2017年コラム
Colume


来年の干支は戌
27、28日に降った雪は今シーズン一番の大雪になった。積もった雪でヒバの木の枝が折れそうだったので長靴を履いて雪中に入ったら腰まであった。関東に住む知人によると”こちらは青空”だと言いながら、それでも寒いのだそうだ。私からしたら腰をかばいながら懸命に雪片づけをしている方からすれば羨ましくてしようがなかった。天気は一応落ち着いたかに見えるが、今年も残り3日となった。年末年始は息子夫婦らは忙しそうなので久しぶりにひとりでゆっくり出来そうである。つゆ煮染、青豆と数の子、酢だこ、ぼうたら、もち、ソバなどおせちはいつもより安直に作ればいい。又年賀状に気を取られることもないし…そう思ったら嬉しくなった。久しぶりにテレビを見ようかと思っている。普段テレビを見ない私でも正月1日のニューイヤー駅伝と2、3日の箱根駅伝に限ってはいずれも見逃せない番組で、テレビの前から一時も離れたくないくらい自分でも驚くほど夢中になってしまう。それと、ひと昔前なら年末恒例のNHK紅白歌合戦も欠かさず見ていたはずだが今は見ていない。時の流れには逆らえないが、歌好きな私でも近年の歌謡曲にはリズムや表現方法に違和感を覚え、歌手の名前にカタカナが多くなるほどに、どうも歌われる歌が私の心情から離れて行くように感じられるようになった。幸い、近年、代わりにPCによるYouTubeを利用して自分の好きな歌手の歌が簡単に聞けるようになった。NHK紅白歌合戦と遜色のないくらいに充分なものであるだけでなく、さらに、ネットで検索すれば、例えば過去のNHK紅白歌合戦20回(昭和44年)の出場者を容易に知ることができる。懐かしい顔ぶれの名がある。紅組が青江三奈(池袋の夜)からトリの美空ひばり(別れてもありがとう)。白組はトップの布施明(バラ色の目)から森進一(港町ブルース)に至るまで、まるで昨日のことのように全員の顔と名前を思い出すことができた。それでは、私がYouTubeから選んだ今年の紅白の歌手は次のようになった。紅組は津吹みゆ(雨のむこうの故郷)、森山愛子(会津追分)、菊地まどか(屋形船/&増位山)、石原詢子(女の花舞台)、島津亜矢(心)、水森かおり(釧路湿原)、中村美津子(瞼の母)、香西かおり(雨酒場)、城之内早苗(渡良瀬川/元歌森高千里)、長山洋子(たてがみ)。白組は山内惠介(残雪根室本線)、三山ひろし(男の流儀)、三田明(こんな俺でよければ)、鳥羽一郎(海の匂いのお母さん)、角川博(おんなの灯り)、石原裕次郎(ささやき)、小椋佳(ただお前がいい)、美川憲一(湯沢の女)、新二郎(遠き昭和…/元歌小林旭)、すぎもとまさと(あなたの背中に)である。ーどうぞよいお年をー(12月28日)


見ると聞くと
漬物が美味しい季節になった。特に白菜はこの時期にはどこの家でも食卓には勿論のこと、気のおけない知人との閑談のお茶請けには欠かせない。白菜漬けの特徴の一つであるシャキシャキ感には快い音の響きがある。しかも、あの感触は漬物という域を越え、むしろ嗜好品といえなくもないほど繊細なものだ。見た目だって、もえぎ色の白菜をキャンバスに、鷹の爪の紅、昆布の濃紺がちりばめられた、いかにも上品で「日本の美」を感じさせる。白菜ファンが多いのはきっとこの辺りにあるのではないか。勿論、クセになるのは触感の良さと共にある塩や昆布や鷹の爪から醸し出された旨味である。これまで歯ごたえが楽しくて何気なく食べていたおふくろの味。これまで、どのようにして作るのかとか理屈を私は一切考えたこともなかった。ところが今年、不意に白菜漬けを自分で作ってみようと思った。考えてみると、それは父が居なくなったことに原因している。これまではこういう類の面倒なことは父任せだったのである。私は、ただ口で言うだけで行動には至らなかっただけではなく、同居している息子夫婦にも分担外の話だった。作ってみたいと思ったのは自分が食べたいと思ったからに他ならない。容器と押し蓋と重石、そして白菜と塩と塩昆布と鷹の爪を用意した。このくらいの事は田舎暮らしでこの年齢になれば見聞きして誰でも分かる。早速白菜をタテに4つに切ってその切り口に塩をすり込んだ。問題は塩加減である。白菜漬けの良し悪しはここで決まると言っていい。多すぎてはいけないと思うあまり少なめになってしまう…塩塩梅と言えば、父は塩気には敏感だったのが思い出される。アユの塩焼き、塩クジラ、塩タラ、味噌漬けなど私らには塩辛くて敬遠したが、今は亡き父はそれを好んで食べた。にもかかわらず、塩辛いものを食べ続けると高血圧や脳溢血になり易いという通説を見事に覆して101歳の誕生日を過ぎても尚元気だった。確かに塩は動物には欠かせない大事なものだ。塩水で嗽をしたり、水分補給には塩分が必要なことや点滴の主成分は塩分だったり、口内炎に塩をすり込むと治りが早かったりと塩のパワーは嫌というほど見せつけられている。今回、その塩が漬物の旨味を引き出す大きな働きをするのを身をもって知った。漬物を作る時、重石を一番重要に考えがちだが、やっと持ち上げるような重石をしても、塩不足では全く水が上がらず、又多くても塩辛いばかりで旨味が損なわれてしまう。物事の加減も同様かな。(12月19日)


中荒井郷土史
歴史を知りたいと思った時に重宝するのは市・町・村史である。おそらく全国の市町村ではそれをすでに発行し終わっているに違いない。え、こんなことまでというようなことまでが書いてある。それもそのはず、編纂にはその道の専門家が手分けして長年に渡り、各地に残された地理、風俗、文化等の古い資料を丹念に収集・見分して解読と検証を重ねて集大成したものだ。面白くないはずはない。近年、私も郷土の歴史に興味を持つようになった。一通りのことが知識として分かると、今度はどうしてそのようなことになるのか疑問を持つ。そして、その理由らしきことが分かった時は正に我が意を得たりの思いである。私が生まれ育った南会津郡田島。中心は町の南西に位置する愛宕山を背にした鴫山城<城山>である。その起源は、この地が奥州の豪族藤原家が滅亡した戦による論功行賞で小山政光の子長沼五郎宗政が拝領したことから始まる。『吾妻鏡』には度々宗政兄弟の名が明記され、嫡男時宗に所領譲り渡すことが『皆川文書』に残されている。また『塔寺八幡宮長帳』には、初めて”南山しき山の城”のことが書かれたのは1459年だという。他にも、異本塔寺長帳、新編会津風土記、会津風土記、会津旧事雑考などが貴重な文献として知られているが、私が目にしたのは、会津坂下町町史2文化編に『塔寺八幡宮長帳(ながちょう)』の全文が復刻されたもの。現在全8巻物は国重文になっている。1350年から1635年の286年間の心清水八幡宮の例年の行事(年日記)を書いたものだが、古文書として貴重な物にしているのは裏書に年々の見聞した出来事を記してあることによる。会津藩の正式文書の会津風土記、水戸藩の諸国史志類、塙保己一の続群書類従にも載っていることから、長帳は早くから知られている。明治期に帝国大学で謄写して複本に収められ、昭和4年には4巻に装幀してあったものが国宝となり、昭和31年に文化財保護法により修理されて現在の8巻となった。そして、先日区長さんからいただいた『中荒井郷土史』も又郷土の歴史の流れが克明に分かる貴重な1冊である。時を紡ぐという副題がついていたが、正に歴史は撚りをかけた糸のようなものだろう。278㌻。裏表紙の南山御蔵入領の絵画(天保7年)は、これから始まるドラマの幕開けにふさわしい興奮と期待を感じさせるものだった。区長の渡部雅俊氏について一言。私より3つ年長である。長年県職に籍を置いた。物事に一歩距離を置き、左右から、上下から、タテ横から眺めてゆくのが雅俊氏の流儀であり、文学への深い思いや文字に対する執念を感じるのは言霊(ことだま)を信じている証左である。一方では実践的でニューヨークマラソンに参加、イザベラバード奥地紀行を再現している。歌人。(12月13日)


過去から学ぶ
YouTubeをほぼ毎日見ている。中でも月曜日から金曜日まで配信される『虎ノ門ニュース』は今の日本を知る上で絶好の番組である。曜日ごとに変るコメンテーターの専門的見地からの話題が聞ける一方で、司会の居島一平氏(おりしまいっぺい・43)もただはいない。お笑い芸人の肩書ではあるが、記憶力の確かさ森羅万象に通じた教養にはコメンテーターも舌を巻くほど。特に私が敬愛する平成の知識人こと百田尚樹氏(放送作家・小説家)が居島氏の教養の深さに度々驚きを示すほどだから相当なものである。その2人がいつか揃って教養人と呼んだ人に深代淳郎(ふかしろじゅんろう)という人がいた。その時私は聞き耳を立てて聞いていたが、初めて聞く名前の人だった。だが、2人が口をそろえて言うのだから、果たしてどのような人だろうかと興味を持ったのは言うまでもない。調べてみて分かったことは、深代淳郎氏(1929年~1975年)は、ここ数年世間の評判が極めて悪いあの朝日新聞の方で、「天声人語」を48年2月から50年12月まで担当していた人だという。私自身、今は朝日新聞は偏向報道の権化の様に思われているのを否定しないが、40年代初め、学生運動が盛んだった頃は、やや左寄りの考え方が進歩的とされていた。運動部だった私は学生運動は<対岸の火事>くらいにとらえていたのに通学にはいつも小脇に「朝日ジャーナル」の本を抱えていたのが今では懐かしさが甦るのである。当時、学生たちにとって朝日ジャーナルという本はステータス・シンボルだったに違いない。本紙の感触は思い出せても、何が書いてあったのか、どんな筆者がいたのかは今ではさっぱり分からないが、深代氏がその本の編集に携わっていたという。さっそく町の図書館のホームで深代淳郎氏を検索したら、天声人語とエッセイがあったので借りて来た。手に取ってページをめくると『虎ノ門ニュース』のおふたりがおっしゃるように緻密な文の構成で美文調なこと、正直、鈍らな読書力の私にはいささか骨の折れる深い教養の感じられる文章だった。もう20年も若ければ読み続けることも出来たかも知れないが、情ないかな、途中から飛ばし読みしてしまった。只感心したのは、40年も前に書かれた内容にもかかわらず少しも過去のものとは思えない現代に通じる、よくよく心すべき内容だった。歴史は繰り返すという言葉は生きていると思った。(12月7日)


水滴石穿
本人にしか分からないことと言えば<痛み>がある。痛みは、他の人には実感が出来ないので訴えても伝えられない。それを比喩して、亡くなった母は、人の痛みは100年待てると言っていた。他人の痛みは、自分が同じ経験をしても尚、虚心坦懐に相手を思いやっても、それでも相手に成り代わることは出来ないので分かりようがない。これから私がお話しすることは、全く経験がない人には、ああ、そうで終るし、少し経験のある人でも、記憶に残っているかどうか。現在直面している人なら参考になるかも知れない。私は還暦を過ぎたこれまで年に1度くらい腰の痛みがあったが、それも1週間や10日もすれば治った。ところが、昨秋頃にお尻の深いところで起こった痛みは強烈だった。そして、半月も過ぎた頃には左足の外側が痺れ時としてずきーんと痛んで、50㍍も歩けば立っていられない状態になると、歩くのが怖くなった。散歩が好きな私はショックで、県立病院の整形外科に駆け込んだら、検査すると左足の指先に力が入らなかったし、レントゲンでは腰に異常がなかったが2種類の薬をもらった。1つは血液の流れを良くするもの。もう1つは神経を緩和するものらしかった。しかし、歳を越して3ヶ月が経っても変化はなかった。ネットを見ると、脊柱管狭窄症の症状と似ている。病院では病名を言わなかったが私はこれだと思った。いろいろと丁寧に解説されているが結局は手術しか治る方法がないらしいことも分かった。そんな中、私の知人で同じように悩んでいた年下の2人が手術をしたことを知った。ところが、その結果はどうも芳しくないらしい。1人はあらたに膝が痛くなったというし、もう1人は背中が冷たくて仕様がないという。私も手術を考えるようにはなってはいたが、これを聞いて考えが変わった。現状だったらどうにか我慢ができる。いつまで生きられるか分からないが仲良く一緒に行こうと決めたのである。そう思ったのが今年の4月の初め。朝起きて軽い運動をするために体育館まで歩いた。歩けなくなったときは道端でしゃがむ格好で背筋を伸ばすと再び歩けた。往復1㌖くらいの距離を何度も休んだ。体育館に着くと、腰を回す、天を仰ぎ背筋を伸ばす、スクワットをする、鉄棒にぶら下がった。ほぼ毎日続けた。そして温泉にもマメに通った。寝床では腰の下にバスタオルを巻いて枕のようにしたものを置いたり…始めてから8ケ月になる。忘れもしない、11月23日の朝、いつもの様に家を出たら左足の痺れがなくて一気に体育館に行けたのである。私は信じられなかった。嬉しかった。続けていたことで神様が私に褒美をくれたのではないかとさえ思った。いつもはそのまま家に帰るのに「田沢」に向かう坂道を上っていた。まだ左足に痺れや痛みがない。目指すは山の神さま(野沢の大山祇さまの姉さまだと言われている)だった。又いつ再発するかもしれない痺れと痛みではあったが、今はただ、お礼を言わないではいられない気分だった。(12月1日)


電 飾
随分前から、冬の寒い時期になったら家の前の駐車場の隅に立つ1本の木(ヤマボウシ)にイルミネーションを取り付けようと考えていた。3年ほど前からそれが強く思うようになって、今回うっかりその思いを知人に話してしまったことが、後に引けなくなり、取り付けることになった。元々イルミネーションは好きだった。夜、静かに点灯している姿を見ると体感では寒いのにどこかほんのりと心が和んだ。私には贅沢な趣向として感じられていたが、いつか自分の手でー自分の家に限らないー取り付けて飾ってみようというあこがれに似た気持があった。現在、私の住む後原通り沿いは日中はいかにも広い道路で快適なのだが、夜になると、殆ど人通りのない閑散とした淋しい道になる。灯りと言えば、一時期夜になって営業する店もあったので賑いはいくらかあったが、今では『そとい』と『雷安』が灯りを消さないでいるに過ぎない。舗道を照らす街灯は頼りないほどの数で、大門川寄りは更に暗い。灯りがないのは寂しく人の心まで暗くする。明治の文明開化以来、私たちの暮らしは灯りと共に歩んできたことは間違いない。日本はランドサット(地球表面の情報を得ることを目的にしたNASAの観測衛星)から見ると都会は益々明るさを増し、一方地方は年々明るさを減らしているという。夜、道行く人や車で通る人が彩りを見てホッとしてもらえたらという気持がなかったわけではない。偉ぶっているわけではないが、サービス精神はまだ残っている。支柱になるヤマボウシの木の高さは5㍍くらいあった。LED電球の100個付いた青・白と赤(5㍍)をそれぞれ1個(約5000円)ネットを通じて買った。さて、どのようにして飾ったらいいかしばらく考えた。初めに思ったのは、雪囲いするように杭を1本立てその頂から荒縄で周囲を吊ってからと思ったが、そんな事見たことはあってもやったことがない。それどころか、足腰に痛みを抱える身体で転落でもしたら大ごとである。いつか先輩が剪定作業中にキャダツから落ちている。それも頭をかすめた。考えた末、1人で出来ることで…とりあえず、はしごを掛けてイルミネーション(防雨使用)の先を木の梢に取り付けた。これが一番危ないと言えば危なかったが無事終えた。後は、添え木を使って線を引っ掛けて、私が木の周囲を回ってLEDの付いた線を上の方から下に向かってぐるぐる渦巻き状に巻き付けた。幸い外にコンセントがあった。借りて来た電工コードに取り付けて点灯して見たら、暗闇に浮かぶ彩りがいかにも艶やかで、念願が叶った嬉しさに思わず、ひとり小さな声で”やった”とこぶしを握ってしまった。(11月23日)


思えば遠くに来たものだ
1972年だったか、一度田村郡都路村(みやこうじ/現在の田村市都路町)へ行ったことがある。私が郡山市の自動車販売店に勤めていた頃である。高校を卒業して2年ほどの女性が地元の青年と結婚することになり村の公民館で式を挙げることになった。私はサービス部で少し離れて部品部がありそこにいた女性だった。同じフロアで近くで仕事をしていたということで呼ばれたというのが正直のところかも知れないが、私はそこで大失態をしてしまった。祝儀袋にお金を入れ忘れたのである。気が付いたのがまだ会場を出る前だったのでどうにか事なきを得たが、今でも思い出すと冷汗が出る。都路は、阿武隈山系の山懐にある小さな町で私が生まれた南会津とは比較にならないほど牧歌的な静かな場所だった。先日、その近くの船引町(田村市)というところに行って来た。船引町と聞いて脳裏に浮かんだのは都路だが、都路はそこから更に太平洋側にある。父の戦友だった柳沼さんという方の実家は船引だったが、他にも付近には、電波時計の標準電波送信所や航空自衛隊のレーダー分屯基地、そして入水鍾乳洞…などが浮かんでいた。田村市船引町で「いのちの共生」というフォーラムがあるからぜひ出席してくれと根本昭二郎くんからメールがあったのは10月初旬だった。根本くんというのは私の高校(会津工業高校機械科)の時の同級生で、「同級生」からの要請というのは不思議なもので中々断り切れない。近年、私は、足腰の痛みを理由に面倒なことは出来るだけお断りしていることからしたら異例だった。主題の「いのちの共生」はさておき、それよりも何よりも、私は、講演と映画の二部構成になっている中で、講演を予定されていた4人の玄侑宗久氏(僧侶・作家)、佐藤栄佐久氏(政治家)、赤坂憲雄氏(県立博物館館長)、佐藤彌右衛門氏(大和川酒造代表)の話やそれに今回初めて知った主客の中村桂子氏(JT生命誌研究館館長)の話も聞きたかった。根本くんからの話を聞いて一緒に行ってくれそうな人として頭に浮かんだのは、旧友である下郷町の室井均くんと平山忠吾くんだった。こういう類の催しにはうってつけの2人である。好奇心が歳を重ねても衰えていないこと。それに2人とも運転は確かだし長時間運転にも慣れている。そして何よりも即断と行動力が伴っていることが共通していた。会場は、田村市文化センターになっていたが観客は私たちとほぼ同世代が多かった。しかもほとんどが女性で、社会参加に大いに興味がある人たちのように感じられた。生き物の命という観点から話が進行したが、それと東日本大震災後の各地の取り組みや進捗状況が話題になった。本当はひとり1時間くらいの講演をされても十分に余りある方々だっただけに、もっと自由に幅広く話ができたら良かったのにと思ったが、時間に制約されて4人の話がまとめられてしまったのが惜しまれた。(11月16日)


車に乗ると人が変わる?
近頃はドライブレコーダーがよく売れて販売店では品薄になっているそうだ。元々ドライブレコーダーは、ドライブを楽しむ人のアイテムの1つだった。ところが、今年の夏に東名高速で起きた事故とそれ以降に続いたあおり運転による車両事故に端を発している。突如装着する機運が高まった。ドライブレコーダーの解析の結果、事故の主たる原因は、あおり運転によることがわかった。親子4人のうち両親が亡くなるという痛ましい事故だった。高速道路に限らない。一般の道路でも車両同士のいさかいが毎日のように報道されている。いずれも前方を走る車に対して、道路を譲るように強要する。車間距離を詰めて異常接近して、追い回したりパッシングやクラクションを鳴らしたり、幅寄せをして相手を威嚇するというものだ。数キロ先まで追いかけたあげく暴力を振るというのもあった。後を絶たないというのは一体どういう理由があるのか。日常生活の不満やストレスが原因で、車に乗った途端に「虎の威を借りる狐」となり、相手が自分より弱いと知るや、態度が一変してしまうのか。ふと私は、これらの事件を見聞きするうちに思ったのは、もし相手の人がコワ~い人だったらその時はどういう態度に出るのだろうか。相手は自分より弱いというのをどこかの地点で確認した上での行動だと思うのだがどうだろう。以前私は、こんなことを考えたことがある。今でもそれを思い出すと笑ってしまうのだが。若い時から車の運転が好きな私。近い将来、いくら代替え交通手段があったとしても運転免許証を手放すことになったらどうしょうと思う。普段私が運転するのは1人が断然多いが、後部座席よりは助手席に友達を乗せてよく出かけることがある。その時の助手席に乗る男の人というのはどういう訳か、私は知っている限り穏やかで気立ての良い人なのだが、初めて会うような人にはわからない。大柄で眉毛が太く鋭くはないが大きな眼光などからコワ~い人に見られているかもしれないのだ。道路が混雑して中々列に入れないような時、隣に座った人が片手をちょっと上げるとスムーズにその場を通過することができたのである。私には大変に有難く助かった。話がそれてしまったが、これから先、ドライブレコーダーを装着する車は益々多くなるだろうし新車から取り付けられて販売されるかもしれない。経済効果という点では喜ぶべき話であるが、それにしても、ドライブレコーダーを付けステッカを貼って問題の抑止にどれほどの効果があるか。人の心はそう簡単には変わらない……。(11月9日)


時には天下国家のこと
先の衆院選の結果は自公の圧勝となった。与党(自民284、公明29)の313議席で憲法改正の発議に必要な3分の2(310)は確保したことになる。衆院解散前後に一瞬だけ、小池百合子氏が率いる新党「希望」がもしかしたら政権交代の受け皿になるのではないかという報道がなされたが、結果はご存じの通り散々だったようだ。多くの国民は、世論を作り上げようとしたマスコミのねらいに翻弄されなかったのだ。私はいきなり地から湧き出て来たような希望という政党が一体どうして政権を揺るがす存在になったを今でもわからない。ましてや、民進党がこぞって希望の党になだれ込むことを決めたその理由もよくわからない。その点、自公の選挙戦の戦いぶりはきわめて冷静だったのではあるまいか。序盤戦から選挙戦は有利に展開していると報道されても、浮かれず、奢らず、ひたすら国民の支持を訴え続けたあたりはむしろ不気味でさえあった。それは、自民党筆頭副幹事長という肩書で全国の同志に応援をしていた小泉進次郎議員の遊説の様子をYoutubeを見ていてもそれがよくわかり、その落ち着きぶりは舌を巻くほどだった。いくら場馴れしている、父親は元総理とはいえまだ30代である。ことさら野党の批判をするわけでもなし、揚げ足を取るふうでもない。与党としてこれからの日本はどうあるべきか、大局を見据えたわかりやすい明快な演説だった。あまりにカッコ良く立派すぎて言葉がない。一方、多くの野党は、国民生活を語るのではなく、もっぱら重箱の隅を楊枝でほじくるような態勢で安倍首相個人の批判に終始していたが、それでも自公は、自らが言っていたように政策を愚直に訴えていたのが印象に残った選挙戦だった。あくまで安倍首相にあるのは、世界における日本の立つ位置を強く考えているに違いない。解散前でも憲法改正の発議に必要な国会議員の3分の2はあっても慌ててそれをしなかった。国民の過半数が賛成しなければという高いハードルを考えてのことである。野党の一部が頑なに改憲を拒否するのを強引に進めれば、国民は大きく動揺するに違いないと読んでいることから、ことさら慎重にならざるを得ないのが安倍首相の心境ではあるまいか。ところで、選挙と言えばもう一つ。22日の衆院選投開票に次いで、29日は美里町の町議選の投開票があった。私の従弟の嫁さん(石川栄子・65・主婦)が3期目の当選を果たした。16人中女性2人の1人である。時々会う機会があるが、議員さんという雰囲気を感じさせない気立てのいい勉強熱心の人である。自分を磨きながら皆んなの為に尽力する姿を窺うと、これからも期待を抱かせる。そう確信するのは親戚のよく目かも知れない。(11月1日)


やさしい言葉
日々いろいろな人と会って話をすると、成程と思うことが多々ある。時には大いに感心して走り書きしておこうと思ったりする。先日も6ヶ月ぶりに「まちなか交流サロン」に出かけたら芳賀沼順一さんに会った。この人は、元町議で議長まで経験した人だが、現在は引退して町の人材シルバーセンターの理事長をされている。私は40代頃まで、町の卓球仲間として一緒に競技していたことがあったのでよく知っている人だ。家から500㍍ほどの距離を足が痛くなるのを覚悟しながら初めてやって来たが、どうにか痛みが出る前に椅子に腰を掛けることができた。私に限ったことではない。この休憩所は、注文しなくても座るか座らない内に目の前にコーヒーが出てくる。すごく気前の良いのが特徴だ。この日の係の人は馬場リキ子さんだった。㈱セコニックに勤めていた頃から知る、そのせいか気安く何でも話ができる気立てのいい人である。聞けば、私同様息子夫婦と一緒に生活しているとかで、その体験を遠慮なく語り、思いがけずわかり合ったりして、時には私の萎えた気持が癒され元気づけられ助けられることもしばしば、有難い年上の女性なのである。以前ここで、芳賀沼さんが自分の母親の思い出を語ったのを聞いたことがある。家で、ご夫婦で老いた母親の面倒を見ていたという話だった。その頃、私の父は100歳を超していたがまだ健在だったから、その大変さが私にはピーンと来なかった。他人が聞けば笑い話のようだが、介護される親と介護する子との日々の生活には想像を絶するご苦労があったに違いない。その母親も手厚い介護の末にお亡くなり、ほどなくして私の父も同じ運命を辿ったが、同じ経験をしたものには相通じるものがあった。それは私から出た言葉だった。ー振り返れば、介護中は勿論のことそれ以前から年老いた親に対してやさしい言葉をかけていなかったという後悔であるー。この忸怩たる思いは、まさに父が居なくなってから俄かに頭に浮かんで来たものである。普段の会話があまりにも無機的でつっけんどん(突樫貪)だった。いまさら後悔してもどうにもならないことは承知している。芳賀沼さんはそれは私も同じだったと言った。朗らかに私を慰めるような言葉だった。こんな話ができるのは、昔から親しくしてもらっている先輩であり、同じ経験をした者同士だからこそである。私は芳賀沼さんに自分の胸の内を話すことで正直少し気が晴れたし、同時に、この歳になって、改めて今私があるのはすべて親からのものだというのを強く感じるのだった。(10月24日)


乗って見てわかった(2)
この日は全国的に暖かったせいか、多くの若者が半袖姿でかっぽしている。私の様に足腰に今一つ自信のなさそうな人が歩いているかと思えばニコニコしながらいかにも楽しそうに歩いている中高年のグループがあった。そんな中、私たちは、ソバはいつでも食べられるからと予め決めていた「やまだ屋」という店に入った。というより、隣家との間に幾つかの大きなパラソル付きのテーブルがあってそこに腰を下ろしたが、すでに2組の先客があった。私はホット、大橋くんはアイス珈琲を注文した。すると突然、大橋くんは、周りに聞こえるような声で、”せっちんコーヒー”と言って笑っている。私ははじめは何事かと思ったが、少し離れた柱に「雪室珈琲」と書かれているのに気づいて、原因はこれだとすぐにわかった。彼は雪室をせっちん(雪隠)と読んでおどけて見せたのだろう。私もつい笑ってしまったが、普段から彼のユーモア・センスには感心している。周りの人は気づいたかどうか。聞こえたとしても何のことか理解はできなかったかもしれない。こだわっているだけのことはあった。コーヒーは白い厚手のカップに注がれていたのが嬉しかったし何よりもコクがあって旨かった。感心したのはトイレである。古民家に出来るだけ違和感を与えないようにという配慮がありしかも高級ホテル並みの仕様だった。トイレがきれいで清潔なのは気持がいい。再び外に出ると、人ごみは一層増しているような気がした。田島駅発のバスが12時35分に出ているはずだからそれが来るまで待たなければならない。それが大内宿13時40分発田島駅行きのバスになる。道の両側に藁ぶき屋根の家が並び、その前を小川が流れている。まさに原風景そのものである。いよいよ私は歩き疲れていた。が、情ないかな停留所にはベンチらしいものはなかった。しばらくするとバス停には少しずつ帰りの人が集まった。ガードレールに寄りかかってわき目もふれずにスマホに見入る人。一時もスマホと通じていないと不安なのかもしれない。一番後に並んだ若い人たちの間から北京語が聞こえる。しかし、日本の観光に慣れた人たちらしく静かで見た目には私たちと変わりはない。隣の男女2人連れは白河行のバスを待っているという。20人位の人が列を作った。おそらく、ここに並んでバスを待っている人は、大内宿に来た人の中では一握りどころか数の中に入らないかもしれない。私は、今度の田島駅発のバスによる大内宿への<暇つぶし>はいろいろと考えることがあった。特急リバティ会津に乗ってやって来て、大内宿をメインに観光して日帰りができるという、いかにも気の利いたこのアイディアを関東圏の人たちにもっと丁寧に説明する努力が必要だと思った。又下郷観光循環バスとはいえ、南会津町の私たちは無関心ではいられない。このイベントをどれほどの関心を持っていたのかわからないが、もったいない話である。PRして大いに活用するチャンスと捉えるべきである。人の褌で相撲を取るくらいの気持が無くては他山の石に終ってしまう。11月19日(日)まで。土、日、祭日運行(10月16日)


乗って見てわかった(1)
大内宿に行って来た。前回行ったのは記憶にないほど昔のことで、確かその時は誰か都会からの来客と一緒だった。私たちの世代、しかも私の生まれ育った南会津ではごく自然にあった見慣れた風景なので殊更何度も行く気にはなれない、ずっとそう思ってきた。今回行く気になったのは、自分の車ではなく乗り合いバスで行くとなったからその気になったのと、浅草から特急リバティ会津が来るようになり、到着に合わせて1日2本、下郷観光循環バスが会津田島駅を始発としてぐるっと回って再び会津田島駅に戻るという企画を、この目で実際に見てみようと思ったからである。友人の大橋くんがこの計画に積極的だった。大内宿と言えば、宿場の佇まいを見るより、駐車するのが困難でいつ行っても観光客で溢れているイメージが強い。近年は特に、ネットによる情報の拡散が著しく、元々年配者向きの古き良き時代の家並みの光景が、改めて大勢の若者の目に止まりその良さが知られるようになった。循環バスは会津バス車両で田島にも営業所はあるのに遠く郡山市湖南から来ているというのを運転手さんから聞いた。この日、特急リバティ会津からの乗客はなく私たち2人が唯一の客だったのにはちょっと拍子抜けした感じだった。午前10時ちょうどにバスは出発した。ひたすら国道121号を走り続けたバスは下郷駅に停車した後、誰もが知っている湯ノ上温泉から大内宿をめざす道ではなく、姫川橋を渡ってまもなく左折した。それから小さな峠を越えて中山の大ケヤキ前で停車して時間調整をした。会津田島駅を出てから乗客が私たちだけという気軽さがあって親しく運転手さんと会話が出来た。聞けば私の父が勤務していた時代に会津バス田島営業所に湖南近辺から来ていた栗木さんという方を偶然に知っていた。もう90代半ばになっているが達者だという。父が亡くなる数年前まで年賀状をやり取りしていた人だけに懐かしさがあった。大内宿が前方左に見えた頃、湯ノ上温泉のほうから来る道が合流する地点では車の込み具合が予想を遥かに越えていた。どのあたりから詰まっているのかわからない、まるで高速道路の出口のような渋滞だった。いつ動き出すともわからない状況下で、改めて自分の車で来るような無謀なことはすまいと思ったのは実に早かった。ところが、遠くで駐車場係の人が手招きしていた。たった2人しか乗っていなくてもこちらの公共交通機関の車は優先されるらしい。私たちは数珠つなぎになった車を横目に対向車の見えない反対車線を颯爽と走り抜け集落の裏側になる停留所でバスを降りた。遥か遠くの駐車場から人の群れがまるでアリの行列よろしくやって来る。数えきれない車の台数。そこから降りてくる人の数も想像できない。私たちはよちよち歩きをした。やがて、かやぶき屋根の大きな家と家の間を通り抜けて宿場の目抜き通りに出た時に見たのは、人、人、人だった。(10月12日)


説明がつかない
面白いことが何かないものかと常々思っている。普段から気にかけているからに違いない、案外容易に目に付いたり気が付くものだ。これまで随分その様なことがあった。いつか、これまでの事をー他人からすれば単なる偶然と言われそうなことー1冊の本にまとめてみたいとさえ思っているのだが、先月、又しても説明するのに偶然の二文字で済まされそうにない出来事に出あった。それというのは、このコラムで何度も登場している上海人の茨城県に在住する周さんという女性と待ち合わせた時のこと。1週間ほど前から彼女は風邪を引き熱は下がったものの片方の目が充血しているというのをあらかじめ聞いていた。やはり女性である。会って落胆するかも知れないと思ってあらかじめ知らせておくという女ごころかも知れない。しかし、当日私はそんなことをすっかり忘れていた。ところが、車に乗って目的地に近づくにつれて、どいう訳か私は右目が痒くなった。自然と手が目をこすることになった。何度かこすっているうちにバックミラーを覗いたら右目の右端の方が赤くなっている。可笑しなことがあるものだ。まさか伝染した訳ではあるまいが目的地に着いていつもの様に「スターバックス」に入ると自然とこの事が話題になった。勿論、私にとって、この偶然は悪い気がしなかったのは、彼女に対して親しみを更に感じるようになったからである。そのうち、彼女はこれまで大事そうに持っていた大きな包みを、上海からのお土産と言って私によこした。開けてみると、半袖シャツで、タグには100%丝光綿と書いてあった。絹仕上げの木綿ということらしい。手触りが良かった。私が驚きの声を出したのは、先日若松市に行った折、寒くなるからと思ってヨークの衣料品売り場で買った長袖のシャツの図柄と瓜二つだった。赤味かかった茶の太い線とグレーの細い線が縦横に入った私好みの図柄だった。家を朝7時過ぎに出た。時計を見るとすでに5時を回っていた。お彼岸を過ぎると暗くなるのが早い。「しまむら」で買い物を済ませたのを最後に私たちは別れることになったが、店を出て車に乗り込む際、彼女は、タイヤ大丈夫! と意外なことを言うのである。ハンドルを切った状態で停車していたのでタイヤは露わになっていたが、これまで車について具体的に話したことなどないし、タイヤの良否の判断の知識が彼女にあるとは思えない。が、私が驚いたのは、昨日GSでガソリンを入れた際、これまで口にしなかったタイヤの交換時期を店員に尋ねていたのを思い出したからである。目の充血。シャツの図柄。タイヤ…一体どうしてこうも次々に頭をかしげることが起こるのだろう。(10月7日)


今度の解散総選挙
今日午後0時3分、民進党議員が欠席する中、衆院が解散された。来月10日の公示で22日が投票日に向けた選挙戦が事実上スタートした。野党やマスコミから大義がないとか自己保身といった声が上がる中での解散である。又森友・加計問題を隠すため、果ては首相がお友達に便宜を図ったのではないか…。しかし、私が思うのは、首相がめざす憲法改正。必要な国会の3分の2の議席がありながら強引に進めないで次の機会に持ち越したのには意味があった。それは、この問題を一気呵成に進めてはいけない。リセットしてコンセンサスを深めながら丁寧に決めて行こうとするところに真意がある。それでなくても、これまで野党から度々強行採決が非難されている。勿論、議論の末には採決がある。その結果、多数な与党の案に決まる。民主主義では当たり前のことである。それを強行採決というのなら選挙戦で勝たなければならない。他にも、マスコミの偏向報道が視聴者である国民に誤解を与えていることである。この事によっても、現政権に対して間違った印象を与えている。例えば、テレビでは放送時間の長短がそうである。因みに、衆参両院の参考人招致では、前文部省事務次官前川喜平氏の答弁時間が圧倒的に多かった。比べて、手続の正統性を主張した原英史氏を記憶しているだろうか。更には前愛媛県知事の加戸守行氏の言われた「岩盤規制の穴があけられ、歪められた行政が正された」の見ていた人はかなり納得していた反論は、わずかな時間しか報道されなかった。テレビや新聞以外の情報源を持つ人ならこれらの事がわかるが、そうでない人には安倍首相に一層疑念を抱くことになってしまう。だから解散はそれらを隠すため…となる。この問題はいくら時間を要しても、はじめから理解をしようとしない人には了解は無理である。司法の手に委ねるしかないのである。いずれにしても、今、日本という国が国際社会においてどういうポジションにあるか、それをマスコミは実像を正確に伝えていないと私は感じる。実は、安倍政権になってからの日本は特に外交が明確になっている。それと共に諸外国から大いに期待されていることをご存じだろうか。ネットの世界ではそれがよくわかる。そういう中、安倍政権下でぜひとも改憲を行わなければならないのは、この機会を失えばもう二度とチャンスは訪れないと思うからである。占領下でアメリカから一方的に押し付けられた形だけの憲法を今自らの手で変えなければならない千歳一隅の時という気がするのである。そういう意味で今回の解散選挙は、世界のリーダーになりつつある安倍首相を何がなんでも引きずりおろし、数だけを合わせようとしている実体のない希望の党やらに日本のかじ取りを任せてよいのだろうか。(9月28日)


栃尾のあぶらげ
テレビはほとんど見なくなった。それでも点いていることがあり、たまに見ることがあるので、時々心象に残っているということがある。数日前、新潟県長岡市栃尾のジャンボ「あぶらげ」のことをやっていた。ずいぶん前に通りかかった折に食べたことがあったので、懐かしく見ていたら、ふとその形が先日宇都宮市付近で見た雲の形によく似ていたことを思い出した。とてもふくよかだった。見渡す限り遮るものがない関東平野の、周囲を山で囲まれた山国の空とは比較にならないくらい広々とした空に浮かんでいたとてつもなく大きな一塊になった雲。もしかしたらそれが一気に落下して来たらどうしようという恐怖を感じたのは、私の住む町では凡そ考えられない光景だったからである。まさに杞憂である。夕暮れ時だった。雨模様だった。雲の姿かたちが異形で平気ではいられなかった。当然行先では大雨を覚悟したが、奇妙なことにワイパーの助けはほとんど必要がなかった。雲と言えば幾つか思い出すことがある。それは2004年10月23日の新潟中越地震のあった前日、私は自宅で夕方西の空を見ていたら、短かったが稲妻のような形をした鋭く折れ曲がった雲を見た。初めて見る珍しい形の雲である。以前西町の長谷川文彦くんから、地震の予兆が雲に現れるというのを聞いていたので、それが本当かもしれないというのを初めて実感した時だった。そして2011年8月19日に福島県沖が震源の地震が発生した。この年は東日本大震災のあった年で、この付近を震源とする地震が頻発していた。前日私は白河市から289号を自宅に向かっていた。前方には那須山系に連なる山々が立ちはだかっている。この時も夕暮れ時だった。近づくにつれて山に追いかぶさるようにぶ厚い雲が覆っていた。よく見ると、ねじれたような雲が横になった姿であり、そのおどろおどろしさに私は身の毛がよだつ思いだった。引き返すかとさえ思ったほど恐ろしかった。今も、あの時、県境のトンネルを無事に通過したのが不思議でならないのだ。更に雲の話。一昔前の話になる。確か午後の散歩の時間だから2時頃だったか。散歩をしていて、何の気なしに空を見上げたら、大空を雲と青空が定規で線を引いたように完全に二分していたのである。驚いてこの自然現象を共有しようと思い辺りをきょろきょろしたが誰もいなかった。急いで自宅に帰ってカメラに収めた記憶がある。こう考えると、自然現象は奇奇怪怪で中々面白い。ついでに、私は、小学生の頃、「ノンちゃん雲に乗る」という映画を見た。主演が鰐淵晴子さんだった。きれいな女性だった。司馬遼太郎の「坂の上の雲」を単行本で読んだ。二葉亭四迷の長編小説「浮雲」は読んでいない…かと思えば、雲を撮ることにだけにカメラを持ち歩いている人がいる。(9月19日)


古墳に魅せられて
古墳への興味がやゝ薄らいでいる。理由は、人里離れた場所での現地説明会に足が痛くて歩いて行けなくなったことが大きい。元々私の古墳への興味は、3世紀半ばに存在したとされる邪馬台国が一体現在のどの辺にあったかという素朴な疑問、それに対する男のロマンから始まった―もっとも、それを知ってどうなるものでもないが。魏志倭人伝によれば、そこには卑弥呼という女王がいて約30ヶ国を統治していたという。現在でも邪馬台国はどこにあったか結論は出ていない。畿内説や九州説やその他諸説あるが、いずれの場合でも、専門家は”この場所こそ”と結論ありきの見解を展開している。学者の間でも京都大学派と東京大学派とに分かれて激しい論争を繰り広げているが、私は、ネットを通じてそれらの通説を振り返ったり又新しい説についても興味深く見聞きしている。いずれも説得力があり益々わからなくなってしまうが、古代ファンとして私なりに考えることは、大陸との交易は海を渡って来る、それから移動のことを考えれば、どうしても運搬には陸路より水路を使う方が機能性から考えたら合理的である。近くに大きな川があることがその条件を満たすことになるだろう。3世紀半ばと言えば日本ではすでに稲作が始まっている。水田を拡大するためには用水堀を作らなければならない。その掘り起こした土砂を1ヶ所に集めた結果、盛土になったのが古墳だという説を以前、このコラムで紹介した。古墳の中には人が葬られている。この謎についても、権力者というより土地整備に貢献した人だという説明をしている。昨年9月、私は生れて初めて行った発掘現場の説明会は喜多方市慶徳町にある前方後円墳『灰塚山古墳』だったが、山の上にあった。古墳が山の上にあるのはオカシイという疑問には、水田は初めから平地にあった訳ではなく、それより前には、狭くてもわずかに平らで水が引ければ水田は作られていたというのである。これまでの定説とされる、古墳は高く盛土した場所へ土地の豪族や有力者を埋葬した墳墓という。全く異なった視点から見た古墳の考え方というのも面白いが、邪馬台国のあった場所が未だに定まらないというのも私たち古代ファンにはミステリアスでしばらく楽しんでいられるという無責任の中にロマンがある。ずっとこのまま未解決で…という気にもなる。今回の発掘では、前回開けることのなかった石棺から1500年前の土壌に影響を受けない全身の骨が残った150㌢~160㌢の人骨が見つかった。傍らにはさやに入った太刀も出土している。17日の現地説明会には新たにわかった数々の謎が解き明かされるに違いない。(9月12日)


気が利いている
昨秋から歩き続けたり中腰になって手を動かすと左足が痺れ痛くなったりして困っている。その結果、行動範囲が狭くなり、これまでは気が向くとふらっと歩いていた楽しみが減ってしまった。しかし、じっとしていては物語は始まらないと思って、極力歩くのは少なくして車を利用して出かけるようになった。犬も歩けば棒に当たる。いつものように旧郡役所に行って茶飲み話をしていたら、旧友の大橋清隆くんから、今春から浅草ー会津田島間を走るようになった特急リバティ会津にまつわる話になり、意外なことを聞いた。私は初耳だった。確かに、当町では開通当初駅前広場にてセレモニーを開いて乗客を歓迎していたのを見てその意気込みは感じられたが、その後、町がこの先特急リバティに乗って来る主に観光客に対してどのようなサービスを提供するのか興味を持って見守ってきた。が、これまでは、これといって目に見えてくるものが私には無かった。ところが、すでに他所で実施されていることで、会津下郷観光循環バスというのがあるというのである。目から鱗が落ちるというのはこんな場合をいうのだろう。特急リバティを乗って来た人のために、田島駅から下郷駅、大内宿、そして再び会津田島駅に戻るというものである。その間には中山の大ケヤキ、湯野上温泉、塔のへつり、中ノ沢観音で停車する。次に田島駅を発するバスに合わせればその迄の時間を有効に使え、見学する時間は十分にとれる。更に余裕のある方には、下郷駅から養鱒公園、金子牧場、ジイゴ坂学舎などへも行けるように連絡がとれている。1日フリー乗車券が1800円というのもリーズナブルな価格ではあるまいか。私が嬉しいのは、この循環バスは田島駅からいきなり下郷町へ向かわないで、田島駅から一旦、旧郡役所(合同庁舎前)、祇園会館(熊野・田出宇賀神社)を迂回しているところに、いかにも考えた計画というので気に入っている。他にもPC・スマホによる時刻表検索が出来るようにもなっていて、まさにお客の立場に立った温かい気持が感じられる。パンフレットには『会津バス』の明記があったが、特急リバティの計画があった段階から、下郷町と練った企画だったに違いない。こんなに面白そうな企画に乗らない手はない。自家用車で回るより楽しそうだ。早速大橋くんと”ぐるっと、会津下郷”とすることにしたが、それにしても、感心してしまうのは、いつの間にか循環バスが走るようになったことである。(9月6日)


Jアラート
ネットの動画で北海道余市郡、秋田県羽後町、長野県佐久市の3ヶ所のサイレンの音を聞いた。そして警戒範囲は北海道から長野県までの12道県という広範囲に渡っているのを知った。後で考えれば、どうしてこれほど広範囲に警戒する必要があったのか。現在の日本の軍隊の能力からして、おそらくミサイル発射とほぼ同時に飛ぶ方向は正確に捕捉できているはずだし、地区選定をそこまでアバウトにする理由が私にはわからない。8月29日午前5時58分頃、北朝鮮西部からミサイルが発射され、Jアラート(全国瞬時警報システム)を通じて国民保護に関する情報が出された。初め、私がラジオで聞いたのは、日本上空を通過して6時14分に落下した模様というニュースだったが、その後、6時12分頃襟裳岬の東方約1180㎞の太平洋上に落下とされた。これまでも政府は、不審物を発見した場合は、決して近寄らず直ちに警察や消防などに連絡してくださいと言ってきた。頑丈な建物か地下街に逃げる。地面にふせて頭を守る。口と鼻をふさぐ。発射から10数分のドラマである。私は今回の危機でなぜ破壊措置を講じなかったか不満である。理由を問われた菅官房長官は、午前の記者会見で「我が国の安全安心、そうしたものを総合的に考えて判断するということであります」と具体的な回答を避けたが、益々私には意味がわからない。我が国の上空をミサイルが通過するのをただ見ていたということになる。1億2000万人のしかもれっきとした軍隊を持つ経済大国の日本。もし破壊措置などしたらどんな事態になるかわからないと異常なまでに心配する人たちがいる。本土に落ちたら抗議するとでも言うのか。しかし、何も起こらないことを願うのは好いが、解決策にはならない。むしろその態度こそが事態を悪化させる例は数々ある。が、一方で、小国の領海に入った大国の漁船が警告を無視した結果沈没させられるといったニュースが報道される。だからと言って大国が反撃したり戦争にはならない。自分の方が悪いというのを知っているだけでなく、やはり国際社会ではルールは守らなければならないし違反は具合が悪いのである。したがって、共通認識としてのルールは金科玉条なのだ。それにしても、今回の政府の対応はとても冷静なそれでいて迅速・適切ではなかったか。私はちょうどその時刻には目が覚めていた。いつも午前6時に鳴る町のチャイムを待っているような状態だった。それがそれより前に突然異様なアラームが聞こえたので、もしや…と思ってラジオのスイッチを入れたらあらましがわかった。イヤな経験だが現実からは逃れられない。今回のアラームで多くの人がいろいろな対応に追われた。(8月30日)


ひかりのひろばカフェ
役場と言えば役人が公務を執る所。庁舎などと言われると役場という名に慣れ親しんできた私には面食らってしまう。私が小学生の頃、役場近くに住んでいたので学校から帰ると、役場の南側にあった広場でよく近所の子供たちとソフトボールをして遊んだ。時には役場の若い職員がシャツを巻くって飛び入りすることもあったが、今でも思い出されるのは、南端には桜並木があり木造の建物と共に古き良き時代の絵を見るような光景である。時代を遡って、江戸時代にも現在の永田にも役場があったことを記す古文書を最近見る機会があった。私には解読できない内容だが表紙には明らかに永田村役場とわかる文字があった。役場という音声には愛着が感じられる。役所と住民との間には普段からの付き合いがあり、対話には不文律のようなものにも温もりがあった。ところが、近年は、役場が庁舎と呼ばれるようになったりパソコンが無ければ役場の仕事は機能停止になってしまうほど、時代は勝手に押し進んで無関係を装い、こちらの都合など一切聞こうとしない。南会津町役場は建て替えてから1ヶ月になる。新しくする理由の1つに耐震構造というのがあった。おそらくこれはクリアしているに違いない。もう1つには、町民サービスの向上という今一つ意味不明の事柄が挙げられていた。が、誰もが感じるのは、私たちが役場に行くと、担当者がすぐに立って来て対応してくれる姿である。この点は確かに変った。ずっとこの姿勢が続いて欲しいと思うが、今回私が特筆したいのは、入口を入って左にカフェが出来たことである。これは意外だった。この度2度用事があったのでいずれの時にも寄ってみたが、同じ1階のフロアに、厳格な役場業務と隣り合わせというミスマッチが可笑しかったし、更には、”いらっしゃいませ”の声が、業務中の職員にはどのように聞こえるものか、私には興味があった。聞けば、カフェは、特定非営利活動法人『あたご』の経営だという。2人の女性がひときは明るく朗らかに対応してくれる。白を基調にしたシンプルな空間。ガラス越しに外が見えるオープンスポット。勿論、私が注文したブレンドコーヒーは、予想をしていなかった旨さで、ほのかな甘みがあって程よく苦みの残る私好みの満足のいく味だった。それでいて1杯313円というのは、年金生活者には有難い値段で癖になりそうである。私は滅多なことではお役所仕事を誉めたりはしないが、今回に限っては、感心しつつ感謝しなければいけないと思っている。当初の計画にこんな粋な計らいがあったとは。近年何かと将来に明るさが見えないと嘆いていただけに、このカフェの存在は、まさに南会津町のとりわけ田島の新しい時代の幕開きになるような気がしている。(8月23日)


聖光ナインにエールを送る
普段はほとんどテレビを見ない私が、この時だけは見るようになった。高校野球中継である。それも、出場している県内の代表校の様子が気になって見てしまうのだが、それが一旦見てしまうと、地元高校が負けてしまった後でも引き続き見てしまうというのがまた高校野球の魅力なのかもしれない。福島県代表の聖光学院(伊達市)は甲子園に連続出場する県内では無敵の強豪チームだが、全国的にはまだまだ力不足の感はぬぐえないのがこれまでだった。ところが、今夏の聖光学院チームはこれまでとはちょっと違って堅実にパワーアップしたチームになっていると思うのは私だけだろうか。これまでのデータを詳細に調べた訳でもない。解析したところで私にはその戦力がどの程度のものかわかる訳でもないが、確実にこれまでの甲子園とは違う感じがするのである。勿論、おかやま山陽(岡山)に6-0、聖心ウルスラ(宮崎)に5-4と勝ったが、特に私が感じたのは、聖光ナインの試合中の顔つきである。特定の選手だけの顔つきだけでなく全員がまさに不動心そのもので、私にはこれまで見たこともない頼もしい顔だった。聖心ウルスラ戦ではスコアこそ1点差だったが接戦という試合の成り行きではなく余裕を持ってプレーしている様に感じられたのである。何と表現したらよいか、とにかく追い込まれ切迫した場面でも上気した様子が全くなく、自信に満ちてるというと言葉が卑しくなるが、冷静沈着な中に決して負けないという魂が感じられた。これが本当に高校生だろうか。まるで職業野球選手を思わせるように落ち着き払っていた。野球解説者でさえ、聖光ナインの選手1人1人を誉めちぎっていたわけではないが、しきりに感心しているのを私は耳にして、確かに映像から伝わる彼らの鋭い打球や好守備がいかにこれまで鍛錬して来たかを物語っていたと思う。私は人相学について知識はないが、でも、人を見ると、いろいろなことが感じられる。目が物を言うこともある。人は表情に現在置かれている心身の状況を如実に表すに違いない。来る19日、3回戦の広陵(広島)戦で、あの対聖心ウルスラ戦で見せたような顔つきに全員がなっていれば、聖光学院は間違いなく勝利の女神を手にすることができるだろう。(8月17日)


今始まったことではない
昨今の国会の質疑応答の中で、というより報道機関全般から私は、初めてそんたく(忖度)という言葉を知った。しかも、その言葉は頻繁に使われ今年の流行語大賞になるのではないかというほどの勢いである。言葉としては難しいが意味を知れば何のことはない。普段から私たちがよく耳にしたり実際に行われていることで特別目新しいことではないことがわかる。簡単に言えば、他人の心中をおしはかることだから日常茶飯事である。先頃まで、国会で話題になった大学の獣医学部の新設をめぐって大学のトップと長年の友人関係にあった総理がその決定に当たって手心を加えたに違いないという野党の弁である。総理からの忖度があったかどうかという一点でまだ論争は続いているが、全く計られていないというのも非常識だし、と言って計られたから決定されたというほど行政組織は脆弱ではあるまい。しかし、世間では、忖度の行為は誰もが経験するところで、政治家とその支持者は忖度があるからこそ結びついているのであって、そんなことは当たり前である。先日こんな事があった。近頃私は足腰が痛くて草取りが出来ないでいた。この所の暑さと雨で草は伸び放題。早速シルバー人材センターに除草・草刈りをお願いした。ところが電話に出た受付の女性は、会員(作業をする人)が少ない上に申込者が多いのでちょっと何時になるかわからないがそれでもよろしければ…という。草は日に日に成長する。私は一刻も早い方がいいと思って、以前、会員になっている女性と何か雑談をしている時に、会員の仕事の中に除草があることを聞いていたので、その人の名前を受付の女性に告げたら、態度が一変して、すぐに連絡を取ってくれた。まもなく電話が来て2日後に行きますという返事をもらった。事務的に済まそうと思っていたのを私の一言で工夫をしてみようという気になったのだからこれは忖度と言えるに違いない。これは私にとって良い例だが、いつもこうはいかない。後日町役場新庁舎に行った。新しくなって初めてである。入口近くに案内の人がいて用件を言ったらエスコートしてくれたのは良かったが、案内された担当課では、期待したほど新鮮な対応はなく、一方の隣のカウンターでは大手企業を退職した知り合いが職員と用件とは思えない話をしていた。そういえば、いつか町会議員に成り立ての知人が、この頃は、役場に行くと、課長が自分の方に手招きをするのだと笑っていたのを思い出した。(8月9日)


父に感謝
母が亡くなってからは見違えるように何事も人に頼らない自分でするようになった父は、90歳を過ぎても衰えることはなかった。近くに母の代から国権酒造から借りていた畑があって、自転車で行ったり来たり何度も往復していた姿が思い出される。少しでも家の足しにしたいという思いがあったに違いない。とにかく丈夫だった。それに草花は若い頃から好きだった。自宅では飽き足りないで他所で多くの人たちと花談義しながら交友を深めていたのを知らない私は、しばしば相手から聞いて、意外にも誰からも好かれていたのを知ることになった。困ったのは100歳になっても国道を横断してスーパーに買い物に自転車で行くことだった。見かけた人が次々に私に注意を喚起したが、父に言っても暖簾に腕押し、仕舞にはぶつかった人こそとんだ災難に遭ったようなものだと同情しつつ半ば諦めながらも心穏やかではなかった。それでも父は家にいる時間が多くなった。が、私がとても不思議に思っていたのは、私が生まれてこの方、父の口から一度も疲れたという言葉を聞いたことがなかった。他にも特筆すべきは、父は珈琲が好きだった。しかも蜂蜜を垂らして飲むという凝りようで、私が珈琲を飲む時はいつも父が一緒だった。ところが、段々父がそれを喜ばないばかりか無視するようになってきたのを単なる気まぐれと思っていた。実は、自分が飲みたかったらその時は自分で入れて飲むから世話しないでくれというシグナルに気が付いたのは最近である。それにしても温泉にはよく行った。遠くは柳津のつきみが丘町民センター、新鶴温泉、塩原温泉、伊南の古町温泉、只見の湯ら里、きらら289。特に新鶴温泉の帰りには会津若松に出て大好きな回転寿司やカツを食べるという楽しみがあった。新鶴温泉の湯めぐりカードはあと2回で100回になる。確か100歳を過ぎた塩原温泉「華ノ湯」でのことだった。父がいきなり私の後に回って私の背中をタオルでこすってくれたことがあった。後にも先にもその時1度だったが、父はその時よほど嬉しかったに違いない。寿司はマグロしか食べなかった。回転寿司では勿論、家族でスーパーで寿司を買って来て食べる時でもいつもマグロと決まっていた。更にうなぎも好きだった。うな重は必ず半分は残して翌日食べていた。私もそうだが、私の場合は食べきれないというよりもったいなくて一気には食べれないというのが正直なところだ。しかし、普段の父の食事は質素そのもので、質素だからこそ長生きができたのではないかとさえ思う。ご飯とみそ汁と味噌漬の二切れもあればよかった。それでも満足した顔をしていたからすごい人だった。振り返ると父から教えられることは多い。特に私が信条とするようになったのは、起きてもいないことをあれこれ思いを巡らすことはないということ。まさにヘタな考え休むに似たりである。又父が慌てる様子を一度も見たことがない。いつも両足が地についていた。戦争という極限の中に身を置いていたことが痣のようになっている。時間の経過とともに父との思い出が少しづつ甦ってくる。(8月1日)


碧峰道隆清信士
無事父の葬式が終った。思えば、父が亡くなったのは21日零時6分。病院から危篤の電話が来て私と息子が駆けつけた時にはすでに息はなかった。この日、私は毎週木曜日の見舞いに行く日だった。この時に私は、いつもより父の息づかいが弱々しかったのがはっきりわかった。いびきをかいていた。とっさにそう長くはないと感じ取ったが、それよりも私は、7月に入ってから病院を訪れると父に意識があるのは稀だったので、いつも私は、これが最後になるのではないかと思って覚悟して父に接していた。だから、1時間ほど病室に2人でいる間は父の手や足を撫でながら父と過ごしたこれまでの長い年月を手探りするように辿っていた。しかし、長い間一緒にいた割にはあまりにも思い出が乏しいのには自分でも呆れるほどだった。それでも80歳過ぎてからもなお七ヶ岳登山をしていたことや毎年桜の咲く頃には田村市の柳沼さんやいわき市の鈴木さん他2人の戦友と一泊泊りで出かけたり、同じく会津バスに勤務していた時のひと回りも年下の仲島さんと芦ノ牧温泉の「小谷の湯」へ出かける時のあの嬉しそうな顔が心に強く残っていた。父が亡くなった日、私は病院へ3度行った。その日会津地方は30℃を超す暑い日だった。病院から帰る途中、芦ノ牧温泉で唯一の交通信号で一度はすれ違いUタウンして私を追って来た理子(息子の嫁)さんに呼び止められて父の危篤を知り病院へ引き返した。この時の父は息絶え絶えだった。その時、今夜あたりに…という予感がした。葬儀の一切は町の中心で駅にも近い「みなみ葬祭」にお願いすることになった。しかし、翌日からは祇園祭。せっかくの祭に葬式は縁起が悪い、しかも25日は友引というので告別式は26日に決まった。私は自分でも驚くほど落ち着いていた。もっとも、父に入院をお願いしたのは3月28日。病院から退院したらいつでも老人ホームに入所できるように手続を済ましていた。それが肺炎を何度も患った末、口からの食事ができなくなったのを機に老人ホームを断念しなければならなくなった。正直私は泣いた。同時に父との別れが近いことを悟った。祭を挟んだ26日まではあっという間だった。25日には上海生まれの周さんを那須塩原駅に迎えに行った。2年前私は上海でお世話になっている。父の介護で私がくじけそうになっていた時に何度も励ましの電話をもらった。私が行って介護しますかとまで言ってくれた。心が折れていた時だっただけにその心遣いが何ほど嬉しかったかわからない。告別式は隣組の方々の協力でとてもスムーズに運んだ。長谷川次男区長の助言が有難かった。祭の重要な役を担っていたにもかかわたず度々電話をもらった。みなみ葬祭の方々も仕事とはいえとても献身的で、私の胸の内をすっかりとらえていて気くばりが感じられた。本当に多くの人からご弔意とご香志をいただいた。父の遺影が終始笑っている。無くなる寸前まで父は血色の良いふくよかな笑顔で、私の友人から、あなたの父は死なない人だと思っていたとまで言われていた。(7月29日)


出前講座
7月半ば、日中の暑さがまだ残る夜気の中私は家を出た。今年になって暗くなってから家に帰ることはあっても家を出たのは記憶にない。それほど珍しい出来事だった。理由は、中荒井区長の渡部雅俊氏から「中荒井集落の歴史を辿る」という講座があるのでぜひというお誘いを受けていたからだ。渡部雅俊氏と言えば、この地方では知る人ぞ知る見識のある方で又その行動力は超一級である。私が知己を得たのはまだ渡部氏が県職員だった頃からである。この人については後日ぜひ紹介したいと思っている。中荒井集会センターの駐車場では入りきれないと思った私は車を中荒井駅前広場に置いて歩いた。夜風が肌をかすめて気持がよかった。定刻の午後7時には会場は40人ほどの地区の人が席を埋め、部外者は杉原俊一氏と私ぐらいだったかもしれない。講師には奥会津博物館研究員の渡部康人氏が見えていた。この人もずいぶん前から存じている。まだこの人がこの道に入る以前からである。中荒井集落の沿革からまず話が始まった。平安時代に作成された『倭名類聚鈔』(わみょう・るいじゅ・しょう)には会津郡の郡名と下郷町・田島地域を含む大川流域を長江としているところから中荒井集落は会津郡長江郷に属していたと考えられる…。私は、薄学ながら南会津町のとりわけ田島の歴史の大まかな流れをつかんでいた。しかし、その中身は田島町史や現代の歴史本から知識として得たもので、古文書などの文献から直接1つ1つ解読しながらそれに自分の考察を加えたものではない。本格的に学んだ人とはそこが大きく違っている。私は、これまで文献と言われるものに触れる機会がなかったので、今回初めて講演資料の中でそれを見られたことがとても嬉しかった。「会津風土記」や「新編会津風土記」は内容はともかく名前は知っていた。が「会津風土記・風俗帳」や「郷村地方内定風俗帳・会津郡長江庄」や「御尋二付書上帳」(享和)や「皇国地誌編輯」(明治)そして「中荒井村史」(杉原夷山編集)などは初めてである。淡路守藤原(長沼)宗政が嫡子時宗に譲り渡した書状、同じく長沼義秀が嫡子五郎(長沼)満秀に譲り渡した書状を拝見できたことも収獲だったし、特に感心したのは、「御尋二付書上帳」だが、これは中荒井村名主源吉が享和3年(1803)に会津藩に提出したものと同じく書き写していた。村の沿革、家数、境界、堰、街道、神社仏閣、善行者、古跡、清水、山、川、沢等である。ここからわかることは、中荒井村の詳細で現在でもこれほどの物を資料として残しておくことは中々容易ではないだろう。他にも中荒井村絵図があった。地名からわかるように当時は栃木県百村(もむら)とのつながりをうかがい知ることができる。おそらく今ではその片鱗さえ残ってはいないだろうが、貴重な資料である。過去の資料から私たちの先祖がどのようにして生きて来たかがわかる。歴史は繰り返すと言われる。懐かしむことも生き方を学ぶこともいい。過去に触れると心が和んでくることだけは確かなようだ。(7月18日)


継続がもたらす文化の輝き
風121美術展は今年で24回を迎えるそうな。平成6年、駅2階の喫茶店から産声を上げた。私は当時のことを知らなかったが、いつ頃からかこの催しものは私の年間スケジュールの中に定着するようになった。幸い、これもいつ頃からだかはっきりしないが、知人から案内状を頂くようになってからは更に美術展に対する楽しみと期待感が増すようになった。初めの頃は、会場に展示されている作品と出品者との関係が気になって見に行っていたが、まもなく作品そのものに興味を持つようになった。日本画、洋画、彫塑、書、写真の各部門はどれも同じように私は大いに楽しませてもらっているが、それぞれの部門には名の知られた人がいるし、全く名前を存知ない人もいるが多くはこの地方に縁の深い人にちがいない。中には中央で活躍されている人もいて作品のレベルは地方だからと言って引け目を感じるものではない。作品の良し悪しは見る人が決めるもの。自分がいいと思ったらそれでいいのではないか。好みの作品と言えば、私の場合、見た瞬間に決まるようだ。近くに行って見たら…そう言うものではないし、作品をよく見る前に出品者名をのぞき込んでから改めて作品の良し悪しを移入することもない。私が大事にしていることは、作品にどの位精神(魂)を込めているかということである。多くの場合それは部分的に集中して注がれ、時にはそれが鋭かったりたおやかであったり表現される。勿論、バランスが良いことが肝心で、こういう作品に出合った時はいつまでもその場に居つづけることに何の苦もないのである。風121をずっと見つづけて来た楽しみの1つに、ある人を何年も見つづけて来た。定点観測(同じ地点で連続して観測する)というのがあるがあれに似ている。1人の女性(蓬田トシエさん)が描く日本画をずっと意識して見て来た。10年近くになる。知り合いというのもあったが、とにかく1年後1年後の絵が確実に習熟していくのが分かり、しかもそれが顕著なのである。それこそ習いたての頃は、花を集中して写し取っていた絵だったように思う。次第に花を1枚の絵の中の一部として捉える様子が伺われ、近年は色遣いがとても素晴らしく、特にバックの色にはいつも感心させられ、広範囲な部分にもかかわらず控え目でさりげなく主役(多くは花)を引き立てる。絵に対する素養などまるでない私だが、いつも感嘆するのである。今回の風121では、いつも案内状を送ってくれる星恵美子(逢雅)さんの書「司空図に帰す」を拝見した。内容は理解できないが、流れるような凛とした書体の1字1字には命が吹き込まれているかのようだった。又同級生の室井昭二くんの写真「若葉萌えるころ」もよかった。普段から彼の作品は一種独特のものがあるが、彼の撮るごく普通の風景写真は、どの写真にも安定した穏やかさを強く感じるのである。このやさしさとも言える穏やかさは、シャッターを切る瞬間までに労した諸事が実は熟成され、それが結果としてやさしさを孕んで映るのではないだろうか。きっと彼の写真に魅せられる人は多いはずである。(7月12日)


新風に触れる
痴ほう症にならないようにするにはどうすればいいか。こんな事につい関心がいくのは年齢のせいである。更には、昨秋から腰から来ると思われる左足の痺れや痛みがあり自分の思うように動かせなくなった。ネットで対策を知りストレッチを続けているが、このままの状態でずっと仲良くしていかなければならないことを覚悟してからは、以来、いよいよ老境に入ったと思ったのは確かである。そこで、これまで経験しなかったことや新しいことに目を向けることが老化を遅らせたり痴ほう症にならないための秘訣だというのを繰り返し聞き、できるだけそう心がけようと思っていたところ、回覧板で「南会津町青少年の主張大会」というのが目に止まった。これまでにも行われていたはずだが正直関心がなかった。がどういう訳か行って見ようと思ったのは、先のことが頭の片隅にホットな形で残っていたのだろう。主催は南会津町青少年育成町民会議というところで町教育委員会が共催していた。発表者は小学生7人、中学生8人、そして高校・青年が2人だった。会場の御蔵入交流館には400人ほどの観客がいて、ほとんどが学校関係者や発表者の縁者に違いない。私は数少ない部外者の中の1人だったかもしれない。発表者に知り合いはいない。したがって先入観やえこ贔屓することもなく平らな気持で聴けたのがよかった。小学生の発表の題名は「いじめについて考えた」「今の自分にむねを張って」「舘岩に生まれて」「あいさつの力」「故郷伊南で保護犬カフェをつくりたい」「いいところいっぱい南会津」「南会津の伝統屋台歌舞伎の魅力」である。すべて6年生で発表はとても立派だった。欲を言えば、内容はともかく、丁寧に読み上げることよりも自分の言葉で話してもらいたかったというのがあるが、人前で話すのが大の苦手な私からしたら、それだけで感心した。その点、さすが中学生は内容に深みがあって聴きごたえがあった。深みがあるというのはこの場合、自分の経験を具体的に語り自身に問いながら観客に訴える。涙もろい私はすっかり感受してしまい涙を流す場面が度々あった。特に、「仲間がいたから」「母の存在」「家族への感謝」の3題は、実に真に迫った語りでそれでいて後でほんのりと温かい気分にさせられ、あらためて、私の全く知らない今時の中学生の一面を見せられたようであった。いつの時代も、今の若い者は…という言葉を聞いたり、多くのマスコミが若者の行動をひとくくりにして上から目線で大々的に報じるが、レッテル貼り(偏見に基づいて、ある人や物事をなんかの一言で片づけてステレオタイプに押し込むことで、対象を単純化・矮小化する)してはいけないと、今回の青少年の主張を聴いてつくづく思った。そして、何故か、あの山本五十六(1884~1943/長岡市)氏の名言、人を動かすのは、やってみせ、言って聞かせ、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじを思い出した。(7月4日)


勝負の世界
この頃、私がわくわくして嬉しいのは、将棋の世界に突然現れた中学生のプロ棋士を知ったことである。ご存じ藤井(聡太)四段である。この人はプロになってから公式戦で連勝を続けている。そして6月21日には28連勝を成し遂げた。とにかく対局後に配信される動画が気になって仕方がない。一見すると投了時はすまなそうなに頭を下げる。勝者の姿ではない、まるで敗者のようである。自分は勝ったには勝ったが相手は先輩であるといった気持があるのかどうか。私は勝ちをむき出しにしないあくまでも誠実な姿に好感を持っている。この人はこれまでにどんな生活をして来たのだろうかと不思議でたまらない。無我夢中とかまごまごした様子がまるでない。冷静である。まだ14歳である。近年、いろいろな分野で若年層の活躍は目を見張るものがあるが、勝者のほとんどが満面の笑みを見せ両手を上げたり片手を激しく振って激しくボデーアクションをする。それが当たり前になった。私は勝ち負けの勝負事をほとんどやらない。だから勝負事の厳しさを知らない。負けるのが怖いイヤだというのもある。したがって、勝負事に強い人にはあこがれを持って接する傾向がある。過去に私の頭の中で、地域の人で2人の名前が浮かんでくる。1人は囲碁に秀でていた今は亡き同級生の星喜太郎くんである。県新人王を獲得し日本棋院4段に認定されていて県内では知る人ぞ知る存在だった。50代前半までは懇意にしていた河原田新平(前県議)氏、湯田留次(日本棋院田島支部長)氏、渡部達雄(久米工業社長)氏など他多くの先輩諸氏と頻繁に対局していたのを知っている。小さい頃から父(星喜平/校長)が客人とやっているのを見て育ったのがきっかけになっていたようだ。もう1人の若くして亡くなった2級後輩の大波正人くんは将棋が実にうまかった。小学校時代にはよく一緒に遊んだが、あの頃、唯一将棋は大人と子供の共通の遊びだった。彼は強くて子どもでは相手にならなくて近隣の腕自慢の大人が相手だった。飛びぬけて強かった。その実力の程はわからないが、とても頭の良い人だった。動じない大人びた性格でとても柔軟な考えをする人という印象があり、彼をもって神童という言葉を初めて聞いたのはこの時だったかも知れない。将棋のプロの道を目指していたらー地元で建築士の仕事をしていたーとふと思うことがある。6月26日午後9時過ぎ、藤井四段は増田(康宏)四段と対戦して勝って29連勝となり、ついに歴代単独1位になった。そして、再び記者会見では、中学生とは思えない考えながらゆっくり話す穏やかな姿を見せた。「いつかは連勝は止まってしまうでしょうがそれを意識せずに1局1局に全力を尽くして指して行きたいと思います」。この冷静さは一体どこから来るのだろう。と同時に、私は、あまり知られていなかった将棋界の環境の中に若い人を育てていくためのヒントが見えたような気がした。(6月27日)


工人まつり
こんなにも驚いたことはなかった。何が驚いたかといってこれほど着実に積み重ねられた予想を遥かに越えたイベントは見当たらない。昨年は勘違いがあって『編み組工芸展』に行ってしまったが、実は見学するはずだったのは『工人まつり』の方だった。会場の福島県大沼郡三島町は人口2000人に満たない小さな町である。この町におそらく4倍を超える来場者があったのではあるまいか。とにかく大賑わいだった。今回で31回になる正式には『ふるさと会津工人まつり』は只見川を眼下にした高台に会場は設置されていた。クリ、ナラ、クヌギなど広葉樹の林立する木漏れ日の下に200を超える間口2軒ほどの趣向を凝らした店が所狭しと並んでいて、その全景を目にした時はその圧巻さに、お~! という声が出たほどだった。地理的に地元三島町や県内各地からの出店が多かったが、遠く熊本県や佐賀県からの出品にはさすがに驚いた。他にも東北5県、長野県、愛知県、岐阜県、京都府、新潟県、東京などから木工・陶磁器・染織・金属加工・皮革加工・ガラス・編み組・漆器などの作品が並び、さながら19世紀の万国博覧会の日本国の伝統工芸品を展示した様子を見るようで、おそらくこのようなものだったろう。とにかく会場は人・人・人である。残念だったのは、私は長歩きができなくて途中から、立ち止まっては膝を折り前屈みになって背筋を伸ばすという動作を繰り返して歩かなければならなかった。そんなこともあって、私は作品(物)よりも来場者(人)に興味が移っていた。作品を見るのをほどほどにして大勢の人のいで立ちから素性を想像しながら歩いていたが、20代の人の姿は稀で、多くは40代から上のいかにも屈託のない好奇心旺盛な人たちに思えた。だからという訳でもないが、私は会場により多くのベンチのような休める場所があったら更に滞在することができたのではないかと感じた。私たち(大橋清隆くんが助手席)が到着したのは午前9時半頃だったがもう4つの駐車場は満車状態だった。1台出ると1台入るといった按配でまるで都会で催しされるイベント会場のような趣があり、それぞれの駐車場から会場までシャトルバスが運行されていた。私たちは1時間ほど留まった後シャトルバスに乗るために並んだが、4つのコースは長蛇の列だった。これはしばらく待たされるに違いないと思ったら私の足はじわじわと痛み出した。これまでにない心配と覚悟を決めなければいけないと思ったのも事実だが、それが案外無駄に過ぎないことがすぐにわかった。次から次にやってくるシャトルバスがとても信じられない光景だった。それほど見事な廃車なのだ。おそらく都会から訪れた人たちもそう思ったに違いない。ここは片田舎の三島町である。全てにゆったりのんびりを想像していたはずである。昭和61年から着実に回数を重ね、テレサ・テンが雪の降る景色を見たいと訪れた頃から合言葉にして来た「山村が光る時」が見事に実を結んでいる。よくぞ、ここまで! と私は正直思った。全国に知られるようになった三島町。風光明媚。知る人ぞ知るでいい。(6月20日)


慎ましい生活
物を沢山持っていることがステータスが高いと言われていた時代があった。物が豊富にない頃だからいわゆる物持ちが即お金持ちということになったのかもしれない。しかし、現在では、物持ちがお金持ちかどうかというよりその人の価値観が大きく影響しているのは言うまでもない。誰もが簡単に物を所持できるようになった。私は還暦の頃を境に徹底してシンプル・ライフを心がけるようになった。引っ越しがそのきっかけになったのは否定できないが、それより以前に何かの本で、年を取ったら命の残り時間が無くなるように自分の身の回りの物を1つ1つ整理して行くという人がいて共感していた。それに本来私は自身が持っていた、自分勝手に考えた合理的な物の考え方がそうしたに違いないが、まず30代後半に目覚めた読書の習慣はさておき、それ以前と以降に買い求めた本のほとんどと、そして衣類、鞄類、装飾品を徹底的に処分したのである。今になって、あれこれ惜しかったと後悔することがないのはむしろ不思議で、所詮物品の所有というのはそう言うものかもしれないと思った。齢を重ねると、正直毎日のこと目の前のことをするのが精一杯で理想的な老後をなぞるなどには少々骨を折ることなのである。まず自分の体を意のままに動かせないことが往々にしてある。更にこれまでの経験が固定観念化して邪魔をしていることが多い。まず1日の始まりに欠かせないのは、目薬、剃刀、スキンクリーム、爪切り、かゆみ止め(ムヒ)、綿棒、殺菌軟膏、血圧・心臓の薬、水虫の薬…でお世話にならなければならない。若い時分にはほとんど不要かたまにしか利用しないものだが、これが現実なのだ。ラジオも欠かせない。パソコンで聴くようになってしばらく経つが、重宝しているのはPanasonicの6㌢×10㌢の時代物のどこにでも移動ができる小さなラジオである。寝床と机と椅子の世界。机の上には固定電話の子機とノート・パソコンと古い置時計と数冊の本と筆記用具である。物を買わなくなった生活を実感している。物の無い空間は誠に清々しい。が一方で、消費を控えるというのは社会の1員としては肩身が狭い。それでも有ると便利というものには食指は動かないが、実は昨日情ない買い物をした。気がついたのは1週間前。左手指2本の関節部分の皮膚が黒ずんでいた。ネットで調べたら、どうも原因は乾燥と刺激が多いことからメラニン色素が沈着したのではないかという。対策として、クリームを塗れば…と書いてあった。しかも、丁寧に、そのクリームはダイソーの『酒しずく』とあった。早速私は店に急いだ。あった! そんなにも名が売れているのなら品薄かと思ったらそうではなく、代金を支払いレシートを見ると、乳液『酒しずく』200m㍑108円とあった。効くかどうかわからない。私の部屋に新入りが入って来た。(6月16日)


日本人の優しさ
私はこれまでずっと不可解だと思っていることがある。それは、自分が不幸の当事者なのに笑顔を浮かべて平気でテレビカメラの前に立っている人たちがいることである。私にはとても信じられない光景である。このような場合、多くの外国人は、必ずと言っていいほど大声を出したり泣きわめいたりして自分がいかに不幸であるかをアピールする。少なくても私はそれが自然の姿であると思うし、カメラやマイクを向けた人種に不快感を露わにするのは当然のこと。その方がずっと人間らしくて気分がスッキリするのではないかと思っていたし変らないつもりでいた。ところが、最近その謎解きになるような小泉八雲について書かれた1冊の本を読む機会があった。NHK100分de名著ブックによる池田雅之著『日本の面影』である。私は、これまで小泉八雲という人をほとんど知らないと言った方がいい。唯一、西欧生まれの人で島根県松江市に居を構え日本人と結婚して帰化し、主に怪談話を書いた人という程度の理解だった。本を読んでいくうちに「日本人の微笑」というのがあった。池田氏によれば、小泉八雲には異文化理解の1つの特徴として、相手の立場に立っての価値と美しさを理解する姿勢があったと言われていて、八雲は丁寧にそれを分析しているという。その上で、八雲の日本人にとっての微笑は、幼い頃から教え込まれる礼儀作法であり、目上や同輩などどんな人とも、どんな場合でも軋轢なく過ごすための「教養のひとつ」と断じていると池田氏はいう。八雲は、たとえば、子供を亡くした日本人の女性が自分の子供の死を微笑ながら話したりするのを理解できなかったと言い、しかし、生活になじみ、その微笑の意味するところを理解した彼は、この笑いには自己を押し殺しても礼節を守ろうとするぎりぎりの表現であると言っているという。私はこの一文を読んだ時、長年私が不思議に感じながらも暗澹たる思いで、日本人はどうして自分の感情を素直に表情に現わすことをしないのだろうかという疑問が一気に払しょくされ、俄かに腑に落ちたのである。そして、100年以上前、ラフカディオ・ハーンという1人の外国人がすでに日本人の心を深く愛情を持って理解していたのを感心しない訳にはいかなかった。(6月9日)


母の約束
遅霜の心配がなくなった。と思ったら、私の知人の間では、いよいよ畑に種を蒔いたり苗を植えたりする話が俄かに出てくるようになった。その多くは、生産して生活の糧にするというより自分の家で消費したり、世話になっている遠くの知り合いに送ったりしながら楽しんでやっていると言った方がいい。以前は、種や苗を求めるのは少しばかり農業に手を染めるといった意味合いがあったように思うが、現在は、ホームセンターに行けば、全くの素人でもその気さえあれば手軽に買い求めることができるようになった。私も5年ほど前から、ほんのわずかだが自宅の裏の小さな家庭菜園をするようになった。野菜は店で買った方が合理的で造作もないことだが、心の中では自家製は新鮮で一味違うという思いがある。これまで畑は母が中心になって作られていた。戦後の食糧事情が悪かった時代に遡らなければならないが、昭和40年代からは、現在ある自宅から500㍍ばかり離れた、祖父からの縁で新蔵(国権酒造)の先々代の細井新次郎さんから5畝ほどの土地を、借りていたというより耕作して管理していた。母が亡くなってしばらくの間、父が引き継いでじゃがいもやだいこんなどを作っては自転車で何度も往復して畑に通っていた父の姿が思い出されるが、先代の冷一さんにお返ししたのは父が90代半ばになってからである。今年も私は母から父へと受け継いだインゲンの種を蒔いた。インゲンというよりこの<ささぎ>にはいわれがある。生前、母はこのささぎの種を切らしてはいけないと繰り返し言っていた。その時、私には無縁の話だと思っていた。ところが3年前、父が畑仕事から手が離れたのを機に、今度はそれが私のこととして母からの遺言のような気がしてきたのである。このささぎを隣の家の白川さんの奥さんが私の母からもらったことがあったらしい。他のささぎと違ってさやがとても柔らかくて美味いとほめていたが、種を切らしてしまったというので今年は新たに分けてやった。もしかしたらもらうことあるかも知れない。この時、貴重な種だと改めて私は思った。母が大事にしていたささぎというのは、1㌢ちょっとの大きさの種で、白くてラクビ―のボールを思わせる優美な形をしている。確かに成長が早いのでさやを食べるタイミングを逃がさないようにしなければならないが、みそ汁の具でもいいし、お浸しでも旨いし、卵とじにしても旨い。とにかく食感がいいので食指が動く。さやが旨いのは勿論だが、豆もじっくり時間をかけて煮たものは、見た目が上品で忘れられないまろやかな味である。惣菜店でも売ってはいるが甘すぎるのがいけない。今年私は、ささぎの他にトマトの苗を2本買って植えた。これまでの経験からして、トマトは挿し木(枝)が利くので別に支柱を立てて植え、水をたっぷり与えてやると遅くなって再び楽しむことができる。家庭菜園は、毎日が日曜日の私にとってささやかな楽しみになっている。(6月2日)


裸の付き合い
若者の中に温泉が好きだという人がこの頃では大そう多いそうだ。私などはてっきり温泉好きはお年寄りの専売特許と思っていたフシがあるので大いに反省しているところである。それでも、風呂はあまり好きではないという人が若い人に多いというのも又事実である。とは言っても、好きではない理由が脱衣・着衣が面倒だからというのが目に浮かぶ。まさか、湯船に身体を沈めた時の身が軽くなった感触と血のめぐりの良くなった気持好さを忘れた訳ではないだろう。よく考えたら、風呂に入るという行為には、入るか! というような多少の気合のようなものが必要で、その気合を奮い立たせるのがイヤだからというのもあるのかもしれない。私は温泉に入るのがとても好きである。今日も大橋清隆くんを誘ってやって来た。この温泉は前にも紹介したことのある塩原温泉『華の湯』。65歳以上の人は300円というとにかく気風の良い温泉である。番台(高くはない)で、この地区の人ですかとか身分を証明する何かを提示してくださいなどという無粋な事は言わない。かって、あるゴルフ場や気の利かない公衆浴場で気分の悪い対応をされたことがある。毎日お客さんの顔を見ていれば年齢がどのくらいかなど大概わかりそうなもの。それがわからないくらいなら、たとえ年齢を偽って申告されてもそれを甘んじて聞き入れるくらいの鷹揚さがあってもいいのではないか。どちらかと言えば融通の利かない私でさえそう思う。華の湯の良さはそれだけではない。限りなく透明なかけ流しの湯であり、脱衣所や休憩室は掃除が行き届いて清潔感がある。大きな体を沈めた大橋くんは嬉しそうだった。そして天上を仰い見ながら目を細め”ああ、このまま死んでもいい”と言った。確か以前も同じことを言った。その言葉を聞いて私にも異論はなかった。身体を洗っている時、隣りに座った客が何かの拍子に”すみません”と私に言った。その言葉に瞬間的にこの人はきっといい人だろうと思った。そのことが元で湯船に戻ってからさっそく声をかけた。身体のがっちりしたその人は、茨城県の人で、何日か前から車に寝泊まりしながら秋田県の男鹿半島まで旅をして来た帰りだと言った。会社を定年後、実家の農業をしながら農繁期にはこうして車で旅をしているのだと言う。農業は米作りをしている。畑の仕事だったらこうはいかない。それにしても何と贅沢な生活を送っている人だ。世の中にはお金に不自由ない生活を送っている人は数あれど、若い頃に思い描いていたことを(65歳なった今)実行に移している人はそうはいないのでは。私が70歳であることを告げたら、その頃には出来るかどうかわかりませんから、今こうして出来るうちにやっておこうと思っているとその人は自分に言い聞かせるようにして言っていた。自分をよく観察している人だと私は思った。二度と会うこともない人と湯船でつかの間の時間を過ごした。楽しかった。温泉の効能の中にもう1つ加えなければならない。(5月26日)


八幡神社祭礼
この時期の午前5時は明るい。カーテン越しに入る朝日に目が覚めた。目覚まし時計は5時30分にしていたので少し早いかと思ったが躊躇いなく寝床から出た。今日の日曜日は特別の日だった。毎年5月の第三日曜日は八幡神社の祭礼と決まっていた。今年は私たち5組と6組が当番になっていたので、参道や境内の清掃よりも神社の拝殿や中の清掃を任された。普段は戸締りされている板戸を外し、板場を雑巾がけしてゴザを敷き、拝殿を清めてから御供え物を上げた。組長は白川平三(75)さんと丸山浩司(42)さんである。長谷川次男区長の動きに合わせて皆が動く。手順は毎年それとなく見ているので迷うことはない。例年、神前の鈴は祭礼の日に限って取り付けていたが今年からはずっとそのままにすることになった。その方が参拝者にご利益を感じてもらえるのではないかという私の提案である。これまでは盗難に遭うのではないかという恐れと心配だったが、果たして…。これで10時から熊野神社の渡部勲宮司を迎え神事を行う準備はできた。7時頃になると、参道の清掃をしながら道の両側の小枝に旗を掲揚していた他の班の人たちが次々に境内の広場に集まって来た。皆の顔には満足感がみなぎっていた。神社の周辺がきれいになると人の心までも清らかになる。このような気持になるのは誰もが経験するところで、この日集まった大勢の老若男女はそれをよく知っているからこそ進んで参加しているに違いない。岩代屋の猪股昭八さんが参加していた。近年はそんなに丈夫ではないらしい。私が近づくと、いきなりパソコンで日本の歌を聞いているよと耳打ちされたが、目を細めていかにも嬉しそうだった。先年私がパソコンのYoutubeで歌を聞いていることを話してから共通の話題になった。普段はお目にかかることはほとんどない。これも八幡神社が取り持つ縁である。私は昨年末からずっと足腰が痛くて悩んでいる。祭礼が当番でなければ遠慮していたかもしれない。ちょうど昨年の祭礼では星賢二さんが足腰が痛くて参道を上るのを断念していた。その後手術して2、3度顔を見たっきりであるが、回復のほどが気になっている。縁と言えば、社殿の清掃が終る頃に広場に出て北東に旗が少ないのを見て旗を手に藪に一歩足を踏み入れようとしたら、アオダイショウに出くわした。私は蛇が大の苦手である。思わず驚きの声を出したが、周りの人が集まるより早く蛇は草木の間を滑るようにすり抜けて去った。小さなざわめきの中で私は幸せ感に浸っていた。私の干支は戌(イヌ)。八幡神社は戌・亥の守り本尊である。毎年正月2日にはひとりで参拝にやって来る。(5月19日)


押戸のヒト
普段愛称で呼んでいた人を、ある時本当は何という名の人と聞かれ、あれ??そう言えば…ということがよくある。ずいぶん昔から知り合いにもかかわらずその人のフルネームを知らなかったということ。これまで不自由なく何気なく使っていた愛称を巡って突然そんなことを考える。そう考えたら、2、3人ではきかないけっこうな人がいることがわかった。まさしく今回のコラムを書くきっかけになった。ハルちゃんという人がいる。私に限らず周りの人がそう言うものだから、ずっとこれまで完全な姓名を知らないできた。勿論、ハルちゃんは女性である。還暦は過ぎている。会ってから20年くらいにはなっている。湯ノ花温泉は近くはないが、それでもハルちゃんの営む『桧』という店に度々行ってはお喋りしながら飲んだり歌ったりして楽しい時間を過ごさせてもらった。生まれも育ちも神奈川県の学生時代の仲間と何度か高杖ゴルフ場でプレーした折、まだ日が高いにもかかわらず、急きょ電話をして店を開けてもらったことがあった。私の電話1本が彼らを驚かせ羨ましがらせたことがあった。私は鼻が高かった。こうして温泉地としての魅力もさることながら通り道になっているハルちゃんの店を素通りすることはめったにない。今でこそ少しばかり年を重ねたのでさすがに民宿を予約して夕食後に『桧』に飲みに出かけるという無茶はできなくなったが、昼間温泉の行き帰りには関所のつもりで顔を出すことにしている。というより、寄って行きたい気分になる。ハルちゃんのファンは私たちだけではない。むしろ関東圏からやって来る人たちと言ったらいいのか、奥会津が好きな登山者、釣り人、そして散策者でもファンが見受けられる。そこには私たちと共通の理由があるのではないかと思うのだが。その1つは、何といっても、ハルちゃんの人を引き付けるいつも平らな心持と笑顔にある。均整の取れた美形というだけではない。人間だから体の調子が悪い時も気分のすぐれない時もある。ところが、いつ行ってもやさしさに溢れ、それが長年変わらないのだ。料理が又気が利いていて、手際よく作ってくる。まさに心得ているというか啐啄同時なのである。私などは大喜びである。直近では、押戸の三色桜を見に行った時、明るい時間なのに店を開けて歓迎してくれた。オオバ入りの味噌を付けた焼きおにぎり、葉わさびのおひたし、インゲンのおひたし、そして餃子という至れり尽くせりの料理には、大橋清隆くんと大いに感激した。こんな女性が身近にいる幸せ。高齢者の身には殊の外強い味方である。直接電話をして名前を聞いたら、芳賀春子ですという。誠にお恥ずかしい話だった。(5月10日)


ブルー・ジーンズ
ジーンズを買った。この頃ではGパンとはあまり言わないようだが、実に久しぶりである。ずいぶん昔、3本くらい買った記憶があるがいずれも作業用としてだった。たしかに作業用としては布地が厚く綿100%だから(丈夫)が歩いているようなものだった。だからというのがある。私にはジーンズは普段は穿きにくいというのがあって、私は作業をする時だけに穿いていたような気がする。勿論、見た目を気にしなかった訳ではない。世間では、上衣を変えることでいろいろなシーンでファッションとして十分に通用していたのはご存じの通りである。日本で初めてジーンズを穿いた男は白洲次郎(1902~1985)だという。この人は、戦後吉田首相の側近として堪能な英語力を活かしてマッカーサーはじめGHQ関係者と折衝したことで有名。日本人としては並外れた体格と知的な風貌は、後に日本一カッコいい男と言われ、ジーンズのよく似合う人だった。以来、若者を中心として多くの人に親しんできたジーンズ。歌でも、ブルー・ジンと皮ジャンパー(唄アダモ)で大ヒットした。他にも記憶に鮮烈なのは、女優の宮崎美子(みやざきよしこ/1958~)がテレビCMに出演し、木陰でTシャツとGパンをはにかみながら脱ぎビキニになって大反響を呼んだ。女優宮崎美子はモデルではない。この頃から、Gパンはスタイルのよい人のものというそれまでの常識を覆したのではあるまいか。更には、街中で女性がジーンズを穿く姿がよく見られるようになった。こうなるとジーンズもファッションというニュアンスが強くなってくるのだが、布地の色もカラフルになってきた。これはもしかしたら日本発というより他の東南アジアの人たちによってもたらされた感がある。ファッション感覚というよりははき心地が良いというのが優先されているとも思ってみる。ジーンズはすでにふだん着として定着していて日常生活に欠かせないモノになって来ている。新品のGパンもいいが色あせたGパンも又いいと言っていた時代は昔話になった。私がこれまでジーンズに無縁だったのはあのごわごわした感触がイヤだった。ずっとそう思っていた。ところが現在のジーンズは想像以上に進化している。今回私が手にしたジーンズは作業用ではない。家にいる時も外に出る時も簡単に穿ける、腰回り○~○㌢布地はやさしく足腰に馴染むように伸び縮みするものだ。ごわごわ感がなく穿くと下半身が程よく締め付けられ、高齢者にも楽で、気持まですっきりする。もっと早くから知っておくべきだった。(5月2日)


気持は忘れない
父が入院したのは101歳の誕生日を迎えてからまもなくである。仕方がなかった。昼夜の介護がもう私自身には出来ないと思ったからで、父には本当にすまなかった。父と一緒に病院に行くのが正直心細かった私は夜、比較的病院近くに住む姪に電話をしたが、明日は用事があるということだった。あまりに急だった、と諦めるしかなかった。ところが、しばらくして姪から電話がかかって来た。今度は、大丈夫です、と言う。何でも用事というのは税理士が来るというのだが、そんなのはいつでも出来る、明日は行ってやりなさいと旦那に言われたというのである。信二くんは普段は無口で朴訥だが、人の心のわかる何とやさしい男だろうとその時私は思った。私は嬉しかった。涙が流れ出た。そう言えば、父の誕生日の少し前にもこんなことあった。これまで父の散髪は何度か私がしていたが、きちんとは出来るはずがない。店に行く元気もこの頃はなくなっていたので思い切って私の通う店(小椋理髪店)に電話をして来てもらうことにした。何も準備はしなくていいから送り迎えだけはお願いしますという。同級生の宏夫くんが亡くなってから奥さんと息子の康宏くんが店を継いでいる。まさか本職は違う。父は大変満足したようだった。送って行って代金を払おうとしたら、いらない! と言われた。私は面食らった。いつも私が払う代金に出張した分を上乗せして支払うつもりでいた。帰ってきた言葉が、生前お父さんが私にとてもお世話になったからだというのだ。いや、それとこれとは別だ、と何度言っても聞き入れてくれなかった。そんなことをいつまでも…、私は涙声になっていた。そして、4月21日、浅草からの一番列車「リバティ会津」を見に行った帰り、同級生の樋口寛くんの家に挨拶に寄ったら、母に会って行ってくれと言われて遠慮なく家に上がった。以前からお会いしたいとは思っていた。寛くんの母雅子さんは東京生れで、父は広島県福山市の人で母は私の好きな庄内藩(現在は鶴岡市)生れだという。小学生の頃は学校が休みになるとよく鶴岡を訪れていて、北前船の往来する物心ともに豊かな土地だというのを私は聞かされていた。作家藤沢周平が描く海坂藩として知られている場所だというのもある。一言でいえば、思っていた通りの上品な人だった。言葉が穏やかであること。人の話をよく聞いてくれること。そして何よりも多くの事に興味を持ち、しかも精通しているのにてらいがないことだった。短歌の話を伺った。見たこと感じたことを素直にことばにすればいいという。私はその奥にあるものを考える。欲が深いと思った。又こんな話をされた。嫁に来て辛くて一度実家に帰ったことがあったという。ところが両親に伴なわれて戻って来た。が、その時父は、私たち親の育て方が悪かったと畳に深々と頭を下げて詫びたという。それを見ていてなぜそんなことをしなければならないのかと思ったが、それから姑の態度が変わったそうだ。社会的地位を忘れた父の子への深い思いと潔さに私は胸がつまった。EXILE(エグザイル)が大好きな寛くんの母は今年89歳になった。(4月25日)


4月21日
東武鉄道新型特急「リバティ会津」の浅草からの一番列車が9時45分に到着するというので足の痛さを我慢して駅に向かった。残念ながら車である。途中駅の近くには臨時の駐車場の看板が幾枚も立てられていてそれは予想外だった。私は迷いなく同級生の樋口寛くんの家の前に置かせてもらった。そこから歩いて、丹藤道踏切から駅よりの道沿いのコンクリートブロックに腰かけて足の痛さを凌いで待った。殆どの人は私より年長で同じように座っていて今か今かと首を長くして待っていた。私は腰掛けながら背中を伸ばそうと2、3度前屈みになっていたが、そうすることで楽だった。隣りに坐っていた若者が腰が痛いのですかと尋ねてきた。若いのに、私の挙動で腰が痛いというのをすぐにわかったらしい。自分は若いせいか同じようなことがあって病院からもらった薬を飲んだら1週間で完治したという。まさか若い人から腰痛の話を聞こうとは思ってもみなかった。病院名まで教えてもらった。まだリバティが来るまで10分近くあった。すると、それまで黙っていた私の右隣に座っていたおばさんはその若者の母親で私をよく知っているという。はじめ私には見覚えがなかった。が、訳を聞いたら、私の母が若い頃よく農家の手伝いに行っていて私が一緒だつたという。そう言われてよくよく見たら思い出した。目の辺りが私の知っている弟の佐藤一秋(通称かんぼ)くんに似ている。父の実家の隣りの当時娘さんだった人だと気がついた。60年以上前の記憶が突然甦ってきて、懐かしさで一杯だった。そんな話をしているうちに警笛と共に浅草からの一番列車が滑るようにホームに入って来た。新型車両は新幹線のような流線形とまでは言えなかったが新しい風を運んできたという風貌には違いなく、3両の全てが満席だった。すると、待っていましたとばかりに一斉に駅正面に向かう人の流れができ、やがて田島保育園の園児による太鼓が鳴り響き広場は電車から降りて来た人と近郷近在から見物にやって来た人とが入り交り、それに祝福の声と共に歓迎ムード一色となった。まもなくして広場に設けられた会場で式典が行われた。内堀知事、会津若松市長、他にも町村の首長や議会議員、そして観光協会や町の職員が大勢動員されていたようだ。私はそれらをよそに、静かに、広場の隅にひっそりと建つ会津線開通時の様子が大きな写真に収められているのを眺めていた。時は昭和9年12月である。駅に向かう道一杯の群衆。全ての人がマントを羽織っている。雪はそれほど積もっていないが、殊更寒さが厳しかった中に緊張感と熱気が感じられた。鉄路を走る機関車を初めて目にした当時の人たち。そして今目の前でお祭り騒ぎをしている人たち。時の流れをしみじみと感じられた。(4月21日)


今も現役
いつかはこのコラムに登場していただこうと何度か書いたことがある。普段お付き合いしている人の多くが私より年上ということがあり自然そうなるのは仕方がないが、それらの人の中で特に印象深い人は一旦は記憶に残るがすぐに忘れてしまう。今回、痴ほう症が顕著に表面化しないうちに記録に残しておこうというのは自然の成り行きと言っていい。前置きが長くなった。その人の名は室井昭男(むろいてるお/1937年生れ80歳)さんという。3月まで町内西町区の為に長年ー特に旧郡役所の運営ー奮闘してきたという印象がある人で、私の周りにはこういう人は残念ながら他にいない。その為私はあえてこの人の能力を惜しんで(少し無礼かもしれない)次のようなお願いを区に提出した。わたしは旧郡役所のフアンの1人です。日頃は度々お邪魔をして旧郡役所という歴史ある建物の中で時には襟を正し時には朗らかに楽しく多くの人と出会う機会を与えていただき大いに感謝するところです。これも旧郡役所を運営している皆さんのお陰だと思っています。ところで、この度の組織の変更に際して、ぜひお願いしたいことがありご迷惑を顧みず思い切って筆を執りました。組織というのは常に刷新していくものだと思います…でもこの方は旧郡役所のにとって欠かせない人ですから、組織の変更に当たっては、組織を離れても時々遊びに来てくださいという決まり文句の言葉ではなく、もうしばらく組織の一員として活躍いただけることにしていただきたい…と私は嘆願書の形でお願いした。少年時代は、写真の現像を写真店に頼まないで自分でやったという根っからの技術マニアだった。今この年齢にしてPC関係の操作や保守・点検はプロ級である。旧郡役所のホームページは勿論のこと、Facebookやブログ(//blog.goo.ne.jp/terumuro65)は自在に操り更新もマメにしている。先頃は、もっと自由に羽ばたきたいと周囲の反対を押し切った形で野山を駆けるに適したジープを新車で買った。それにGPS付のドライブレコーダーを搭載してドライブを楽しんでいる。かと思うと、自家製と称してたまり漬け、ジャム、納豆、ラーメンなどを作っているがこれが又素人とは思えないほど上手なのである。私も幾つか味見させてもらったが理屈抜きで美味かった。マルチ人間というのはこういう人のことか。ドローンを飛ばして見たが落ちてしまったと嘆きながら…まさに天真爛漫。少年のような心を今なお持ち合わせている室井さんは止まることを知らない。私は羨ましくてしようがない。そして只々感服するばかりである。(4月12日)


新聞バイバイ
4月から新聞の購読を止めた。理由は大きく分けると2つある。1つは、元々わが家の若い人たちは新聞はあまり読まなかったのだが、元気だった父が、ついに入院することになって新聞を読む人がいなくなってしまったのだ。もう1つは、以前からだが、私自身が世の中の事を知る情報源をほぼネットに頼っていたから、私には潮時のようなものだった。そういうのも、新聞やテレビでは、例えば、国会前でデモをしているというニュース。民主国家では当たり前の光景だが、それをメディアはさも国民の多くが望んでいるかのような間違った報道を大々的に行う。これを唯一の情報源としている人はうのみにして勘違いしてしまう。実はたかだか200人ほどのデモにである。事実を歪曲していると思われても仕方がない内容になっている。反面、ネットでは、いろいろな情報が交錯して伝えられているので自分の判断が必要とされるが、慣れてくると、それが事実なのか意図的・演出なのかわかって来るようになる。思えば、新聞とはずいぶん長い付き合いがあった。私は新聞配達をしていたこともある。あれは小学校の5年生だったか。さんけいしんぶん(音の響きとして記憶)のようなものを30軒くらい配達した。面白かったというのが正直の感想だが、朝の早いのが慣れるまで大変だった。しかし、それもお金がもらえることを考えれば我慢ができた。初めてお金を手にした時は嬉しかった。よその人から初めて認めてもらったというのが自慢でもあった。それから、新聞にも載った。まず父は80歳過ぎても地元の七ヶ岳登山で最高齢者として写真入りで2度3度載ったし、クマガイソウという山野草を群生するほど育てている人としても載った。私は30代前半にタウン誌を創刊したが、町ではめずらしいと何度か載った。「民報サロン」にも6回ほど書かせてもらった。昨年の3月には、父が100歳の誕生日を迎えて家族全員で撮った写真が載った。この頃からは、新聞は父も私も、おくやみの欄というのが共通の最大の関心事になっていたが、振り返って思うのは、実は、新聞の内容に飽きたというのもあった。地方紙だから仕方がないが、東日本大震災関連の記事がほぼ半分、スポーツが残りの3分の1、そして公の私たち一般人にはどうすることも出来ない上から目線の記事が3分の1、そして残りが今を楽しくする私たち年配者の明日への活力となる記事である。これじゃ新聞は、ネットを日々の生活の情報源としている若い人達からは遠ざけられてしまうに違いない。そう思うのは私だけだろうか。(4月04日)


酔えばグチも言える
この頃お酒の欲しい日がある。そう言えば、あなたは普段からあまりお酒は飲まない人だと思われるに違いないが、確かに忘れるほど飲んでいないことがあるので好きではないのかもしれない。当然、私には晩酌の習慣もない。近年、何度か手術をしたりこれまでの持病に加えて新たに病院を訪れると、必ずと言っていいほどアンケートの様なものを求められる。そこには大抵、タバコは吸いますかとか、アルコールは飲みますかといった項目があって、具体的に更に書き込むようになっている。この場合、私はタバコを止めて40年近くなるので吸わないでいいが、アルコールは全く飲まない訳ではない。が、と言って、それこそ月に数回焼酎をコップに3分の1ほど入れてそこにお湯を入れて飲むことがあるくらい。これでも飲むと言わなければならないか。飲まないと言った方がスッキリするのではないかと思う量である。日頃、私はアルコールは出来るだけ飲んだ方が良いと思っている。全くアルコールを飲まない若者などには勧めることがあるほどで、飲む人は羨ましくてしようがないのである。それでいて私は、飲みに行く機会もほどんどなくなってしまったし、家にいて、息子が晩酌しているのを見ても、特に手持無沙汰とも思わないし、オレもという気にもならない。時々、息子の嫁さんが、一杯どうですか? と促されてやっと思い出したように飲む、せいぜいそのくらいである。私は元来お酒とは相性が良くない体質なのは親譲りに違いない。父方は判を押したように似ている。それでいて50代頃までは、お酒の匂いと人いきれのする場所に随分と通った。勿論、誰もが経験するように、あの得も言われぬ雰囲気に誘われお酒がなければ何の意味もなさない摩訶不思議な場所にである。とにかく夜のネオンが恋しかった。この頃では、唯一お酒に酔うのは、数ヶ月に1度の同級生7人と1泊の温泉旅行である。この時こそが50年来の気のおけない友との語らいの中で飲むお酒である。ここでは大概私は、焼酎と日本酒を飲む。とは言っても、一晩に小さなコップ2、3杯のお湯割り焼酎とぬる燗を2本ほどである。傍から見ればまるで飲んでいないということになるが、私からすれば、何の躊躇いもなくいい気分になる…この位が適量なのだ。この頃、お酒を飲んだ日がとても安らかな気分になっている自分に気づくのである。そんな時、私は、まさにお酒は神様からの贈り物に違いないと思う。(3月27日)


春が来れば
どうも人間というのはーちょっとエラそうにー隣人とは仲が悪いというのが相場らしい。離れていれば気づかなかったり無頓着でいられるのに、近所であるがゆえに、目や耳に入る良い事も悪い事も気になって冷静ではいられなくなってしまう。しまいには、自分のことを棚に上げて、それを高所から見る態度に変って、相手の人を悪者扱いしてしまうという私たちには悪い癖があるようだ。例えて言うなら、私のみならず、多くのどちらかと言えば高齢者は、昔から、日本からは遠い欧米の歴史や文化を羨むのとは別な感覚で、もしかしたら私たちより高いところに置いていた傾向にあった。当然のことながら敵対心どころか爭う事すら考えもしなかったし、ずっとむしろおもねる気持が強かった。ところが、わが国と近隣国の関係となると誠に冷ややかな状態なのである。まったく友人の関係は見られず、現在はまさに険悪どころか一触触発に向かっているといっていい。確かに、歴史を遡れば、生きるか死ぬかの爭いがあってどちらにも恨みが残る爭い事もあった。それは事実である。争い事に恨み辛みはが生じるのは当たり前である。しかし、今に生きる人がその為に限られた人生の中で、お互いが不愉快になるような種を探すことに時間を費やすことは無意味だと私は思う。そんな時に思い出すのは、このコラムでは繰り返しになるが、おふたりの言葉である。「過去のことは水に流せない、仲直りは出来ないが仲良くは出来る」と「人生は、楽しんだ者が勝ちだ」。前者は、会津の酒造会社の社長さん。後者は、物理学者の米沢富美子氏である。とても前向きな気持が表れている言葉だ。とかく、人がよそのことが気になるのは、人(国も同様)は一人では生きてゆけないのだから当然といえば当然だが、気になることが不満やストレスとなりそれが相手を中傷したり根に持つようになれば深刻であり自滅へと繋がる。ましてその不満を無関係の人に話すようになればいよいよ厄介になって来る。私の住む雪国では、降った雪が邪魔扱いされた結果、しばしば隣近所の争い事になりいがみ合うこともある。雪は時間が経てば自然と目の前から消えていくというのを互いにわかっていてそうである。それだけ雪かき仕事は重労働なのだが、隣近所の不仲になる原因が雪そのものになってしまう。雪が取り持つ縁というのがあるのに…。雪は天からの恵み。雪のせいにしたらそれこそ天罰が下るというものである。(3月22日))


老後のいろは
昨日3月11日は父の101歳の誕生日だった。夕食は家族で出前をしてもらっていつもより少しだけ贅沢をした。私はソースカツ丼で他はウナギというメニューである。普段は中々口に入ることの無いものだが、確かに”梅よし”のこれらは老舗の旨味があった。父にとって曽孫と孫と子という来年には出来ないかも知れない誕生日を祝った。何枚もの写真を撮った。おそらく後年今4歳4ケ月と9ヶ月の曽孫には父のことは記憶にないと言われるかもしれない。しかし、記録には残る。わが家にとって第一級の記念写真であるから。いつも何かと言って思い出しては紹介している私だが、写真で思い出すのは、白洲次郎(吉田首相と共に戦後処理に活躍)の奥さんである白洲正子が祖父と二人で撮った1枚の写真。庭というより庭園と言った方が正しいのかもしれない場所で、椅子に腰かけた樺山資紀(すけのり/伯爵)と傍らに立っている5歳くらいの正子である。大刀を手に薩摩武士を思わせる雄姿とあどけない幼い少女である。2人の思いを想像すると、時は明治であるが、おじいちゃんと孫の間の愛に時の流れは無関係だろう。私の父は元来丈夫に生まれ育った。3年ほど前までは、人が驚くほどの元気さで町中を気ままに自転車に乗っていた。ところが、世間の人が言う通り、年を取ってからは転んではいけないという金科玉条のような言葉に逆らって転んでしまった。それも1年置いて2度転んで、あっという間に体力・気力が車をシフトダウンしたように急落してしまったのである。それでも負けん気の強い父は、自分のことは自分でするを通した人だった。が、今年になって急に私たち家族に身を委ねることが多くなった。特に私がショックだったのは、私には手に余る下の世話である。これまで随分介護については見たり聞いたりして、いざとなったら覚悟は出来ているつもりだった。私は大いにまごついてしまった。父の老後の面倒は自分がすると心に強く思っていたから尚更であった。昼の顔と夜の顔がまるで変わる父の姿に狼狽した。昼間、いくら約束をしても夜にはそれがことごく無駄に終わった虚しさ。現在の父の年齢からしてこれから先の日々は苦もない。誰もが通る道だ…いろいろ考える。体力を使うことも多々あるが、仕事だと思えば耐えられないことじゃない。しかし、独り考えていた時は正直寂しかった。家族がいるのを気づくのが遅かった。しみじみ有難いと感じたのはその時だった。自分一人でどうにかしようとしたことが間違っていたことに気づき、それを感じ取ってくれた息子には本当に救われた。父からすると子の私はどうしても感情的になる。対して孫の息子は驚くほど説得力があった。まだ始まったばかり。悪戦苦闘はつづくに違いないが1人より2人、2人より皆で…。(3月12日)


六十里越峠
この時期になると思い出されるのは、十余年ほど前までの4~5月のゴールデンウイークである。この連休中は日本国中の行楽地が人出で賑い、こちらの思うような行動がとれないというので、終了後に、改めて私1人の車での旅が決行され、それが5年ほど続いた。この旅の本命は、六十里越えにあった。それから先は、言わばその延長上というのに等しい。新潟県の小出市(現魚沼市)に出て小千谷市を経由し、日本海に面した柏崎市に出た。上越市に宿泊した翌日は、長野県の信濃町から飯山市に出て長野市に出ることもあったが、大概は引き返すように新潟県の津南町を通り小出市に戻るというコースだった。近年、私が殊の外楽しみにしていたこの旅がいつの間にか忘れ去られたようになってしまったのは原因がある。2004年10月に発生した、北魚沼郡川口町(現長岡市)の直下を震源地とした震度7の新潟県中越地震である。私が通るコースと重なり、小千谷市の被害は目に余るものがあったし、以後再び起きるのではないかという不安が徐々に旅の興味を削いでいった。六十里越峠は、日本では有数の豪雪地帯で例年12月からは通行止めになっている。開通日を予想するイベントもあるようだ。昨年は稀に見る浅雪だったこともあり、4月20日に開通されたが、これは異例中の異例であり、いつもだと5月の連休頃というのが一般的だった。六十里越えは、昔から福島と新潟をつなぐ道で出稼ぎの人、行商の人、蚕の種(卵)を売る人などが行き来したいう。同じように新潟県に通じる八十里越えは、戊辰北越戦争時に長岡藩家老の河井継之助が通った道として知られるが、こちらの方の開通はもうしばらく時間がかかるようだ。思い起こせば、只見町の西の端からつづら折れの小さな峠を上ると田子倉ダムを眼下に出来る。この光景は、長年雪国に住む私も息をのむほど素晴しいものだ。愛称になっている<雪割り街道>そのものである。雪割り街道と言えば、豪雪地帯を通る道は除雪後に見上げるほどの雪の壁ができるので趣はあるが、この六十里越は、田子倉ダムの豊満な水と険しい峰々に残る雪、そして眠りから覚めたばかりのブナの樹々のコントラストがある。青と白と緑が自然の営みの中でバランス良く彩る姿は、私がこれまでに経験した中で最たるものに数えられる。他所では決して目に出来ないものだ。但し、これも天候次第という条件が伴う。好天なら謳歌できるが悪天候では地獄である。峠の頂には六十里越開通記念碑が建つ。昭和48年9月 内閣総理大臣 田中角栄と刻まれている。この辺りからの眺めも一見の価値がある。まさに天空の彩である。今年あたり再び…と考えていた。それをうっかり古希を一緒に祝った仲間に話してしまった。一緒に連れて行ってくれというのも無理はないか。(3月4日)


春の足音が聞こえてる
今年は浅雪だった昨年を挽回するような積雪になった。わが家の裏庭には未だにならして70から80㌢の雪がある。今日は、正午過ぎから青空が出て日差しがガラスを通して家の奥まで強く注いでいる。これまでは、ずっと小雪の降る天候が続いたのでお日様とは無縁だった。早速、パンツ1枚になって身体の裏表をさらして日光浴を楽しんだ。まるで日照時間の少ない北欧の人たちのような心持だった。積雪から乱反射してくる光がキラキラ眩しい。庭の中央には、周囲2㍍ほどの大木となった八重桜を取り囲むようにマンサク、ジンチョウゲ、シャクヤク、ボタンの木々が顔を出している。暖かくてとても気持がよさそうである。例年、春の彼岸にはまだ雪が残っている。それを見透かすように、マンサクが一番乗りして小枝に黄色いおみくじのような花を付けるに違いない。それからは次々に先を競うように花を咲かせるので順番を付けるのは難しい。生前、私の母が好きだったヤシオ(母は関東ばなと言っていた)の木は私の横になっているところから目と鼻の先にある。中々成長の遅い木ではあったが気候が気に入らなかったか、咲くことは咲いたが、残念ながら、昨年立ち枯れてしまった。白い花の咲く木も試したことがあったが、ついに咲かないでしまった。いずれも惜しい木だった。小径を挟んで隣のいかにもよく耕されたナンテンの木の近くに、先頃亡くなったおばちゃん(2017.2.14)のお気に入りのタツタソウがある。おばちゃんの家から株分けして4年目になるが、今年当たりは花芽を持ってくれるかどうか。この花は20㌢くらいの一塊になって、葉が開くと同時に藤紫色の6~8弁の上向きの花が咲き、とても美しい花だ。最後に見舞いに行った時、この花の写真(一昨年おばちゃん宅で撮影)を福田こうへいの歌と一緒に手渡した。とても喜んでくれた。そんな思い出がある。そして、何といっても自慢の花は、小ぶりのリンドウである。15年以上前に友人からもらった。ずっと花は咲かなかった。ところが3年前に突然、思い出したように2個の花が咲いた。背丈が5㌢くらいの茎の先に小さな紫の花を付ける。やや薄暗い光の中では飛びぬけて美しく、昨年は20個以上の花を付けた。前年、周囲に肥料を施したり、根がよく張れるように土をほぐしたりした結果だろうと思っているが、まさに眠りから覚めた妖精の趣がある。次に目をかけているのは、クマガイソウである。一時期、群生して数えきれないほどの花を付けて付近の山野草愛好家の間でも話題になるほどだったが、今では3株に激減してしまった。それも花が咲くのは1株である。環境が変わったせいかもしれない。ほったらかしにしたのもある。そう言いながらも、いよいよ春の賑いが近づいて来た。(2月27日)


後期高齢者のパワー
千葉県に住む従兄の渡部昭雄(あきお)さんに、いつだったか1枚の写真をもらった。昭雄さんは、私より10歳ほど年上で、ここ何年か毎年のようにずっと故郷の南会津町田島に遊びに来ていた。ところが、昨年あたりから体調がすぐれなくて顔を見せないでいる。都会での生活が長かった。仕事を離れてからは、思い出したように故郷に対する思いが強くなり、それが人よりも深かったと私は感じていた。殊の外、郊外にまだ残っている土手道や田んぼのあぜ道を歩くのが好きで、よくカメラを肩に1人で歩いていたと本人から聞いたことがある。他にも、季節の移り変わりを捉えて木々の彩を眺めるのが好きだった。元々、機械工という職業が長かったのでめっぽうメカには明るく、パソコンに於いては初期の頃から、ハードとソフトの両方に深い知識と技能を有していたのが私は良く知っていて、市の主催するパソコン教室の講師を長年務めていた。思い出した。私の知っているほぼ同じ年齢でまったく瓜二つの方がいらっしゃる。お名前は室井昭男さん。こちらはてるおさんと呼ぶ。この方についてはいつかこのコラムに登場してもらうことにして…そう、その1枚の写真だが、上空から写したわが家の形そのもだった。航空写真ではないと思っていたら、Googleという会社で製作・提供しているソフトを使ってプリントアウトしたものだという。私は話には聞いていたが、実物を目にして、その精巧さと簡単にそれができるというのを聞いて驚いたのは勿論だが、それが地球上あらゆる場所が対象だと聞いて再び感心したのである。昨年の暮れ、そろそろ年賀状を書かなくてはいけないと思ってこれまでの賀状を整理していた。名前や住所を見ながら、ふとGoogleの存在を思い出した。さっそく、何人かの知人の住所をGoogleマップの住所欄に入力したら、あれ、あれ…何と、その方の家の周囲は勿論のこと玄関先の表札の付いた門柱や車庫や自転車までが映像として現れたのである。まさか、ここまで、人に見せたくないような光景があったかもしれない。まるで自分が見られているような恥ずかしさがあった。おおよそこのGoogleマップを使って住所を入力すればその家の映像が現れることをわかったところで、中華人民共和国はどうだろう、と思った。一昨年、上海の知人にお世話になった折、少しばかりのお土産を送った。その時の住所があったのでGoogleマップで覗いて見た。おそらく見れたとしても詳細には見れないだろう。テレビでも都合が悪いと映像を遮断してしまうほどだから。そんなことを考えながら上海……と住所を入力してマップから映像に替えたら、何と見覚えのある道路と建物が鮮明に現れたではないか。驚いたやら懐かしいやら大いに感動したのである。そうだ、春の彼岸でも過ぎて温かくなったら昭雄さんを温泉に誘ってみよう。(2月20日)


待合室が賑わう
昨年末あたりから病院通いが頻繁になり生活の一部になった。生命を落とす可能性がありますという入院診察計画書を渡された父のこともそうだが、自分のことが重なった。元々定期的に病院に通っていた私だが、腰から足にかけて痛みや痺れが来て薬を2個これまでの4個に加えて飲むようになったと思ったら、次に歯の治療に行かなくてはいけなくなった。しかし、歯科医はこちらの意向を聞くこともなく勝手に別な歯の治療を始めたりして長引いていた。私は、痛くもないぐらぐらもしていない私にとって何の不都合もない治療を断ってようやく歯科通いから解放された。ところが、そうこうしているうちに、今度は定期的に通っている町の医院からもらっている薬がなくなってしまったが、いつもは30分も待っていれば順番が来るのにこの日に限って待合室は一杯だった。このような場合、以前通っていた県立病院だったら、心穏やかにはいられなかった。ところがここは知っている人が多く、自然と挨拶が交わされそれ以上に会話が弾んだ。最前列の一番離れたところには松平夫妻。前列の2つ前には奈良屋の常三さん。ガラス窓を背にした席には元町職員の室井政彦さん。私の隣りには”お富”のママだった佐藤さん。その隣は同級生の室井昭二くんの奥さん。そして受付で用を済ませて帰った常楽院住職の佐藤高慶さん。近年、おしゃべりになった私は、その方々へ満遍なく声をかけて近況を尋ねたのは言うまでもないことだった。考えてみたら随分おしゃべりになったと自身で思った。そうする間にも私の順番はあっというまに巡ってきた。この時、自分が何のためにこの場所にいるのか忘れている。それは今の今に夢中になれるだけの理由があると思った。先に心配がないからというのもある。先というのは先生に診察してもらうその時のことだが。馬場(俊吉)先生の場合、患者を迎えるにあたって、患者が診察室のドアを開くと同時に先生は自分からまず挨拶して、それから患者が椅子に座ると、どうですか具合はと尋ねる。この一連のことが快いのは私だけではないはずである。患者さん全てにそうしていることは明らかで、時に先生の声が待合室まで聞こえることがある。時折、先生は、私の敬愛する祖父の馬場滋雄(俳号子交)さんのお孫さんというのが思い出される。一方、県立病院の方はというと、何時間待っても、医師や看護師さんからねぎらいの言葉は聞かれない。医師は終始パソコンに向かっている。看護師は血圧を測る。それだけである。しかし、馬場先生は、肝心な現在の症状を聞きながら世間話を交えてくる。私はこれで血圧は確実に5は下がっている。イイですね…この言葉がキーポイントのような気がする。自分に自信がつく。先生がほめてくれる私の父は、今も日に3,4度外に出てタバコを吸っている。人の気も知らないで、何事もなかったように暮らしている。(2月11日)


そんな先のことは分からない
カサブランカと言ったら、あなたは何を思い出すだろうか。私ならやはり名画『Casablanca』を思い出す。只残念なのは、内容はともかく、ハンフリー・ボガードやイングリット・バーグマンの名優が出演する戦前のラブ・ロマンス映画で、”そんな昔のことは覚えていない””そんな先のことは分からない”という言葉が生まれた映画だというのをよく知るだけだった。それからすると、カサブランカという名前の白い花は随分前から知っているような気がする。初めて見た時の印象はよく覚えている。確か四半世紀も前だった。あるスナックのカウンターの片隅に置いてあった。店の名前ははっきり覚えていないが、歌の上手なやや小太りのママがいて、そのママの誕生日か何かで客から贈られたものだというのを小耳に挟んだ。見るからに豪華で妖艶な香り、そしてちょっぴりお金の匂いを感じたのは私の妬みだったかも知れない。次に浮かんでくるカサブランカは、鳥羽一郎の大人の別れを歌った『カサブランカ・グッドバイ』である。彼の歌『海の匂いのお母さん』を聞いて以来、母に対する心情が共感できたところで、私は彼のファンになった。私からしたら彼の『カサブランカ…』は驚異だった。まさかと思ったが、しかし、一方で良く似合う出来た歌だと思った。ドスの利いた声が妙に合っていてリズムもよく中々カッコ良かった。もう一度映画『カサブランカ』(1942年アメリカ映画)に戻そう。カサブランカというのは、スペイン語で白い家を言い、アフリカ北西部の港湾都市である。昨月末、いつものようにYoutubeを見ていてCasablancaを見つけた。まさしく映画『カサブランカ』である。一気にpart1、part2を見た。そして2日後に再び見た。更に3日後に見た。1942年製作の映画なのに、これほどまでに夢と希望とサスペンスで人の心をつかんだ、かつ面白い映画はかって見たことがあっただろうか。映画の醍醐味であるスぺクタクルというのを除けば、映画の全てを併せ持った稀有の映画だというのがわかった。素晴しい映画だ。一生に一度は見るべきどころか、何度見ても映画の面白さは色あせない。見れば見るほどこの映画の面白さを知り何度見ても見飽きることはないことを私は確信する。戦争という時代背景があり、切迫した緊張感がある。監督はマイケル・カーティス。主演のリックとイルザ。映画の見どころはそれだけではない。粋なルノー警察署長。ピアノを弾くサム。ギターを弾く女性歌手。ウエイター。イルザの夫。映画の中の1人1人の役割がハッキリしていて、誰一人としていなくてはこの映画は成り立たない、それを強く感じる。こんな映画に私はこれまで出合ったことがないが、これからも見たくなるに違いない。リックの店での1コマを思い出す。リックを訪ねてきた女。今夜会える?(2月3日)


お米がうまい
父はこの3月で満101歳になる。昨年末に2回目の転倒をしてから急に元気がなくなった。あれ程注意をしていたにもかかわらずである。人間にはいくつになっても過信というものがあるらしい。それまではカツ丼をぺろっと食べていた。元々父の食事は昔人らしく普段は質素である。お米中心でおかずには納豆、きゅうりのみそ漬け、塩鮭にみそ汁である。生野菜は90歳くらいまではほとんど口にしなかった。その食事が極端に少なくなってご飯ときゅうりのみそ漬けだけで食べている時がある。それがとても美味そうなのである。よく噛んで食べている。こんな姿を見ていると、やはり日本人はお米と発酵食品が一番体に合っているのだと思う。しかもよく噛んで食べることで旨味が出てくるに違いない。洋食ではは噛めば噛むほどという言い方があるのだろうか。私も近頃は父と同じような食事が好きになっている。但し、私は少しだけ贅沢したいのはご飯がうまくないといけない。家でそれを望むのはやや無理があるが、外で食べて、とにかくうまいご飯に出合った時は小躍りするほどうれしいものだ。穀物というのを忘れさせるような香りと輝く光沢とそしてさりげない粘り気のあるご飯を出す店は案外少ない。例えあったとしても、何度目か行った時に、間に合わせに温め直したようなご飯が出たりすると、例え店側の理由があったとしても、しばらく私は遠ざけてしまう。後になって、思い出したように出掛けてみるが、あの時だけというのは希で、以来ずっと変わっていないのは残念である。そっと声をかけてやるのがひいき客としては親切なのかもしれないが、それができない。戦後生まれの私たちは共通して貧しかった。衣食住のすべてがそうだったが、私には、大きくなったらジャガイモやカボチャの入らない白米を食べたいという願望があった。中学校では給食がなくて弁当持参だった。麦と白米の混ざったご飯から上の方を削り取って下の白い部分を弁当箱に入れた。そんな体験からお米にはずっとこだわりがあった。近年、忘れられないのは、栃木県大田原市にある『チキンハウス』で食べたご飯が飛びぬけて美味かった。まだあれ以上のご飯を食べたことがない。いや待てよ、もしかしたら、昨年喜多方市にある『まるやま』で食べたロースかつのご飯は比較するに値するかも知れない。尤も、『まるやま』はかつの揚げ方が優しい位のサクサク感が私にはちょうどいい按配だったことに加えて、女子従業員の気持のよい対応があったというのを加味されている。その点、やはり、先の『チキンハウス』では、味付き若鳥の美味さを引き出しているのはご飯だというのがよくわかる。まだ営業しているだろうか。そうだ思い出した。数日前、散歩の途中で白餅をもらった。田舎の良い処として、こういう互に肩を寄せ合うほどに気心が働くのがいい。ありがたく頂戴して家に帰ってボールに水を入れ浸した。水餅である。翌日、水から出して水分を取りフライパンに油を引いて強火から弱火そして少し蒸した後、醤油を垂らして食べた。レモンでもあったら最高だったが、それでも実に美味かった。(1月24日)


熱き心の人だった
わが家にオッ! とその一言だけで入って来る人、その人は湊田幹夫氏ただ1人である。どういう訳かその声を聞くと温かい気分になった。大先輩である。その湊田幹夫(88)氏が昨日2017年1月14日に亡くなった。昨年師走に入ってから術後二度目の入院となったが、それまでとても元気だったので風邪でもこじらせたのだろうかと思っていたが中々退院しない。気になったので12月26日に大橋清隆くんと若松市の中央病院へ行った。湊田さんは私たちの顔を見るなり、今日は俺の葬式なのに誰もその準備をしてくれないのだという。相変わらず目をつぶっての話である(近年話をする時はいつもそうだった)。先客が帰り大橋くんも病室を出て2人っきりになったところで私は両足首を揉んでやった。骨太の肉付きのいい足首は血色が良く張りがあって病人のようではなかった。終始無言だった。訃報を聞いたとき私は、平成というより昭和が終ったという思いがした。そして、これまで私の知っている湊田さんの軌跡を追っていた。思い出されたのは、まず湊田さんは昭和3年8月に旧満州大連市生れで父は広島県母は南会津の人だということ、それから湊田さんから寄贈された自ら編集・発行した、目で見る『田島町百年の歩み』271㌻の記念誌や執筆した、時は流れて、わが半生、南山御蔵入騒動、南山義民碑物語、南山六義民の碑建設記録、御蔵入三十三観音札所など、更には映像化したDVDの各場面がゆっくり頭に浮かんでいた。同時に、ご本人が事業家と政治家だったという観点から、ひと頃日本国中を騒がせた政商小佐野賢治氏(国際興業グループ創業者1917~1986)や小針暦二氏(福島交通社長1914~1993)という人たちの名前が浮かんできて、湊田さんが同格というのは語弊があるかも知れないが同質に感じるのは私だけだろうか。何の商売でも人と同じことをしていては負けてしまうと言い、とかく暗い噂が立っていた。振り返ると、私がまだ中学生だった頃、私の伯母の家の福田屋旅館によく出入りしていたので顔見知りではあった。その後においても、私は事業家や政治家とは無関係だったからもっぱら<ヒマつぶしの話し相手>といったふうである。始まりは私が大学生だった夏休みに最初の「地図入りの電話帳」作りを依頼された。それから近年には、交付金事業で南山御蔵入の郷(さと)活性化実行委員会発行の『南山御蔵入の郷再発見』では40㌻ほどの原稿を書かせてもらった。2人で飲みにも行った。が午後8時になると決まって自分はサッと帰宅するのである。だから誘われても大方は断っていたので、長いつき合いの割には回数はそれほど多くはない。長い付き合いを通じて感じるのは、地域文化の保存や歴史の掘り起こしなど真の意味の文化人としての顔があった。昭和・平成とがむしゃらに突っ走ってきた。斬新な発想と持ち前の行動力でいろいろな事柄に挑戦してきた、そんな印象がある。町のことをいつも考え、一方では時間に厳しく実は真面目人間だったと私には映る。陣屋跡の碑の建立、義民祭の継承、城山遊歩道の開設、祇園公園の管理他、自らの事業と関連があるかも知れないが、100歩譲ってもこの先このような人物が出現するかどうか、ふとそんなことを考えていた。合掌(1月15日)


街こおりやま終刊
70年も生きていると何がしかのことがキッカケになって思いもよらない事を始めたりするものである。思い起こせば30年以上にもなる。私の同級生が中心となって当時全国的に流行っていたタウン誌を作ろうということになった。当初のメンバーは、故小椋宏夫くん、故星喜太郎くん、故川井幸一良さん、星正人くん、阿久津博さん、大橋健一くん、杉原一成くん、渡部徳子さん、赤羽美由紀さん、五十嵐さんだった。初刊が出たのは1980年の9月。何度も編集会議を開き各人の担当する原稿が集められ校正に校正を重ねてようやく若松市の印刷屋に運び込まれたが、それから本となるまでの間の緊張感は忘れられない。インクの匂いのする積み上げられた小冊子が開封されたのは川井さんの経営する『舎炉夢』(シャローム)という喫茶店の店内だった。舎炉夢という店は中町の現在のビューティーサロン・ヨーコの地下にあった。あの時、皆で喜び合いながらも初めての経験なので、興奮しながら本を開き間違いがないかどうか夢中で何度も目を通したが、表紙の絵は、町内の小学生が描いた絵を学校からお借りしたが大そう評判が良かったし、他にもカラーの㌻が1㌻あったので本らしかった。座談会を始めに、街の歴史を紐解くコーナーがあり、郷土工芸を紹介したり、すつかり地域に定着した季刊誌になり、その間編集長も星正人くんから大橋健一くんに引き継がれたが、当初焼酎2合までになぞらえてどうせ長くは続かないだろうと言われていたが10年続いた。雑誌の名前は『御蔵入』(おくらいり)といった。この雑誌を始めたキッカケは私にあった。今思えが昭和50年である。当時私が自動車販売店に勤務していた時、社のコマーシャルを出したのが『街こおりやま』ではなかったかと思うのだが、販売拡張課の平田くんという同僚と一緒にその編集事務所を訪れたことがあった。事務所は普通の民家だった。意外だったので覚えているのだがそこには女性が2人いて1人は三田公子さんという方でもう1人は確か伊藤さんという方だった。いずれの方もその後新聞やテレビでお目にかかっているが、その頃私の中に、いつかこの雑誌のようなものを作ってみたいという気持が芽生えたに違いない。だから、私たちの始めた『御蔵入』は『街こおりやま』に似ていたのである。今、私は福島民友新聞2017年1月7日を手にしている。29面に街こおりやま終刊と大きな見出しが目に入る。郡山の発展とともに歩んできた「月刊街こおりやま」という文に、これまでの冊子が重ねられている写真が載り、下段には伊藤編集長「一度も休刊せず、愛された」の文と笑顔で花束を受け取る写真が載っている。同誌の新年会では、「500号が終着点だと思っていた。1日も休まず、1度も休刊せずにやってこられた。郡山の皆さまに育てられ愛され今日まできた。本当にありがとう」。新年会で伊藤さんが涙ながらに謝辞を述べると、編集同人や関係者約400人から拍手がわき起こったという。私は近影の伊藤和(かず・73)さんと在りし日の伊藤和さんとを思い浮かべ感慨深かった。心からご苦労様でした。(1月7日)


サヨナラ紅白歌合戦
以前あれほど大みそかには楽しみにしていたNHK紅白歌合戦を近年は見なくなった。若い人たちの出場が多く又彼らの歌の良さがわからないから名前もわからない。それでも演歌ならいい、もしかしたら私だけかもしれない。同じ頃、パソコンのYoutube(動画)でいろいろな歌手の歌が聞けるようになってよりテレビを見なくなった。福田こうへい、山内惠介、三山ひろし、水森かおり、津吹みゆ、桂銀淑、山本みゆき、石原詢子の歌が特に好きで毎夕のように聞いている。いずれも上手い歌手に違いないが外見上の雰囲気も又私は好きなのだ。このうち3人が紅白に出場するのを知ってぜひテレビを見たいと思った。普段私はテレビはほとんど見ないから私の部屋にはテレビはない。と言って、居間で1人で寝っ転がって見るのは不慣れでどうも落ち着かない。突然、パソコンでテレビが見られないかという気分になった。不思議なことである。パソコンだったらゆったり自分の部屋で観ることができる。それには…に思ったら、自分のこれまでの知識では、テレビを見るためのチューナーが必要である。私のパソコンには内蔵していない。と言って、外付けのチューナーは無いから今日の今には間に合わない。考えた末、そうだ、パソコンで「パソコンでテレビを見るには」を検索すればわかるかもしれないと思いついた。ところが、それがあった。まず公式の日本電視台(字ずらかして中国系)のホームページに入るとテレビ局が表示された。早速目当てのNHKチャンネルをクリックすると、ややしばらくして画像が現れた。しかし、その画像はタイムラグ、静止、チラチラがあり過ぎてもはやテレビの体をなしていなかった。私は戦後生まれだから昭和30年代の白黒テレビですでにこの状況は経験済みである。が、やはりタダでテレビを見ようとする料簡がいけなかったのと、所詮パソコンでテレビを見ようと思ったのがいけなかった。そうこうしているうちに三山ひろし、山内惠介を見そこなってしまった。かろうじて水森かおりが巨大衣装で登場したのを見ることができたが、普段観ている『越後・水原』のほうがよほど良かった。それはそうと、とぎれとぎれだった舞台に上がる歌手の周りの踊り子たちが目ざわりで気が散って、特に大勢で出てくる演出にはがっかりした。主役の存在を忘れてしまう。結果、昨年の第67回NHK紅白歌合戦はほとんど見れなかったが、大みそかのNHK紅白歌合戦はますます私から離れて行くキッカケになってしまった。(1月1日)