


「特急」浅草行き
21日の福島民友新聞一面を見た人はきっと驚いたに違いない。そしてすぐに、東京が一段と近くなるぞと思ったであろう。東武鉄道が2017年春、浅草駅とわが町の会津田島駅間を乗り換えなしで結ぶ新型特急500系を導入することが分かった。新聞一面の上半分左に浅草ー会津田島間に新型特急という大きな活字と車両のカラー写真が載っていた。東京駅や上野駅から新幹線に乗って郡山で在来線に乗り換え会津入りするよりは浅草駅から鬼怒川温泉を経由して会津入りした方がいかにも情趣豊かである。ビジネスで移動する人でないのなら後者の方を選ぶのではないか。わたしたちにとっては夢のような話である。わたしが散歩するルートに会津田島駅がある。正面の入口付近には日本国有鉄道時代の会津線が昭和9年12月に開通したときの写真入りの記念碑がある。そこには駅に通じる道に身動きできないほど集まった町民でにぎわっている姿があり、いつもわたしはそこを通るたびに立ち止まって眺めているが、群衆の喜び合っている声がまさに聞こえてきそうな気がしている。それから50年ほど経って東武線と野岩鉄道(新藤原ー会津高原尾瀬口駅)がつながりディーゼル車が電車になったが、駅舎隣にはC⒒蒸気機関車が鎮座している。自動車社会になってから久しいが鉄道の役割は依然高い。先頃では北陸新幹線と北海道新幹線がそれぞれ開通した。鉄道の開通には沿線住民の特別の思いがある。大きな夢を抱き期待を寄せるのは昔も今も変わらない。一方で、自治体や企業は観光客をお目当てにいろいろ誘致作戦に取り組む姿をこれまでにも何度も見てきた。結果は要らぬ飾りだてで散々だった。おそらく今度も自治体を中心に観光客の誘致事業の展開を検討するだろう。杞憂であればいいが、独りよがりの飾りだてにならなければと思う。どう見ても田島駅は通過点である。先には観光会津若松や近年外国人が奥会津の魅力に気づき知られるようになった只見、金山、三島、柳津などが控えている。それらとの連携を忘れてはいないか。そして外国人がお出でになった時の対応、外国人が来るようになればスキー場が再び脚光を浴びるだろう。それから只見線をどう応援していくかも大きなカギになるとわたしは思っている。(4月22日)


公平・公正とは言い難い
先頃、わが町の平成の合併10周年を迎え、その記念式典のことが話題になっていた。話の中心は、その時の出席者の中に合併の際に苦心した元町長が招待されていなかったという。名簿を見て確かめたわけではないがわたしは一瞬、そんな馬鹿な、それはないだろうと思った。確かに小さな町では選挙となると色めき立って後のちまでその結果が尾引くことはよくある。がそれにしても、もしそれが事実なら何という行政の失態だろうと思わざる得なかった。日頃わたしは公平公正や格差についてとても気になるほうだ。同じ土俵(チャンスは同じく与えられなければならない)に着けないで勝手に何事かを決められてしまう横暴さを何度も経験しているからだ。特に、地方では民間企業に勤める人より公(役所、公益法人)の人が優遇されているにもかかわらず退職してからもその恩恵を引きずっていく仕組み、即ち天下りが横行していることである。どこにいつまでも優位性をつづける職場があるのか。その職場はどんな具合で天下りが決められるのかその具体的内容を知りたいと思うのはわたしだけではないと思う。天下りはどうして起こるか考えてみる。人事に際して、自分たちの周りの人しか頭に浮かばないから。自分たちの専権事項だと思っている。自分たちの仲間意識がある。間違いは起こさないだろうという運命共同体的な思いがある。他の人は自分たちより能力が落ちるだろうという思い上がり、などの理由を人事権を有する人たちは考えるのか。広く人材を求めるというふうには思わないのか。天下りに関することは国、県そしてどの市町村でも懸案になっていることだが改善された話をあまり聞かれないのはどうして? 天下りは良くないと言われていながら議会はなぜ天下りを許すのか。議員さんにどんな不都合があるのか。条例で決められているのならなぜ改正できないのか。わたしは知りたい。更に又こんなこともある。わたしたち一般の人も、町のこと地区のことを何かにつけ元公の人を当てにするからいけないのもあるが、仕事を分け合うという点からすれば、いつも同じ人が腰据えているのを見聞きしていると困ったものだと思う。国、県からの調査。選挙立会人。地区駐在員。民生委員。人権擁護委員。他にもあるが、これ等は無料ボランティアではなくすべて報酬が付く。町中には少なからず若者が仕事がなくて家に滞留している。仕事があっても臨時雇用で契約期間はほぼ1年。非正規雇用の人が正規雇用になろうとしてもそのチャンスは用意されていないのでは良い人材は益々町から去って行くだろう。オレがオレがといつまでも欲にしがみつかないで大切なところは若い人に譲ろうではありませんか、ご老体!(4月15日)


地域の人の中に入って
半年ぶりにゴルフに行って来た。すでに今年に入ってから10回もゴルフに行っている人からすれば、え! と呆れたと思われるかもしれない。近年はしかも早春季はプレー費が安いから経済的には負担は少ないかもしれないけれど、体力といい気力だって年々衰えてきているし、回数を重ねてもこれ以上は上手になれそうにもないとわかると、自然とゴルフから遠のいて行きそうなものだが、そうならないのはよほど仲間に恵まれているにちがいない。羨ましい限りである。今回は初めて行くゴルフ場だった。県外でも首都圏よりのゴルフ場でやや遠かったが天気は好いし、メンバーは日頃から知り合いの星邦男さんと渡部勝雄さんと一緒になり好条件の中でのプレーだったが、受付が衝撃的だった。開口一番ロッカーは使いますか? と言われたが、果たしてロッカーを使わないで着替えをするというのがどういうことなのか初めてだったので面食らった。別料金である。他にも、受付用紙に確かに生年月日を書いて手渡したはずなのに更に運転免許証の提示を求めたれた。塩原温泉の『華の湯』では受付時に65歳以上ですかなどと無粋な問いかけはなかったことを思い出した。昼食は正直不味かった。ただ肝心なコースはよく整備されていたこと、そしてプレー後に浴びた良質の温泉などから考えたら仕方がないかなと思った。それにしても、コースの至るところに植樹した桜の木の彩がとにかく綺麗だった。プレーに支障をきたすほどに見とれてしまうことが度々あった。まさに春爛漫で、雪国に生まれ育ったわたしが20代からゴルフに慣れ親しんでいたがこんな光景でプレーしたのは初めてである。勿論、知り合いの方とのプレーに気遣いは必要ない。こんなゴルフなら週一回でもいいとも思った。スコアは気になるところだが、わたしの場合、近年はハーフで自分が心から会心のショットと思われるのが2,3個あれば良しとしているがこの時もほぼ満足のいくものだった。何度も書くようだが、一人ではなく皆と(この日は3パーティ)和気あいあいと大自然の中でプレーができる喜びは日々の生活の中でもそうそう味わえるものではない。心身共に精一杯使った後の陶酔境である。(4月12日)


毎日が日曜日
いつも懇意にしてもらっている友人の大橋清隆くんと昼食を一緒にすることになった。大橋くんというのは度々このコラムには登場している方だが時世に明るく情に厚いわたしの話し相手には絶好の人。不思議なのは、この時、わたしが頭に浮かんだのは会津線の尾瀬口駅の構内にある『恋路食堂』となるところがこの日は養鱒公園駅前の『さかや』だったが、彼も同じだったことにはまず驚いた。簡単に決まったのは言うまでもない。この食堂は先代からのというような老舗の店ではない。ましてや観光ガイドブックに名を連ねている店ではないと思うが知る人ぞ知る、二十年くらい前からご夫婦で着実に営業している確かな店である。色彩が鮮やかな野菜とあっさりした麺で仕上げた麺類や揚げたてのカツを白いご飯にさっと載せたソース・カツはわたし好みである。値段も決して高くない。この日は大橋くんも大満足だった。腹を満たしたところで、つい先ごろ街中で目にしたポスターによればこの辺りに珈琲の飲める店があると聞いていたので行ってみた。場所はすぐにわかった。車の進行方向には那須の山々が遠くにそびえていた。そこは木造校舎をそのまま利用したレトロな雰囲気の漂う店だった。校庭が駐車場になっており3台の車があったので先客がいるのかもしれない。車から降りて改めて周りをつぶさに眺めると、まるで『二十四の瞳』や『青い山脈』など昭和の映画を彷彿させるような面影のある懐かしい場所だった。鐘が鳴る、そして人のざわめきが起こえ今にも大勢の生徒が校庭に躍り出て来そうながそんな感慨にさせられる正面玄関の入口には、大きな白地の暖簾が下がっていた。よく見ると犬が中央に横になっている。この時嫌な予感がしたのはわたしだけではなかった(後で大橋くんも同じことを言っていた)。わたしたちはいずれともなく目の前のイスに坐った。入るのを一瞬ためらっているといった風だったが、外はのどかな小春日和で心地よかった。建物の南側では何か作業をしている男の人が一人いる。きっとここの人にちがいないが、わたしたちが車で入って来たのを全く気付いていない様子。そのうち気づいてくれるだろう。そして、仕事の手を休めてわたしたちを歓迎してくれるにちがいないと期待していたが期待が願いに変っても同じだった。わたしは再び犬の方に目をやると相変わらず気持よさそうに目を閉じている。とはいっても、足を一歩踏み入れた途端に豹変して牙をむき出しにして襲い掛かって来るかもしれないという光景が浮かんできてそれが頭から離れない。最悪の事態はいつも思わぬところで起こると昔から言われる。大橋くんも後で聞いたらわたしと同じ考えだったという。ついにわたしたちはベンチから腰を上げた。校庭を出る際わたしは振り返って見た。そして、大きな声で声を掛けるべきだったかなと思った。と同時に、犬の居場所といい目の前の人の対応といい、おそらくこの店は今流行りの補助金による運営にちがいないとも思ってもみた。(4月6日)


奢れる人も久しからず
吉川英治著『新・平家物語』最終の第八巻を読み終えた。古希を迎え現在まで長編小説を読んだのは前回の『宮本武蔵』に次いで二度目である。いずれも吉川英治氏の書籍というのは何か縁を感じる。分かりやすいというのがいい。それと小説とは言え、自然界の描写が微妙なこと、登場人物の心模様が読むほどに共鳴するような思いになり何度も読み返す場面が多かった。平清盛がまだ平太と呼ばれ市中の片隅で悪ふざけをしてた頃から物語は始まる。そして、平家の栄華・衰退・滅亡と時が流れ、伊豆に流された頼朝が1180年(治承4)に平氏追討の兵を挙げ、ついには鎌倉幕府を開くまでが小説の筋なのだが、武士や公家の人々の登場人物が多かったのには苦労した。それにもかかわらず、それに負けないほど市井の人々の日々の生活描写がしっかり文中の頁数を割いているところが小説らしかった。小説の終末は、清盛の脈を取ったほどの貧民街で医療に励む麻鳥夫婦(麻鳥と蓬)が、ようやく隙が明け、吉野の奥に入って穏やかに花見をしている姿を描いているが、作者の息遣いに安堵感が感じられた。長年関心事だった一ノ谷、屋島、壇ノ浦で天才的な戦いで勝利した義経がなぜ兄頼朝に闘いを挑まなかった謎は解けた思いである。それから、以前からわたしが興味のあった金売り吉次は義経が平泉へ逃れて行く頃にはもう消息を絶っていたという史実は新たな発見だった。ここで、ご存じ平家物語の序文を思い出しながら第八巻付録の新・平家の窓に書かれた著者の一文を紹介してみよう。序文「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず。ただ春の日の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ。偏に風の前の塵におなじ。遠く異朝をとぶられば、秦の趙高、漢の王莽…久しからずして亡(ほう)じにし者共なり。近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親…伝え承るこそ心も言葉も及ばれぬ」。そして、ちかごろ若い人にまで古典がよく読まれてきた。歴史ブームなどとさえいわれている。しかし、それに囃されるよりは、冬日にぬくもる山茶花のつぼみのようにそっとひもどく人の手を待つ書架のすみにつつましく長く在りたい。その方が希いである。終りに諸子の上にある窓明かりの平和と多幸を、この書中から祈ってやまない。(4月1日)


フルムーン‐マリブ
日曜日の昼下がり、パソコン画面からラジオにしたらTOKYO FMの山下達郎のJXグループサンデーソングブック「リクエスト特集」というのにつながった。今年度最後の、リスナーからのおハガキに助けられてお届けするものだという。わたし自身山下達郎をいう人を人気歌手だということ以外知らない。どんな曲を歌っているかさえわからない。その人が一人でお客様からのハガキを読んでそれに対して曲を送るというものだが、まことに番組進行が早くてというか、リクエスト曲は歌っている人がほぼ外国人のものだからカタカナがやたら多いだけでなく、さらに解説も音楽に精通している人なら分かるのかもしれないが残念ながらわたしには付いていけなかった。あたかも、二十余年前、わたしがパーソナルコンピューターというものに興味を持ち始めたばかりの頃にやや先行していた10歳ほど若い彼らの会話が全く理解できなかったのとすごく似ていた。ただ、曲の内容はわからなくても曲から受ける感触は伝わる。特に曲のリズムは直に身体に感じる。更に画面(パソコンだから)を見ているとリアルタイムで次々にメールが入って来て、山下達郎という人の人気の高さが窺われ、それはそれで凄くて臨場感あふれるものだった。そのうちいつものわたしの昼寝の時間にさしかかった頃なのだろう、うとうと始まって意識が薄れだした。勿論FMを聞くというのであらかじめ音はイヤホンで聞いていたが、Full Moon-Malibu(フルムーン‐マリブ)という曲の紹介があり音が流れ出した。そこからがはっきり覚えていないのだが曲が終ってふっと目が醒めた。よほど気持が良かったのである。音楽と言えば演歌を聞いて成長したわたしたち世代。ラジオで聞く音楽と言えば大人と同じ三橋美智也や春日八郎や美空ひばりや高峰秀子や淡谷のり子だった。バター臭い音楽には正直違和感があった。近所に影響を受けるようなマニアックなお兄ちゃんもいなかったし、音楽を聞く時間的な余裕や音楽に自分の感性をぶつけられるほど成長していなかった。あのビートルズでさえ羽田空港にハッピ姿で降りてきたのを知るくらいである。ラジをを聞いた後で、改めてYoutubuでフルムーン‐マリブを聴いた。確かに眠りを誘うほど情趣豊かな良い曲だとわかった。振り返ると、わたしの尊敬する人に今は亡き川井幸一良という人がいた。彼はこの地にモダンという風を招き入れアイデンティティ―(identity/自分が自分であることの認識)を初めてわたしに語った人だが、音楽は外国のものが好きだった。シャンソンは特に好きで、わたしはこの頃そいうたぐいの音楽は好きになれなかったが、今頃になって、彼が好きだったラ・ボエームやアドロやパダン・パダンはいい曲だと思えるようになった。(3月28日)


春の彼岸にて
お目出度いことは沢山あるが、これほどお目出度いことはあるだろうか。先日、父は満100歳を迎えた。先に打ち合わせた通り役所からと新聞記者がやって来て賀寿を賜った時は感無量の趣があった。昨年の敬老の日に安倍晋三内閣総理大臣からそして今回は内堀雅雄知事と大宅宗吉町長から表彰を受けた。この日に立ち会えたわたしたちは二度とない幸運に出会えたと思いながら誇りに感じた。昨日、生まれて初めて、これまでは積雪が多くて足を踏み入れられなかった墓参りに父と行った。その折わたしは、母の墓前で父のお迎えをしばらく控えてもらうように祈った。生前母は父が長生きすることを予言していた。その通りになった。それも、父は、普段わたしたち家族の手を一切煩わすことなく生活している。唯一悩みのタネといえば自転車に乗って国道を横切って買い物に出かけることだ。それはそうと、わたしたちにすれば、父が長生きしてもらっているお陰で、世の人の多くは「親孝行したい時には親は無し」の古語から免れられないが、わたしは全くの閑人、少しだが親孝行のまね事ができる。父は新聞を毎日隅々まで目を通すがテレビは見ない。小さな裏庭の草花とは親しげだが友達という友達もいなくなって寂しいはずである。そのかわり、今は家の中で日向ぼっこをしているが外で寛いでいる時などにご近所の人にまめに声を掛けてもらったりしている。そんな時の父はとても嬉しそうだ。日頃、わたしは父に、長生きは周りの人が良いからというのをえらそうに言っていたが、そんなに間違ってはいないと思っている。墓参りの後、100歳を迎えて初めて温泉に誘ったら、嬉しそうに、タオルと髭剃りをビニール袋に入れて、いつもはのんびりゆっくりの動きがこの日は素早かった。よほど楽しみにしていたに違いない。この日はしばらく疎遠にしていた車で一時間ほどのかって常温泉だった新鶴温泉「健康センター」に行ってゆったりした時間を過ごした。湯船では少し離れて父の姿を眺めていたが、周囲の人はよもや100歳の老人とは思いもよるまい。わたしは何か自慢したいような気分だった。しばらくして、父の背中を流しながら、父の背中は血色といい張りといい、正直少しも衰えていないのには驚いた。外は小雨が降っていた。玄関先で父が靴を履くのをわたしが屈んで手伝いながら、父の懐に入ったような気分で心地良かった。昼食は会津若松市で回転寿司と決めていた。父の足取りは軽い。寿司が好きな父はまぐろ一辺倒。七皿食べたという(話をしたのだろう、翌朝息子の嫁さんからそう聞いた)。店を出て二人は車に向かって歩いていた。すると、あと三年は大丈夫だな、と独りごとのように父は言った。わたしは聞こえたが言葉を返さなかった。おそらくは大丈夫だろうという確信のようなものがわたしにもあった。(3月26日)


方言 されがまねぇで
久しぶりに町の広報「みなみあいづ」を見た。久しぶりというのは、近年ほとんど見ていないからだが、理由は、これでもかこれでもかという具合に情報満載の紙面からの圧迫感が嫌になったからである。もっと確かな理由は、熱意や根気や辛抱が馬齢と共に失せてきたせいだろうが、他に回覧板でも情報はあふれているし、自分に関わる情報さえと思っていたがそれも面倒になってきた。シンプル・ライフこそ生きがいの源と思っているわたしにはありがた迷惑という感じの他にも、自らが求めるという能力を削がれたり妨げられるというふうにも思ったりする。見るところはだいたい決まっていて、町の人口と文芸の欄そして戸籍のまどである。今回、町の人口は、16,818人で世帯数は6,866世帯になっていた。もちろん人口の減少は止めようはないが世帯数は増えている。一世帯当り2.4人という数字はどう見るべきなのかわからないが、一つの建物の中にこれだけしかいない寂しさは家として意味合いをなすのだろうか。部屋としてのイメージが湧いてくる。文芸の欄では南郷俳句会にいつも目が注がれる。踊り子は先ず軒先で雪をはらう、明けの空光柔らに寒の月、浅雪も悩む種なる農の村、の三句を何度も詠んでみた。戸籍のまどの”おめでとう”は12人、”お悔やみ申し上げます”は26人である。確実に町の人口は減っている。又”おめでとう”ではふりがなが付いているからわかるが、ほとんどの子どもの名前は正しく読めない。この傾向は今始まったことではないが、かって、わたしは名前を子供の頃から正しく呼んでもらったためしがなかった。学校の先生の自信のない呼び方が自分にも伝わって来てもどかしくて、名前にと言おうか、わたし個人の誇りさえ失ってしまったように思われ、未だにそのことは心に痣として残っているから危惧する。曖昧さを良しとする風潮や西欧から来るものを何でも受け入れて来たことの影響があるのだろう。ローマ字のニュアンスをそのまま漢字に置き換えたような感じの受ける子ども名前は両親世代の世相を反映させたものかもしれない。大げさになってしまった。が、わたしたちは、もっと日本という歴史、文化、風土、自然を大切にしなければいけないことを忘れてはいないだろうか。世界に類のない歴史を築いてきた日本を。つい最後に日頃の思いが出てしまった。(3月16日)


啓 蟄
丑三つ(うしみつ)時といえば、わたしたちが子供の頃は、草木も眠るという修飾語が付いて背筋が寒くなるほど怖いという漆黒なイメージの時間だった。ところが、近年はその時刻の二時半頃にほぼ間違いなくトイレに行くようになった。確かに寝静まった夜中だが、自分にとっては大切な時間だから昔のようなイメージが全く湧いてこなくなったが老人特有というよりわたしの不感症からくるものか。考えてみたら、子どもの頃は、寝ている時間帯の中でも最も深い眠りと思われる静寂さがかえって薄気味悪いものとしたのかもしれないが、今では、寝つきは良いのだが、眠っているのだか起きているのだかわからない何とも情けない曖昧な時間帯なのである。ところが、その慣れ親しむようになった時間帯に同じタイミングで隣の部屋から不思議なことに父がやって来る。もっとも、反対に父がトイレに行った後からわたしが間髪入れず後を追うように行くこともあるが。何度そういう場面に出くわしたかわからない。一時期父は聴力が奇跡的に回復したことがあってみんなを驚かせたが、それはつかの間のことだった。現在は元通りほぼ聴力はゼロに近い。そんな父がトイレに行くわたしの動きが聞こえるはずはないのにと思っているが、わからない。もしかしたら体で感じる(わたしの歩く振動とか)のかそれとも殺気とやらでも感じるのか。この夜、ふと、そんな事を考えながらトイレを出て洗面所のガラス窓にチラッと目をやると暗いはずの外が明るい。あれ~と思って外を覗くと、その理由は、玄関の街灯からの明かりがそうさせていることがわかった。わが家ではこの時刻には街灯は点いていないはずと思いながら明かりの先を見ると舗道との境に何か一塊の物がある。その時、思い出したのは、夕べ息子がワカサギ釣りに行くと言っていたことだった。ところが、息子の姿は見えない。でも外はこの時期山ほどある雪はないが気温は当然マイナスだろうから明かりを付けて自分は玄関の中でやがて迎えに来る常連の小林くんを待っているのかしれない。確かめはしなかったが、それにしても若さとは大したものだと思った。ほぼ毎週休みの日に息子は出かけている。釣り場は猪苗代の檜原湖だろうからここから2時間くらいはかかるにちがいない。ここ何年かまるで熱病にかかったようである。わたしにもこのような時代はあったにはあったがこれほどではなかった気がする。釣果は極端に差がある。わたしは息子の十分の一だった。(3月6日)


一着の作業服
思い出に残る品物というのは誰でも沢山あるにちがいない。もしかしたら、身の周りのもの全部といえば確かにそうなのだが。じつは、先頃家の下駄箱の中を探し物をしていたら、ふと一着の白い真新しい作業服に出合った。勿論心当たりはある。普段は目に付かない場所に置いているので忘れてはいるが、時々こうして目にすることがある。思えが何度か引っ越しをしたり住居を変えたりするたびに必ず目にしていた。その度に、まるで記憶をたぐるように呼び戻して若かりし頃の自分に出会うのである。制服というものがひと頃より姿を消したように感じられるのは気のせいだろうか。時の流れは、社会のしくみや形態だけではなく人の心や考え方でさえ変えていくものだから、制服の意義や着用するかどうかの賛否も当然問われてきたはずである。一人一人の個性を大事にしようという風潮は制服の着用するか否かに影響を与えたように思う。それにしても、ずっとわたしは制服姿にこだわり又あこがれていた。特に学生の制服姿は時代を経てもいいものだ。女学生の制服姿の美しさは永遠ではあるまいか。勝手にそう思っている。集団に属する人が着るように定められた制服は当事者にとってかた苦しさはあるかも知れないが、それを見る人にとっては、シンプルさゆえに戸惑うことなく安心感がある。今でも制服姿といえば、すぐに思い浮かぶのは、医療関係に携わる人や空港関係者、そして企業のホワイト・ブルーカラーの制服姿である。あ、そうそう、わたしの思い出の制服はほぼ50年前の白い一着の作業服である。この一着にわたしの青春は凝縮されていたといっていいかもしれない。<機械>という言葉がメカニック、メカニカル、メカとカタカナで言われるようになり、もてはやされ、油汚れの象徴が作業服だった。その作業服が眩しくて憧れた時代である。忘れもしないそれは昭和45年春のことだった。わたしはそれまで勤務していた新潟での教員を止め、当時四輪自動車にようやく着手して将来に大きな夢を国民に抱かせた、本田宗一郎率いる本田技研工業㈱に入りたくて試験を受けたが失敗した。苦い経験だったが気を取り戻して、一時期トヨタ自動車の販売店で油の匂いのする部門でお世話になるのだが、今も日本経済のけん引役となっている自動車産業の動向が気になっている。そこには勿論、本田技研のいく末が気になってという底知れぬ愛着がまだあることが理由だが、失意の中で求めた、右胸の上に緑色でHONDAと入った白い作業服が今なお眩しいのである。(2月28日)


雪の降るイメージが壊れかけている
雪がない。この時期には必ずあるはずの雪がないのである。正確には言えば、全くないのではなく見渡せば野にも山にも軒下にもあるが、片づけるほどの雪ではない。わたしの人生で記憶にあるところでもこんなことはなかったし、前代未聞である。2月といえば雪のイメージが一番強い月で、毎日毎日雪が降って連日雪片づけに追われていた。運動のつもりでと、ずっと、自然の摂理には従うしかないと自分に言い聞かせてきたが、年齢と共に疲れを感じことが多くなって、そろそろ除雪機の世話になる他はないと嘆いていた。それが無駄かもしれないというこの頃の空模様である。部屋からガラス越に見える光景は土の見える部分と雪が覆っている部分(約⒑㌢)とが半々という銀世界とはまるで違った斑の異形な景色である。まだ咲くはずのない福寿草の幻想を抱きながら、日本海側で雪が降るという天気予報は、みぞれか風花で、すでにお日様に照らされている地面は熱を帯びていて水と化してしまう。正直、雪片づけのない日々を送っていると、肩透かしを受けたように何か物足りない。外に出るのは長靴に変って運動靴を履くことが自然多くなった。衣類に至っては防寒着を着ていると暑い。雪が降らないで雨が降るのでこの時期には考えもつかない春霞が立ち、早すぎる不思議な光景を見るようになった。とにかく、今年の気候は異常気象としか言い様がないと誰もが言う。例年、冬ごもりの虫がはい出るという<啓蟄>には見渡す限り銀世界の中で実感どころか言葉すら空虚に聞こえたが、もしかしたら、このまま、異常気象といわれる気候がつづくのではと、つい勘違いするがまだ2月である。そういえば、3月には100歳になる父も早くも小屋から愛車を出して玄関先のヤマグワの木に立て掛けていた。(2月21日)


心に止めていれば
伊東深水の弟子だったという画家がわが町から出ていたというのを知ったのは随分前だったが、先日三回目となった渡部盛造著『南会津の語り火』を読んだあとに心に残った。満州で夭折した日本画家の名は村山三千男(本では雄)氏。院展にも何回か入選している人で、小熊秀雄全集の「文展日本画展望」の中に村山三千男の『閑日』についてー不安定な女の腰掛け方、落っこちて来そうな椅子の上の小鳥籠ーと評している。横山大観の『雪翔る』についてもー大観のものという先入観を入れなければ批評の出来ないような絵である。画庫から何時でも引き出して出品できるような凡作であるーと厳しい。彼の描いた絵はどのようなものだろう。どんなものでもいい見てみたい、わたしがそう思ったのはまもなくである。町の実業家では名高いが芸術にも造詣の深い湊田幹夫氏が大手術を二回もした後にもかかわらず、俄かにわが家を訪れた。早速村山三千男氏の話をすると、自らが経営するミナト・ホテルの一室に飾ってあるというので翌々日に伺ってみると、ちょうど術後の健診から帰ったばかりでソファーに体を横たえていたところだったが早速お願いすると、何とあるはずの一枚の絵は探したが見当たらなかった。確か鳥のようなものが描いてあったが特段気に留めていなかったという。もっとも、わたしは絵を見てどうこう言えるほどの見識はないが、見られなかったことで更に好奇心は高まったかもしれない。後日に吉報を待つことにして、高揚した気持を外の寒風に吹かれながら、帰る途中で「まちなか交流サロン」に寄ると、以前町内の本町(もとまち)で磐梯カメラという名で店を営んでいた目黒という奥さんに出会った。その時、わたしは、店の大家さんが村山さんだったことを記憶していたので村山三千男氏のことを話題にしたら、何と昨夕、彼女は友人である今は都会に住む三千男氏の姪に当たる人と電話で話をしたところだという。不思議なことがつづくものと思いながら、わたしは、彼女から、もしこの次に電話をすることがあったら天才画家のことを話題にしてみますという言葉を約することが出来た。(2月9日)


わが郷土を見直す
これほどネットが重宝がられていても朝食後に新聞に目を通すのがほぼ習慣になっている。2月2日もそうだった。『窓』の欄の㌻左下のところにふと目が止まったのは、福島市、投稿者の名前が本柳陽堂という方のものだった。即座に、もしかしたらわたしが懇意にしているおばちゃん(野田市生まれの樽家の娘、小沼勝さん)(88)の知り合いの方ではなかったかと思った。いわゆる転勤族の方で、以前当町に住んでいたことがあり、おばちゃん家の墓石の文字を書いてもらったほど書道に長けていたことや、人柄が誠実でおばちゃんは事あるごとにその人を話題にしていたのでわたしは良く知っていた。それと、その方の弟さんはわたしと同級生(小学生時代)かもしれないとも秘かに思っていた。さっそく、新聞を持って行った。おそらくこれを機に久しぶりに電話をして旧交を深められたに違いない。投稿文というのは、ー同級生と会って自分の葬儀話にーという題で書かれた文章で、文末のほうになって、私は墓も戒名もいらない。願わくば南会津町の大川に散骨してほしい、と書いていた。わたしはグッと息がつまりかけて涙腺まで刺激された。よりによって、わたし(たち)の住む南会津町を名指しされたのが殊の外嬉しかった。お誉め頂いたのと同じであると思った。若かった頃の一時期、わたしはここに住むのがイヤで仕方がなかった時のことがふと脳裏をよぎった。さらに、これまでに此の地を訪れた人は、大概、自然が豊かで食べ物が美味しくて人情味あふれる人たちがいて…随分良い処だと言ってくれた。東京近郊からやって来た人は決まってそう言った。そうだろうかと自分では半信半疑だったが、中には移り住んでみようかなと真面目に言う知人がいたのも事実である。でも実際には具体的に引っ越しを準備した人はいなかった。当たり前である。自分一人で決められる問題でもないし、といって今の暮らしから簡単に脱却できるはずもないから無理もないが、だからこそ、本柳さんのこれほど明確に潔く死後のことを託する思いをわたしは敬意をもって胸にしっかり捉えたいと思った。と同時に、南会津町を誉め称えるこれ以上の言葉は見つからないとも思った。(2月9日)


国産初小型ジェットの行方
前回のコラムに続いて今回も飛行機の話。昨年の11月17日のコラムで「MRJとMRI」というのを書いた。そこでわたしは、鶴のようなMRJの姿を見て感動しながらも、着陸時に、機体がちょっと不自然な動きをしたことに気づいて…それに応えるかのように機長が、やゝ風が強く揺れたが機体が自らを立ち直そうとする力は素晴しかったと語っていた記事を目にして安堵したのだが。しかし、事は重大だったのである。先日、MRJ主翼の強化不足が判明、初納入1年延期という報道が小さく載った。しかも、納入延期はこれで4度目とあった。確かに飛行機は初飛行までは一度も飛んでいない。飛んでみなければわからない。自動車のように何度も走行テストをしてこれで良しというところで新車発表会が出来るのとは訳が違う。初飛行では、パイロットが飛行しながら細かくあらゆる箇所の検査をしながら地上と連絡を取り飛行をつづけているに違いない。だから、もしかしたら、あの時、パイロットは主翼部分の強度不足に気が付いていたのであのようなわたしの目にも分かるような不安定な着陸をせざるを得なかったのか。それにしても、社長の大成功だったという言葉の意味が振り返ってみると理解し難い。本当に1年延期で納入が出来るのだろうか。アメリカの型式証明を受けるためには2500時間飛ばなければならないという。1日5時間飛んだとして500日毎日飛んでも約2年かかる。こういう事態になったのは、政府管掌・連携にあるのではと科学者の武田邦彦氏は指摘する。かって、ブラジルのエンブラエルという飛行機会社は、国営飛行機会社として巨額の投資をして開発したが1機の契約もないまま開発を中止されたのを、完全民営化にして体質改善したら、これが4年後には飛ぶように売れるようになったという。今回の問題は、そういった内部の複雑な組織の事情に問題があるのを単に技術的な問題として解決しようとしてはいないだろうか。(2月4日)


0戦が飛ぶ
口ひげを生やした老齢なパイロットがコックピットに入り手動のスライド式フードを閉めた。一瞬ヒューンという音がしたかと思うといきなりガッガッとプロペラが回った。更に、エンジン音は叩きつけるような音に変り間もなく心地良い回転音になった。機体は上部が緑で下部は白。日の丸が両主翼と胴体に輝く。尾翼にAI-112と読める文字が。ブルドックのような太い両脚が印象的だ。係員の二人がそれぞれの脚の輪留めを外すと機体は動き出し、そして滑走路へと移動が始まった。それから一旦停止。緊張の瞬間である。わたしも何度か海外旅行で経験しているのでよくわかる。いよいよエンジン音が力強くなると同時に機体は滑走路を走る。そして周りの風景が走馬燈のようになり出力が最大となる頃には機体は完全に宙に浮かんだ。機体に取り付けられたカメラからそれがよくわかった。眼下には鹿児島県鹿屋市の光景が緑の箱庭のように美しく広がる。わたしはこの動画を十回以上は見た。その度に興奮した。これは27日の午後、海上自衛隊鹿屋基地でニュージーランド在住のゼロエンタープライズCEOの石塚政秀氏(54)所有の零戦(正式には零式艦上戦闘機)が飛んだ様子である。日本人が所有する零戦が日本の空を飛ぶのは大戦以来だという。もともとこのゼロ戦はロサンゼルス空港の小さなハンガーに入っていたものでバイクレーサーの所有だったものを石塚さんが譲り受けた。1940年代には世界最高峰、最強だったという零戦、日本人の技術力は世界を凌駕していた。ところが、近年の日本人は元気がない、特に若い人たちに力が感じられないばかりか自信さえ失っているような感じを受けていたという。いつの日か零戦を通じて元気を取り戻してもらいたいという石塚さんの高い志があった。わたしは、パプアニューギニアで発見されたこの零戦がどういう戦歴を辿ったかは知る由もない。むしろ知りたくはない。が、「過去のことは水に流せない。仲直りは出来ないけれども仲良くは出来る」と、ある酒造会社の社長さんが会津と長州との関係でおっしゃっていたのを、なるほどと思っていたのと同じ心境に今なっている。零戦の雄姿の里帰りはわたしにそんなふうに感じられた。(1月29日)


新しい人生のはじめかた
映画『ライムライト』で、チャールズ・チャップリンは、人生に必要なものそれは勇気と想像力、そして少しのお金であると言っているが、それを彷彿させるような映画を見た。おはよう ケイト ステキだよ 私が若かかったら… やめてよ! ー郵便屋さんの一方的な挨拶から始まるー<あらすじ>はこうだ。離婚して気ままな一人暮らしをしているCM作曲家のハーヴェイは、イギリスに暮らす一人娘の結婚式のためロンドンに向かう。しかし、仕事のことが気がかりで、さらに娘からはバージンロードは義父と歩くと告げられ、気持はどん底に。一方、気むずかしい母親を抱え、どうにか自分を保って生きている孤独な女性、ケイト。ある時、空港のバーでひとりでいたケイトは、やけ酒をあおっていたハーヴェイから声を掛けられるのだが…。俳優はダスティン・ホフマンとエマ・トンプソン。それがきっかけで徐々に親しくなる二人。いつしかケイトが披露宴に友人として一緒に出席することになる。終了後、二人は石畳の道を歩いて大きな建物に囲まれた噴水のある広場のイスに坐った。明日ここに来て…今と同じこの場所に昼の12時に来てほしい。朝の飛行機は? 国へ帰らない どうして? そんな まさか よして 明日になれば考えが変る もう”明日”だよ お互い知らないわ あなたは… 老人? そうじゃない でも少々年ね 私って…意地が悪いかも 僕だって そうじゃなくて本当につむじ曲がり 僕はそれほどじゃない もう行くわ 僕は本気だよ お昼にここで待っているからね いいかい? (ケイト立ち上がって振り返る姿勢でキスをする)ハーヴェイ・シャイン(ケイトは自分に聞かせるようにつぶやく)(立ち去るケイトの後ろ姿に)約束の時間は? お昼に 聞こえない! お昼よ! その直後に、ハーヴェイはホテルの階段を喜び勇んで駆け上がる途中に胸が痛み入院することになる。そうとも知らずケイトは、約束通り待つがハーヴェイは来ない。次の日、ハーヴェイはケイトに説明しようとするが電話に出てくれない。わたしは、医師とハーヴェイの会話の中で、現在、わたしも飲んでいるジゴキシンという不整脈の治療に使う薬の名前を聞いてこの映画が更に好きになった。仕事を捨て今が幸せのラストチャンスだと言いスーヒロ―空港に向かう、ハーヴェイ。しかし、ケイトは早引けしていつもの講習会に行ってしまったが、そこでハーヴェイはケイトの出てくるのを外で待った。再び二人は出会う。まだロンドンに? もちろん 説明する いいの 説明したい もういい 聞いて入院してた どうして? 薬を忘れて心臓の鼓動が不規則でね 不整脈だわ 詳しいね 私の父親も不整脈なの 若者も不整脈に(父は秘書と家を出てしまったことをケイトから聞いていた)行けなくてごめん いいのハーヴェイ とても楽しかったわ あなたのこと好きよ でも夢物語は終りね… ざっとこんな感じの映画なのだがご覧になりたい方はGYAO!の映画(洋画 ドラマ)でご覧ください。勿論、題名は”新しい人生のはじめかた”。(1月26日)


人の気も知らないで
わが家での話。いつも息子や嫁さんは孫の壮太郎に対して”痛いの痛いの飛んでいけ!”を連発している。3歳を過ぎた頃から走り回るのが生きがいのようで生傷が絶えない。刀に見立てた棒を持って振り回し屋内外を跳ね回る。古今、武士道を尊ぶ日本の男の子は生まれつきそうなのかもしれない。ある夜、食後にいつものように息子と孫が戯れていた。すると、突然、イテ~ィという声が聞こえた。声は孫ではなく息子である。その声がいかにも情けなく本当に痛そうなのである。すると、今度は孫の声がして”痛いの痛いの飛んでいけ!”と言っている。慰めている様子なのだ。おそらく振り回した堅木の棒でまともに息子の身体を叩いたらしい。加減などあるはずがない。木だから相当痛かったはずである。それを隣室で聞いていたわたし、普段の二人の立場が逆転したことが、可笑しくて可笑しくて仕方がなかった。さて、笑ってしまったといえば、葬式手伝いに行った友人の話。用事を頼まれ近くの店に買い物に行くことなった。後で考えれば歩いて行った方が良かった? 車に乗って走り出してからシートベルトをおもむろに装着しようと…。それがどの程度の距離を走った後だったのか聞かず仕舞いだったが、間もなくパトカーに停止を命ぜられた。そして、ガラスを下げたところで、開口一番、間に合わなかったな! と言われたという。友人が車に乗り込んでからのことをよく見ていたのか。話が終ったところでわたしは、年長の人の話に無礼だと思いながらも笑ってしまった。ところが、この話をこのコラムには時々登場してもらうミッちゃんに話をしたら、更に輪をかけて笑える話を聞かせてもらった。勿論、シートベルトにまつわる話である。友人が実際に語った話だという。同じように警察官が言った言葉。その手を放しなさい! というものだ。その時その彼女は、明らかにシートベルトを装着していなくてあわててシートベルトを引っ張って左手で押さえていたという。必死になって取り繕うとしている姿を想像したら、これ又同情しつつも腹を抱えて笑ってしまった。(1月22日)


健康維持と思って
昨年10月に昭和36年度田島中学校を卒業した仲間と地元芦ノ牧温泉で70歳の古希を祝った。還暦から10年あっという間だったと、時の過ぎるのが早いことを嘆息しながら、それでも皆元気だったのには驚いた。おそらく1人1人若さを維持するために自分流に日々努力をされているのが窺われた。わたしも、この時、近年いくぶん声が低くなったのに気づきそれを強化するために、新聞を声を出して読むことにしていることを公言した。2年続いている。日常会話でも声が出ているようだし、それと共に、何だか己に自信のようなものが付いたように感じられるようになった。具体的には、福島民友新聞の<編集後記>を2回繰り返して読んでいる。1回目はゆっくり、とにかくゆっくり正しく読むようにすると2回目は案外スムーズに読める。残念ながら、内容はすぐに忘れてしまうのが常だが今日、心に残る一文に出合ったので紹介してみよう。阪神大震災が靴の産地神戸を襲い、大打撃を受け今なお再生のための努力をしているが、一度切れた作り手と買い手との絆をつなぐのはとても難しいという。そんな中で、東日本大震災と原発事故の被災地のわが県でも今年は農業や中小企業の事業再開へ政府が新年度、「右腕」を派遣するという。さらに筆者は、▶心配なのは、口を出しても一緒に汗をかいてくれない「助言事業」止まりになること。3年たてばモデル事業が終って「さよなら」という置き去りの例をいくつも見てきた。阪神は21年経っても苦悩が続く。福島はまだ5年にすぎない、と言う。(1月16日)


4月から電力自由化
親方日の丸と言う言葉がかってよく使われていた。つぶれる心配がないから、公共企業体などの経営がともすると安易になりがちであるということだが、競争の大切さが問われ、その結果改革された企業は生まれ変わったようにサービスや企業業績が向上したとされる。さしずめ、4月からの電力自由化はその競争を肯定するものである。これまで、消費者は電力会社を勝手に選ぶことが出来なかった。住んでいる場所によって電力会社は決められていたからである。消費者が自由に買い物が出来ないとなれば売り手は高慢になるのは自然の成り行きで、まさに親方日の丸である。値段を決める際にあらかじめもうけを組み入れ絶対に赤字にならないようにしているという一般の小売店では考えられないことが通用していた。呆れるばかりである。がそれが出来なくなる可能性があることに電力自由化はわたしたちには歓迎である。今のところ、ガス会社、携帯電話会社、ケーブルテレビ、石油・ガソリン会社、鉄道、コンビニなど200数社が参入するという。今後わたしたちが問われるのは、どんな電源で作られた電気なのか気にする人、地域経済の発展を考えてエネルギーの地産地消にする人、値段だとする人と電気を買うに当って基準はまちまち。スーパーで電気が買えるようになり電気を買うと食料品が安く買えるというのもすでに出現している。わたしは、未だに携帯電話を持たない。昔は形も大きく利用金額も高かった。しかし、現在は各社競争のおかげでずいぶん選択肢が増え格安になった。今回の電力自由化の結果、標準家庭で年間数千円から一万円ほどが節約になるというが、わたしには、インターネットプロバイダーや携帯電話会社の料金システムが全く複雑奇奇怪怪であるように聞いただけでめまいがしそうである(1月7日)


新年早々
吉川英治氏が歴史小説を書いていて何か創意を立てる場合、とにかく困るのは、庶民史の乏しさだと言い、日本歴史に欠けるものは何かと聞かれれば、女性史と庶民史と答えている(随筆新平家)。そういう事からすれば、先年発行された、わが町出身の渡部盛造(わたなべ もりぞう)氏著のハードカバー247㌻『南会津の語り火』は、著者が生まれ育った会津田島に住む市井の人たちに焦点を当て、彼らがどんな生活をしていたのか口碑と自らの経験を交えて書かれた本としては貴重である。盛造氏は大正三年(1914年)田島生まれ、1937年明治大学卒業、1977年福島県文学賞受賞という経歴の人である。わたしは昨年末、といってもほんの一週間前だが、再び本を借りて読んでいる。三度目である。馬齢を重ねて来た懐古によるもの。小林一茶の句「是がまあついの住処か雪五尺」の心境がわかるようになったことなどによるものかもしれない。本は、町中のあちこちの悲喜こもごもな情景が目に浮かぶ、何度も読みたくなるものである。ちょっと紹介する。「ビリヤード」では、―西町の理髪店一久(いっきゅう)旭軒の店主、犬山三郎が理髪場の隣りに新築した場所に、撞球台を一台入れて、ビリヤードを開業した。最初の田島大火から一年経った、昭和十年の夏である…。犬山は理髪が本業だが、女弟子4,5人抱えていたので、直接客の頭に手をかけることは、とんとなかった。絶えずあれこれ儲け仕事だけを考えていた―というふうで、今となれば知る人はほとんどない人名が至るところで登場する。が、わたしの子供の頃(六十年余年前)の話だから面白くないはずはない。他に、丘陵の測候所、糸取り工場、ほいと岩、会盛座、幻影の三階建て、西町三軒長屋、旅役者抄、花柳界でまち、梅月、カフェー時代、写真玉翠館、おかる蕎麦、鳥もちを売る次郎店、まぬけ人生、キャンディ仙吉、大吉芸者、クラリネットの音が消えた…などである。巻頭には町の概略図が載っていて当時の様子を彷彿とさせる。(1月1日)