夏の風物詩 ― アユとウナギ


1 日本人と魚貝類
 ふだん生活していると気づかないことだが、日本人の人生の節目においては、伝統的に魚介類が大きな役割を果たしてきた。例えば、赤子には一定の期間(百日ほど)を過ぎると、「お食い初め」といって小魚を食べさせることがある。これを古代・中世においては「魚味(まな)」と呼んだ。あるいは、正月の「歯固め」という儀礼では、鰯などの固い魚を食べて、歯すなわち齢(よわい)を固める(延ばす)まじないとする。現代のおせち料理に「ごまめ」が入っているのは、その名残である。結婚に先立つ結納では、昆布と鯛一尾、および熨斗袋を贈答する。熨斗とは、鮑(あわび)を細長く紐状に削ったもので、かつては伊勢神宮における神への供え物であった。このように、生活の節目に魚介類が登場するということは、日本人がもともと漁撈民族であった可能性を示唆するものである。このことに敏感であったのが、今は亡き中世史家・網野善彦であった。

2 淡水魚への注目
網野が最初に手がけたのは、茨城県の霞ケ浦における漁業組織の研究であった。これには、彼が東京大学時代から水産庁の漁業資料の整理に関わっていたという事情がある。この頃、網野は渋沢敬三による「アチック・ミュージアム(屋根裏の博物館)」の経営にも深い共感を寄せていた。渋沢敬三は渋沢栄一の孫であり、終戦期には日本銀行の総裁および大蔵大臣をも務めた人物である。彼は特に漁業史研究において、『祭魚洞襍考』、『日本魚名集覧』、『日本魚名の研究』、『日本釣漁技術史小考』などの成果を残している。彼の援助を受けた民俗学者が、一方では宮本常一、一方では河岡武春であった。不幸にも、この両者は後の常民文化研究所(現・神奈川大学所管)においては不仲であったらしい。
 河岡は主として淡水漁業(河川や湖沼における漁業)に興味があり、これが網野善彦に大きな影響を与えている。河岡は、カンボジアのトンレサップ湖などにおける漁具が、琵琶湖の「魞(えり)」などと酷似していることから、東南アジアの低湿地に暮らす人々が日本に移住してきたのではないか、との構想を持っていた。網野善彦のその後の仕事を見れば、その影響は明らかであろう。例えば、琵琶湖の漁村・菅浦、宇治川の網代(ヤナ)漁業、桂川の鵜飼などの研究である(網野『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店、1984年)。琵琶湖の漁民は安曇族、大和吉野の鵜飼は阿陀族と言われ、実際にインドネシア系の海洋民の子孫であったらしい。網野には、短文ではあるがその研究の本質を表す「宇治川の網代」という論文がある(前掲著書)。ここでは、その内容を紹介しよう。

3 宇治川の網代村君と鱣請(鰻請)
 12世紀前期の古記録『永昌記』の裏文書には、宇治槙島に住んだ「網代村君」と、その近辺に住んだ「宇治鱣請(うなぎうけ)」という二つの集団の訴訟が記されている。前者は下賀茂神社(鴨御祖神社)に所属して、網代(ヤナ)によって琵琶湖から下る鮎とその稚魚(氷魚。ひお)を捕えていた。彼らは宇治川の中洲である槙島(真木島とも)に住み、古代以来、天皇家と諸神社に鮎を献上してきた存在である。なお、「村君」とは「漁師」をさす古代語である。後者は摂関家に所属し、宇治橋の橋脚に石を置いて補強する役を負う一方、その反対給付として、石の隙間に隠れる鰻を捕えて摂関家に献上していた。「請(うけ)」という呼称は「筌」に通じるが、竹筒や筌を沈めて鰻が入るのを待つ他、「鰻鉤(うなぎかぎ)」という金具で、石の隙間に潜む鰻を捕ったのであろう。両者ともに、領主に魚類を献上する一方で、その余剰分を売って利益としていたらしい。
 興味深いのは、彼らが地域的な棲み分けや季節的な漁場の使い分けをしていたらしいということである。網代村君の方は、槙島に住み、さらに上流の瀬田川にまで出張して、近江の左久奈度(さくなたり)神社にも鮎を献上していた。その漁撈範囲は広く、鱣請の置く石が「網代の面を塞ぐので、氷魚が捕れない」などと発言している。おそらく、宇治橋の周辺も彼らの漁場だったのだろう。ところが、鱣請の側は「鰻を捕るのは8月と9月で、氷魚を捕るのは10月以降なのだから、石が網代の漁を妨げることはあり得ない」と主張している。同一の水面において、複数の漁法が権利として認められていたのである(保立道久「宇治橋と鱣漁」『月刊海洋』号外48、2008年)。

4 鮎と鰻
 鮎も鰻も夏の魚として知られているが、実際のところ、鮎にはさらに冬の稚魚である「氷魚」という旬物がある。そして、どうやらそちらの方が、価値のあるものとして認識されていたらしい。実は古代において、この氷魚は冬の「節禄(季節ごとの給与)」として天皇から貴族に下されるものだった。網代によって捕えるという漁法も、貴族には著名なものであり、『万葉集』を初めとして多くの歌集に詠み込まれている(苅米一志「宇治網代の形成」『史境』23、1991年)。特に夜中に篝火を焚いて氷魚を集める漁法は、極めて印象深いものだったらしい。一方の鰻は、と言うと、『万葉集』巻16における大伴家持の「石麻呂に吾物申す、夏痩せに良しといふ物ぞ、ムナギ漁り食せ。痩す痩すも生けらばあらむを、はたやはた、鰻を漁ると河に流るな(夏バテに悩む石麻呂に一言。夏痩せに良いという鰻を捕って食べろ。但し、命あっての物種なのだから、鰻を捕ろうとして河に入って流されるなよ)」という歌以降、古代・中世には鰻の記録がほとんど見当たらない。しかし、前掲の史料を見れば、少なくとも8〜9月に特殊な漁法によって鰻が捕らえられ、それが流通していたことは確実であろう。鰻を夏の土用と結びつけ、江戸の鰻屋を繁盛させたのは平賀源内であると言われているが、これ以外にも太田南畝の発案だったとの説がある。いずれにせよ、それ以前に鰻が広く食されていたことは間違いなく、近世初期より置かれた近江膳所藩の鰻ヤナでは、一年に5万尾、大雨の夜などは一晩3千尾の漁獲にのぼったという。皮肉にも、宇治川の網代は鎌倉後期、殺生禁断策を進めた西大寺叡尊によって破壊されるのだが、そのあとを受けたのが、鰻ヤナであったのかも知れない。

(苅米一志)
(2013/06/07、本会石神井公園研究センターHPに掲載。2014/02/11転載)






トップへ
トップへ
戻る
戻る