中華文明と日本中世


1 「世界初」を語ること
 香港歴史博物館の特別展図録に『天工開物―中国古代科技文物展(Heavenly Creation ― Gems of Ancient Chinese Invention』という書物がある。タイトルは、明末の学者・宋応星の著作『天工開物』からとったものだが、内容はいわゆる中国の科学技術史を扱ったものである。これには中国文と英文の解説が併記されているが、読み進めていると段々と苦痛になってくる。理由は簡単で、「これは中国が世界初」「これは中国が世界初」という記述が随所に見られるからである。特許の押し売りをされたようで、日本人的な謙譲の美徳とは隔たったものを感じるが、民族性ということ以外に、学問上の難点も多い。それは、@歴代王朝の版図を、現代の中華人民共和国のそれと意図的に同一視していること、A科学技術史における中国の役割を過大評価しており、他国・他地域からの影響を捨象していること。これに尽きる。現在の中国の領土から外れた部分での発明でも「中国のもの」と言われるのは釈然としないし、事実として他国・他地域で生まれたものもあるだろう。喩えは悪いが、先にあらゆる商標登録をしてしまい、他国の企業がその商標を使用すると、すぐ異議申し立てをする、という現在の中国のあり方と同根かも知れない。

2 中華文明の空恐ろしさ
 とは言うものの、実際に中華文明による歴代の発明は、日本のそれと比べて気が遠くなるほどのものである。日本中世の時期と比較して、いくつか例を挙げよう。@天文の分野では、北宋の時代に正確な星図が完成されており、そこに記録された恒星は1434個ある。それを可能にした水渾儀象台という機器は、およそプラネタリウムを思わせる天文観測機器であった。また、南宋代にはすでに、一年を365.245日とする計算がなされていた。A印刷技術では、北宋代に膠泥を使った活版印刷がなされ、元代には多色刷りの技法が生まれている。B火薬は中国三大発明の一つだが、調合の詳しい記述は晋の葛洪(284〜363)の『抱朴子』にまで遡る。元代には、金属の銃身から弾丸を発射する「突火槍」が生まれていた。さらに明代には、二段式のロケット砲まで発明されている。C船舶では、唐代に回転式櫓によって航行する船が現れている。また、明代の鄭和が用いた船は、全長が約150m、幅は約60mで、9本もの帆柱を備えていた。
 比較するのも愚かしいが、この他、磁器の製作と鋳鉄の技術は商代、方位磁針の利用、足踏み式の織機、馬車の利用は戦国時代、紙の製造は西漢時代にまで遡る。これらの技術の多くがようやく古墳時代、中国南方からの渡来人によって日本列島に伝えられたことは、周知の事実である。これらのうち、日本において生まれたものは皆無と言ってよい。

3 権力と知識・技術
 なぜ、古代中国において、世界最先端の技術が生まれるのか、というのは大きな問題である。一般的な解答としては、政治権力の強大さと戦乱の時代の長さが挙げられるかも知れない。ある民族の持つ知識・技術体系は、権力によって大きく規定される。王権は、知識人・技術者にとって最大のパトロンであり、また最大の憧憬の対象である。かつ、厳しい支配を行なう権力は、それだけ人民に対して、新たな知識体系や技術発展を誅求していく傾向がある。また長い戦乱状況は、「生存」という動機づけに促されて、知識・技術の淘汰を招きやすい。ここに、必然的に様々な競争が生じる。商や殷といった伝説的な古代帝国の存在が、しばしば先進的な技術を示す遺物の発掘によって証明されるのは、そうした事情によっている。知識体系で言えば、春秋戦国時代における「諸子百家」の簇生がそれに照応するだろう。翻って、日本列島の場合はどうだったのだろうか。

4 「縮勉」する日本文化
 確かに日本においても、最先端の輸入知識・技術は、第一に王権に帰属する。それは、大和朝廷の成立を示す古墳群の築造技術や、古墳内部から発掘される金属製品からも証明できる。しかし、それと合わせて、少し気になる問題がある。それは「もっと早く中国から輸入できたはずなのに、日本の場合、なぜそれが遥かに遅れてしまうのか」ということである。いくつか例を挙げると、俊乗房重源が周防佐波川流域で木材運搬に用いた轆轤(滑車・ウインチ)は、すでに中国の春秋時代、鉱石採掘の現場で使用されている(因みに、同時代には轆轤を使ったエレベーターまで発明されていた。基台に車を付け、城攻めに使用したらしい)。また、火薬はすでに鎌倉時代末期には知られていたはずだが、それを輸入・使用した形跡はない。同様に、様々な火器は室町時代には知られていたはずなのに、鉄砲と少数の大砲を除いて、日本での使用はほとんど知られていない。農業技術については、江戸時代の宮崎安貞『農業全書』が有名だが、これは王禎『農書』(1313年)、徐光啓『農政全書』(1620年)などから見ると、時代遅れでお笑い草の代物である。これは一体、どういうことなのだろうか。「輸入が必要なかった」ということなのだろうか。
 必要ない、と言うためには、先に挙げた問題が絡んでくる。つまり、日本における権力は強大ではなく、戦乱状況も深刻ではない、ということである。このことの証明は、比較史的な研究も必要となり難解であるが、いくつか思い当たる節もある。第一には、権力の世界観の問題である。日本中世は宗教の時代であり、呪術と技術が未分化な時代であったと言われる。正確に観測すれば、天文現象はかなりの程度予測できるはずなのに「暦に記されていない日蝕が起こった」と言って大騒ぎしているのが日本中世である。日蝕は「怪異」と認定され、神祇官と陰陽寮で占いがなされ、諸寺社で祈祷がなされる。呪術に囚われた王権にとって「それで十分だった」のである。これでは、知識・技術の淘汰が起こりづらい。第二に、戦乱状況の深刻さである。同時代の世界を見ても、1550年代までの日本列島の戦争は所詮「小競り合い」である。相手を完全に殲滅する、という発想がないから、最先端の知識・技術の輸入など思いもつかない。とすれば、織田信長の時代に転機が訪れたはずなのだが、結局、江戸時代はそれと逆行する動きとなったようにも思われる。

(苅米一志)
(2013/04/22、本会石神井公園研究センターHPに掲載。2014/02/11転載)






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