2018コラム

Colume



大谷選手の活躍は本物か
私は大谷翔平選手がこれほど成長しているとは思わなかった。連日の活躍を動画で見ながらただ驚いている。ご存じ大谷翔平選手は、今年日本ハムからロサンゼルス・エンゼルスに入団したばかりなのにいきなり4試合目で3本連続ホームランを打った。8日のアスレチック戦では先発し、毎回の奪三振を取り7回1死まで1人の走者も許さない完ぺきな投球を見せた。私が言うのはおこがましいが、彼の大柄な体型にしてはコンパクトなスイングや鋭く変化する球質による二刀流は今のところ良い結果が出ている感じがする。いずれも筋力に無理のない自然体というのがピッタリするような体の使い方をしている。今、見事に二刀流が花咲いているのを見るのはとても私は嬉しかった。というのも、2013年に私は、このコラム欄に、「日本ハムの粘り強い説得に応えた大谷選手はエライ」(スライドショーⅢ)と書いた。当時、大谷翔平選手は岩手県花巻東高校で投手として高校最速の160㎞/hというとてもないスピードを出して注目を浴びていた。その年の10月、日本プロ野球ドラフト会議を前にして彼は大リーガに挑戦する意向を当然のように示していた。それを承知で日本ハムは、ドラフト1位に指名して粘り強く交渉をし続けたことをご存じだろうか。栗山秀樹監督やゼネラルマネージャーの山田正雄氏が日本プロ野球でプレーを経験してから大リーガを選んでも遅くはない、と多くの資料を提示しながら根気よく訴えていたのを私は感心しながら見ていた。エラかったのは大谷選手である。彼はそれを聞き入れるだけの素直な心があった。最高の選択だと私は思った。回り道をしてもその方が本人の野球人生を考えたらプラスになると信じていた。1994年生れ、193㌢、91㌔、背番号17の日本選手としては大きな体が本場の球場で更に大きく見えたのは私だけだろうか。今後の活躍が益々期待される。が私が少し心配なのは、今現在のように軽やかにプレーしているうちはいいが、いざスランプに陥ったり体調不良などの理由でいいプレーが出来なくなった時に我を忘れ、若さに任せて外国人選手と力で対抗して張り合う気持が出てきたときが心配である。これまで日本の選手が大リーガ入りして当初の成績を残せなくなっている。多くの選手が徐々に下降していくのはそういった理由からではないだろうか。そんな時、私は思う。イチロー選手に学べ、である。プロ野球選手には色々なタイプの選手がいるが、イチロー選手は自然体を貫く努力の人である。その偉大なイチロー選手でさえ、自分の力を信じ日々”点滴石を穿つ”で練習に励んでいる。私はその姿を見て感動しながら楽しく動画観戦をしている1人だが、同様に米国の観客はイチロー選手の他の選手からは味わうことができない華麗なプレーを見たさに球場に通ってくるのである。まずは大谷選手に拍手喝采しよう。(4月11日)


町長選に一考
一時官僚主義の政治から政府主導の政治にしなければならないという気運が高まった時期があった。そして時の政権はそれを目指して政治を行ったが効果のほどは明らかではなかった、と私は感じた。それを明らかにしたのは現政権の安倍内閣である。政権が発足してからまもなく官僚といわれる各省庁の主たる人事を内閣人事局を創設して一括して行うようになった。これは私たち国民の多くが国の行政をお願いした国会議員の方々が私たちに替わって行うのだから異論はないはずだった。が、しかし一部の世論は任せたはずの政府与党というより安倍内閣を今袋叩きにしている。特に、識者と言われる人が政治の力で行政がゆがめられていると声だかに叫ぶものだから、そうかもしれないきっとそうだと同調する人が現れた。しかも、その多くは団塊の世代から上の人たちだという。聞き捨てられないと思いながら私が納得したのはマスコミのせいかも知れないと思ったからである。事実を報道すればいいのに私見を入れることで真実が歪められてしまう。更には安倍1強という言葉まで作ってしまった。益々国民は不信感を抱いてしまう。私からしたら、現政権ほど国内外を俯瞰してこれまで最も安定した政権ではないかと思っている。経済、外交では私がこの年齢まで経験した政権の中で最も良い政権である。今私の住む町では町長選を控えているが地方自自体でも同じである。事務方が政治に寄り添って政策を実行するのは当然のことである。その中で、政策に結果を出すには事務方が時には首長や議員に忖度するのは仕方がない。それが町民の為になる行政ならばである。22日(日)投票日の町長選挙には、大宅宗吉氏(現)、湯田芳博氏(元)、湯田文則氏(新)の3人の立候補者が予定されているが、どの候補に決まるか分からない。特に今回は拮抗していると言われる。でも、いずれの人に決まっても私は期待したいが、それよりも何よりも、この機会に事務方の気持の刷新をぜひお願いしたいのである。やろうと思えばできることをぜひやってもらいたいのである。私は昨年70歳から適応になる町内温泉に使える無料券をもらった。もらえることは回覧板からではなくある人から聞いて知って役場に出向いた。この事を知らない人がけっこういる。知らない人に責任はあるか? 私はそうは思わない。町の事務方が70歳になる人を調べるのはパソコンのキーを叩けば瞬時である。その人に無料サービス券を封筒に入れて郵送してあげたらどんなに喜んでもらえるかわからない。制度そのものよりもいかに利用してもらうかが重要である。ちょっとした心遣いが嬉しい。こんなことでこの町に住んでいてよかった思うのだ。(4月5日)


お花畑が見える
あれ程あった雪がようやく姿を消した。昨日、福島市ではこれまでに最も早い桜の開花宣言があった。しかし、ここは春だとはいってもまだ春浅し、草花を見るのはもう少し先になる。この頃YouTubeを見る時間が多いのはそのせいかもしれない。そして、YouTubeでは今世界の情勢がめまぐるしく動いていることを知った。その第1は、国境を越え北朝鮮の金正恩主席が列車で北京を訪問し習近平国家主席と初めて会った。2人の表情が対照的だったのには驚いた。習氏はいつもの様にやや恥ずかしそうな趣の中に穏やかな顔を見せていたが、対して金氏は、これまで映像で見ていた顔とは全く別なこれまで見たこともないような人懐っこい顔になっていた。その顔は一時話題になった大相撲の暴力事件に端を発して渦中の人となった貴乃花親方のこわばっていた顔が、今度は自分の部屋から暴力事件が起こった途端、急に険が取れた穏やかな顔になったのとよく似ていると思った。それから、これもつい先日、米国で懸案の「台湾旅行法」の法案が成立したかと思ったらすぐに、高官らの台湾訪問が活発化し始まったという経緯がある。法案が持ち上がった時から中国は強い警戒心を抱いていたから、中国からしたら「一つの中国」という原則を踏みにじられたと思ったに違いない。早速、23日に中国海軍が空母と数十隻の艦船が台湾海峡を通って南シナ海に集結して大規模な軍事演習を行うと報道した。米国に対する軍事力の誇示という対抗措置を取ったことになる。かと思うと、英国ではロシアが関与したとする亡命者の命に係る事件に対してロシア大使館員の大量追放という事態が起きている。これは英国だけでなく米国など、20ヶ国以上の西側諸国及びNATOによって100人以上のロシアの外交官が追放になりそうだという報道。現在ロシアは孤立している。日本は今のところ西欧側のこういった行動に同調していないが、日本とロシアの独自の関係を構築しようとしている日本の姿には、今世界の事態がまさに混沌として予断を許さない状況下にあって、そうでなければいいが私は何か危うい気がするのである。なのに、相も変らぬお花畑の日本は、国会で連日森友学園文書改ざん問題に明け暮れている。内閣もしくは安倍首相や夫人が関与したから改ざんしたに違いないという結果ありきの野党。野党議員の中には世界の現状を懸念している人がいるかもしれないが皆同じように見える。そういう中、少なくても与党の議員には世界の動きを日夜、特に安全保障に関わる部署では海保・自衛隊隊員と共に緊張を余儀なくされているだろう。私はYouTubeを眺めながら、いつの間にか、これまでの様なことを思い描いている。(3月30日)


なおみの活躍に拍手
私は今だにテニスのルールを全く知らない。テニスの初めての経験と言えば半世紀前になる。前にもこのコラムで書いた記憶があるが、大学の4年になって卒業論文を書くために1年間麻布龍土町(現六本木七丁目)にあった東京大学生産技術研究所にお世話になったことがある。その折、昼休み時間を利用して、職員の方に手ほどきを受けたのが最初だったが、ボールがあまりに速くてラリーにならなかった。それから帰郷後まもなくして友人の渡部優くんと町内の枇杷影公園で再びラケットを握ったが長くは続かなかった。テニスはそれ以来であるが先頃、女子プロテニス選手の大坂なおみ(20=日清食品)を知った。弾むようなボデーが前後左右に流れるように動く。レシーブは強力で、右腕から返球される様はまるで矢で射るように正確である。アメリカ人の父と日本人の母のハーフで、姉まりもも同じプロテニスプレーヤーだという。21日の4大大会に次ぐマイアミ・オープンシングルス1回戦では世界ランク22位の大坂なおみは元世界ランク1位のS・ウイリアムズ(アメリカ)を6-3、6-2のストレートで破り、3年連続の初戦突破を果たしたが、ずっと憧れもっとも対戦を望んでいた元女王セリーナに勝ったのだから感激しただろう。18日には、BNPパリバ・オープンでは女子シングル決勝では同19位のダリア・カサキナ(20=ロシア)と対戦して下しツアー初優勝を決めている。私がプロテニスをこんなに楽しく観戦できたのは珍しい。彼女はまだハタチである。にもかかわらず今大会で見せた元世界ランキング1位の選手に勝ったプレーに私は驚愕した。私は彼女のプレーを見るのは初めてだったが、まるで落ち着いていてベテラン選手のように安定感を感じるものだった。普通ボールを打つ瞬間というのは身体が一旦止まるようになるものだが彼女にはそれが無い。解説者の話を聞いていたら、彼女は他の選手と違ってボールを打つ瞬間の構えで”ためる”という動作をしないでそれより前に強打するので途切れない流れるようなプレーになるのだという。成程と私は思った。又彼女のサーブは時速200㎞を超えるというから対戦相手は気が抜けないだろう。それでいて彼女はあくまで落ち着いている。心憎いほど落ち着いているのは威圧であり彼女の自信の表れか。ちなみに4大大会というのは、全豪オープン(賞金3.5億円)、全仏オープン(2.6億円)、ウインブルドン選手権・全英オープン(3.2億円)、全米オープン(4.14億円)である。それはそうと、大坂なおみさんは、私と同じ、男子フィギュアスケートの羽生結弦選手のファンだというのを聞いて嬉しくなった。(3月23日)


ならぬことはならぬものです
このところの国会は森友学園文書改ざんうんぬんで官を表に与野党の白熱した論戦が続いている。真相はまだ明らかではないが官のタガが緩んでいるという観がしてならない。そんな中思い出すのは第二次大戦中の2人の日本人である。1人の杉原千畝氏(1900~1986)はナチス迫害から逃れてきたユダヤ人を政府の命令に反して日本通過ビザを発給した。ユダヤ人の命を救うか命令に従うべきか大いに悩んだ末の決断だった。その後命のバトンはいろいろな人たちによって繋がれていったことは近年になって分かった。しかし、彼は帰国後まもなく外務省から突然依願免官を求められて苦労は報われなかった。が、1985年イスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で「ヤド・バシェム賞」を受賞されて、ようやく日本政府も腰を上げた。もう1人、同県(岩瀬郡仁井田村/現須賀川市)人の陸軍中将根本博氏(1891~1966)である。門田隆将著『この命、義に捧ぐ』やYoutube『台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』に詳しいが、終戦時に内モンゴルに駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお進攻を止めないソビエト軍の攻撃に対して武装解除をしないで反撃し張家口付近にいた在留邦人40,000人及び軍人数十万人を帰国させた。一方、満州にいた関東軍は軍紀に基づく行動をした為に無抵抗の状態でソビエト兵による惨劇は悲惨だった。更にシベリア抑留を語れば枚挙にいとまがない。国府(中華民国)軍は日本人の帰還を追撃するどころか黙認したとさえ言われる。根本はこの恩を忘れなかった。まもなくその機会がやって来て、1949年中華民国の統治下にあった台湾へ渡った。台湾総督(第7代)だった明石元二郎の長男元長氏からの援助のもとに昭和24年、”釣りに出かける”という言葉を残して通訳の吉村是ニ氏と2人で九州延岡市から台湾に密航した。小舟での航海は想像を絶するものだったという。ようやく蒋介石総統に再会した。それから中国名林保源として海南島に赴き国府軍の指揮をとり老巧な作戦が功を奏して中共軍を退却させた。長年台湾当局はこのことをひた隠しにしていたが隠しきれず、ついに2009年10月戦没者追悼式に明石元紀氏(76)と吉村勝行氏(76)が招待され戦没者への祈りをささげる老兵たちの最前列に立った。やがて参列者の誰もが思ってもみなかった馬英九総統がやって来た。そして2人に日本語で”ようこそ台湾に”と言って自ら握手を求めたという。2人の父の苦労が実を結んだ瞬間だった。杉原千畝氏と根本博氏の2人のこの勇気ある行動は今も私たち日本人の誇りである。(3月16日)


棒に当たる
私はというよりわが家は真言宗豊山派に属する薬師寺の一檀家である。町中本町にある薬師寺は、寺伝によれば安貞2年(1228年)頃の建立だという。木造阿弥陀如来坐像と木造薬師如来立像は鎌倉時代末期の像と言われ、又寺は古くは現在の地ではない古寺という場所にあったとされている。現在の住職は白鳳栄海さんで、実際は息子の栄興さんが主に活動しているやに思うが、先日、その栄興さんがお見えになって今年の檀家当番を仰せつかった。薬師寺護持という言葉があるがこの場合の仕事は大したことはない。具体的には、私が住む付近の10軒余りの檀家さんに寺からの使いを取り次ぐことである。檀家当番はほぼ10年に1度巡って来る。今回は時節柄定期総会をお知らせすることだった。一見すると通知だから事務係がハガキか何かでお知らせすれば事足りるのにと安易に思ったりもするが、実は私にとっては、1軒1軒回ることによる収穫は意外に多いのである。廻る家の場所は大抵分かるが1,2軒は忘れている。そういう場合、ご近所に尋ねることになるが、山内写真館に立ち寄ったのもそんな理由からだった。目的の家はすぐに分かった。そう言えば何年か前に家族全員で写真を撮ってもらったことがあった。いつかは写真屋さんに行って普段着ではないきちんとした格好で撮ったものを残しておきたいと随分前から私が考えていたことが叶ったのだった。父はまだかくしゃくとしていた。プロの撮った写真はデジカメ写真とは全く違った重厚で立派なものだった。そんなことを思い出しながら店主の敏光くんと話をしていたが、彼は町の写真屋さんという親しみやすい穏やかな顔をしている反面、”美”を追求する厳しい眼を持った写真家という一面がある。話をしていて楽しかった。次に伺ったのはフジ電化サービスさんというより皆川さんと言った方がいいかもしれない。ずいぶん長いお付き合いをしていただいている。店仕舞いをしてから何年経つだろう。それにしても自宅がどこなのか分からなかったのも迂闊だった。前区長の室井昭二くんに聞いて田島小学校のすぐ隣だというのを知った。伺うと奥さんの満智子さんが外に出て来て応対してくれた。誠に日当たりの良い家。家の中から旦那の徹二さんの声がする。多趣味なご夫婦だから一緒になって話でもしたら際限がない。しばらくぶりでという言葉の先は控えてと思ったかどうか、ちょうど正午の時間というのもあって私は、1枚の定期総会のお知らせを手渡しすると踵を返して車に戻った。寺の事務係が手際よく郵便で檀家にお知らせしていたのでは人と会う機会は生まれて来ない。難解なれば悦びもまた多しという言葉があるように、手間がかかると敬遠しては得られるものも無くしてしまう。私の干支は丙戌である。(3月9日)


叩くのが一番
殴るのは良くないが叩くのは良しとするのはよく聞く話。殴るのは握りこぶしで横ざまに力を込めてというどこか投げやりなところを感じるので、私はその通りだと思う。孫を持つようになってそれを強く感じる。子どもは4歳くらいになると口(言葉)は達者だしこちらの言うことは理解しているように見える。ところが私の見るところではそれは勘違いというもの。万物の霊長などと思い上がりがゆえの思い違いである。子どもが悪事を働いたのを正そうと口酸っぱくなるほど言っても少しも改善されない場合は、叩くのが一番。私は孫がテレビのすぐ前に行って仕様がないのを尻を一発叩いてから襟首をつかんで力づくで吊り上げて後ずさりさせた。それからというもの、テレビ画面に近づくのは少なくなったと感じるが、それは私の姿が見えている間だけかもしれない。二親は相変わらずオウムのように叱咤を繰り返している。習慣を変えるのは難しいし、小さな子どもはまだ野生の動物に近い。こちらが思うほど物事に対して理解する能力はない。歩きながら食べるとか器から直に手で食べた時など諭しても無駄。身体を持ち上げて椅子に座らせたり、ちょっと手首を指ではじいてやったりして、犬や猫のように身体で覚えさせるしかないと私は思っている。叩くと言えば、すぐに思い出されるのは、昭和40年代頃までの高度成長期に大量生産された特にラジオやテレビなどの電気製品は1つの機能を果たすのにまだ部品と部品を繋いでいたので故障が多かった。そんな時、手で叩いてやると、どこでどう繋がったのか聞こえるようになったり見えるようになった。誰もが経験したはずである。女性でもそんなことは知っていた時代だった。又こんなことも思い出される。自動車事故で外観に亀裂やへこみが生じた時、現在のようにその箇所の部品交換ではなく多くは叩いて元に戻した。鉄は叩くと薄く延びるがそこはプロの鈑金技士、叩いてはバーナーで炙り又叩くというのを繰り返した。やはり叩いた。先日、いつも贔屓にしているYoutubeで、”小沢昭一の小沢昭一的こころ”を聞いていたら、何というテーマだったかそこで、小沢さん宅でテレビが映らなくなった。昔を思い出してテレビを叩いてみたという。直ると思ったが直らない。叩き方が悪いのかと思った小沢さん、そこで思い出したのは器用で知られる友人の宮坂さん。あの人だったらと頼んでみた。しかしいくら叩いてもテレビは直らないどころか、友人は手首を押さえて帰って行ったという。現在のテレビは昔のように接合部分に問題が生じることは皆無である。結局、テレビを買い替えることになった。現代人ならまさか? と思うような叩けば直った時代を懐かしむ私。こんな話がまだ生きているのかと思ったらおかしいやら嬉しいやら。(2月28日)


眠(ねむり)聡太
17日、15歳の棋士藤井聡太五段は、羽生善治(47)二冠と広瀬章人(31)八段の2人を連破してトーナメント戦で初優勝した中学生として初の六段になり、60年以上更新されていなかった棋戦の優勝と六段昇格の最年少記録を塗り替えた。私は、駒の並べ方やそれぞれの駒の動きは知っているくらいで、実際には将棋を指したことは全くなかった訳ではないと思うが記憶にはなく、それが今、これほど夢中になっているのは藤井少年の出現のおかげである。藤井棋士が昨年はデビュー戦から29連勝という金字塔を掲げ多くの国民を驚かせた。今回私は生れて初めて将棋を始めから終わりまで観戦した。自分でも驚く行動だった。パソコンで見れるabema.tv(アベマテレビ)という便利なものがあったからだ。今回の棋戦は正式には『朝日杯将棋オープン』というもので、準決勝で羽生善治二冠と対局して勝ち、同じく準決勝から勝ち上がって来た広瀬章人八段との決勝戦で勝利した。この日は有料席で多くの観客が観戦する中で、普段は正座しての対局が椅子に変っての対局となった。午後2時半に始まり持ち時間40分、それからは秒読みとなり午後4時半ごろに広瀬章人八段の投了となった。随時別の画面を通して両者が打つ駒に対して解説者から丁寧な説明があった。結果を見ると将棋オンチの私でさえ意味がわかったのだから将棋ファンにとっては考える鍛錬になったはずである。私は117手で投了した理由は分からなかったし、それどころか、その解説も懇切ではあったが何せ早すぎて理解ができなかった。しかし、将棋の醍醐味に触れたという感触はあった。勝負の後で、師匠の杉本昌隆七段の言った言葉が印象的だった。「…どれだけ結果を残しても15歳の藤井六段ははまだまだ学ぶべき立場。それは全く変わりありません。今後もより一層の精進を望みます」と。棋士でいる以上、いつも修行の身であるということを忘れないで欲しいということだろう。以前から杉本氏は藤井少年に対して本当に温かい目で見ているのを感じていたが、現在の藤井六段があるのは師匠杉本昌隆七段があるからこそというのが私にはよく分かる。対局で、藤井六段はやや前屈みになって盤上を見つめ、時には扇子を手に半開きの目を相手に向ける姿はニヒルで底知れぬ強さを感じさせる。その姿を見ていて、私の好きだった柴田錬三郎の小説から登場した映画、市川雷蔵主演の『眠狂四郎』を思い出した。狂四郎は賊に対峙した時、円月殺法という剣法で相手を倒した。心穏やかに眠るが如く目を閉じて相手を誘うように剣を真下から上段に向かって弧を描く。相手が待ちきれず打ち込んできた一瞬のスキをねらって相手を切る。映画では見事に勝負が決するが、今回の藤井六段は、この時ぞという場面から転じて一気に攻め込んだという感じがしたが、それまでの彼の対局の姿は眠狂四郎の姿と重なった。(2月23日)


氷上の陰陽師
テレビを見ない私がこれだけはぜひ見たいと思ってテレビの前に坐った。それは平昌オリンピックフィギュアスケート男子の羽生結弦(23)選手の滑りである。これだけはどうしても見たい。思い出すのは何年か前の、もしかしたら4年前のソチオリンピックだったかもしれない。あの時の滑りは忘れようにも忘れられない見る側を恍惚とさせる魔術師のような滑りだった。3回転や4回転の完成度がどうのこうのというよりも氷上での動きは、まるで氷上という危なっかしい条件下ではない広々とした野原で舞い踊っている感覚にさせられ、不安感を全く感じさせない穏やかで快いものだった。今回のオリンピックでも、2ケ月間も氷から離れていたというハンデがあったにもかかわらず、2日連続で行われていたショートとフリー・プログラムではいずれも他の選手の追従を許さない圧倒的に安定した滑りを見せてくれた。私が注目していたのはスペインのハビエル・フェルナンデス(26)選手。威風堂々としてなおコミカルな演技は高度な技を駆使したに違いないしとても楽しく見ていたが、結局羽生選手には及ばなかった。おそらく審判員の人たちも羽生選手の演技には心ならずも魅了されていたに違いない。ショート・プログラムではショパンの第1番ト短調を演技曲とした。翌日のフリー・プログラムでは映画『陰陽師』SEIMEIのBGMを編曲したものを使ったという。いずれも私は初めて聞く曲だった。がフリーでの曲は積極的に何かを推し進める力強さを感じる曲で、正にオリンピック2連覇をめざす格好の曲だったに違いない。そして、それに合わせて和風の衣装にすることで更に外国人には幻想的な印象をもたらし技術的な限界を飛躍するような役目を果たしていた。演技中に羽生選手は1度だけバランスを崩した場面があった。私はあの一瞬こそが観衆から緊張感をほぐし新たな気持で演技を見るゆとりを与えたと思うし、選手はそれがあったからこそその後の演技に一層の磨きがかかったとも考えられる。私は彼の華麗なLiveの演技を見てから更に3回見た。何度見ても見飽きることのない妖艶さと相反するような清涼感と流れるような演技。いつの日か再び目にしたいと思っている。世界1にはなれなかったけれども銀メダルを獲得した宇野昌磨(うのしょうま/20)選手の演技は見事だった。多彩な技を上手くこなした点では羽生選手以上だったと私は思った。(2月19日)


寂しくなる町中
町の形態が次々に変って来ている。世代交代というのなら仕方がないというか自然の成り行きというものだが、お店の店仕舞いとなると寂しさと懐かしさがじわっと脳裏を駆け巡る。作詞吉田旺作曲船村徹の『赤とんぼ』という歌があった。新宿駅の侘しい裏町通りで小さなお店を営むママが店を閉めて故郷へ帰るという。それまで贔屓にしてくれたお客に別れの言葉を呟く。多くの歌手が歌っているがちあきなおみが歌う赤とんぼがひときは哀愁を感じるが、馴染みの客1人1人に語り掛けるように歌っている。店を閉めるというのはそういうものだ。昨年、私の住む上中町で1人で頑張って店を切り盛りしていた『大津屋』のおばさん室井和子さんが高齢のためついに店を閉めた。文房具店として戦前からあったと私の伯母の夫の弟渡部知美さんが「一病息災」という手記に書いている。私の知っている大津屋さんは小間物を扱う雑貨店としての印象が強い。近年ではブレザーの金ボタンを幾つか買いに行った。あれが最後の買い物になった。それから、杉原クリーニング店も店仕舞いすることを親の代から受け継いできた息子の杉原義雄くんが地区の会議の席上で明らかにした。洗濯物はほとんど自宅で済ませている私はそれほど利用していたわけではないが、私が町の中心に出るには必ず通らなければいけない道にあることや夕刻に仕事帰りに店に出入りする若者がいなくなって人通りが無くなって寂しくなっていた。たまに店先で会ったりすると笑顔で話しかけてくれた彼の顔が印象的だった。1月28日、地区の総会があった。この席でも食事処『ホームラン』の伊藤隆くんから現在店を営業していないことを知ったが、すでに2年前からそうだと聞いて驚いてしまった。町中のそれほど遠くない場所に居て全く知らなかったというのも迂闊だった。ホームランと言えば、私がまだ小学生で隆くんのお父さんがまだ元気だった頃、その頃はどこの家庭でも外で食事をするというのはそれこそ稀で、昆布とかつお節のダシの利いた支那竹と鳴門が載ったいわゆる<支那そば>という名がぴったりするようなラーメンだった。残してはいけないと最後の一滴まで汁を飲んだが、とにかく旨かった。正月やお祭りには小遣いをもらって初めて自由に買い物ができたのである。友達数人と露店を廻って駄菓子を買ってそれから映画館に入った。それで200円の小遣いが無くなったが、とても楽しかったのを覚えている。そういえば、隆くんはすでに還暦を過ぎている。(2月14日)


一杯の甘酒
時間があったら温泉に行く、この時期ならではの私の発想である。昨年のこの時期までは四季折々の自然の姿を心いくまで堪能しながら散歩をしていた。城山、弁天山、阿賀川、熊野神社付近、御蔵入交流館付近、丹藤の神社付近といずれも町中では自慢の歴史を感じる景観の良い場所である。何と言っても毎日が日曜日というのは変わらない私だが、足腰が痛くなってからは殆ど歩いていない。最近、私の姿を見かけなくなったという人がいることを聞いたが無理もない。そいう訳で私の生活のパターンは変わってしまった。家にいる時間が長くなると、考えることは、これまで以上に外に出て心気一転したいと思うようになる。それが”温泉に行く”につながるのは元々好きなのだから自然の成り行きだろう。しかも、温泉は年金生活者にとって金銭的な負担が少ないので有難い。友人の大橋清隆くんがとても気に入ってくれた新鶴温泉『ほっとぴあ新鶴』へ再び行くことになった。前回は若松市経由で私の同級生の鈴木英雄くんが経営する店『大門』に寄って昼食を取ったが今回は温泉に行く途中で取ることにしたのは、寄りたかった店があったからで、その店は美里町の伊佐須美神社のうっそうとした社叢が広がる境内の一角にあったーはずである。店の名前は忘れてしまったが、店主の趣味が、ケナフと呼ばれるアオイ科の植物の繊維を使って紙作りをしているのが面白くて何度か食事をしに行ったことがあった。積もるほどではないが雪が静かに降っていた。境内を南北に貫く車がやっと1台通れるほどの道を進んだが目的の店は見つからなかった。確かにこの辺りだったはずと思いながらノロノロ走っていると、前方右手に小さな灯りが見えた。よく見ると2×3間ほどの小さな木造家屋がある。ぼっーと灯りを発していたのは白い半透明のビニールで覆った部分からでお客さんを迎えるスペースらしい。まるでその様子は、作家池波正太郎の、鬼平犯科帳か剣客商売か仕掛人・藤枝梅安などの時代劇で、橋の袂にそっと佇む屋台のある情景である。頭に手拭いを巻き前掛けをしたやや前屈みの50がらみの男の姿…ところが、ここでは私たちより若いおばさんが店番をしていた。入口に甘酒という二文字が目に入った。店内は湯気で温かかった。400円を払って2つのカップに入れてもらった。伊佐須美神社境内というシチュエーションがいい。格好の場所である。厳冬のこういう時期でも参拝客をもてなそうとする気持が何とも嬉しい。もうすぐ春、きっと大勢の人々が近郷近在から訪れるにちがいない。車に戻って大橋くんに渡してから私もひと口飲んだら、ほのかに甘い香りに包まれて美味かった。ふと、わが町の鴫山城の石垣のある大門辺りにこんな粋な店があったら…訪れた人はきっと驚くに違いないし、帰ってからも時々思い出しては懐かしみ又口伝えしてくれるに違いなく城山ファンは確実に増えると思った。新鶴温泉の雰囲気は今回も良かった。かけ流しされる贅沢さに心満たされ、ひどく感心したのは、広くて暖かい休憩所には炬燵が3つもあった。昼食は白米がうまいカレーを食べた。それから、2人で打ち合わせでもしていたかのようにゴロっと横になった。(2月5日)


平昌オリンピック
いよいよ2月9日から第23回冬季オリンピック・パラリンピック大会が始まる。隣国の開催でこれまでのどのオリンピックよりも盛大のはずが私の中ではそれが感じられない。一体どうしてだろうと考えてみた。理由はいろいろ考えられるが、第一は、やはり新聞を取っていないテレビはほとんど見ない、などでオリンピック情報が極端に少ないところからくるものだろう。102種もある競技はおろかこの場に及んで代表選手の名前が浮かんでこないというありさまである。パラリンピックに於いては尚更である。それじゃ、私の周りの人はと言えば、若い人がいないというばかりではない、私自身がオリンピックを話題にしないこともあるが、あちらから話をする人は皆無である。もっぱら日々の生活の中で起きた身近な話が中心になる。私がよく行く旧郡役所やまちなか休憩所でも、雪片づけが大変だとか、どこどこの人が亡くなったらしいとか目の前のたわいのない話をしていて、話のついでにでもオリンピックの”オ”も出てこないのはいかにも情ないことだが、私が抱くオリンピックに関する思いは、オリンピック競技それよりも地政学的に朝鮮半島というきな臭い場所での開催に憂いを感じていることだ。これまでと違って各国首脳の出席が少ない点や北朝鮮がここに来て図々しくも南に接近して共同チームを結成して統一朝鮮の主導権を握ろうとしている姿が見え見えなこと。北のしたたかさ。一方、北の意のままにはさせまいとする南の狡猾な駆け引きとがオリンピックに漂う暗雲に私は一抹の不安を感じる。安倍晋三首相は出席をしないのではないかと思われていた。しかし、野党が言う政治とオリンピックは違うという詭弁に考慮した訳ではないと思うが、結果的には出席することになった。それでも出席しない方が良いのではないかという知識人はいる。2015年の日韓合意を強く推し進めるためとか日本選手団を励ますために出席するようになったのではないかという推測はされるが決めた首相の真意は分からない。私は首相の出席は反対である。現在の韓国の社会情勢はあまりにも悪すぎる。お上のやることを信用していない。秩序というものを信用していない。こんな混沌とした国では何が起こるか分からない。副総理か外務大臣が出席するという代替え案もあるが…。今回のオリンピック、2月25日までの17日間、スポーツの祭典として技の向上と世界の国々の友好に貢献することを期待することに変わりはない。(1月31日)


寒中お見舞い
ハガキを手にした時、いくぶん背筋がすっと伸びた。懐かしかった。何と丁寧なことと思いながらもすぐに誰からだか分かった。ハガキの表上半分には私の名前、下半分には横書きで家族の近況が書かれているいつものパターンである。裏には奥さんの仁美江さんと一緒にスキーをする姿がある。おそらく猪苗代のどこかのスキー場だろう。わが愛する室蘭生れの鈴木康夫氏からである。この人とはずいぶん長い間親しくしてもらっている。彼の仕事の都合でこの田島に住んでいた数年間はよく遊んだ。現在の茨城県の住居になってからは1、2度しか会っていないが、こちらではまだ独身だった。故川井幸一良さんという共通の先輩が経営していた喫茶店『舎炉夢』を舞台にした楽しい思い出の日々があった。週に1回は会って珈琲を飲みながらいかにも上品な話をしていた気がする。岩手県を旅して運よく花巻温泉の一流ホテルに宿泊したり、磐梯山登山を試みたり、裏磐梯を散策したりしてとにかく面白かった。鈴木氏は私と同じ年だが私は彼から多くを学んだ。だから、この紙面で彼をくん呼ばりするのは恐れ多い。一つは、楽しむとはどういうことかがあるが、彼は一言で高潔な人柄である。上品なユーモアセンスがある。えばる訳でもないし押しつけがましいこともなく、それでいてファッショナブルなのである。加えて、英語ば堪能で、ゴルフやスキーの腕前も並ではなかったと川井さんから聞いていた。ある時、裏磐梯の五色沼の周囲を歩いていた。あちらから来る外国の人に言葉を掛けてみてよと私が無理を言うと、急な問いかけに素直に応じた彼は、自然な口調で二言三言の話をしたのを聞いて、私は一層、これは違う! と思ったのは昨日のことのようだ。いい人見つかったという知らせを受けたのは田島を離れてからそれほど経っていない頃だった。相手の女性は20代だという。彼は40歳は過ぎていたから周囲の人(当時の仲間は全員独身だった)が羨むのも当然だった。まもなく結婚式の招待状が届き、こちらから川井さん始め5人が出席したが、披露宴会場は三春町(現在田村市)の『若松屋』という旅館だった。当時のことはもう覚えていない。が、鈴木氏の縁者で、その頃「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の決めの台詞で一世を風靡した浪越徳治郎(指圧療法創始者)という方がお見えになっていてそちらの方にも人だかりがしていたのが記憶に残っている。以来、鈴木氏とは年1回の年賀と何かがあると電話で話したりしているが、相変わらない朗らかで明るい声にいつも私は元気づけられる。その度に、人の出会いは一期一会だとつくづく思う。今春には長男康仁くんが結婚を、つづいて次男の貴仁くんも予定されているという。おめでとうございます。私も足腰の苦痛が完治しないまでも緩和したら彼との中間地点あたりでゴルフのご教授を願いたいと思っている。(1月24日)


阿賀川慕情
大河の一滴ここより生じるという一文は荒海山(1581㍍)の頂上にあった石碑に書かれていた。荒海山を源とする新潟市を流れる阿賀野川が縁で、しばらく、亀田町(現在は新潟市江南区)の方々との交流があった。合同で荒海山を上ったり阿賀野川河口を遊覧したりした。私は、随分昔のことで記憶が定かではないが、初めからその企画に携わっていた訳ではないと思う。おそらく友人に誘われるまま興味本位で参加したに違いない。現在は当時の状況がそのまま続いているかどうかは分からないが、もし続いていれば結構なことだしそうでなければ惜しい気がする。又、どうして思い出したのかと言えば、この時期になると、私は決まって、町の北側を流れる大川(阿賀川)に沿った道から雪景色を見るのが好きでしばしば出かける。雪原にひと筆入ったシンプルな光景はまるで墨絵のような趣がある。ここでは冬の厳しさは感じられない。それは白いパノラマの下には春の使者が隠れている。それは誰もが手に出来る希望という期待感だ。贅沢を言えば、この風景を暖かい部屋からしかも大きなガラス窓越に眺めることができたらどんなにか幸せだろうと考える。音楽は要らない。テーブルの上に珈琲と1冊の美術誌でもあればそれだけでいい。ところが、もしかしたらそんな心持に成れるかもしれないと思ったことがある。東北電力で発行していた情報誌『白い国の詩』(東北地方の文化、絵画、風景、工芸、芸能などを紹介)というのがあったー東日本大震災以降発行していないー。その中に、山形県村山市の真下慶治氏(ましも けいじ)という方の描いた冬の最上川を見た。今も忘れないが身体が身震いするほど興奮したのを覚えている。幸い、記念美術館があるというので、冬期間は閉鎖されている喜多方市と米沢市を結ぶ県境の大峠が開けたのを機に村山市大淀に出かけた。その通りになった。訪れて本当に良かったと私は思った。記念館の中央に展示された最上川を描いた6、7枚の大きな絵を見た時、私は期待を遥かに越える感動があった。ひときは水の色に心を奪われ、淀みや浅瀬や落ち込みなど変化する流れの絶妙な色彩に驚愕しながら、私は立ちすくんでしまった。今もその時の感動が心のひだ深く残っている。今、記念美術館の館内から眺めた冬の最上川の光景と阿賀川とがオーバーラップしている。ああ、雪国に生まれて本当に良かったと思う。(1月18日)


三匹の侍
毎日が日曜日の私にとって話し相手になってもらえる人がいるというのは大変ありがたい。いずれも男性だがすぐにでも会える距離にいる2人がいる。生まれた環境がまるで違うのに同世代ということで昔懐かしい話もできるのがいい。ついでに体型もほぼ同じ。振り返れば30年以上も前から知っていることになる。ふたりの名前は室井均くんと平山忠吾くん。室井くんとは高校時代に汽車通だった間柄、一時不通の時期もあったがお互いに故郷に帰ってから再会した。室井くんと平山くんは、聞くところでは室井くんの親戚(倉村饅頭)に平山くんが出入りしていたらしい、それで知り合っている。先日の田村市での講演会に2人を連れ出したことでも分かるように、3人でいると何となく心が落ち着き安心できるのである。講演会といえば、ずっと以前に文藝春秋主催の講演会に何度か一緒に県外に出ている。講演会を聞きに行くというよりそれを目的の様にして実は付近の観光地を巡ったり食事をしたり、3人が一緒にいる時間を持つためというのが正しいのかもしれない。山形市での講演中だった。平山くんがいびきをかき始めたということがあったが講演を聞くのが目的ではないのが少しばかり見えてくる。松本サリン事件当日に駅近くのホテルに宿泊することがあって、まさか私たちに疑いがかかるのではないかと緊張したことがあったが、そんな時でも文殊の知恵が働いた。三竦(すく)みという言葉がある。なめくじは蛇を、蛇は蛙を、蛙はなめくじを食うとあるところから3者互に牽制し合っていずれも自由に行動できないことだが、牽制しながらうまくいっているところなど私たちは正にその通りなのである。長年付き合いでお互いに手の内を知っているというのも勿論あるが、それよりむしろ、元来”馬が合っている”というのがピッタリする。いずれも良識と見識が備わっているごく普通の人間である。つい1週間前にも平山くんの家(湯ノ上ホテル)で会った。室井くんから電話があり途中で弁当を買っての念の入りようである。3人の四方山話には水入りが何度もある。以前3人で出かけた時の思い出話。国内外情勢の意見交換。近隣町内会の面白可笑しな話。私の話はいつもお硬い話になってしまうが、さすがふたりは世間が広い。3人の中では押し出しの強い室井くんは時々女性にモテたりする。台湾の<高雄>で屋台の女性がまとわりついて難渋したことやバスに乗ろうとしたら、現地の女性がネクタイを買ってもらいたくて次々に本数を増やして執拗に勧められたことなど…。又、ひと頃、日本酒ブームがあった際、越乃寒梅、雪中梅、〆張鶴、久保田、菊水、八海山…など、特に雪中梅はわざわざ蔵元のある上越市まで何度か買いに行った。他の酒も一緒(抱き合わせ)じゃないと売らなかった。愛飲していない私や室井くんはそれでも夢中になった。その時でも道中は楽しかった。結局、平山くん家での話は5時過ぎまで続いた。私は2人に感謝している。この三角関係は鼎の如しである。(1月11日)


親バカ
身内の中でも特に自分の子供に対して自慢したいと思うことがある。人の親なら誰にでもある感情だと思うが、普通の人はそれを控えているし良識のある人ならきっと怪訝な顔をするに違いない。当世、子供は褒めながら育てるというのが常識らしい。しかし、私はあえて意識してそうしなかったフシがある。理由は明らかだった。私どもの親一人子一人という環境の中で、あの子は片親だから”仕方がない”というふうによそ様から見られることがイヤだったというのがあり、厳しい位が丁度いいと思っていたのである。この度、息子の姿を見て、私が息子をこれほど誇らしげに思ったことは初めてである。1月2日は寒かった。雪こそ降らなかったが手袋なしでは体まで冷えてしまうような日だった。42歳を迎える息子たちの厄払いの宮参りの後御蔵入交流館の駐車場で恒例のミカン巻きが行われるというので嫁(理子)と二人の孫(壮太郎・ちさと)と一緒に出かけた。息子が巳午会の会長になったというのを聞いたのは昨年12月に入ってからである。それから何回か役員会を催していたようだ。思い起こせば私も30数年前に同じような経験があり、その時のミカン巻きは役場前だったかもしれないが、引き続き男女揃って梅寿館(現在は閉館)で同級会をしたことがあった。月日の経つのは早いことを感じながら広場に向かうと、交流館の建物を背にウイング車が停車されて荷台にはミカン箱が所狭しと並んでいて、すでに準備が整っていた。そして、それを囲むように200人ほどの人が集まっていた。久しぶりに会う人が多かったが、ほとんどが家族や縁者に違いない。司会者渡部哲也くんから紹介されて息子の信也が挨拶した。時間にしたら2分かそこいらだったのではあるまいか。私は息子の挨拶を聞きながら予想していた以上に確かな話し方に感心してしまった。これが本当に私の息子か、そう思ったのも実に不思議なことで即座に信じられないというのが正直なところだった。ー最後に、この寒い中足を運んでいただきましてありがとうございましたというような話をして終った時、周囲のあちらこちらから惜しみない拍手があった。大したもんだ、上手だねという話し声が聞こえてきた。その声に私は触発されるように反応して嬉しくて胸が詰まりそうになりながら感極まって、それは私の息子だよと叫んで自慢したかった。そして、子を持つ親の醍醐味はこんなところにあるのだというのを知ったのである。幸せ感が波のように繰り返した。その度に、このような気持にしてくれた息子に祈るように感謝をした。ミカン巻きでは、その余韻が払しょくしないままただ他人の足元に目線を送りながら右往左往していたようだ。意気込んで臨んだミカン拾い、大きなビニール袋の中には2個のミカンが淋しげだった。(1月3日)