太刀、あれこれ


     はじめに

 「武士の魂」という言葉が、よく知られているように、日本刀(いわゆる、刀<かたな>)をはじめとする刀剣は、武士とは切っても切れない武器であります。
 ところが、日本の刀剣についての世に知られている知識には、史実とは異なるモノも多いのが実情です。
 そこで、このコラムでは、「日本刀の御先祖」あるいは「日本刀そのモノ」という誤解を受けているコトもある、太刀(たち)を中心に、日本の刀剣について、あれこれ書いてみることにします。

  (一) 太刀の役割と威力

 まずは、基本的なコト。
 はじめに書いておきますが、この章のお話は、ほぼ、日本の武器・武具研究の第一人者である某氏から教わったコトの受け売りです。
 古代・中世の武士が戦場に行く場合、ヨロイとカブトを身に着(つ)け、馬に乗って、持って行く武器は、基本的に、次の3つです。
 [A] 弓矢 (弓と矢)
 [B] 太刀 (たち 長い刃物)
 [C] 刀 (かたな 短い刃物)
 この中で、一番恐ろしいのは、弓矢です。ナニしろ、飛び道具ですから。
 だから、古代・中世の武士は、「弓馬の士(きゅうばのし)」と呼ばれたのであり、弓矢と乗馬の技術が、最も重視されたわけです。
 んで、太刀と後の日本刀は、「殺人用の長い刃物」という点で、見た目も用途も似てますが、直結しません。
 日本刀は、刀(かたな 短い刃物 つまり、ドス)が長大化した「打刀(うちがたな)」というモノです。
 で、太刀と刀は、用途が違います。
 一言で言えば、太刀は「打撃具」であり、刀は「刺突具」です。
 つまり、簡単に言うと、太刀は「ブン殴る道具」であり、刀は「刺す道具」です。
 太刀は、今で言えば、鉄パイプや金属バットと同じですので、刀身も比較的柔らかく、刃の研ぎも甘いのです。
 ナゼ、「殴る道具」に刃を付けるか? と言えば、刃があった方が、当たった時に相手に与えるダメージが大きくなるからです。
 殺傷能力が高くなるというコト。
 これに対し、刀は、堅く鋭い。ナゼなら、「刺す道具」だからです。
 ↑ こう書くと、誤解されるかもしれまさせんが、あくまで比較の問題です。
 『保元物語』の源為義の幼い子供たちの処刑場面、『平治物語』の源義平の処刑場面などでは、いずれも、太刀の一撃で人間の首を切断しており、太刀が、かなりの切れ味であったコトは明らかです。もちろん、使い手の技術もあるでしょうが.。

  (二)戦闘での太刀(たち)の使用例

 では、実際に、武士は戦闘に際し、どのように太刀を使ったのでしょうか。いくつか、具体例を紹介します。

     その@ 軍記物の例

 『平治物語』によりますと。
 平治元年(1169)12月の平治の乱に際し、六波羅での戦闘中、武蔵の金子十郎家忠は、弓も引き過ぎて折れ、太刀も折れてしまい、折れた太刀だけになっちゃったとあります。
 んで、家忠は、同じ武蔵の足立右馬允遠元に、折れた太刀を見せて、
「見てよ。足立殿。太刀、折れちゃった。替わりの太刀あったら、ちょーだい」
(御覧候へ。足立殿。太刀をうちおりて候。かはりの太刀候はばた<賜>び候へ)
 と言ったところ、遠元は自分の郎等(ろうどう 家臣)の太刀を家忠にくれたそうです。
 んで、家忠は遠元の好意に大いに喜んで、敵をたくさん討ったそうで、太刀で戦ったわけです。
 一方、太刀を取り上げられた遠元の郎等はヘソを曲げて、主人の遠元に向かい、
「オレをどう思ってたか、よくわかりましたよ。役立たずだと思ってるから、こんな合戦の最中に、太刀を取り上げたんでしょ。あなたなんかに、お供してても、意味無ェすわ」
(日来<ひごろ>の心をみ給、物のようにたつまじき者よとおもひ給へばこそ、かかる軍<いくさ>の中にて太刀をばめされ候へ。御供してなにかせん)
 と文句を言ったもんだから、遠元は、
「ちょっと、待っとけ。おめェに言うことがあらァ」
(しばらくひかへよ。いふべき事あり)
 と郎等に言って、馬を馳せ、敵を一人射殺して、その太刀をブン取って戻り、郎等に、
「そんな短気に怒るなよ。ほれ、太刀だぜ」
(汝、心短くこそ恨つれ。すは、太刀よ)
 と言って、取って来た太刀を与えましたとさ。
 『平治物語』は軍記物、今風に言えば戦争小説ですが、リアリティーはあったはずで、戦場での太刀使用の様子がわかります。

     そのA 科学的調査から

 この節は、人類学者鈴木尚氏の著書『骨 − 日本人の祖先はよみがえる −』(学生社、1960年)の中の「中尊寺のミイラ」からの受け売りです。
 清衡・基衡・秀衡・泰衡の奥州藤原4代は、ミイラになって、平泉の中尊寺金色堂で、今も寝てます。
 清衡・基衡・秀衡は、丸ごと寝てますが、泰衡は、首だけです。
 んで、奥州藤原4代のミイラは、昭和25年(1950)に学術調査がおこなわれました。
 この調査の結果、泰衡の首には、13ヶ所の刀傷(かたなきず)があったことが確認され、この傷の調査から、泰衡の最期の前後が、どんな様子だったかが、復元出来ました。
 13ヶ所の内、4つは、頸部にあり、これは泰衡が斬首された時のモノ。
 残る9ヶ所は、顔面・側頭部・後頭部にあります。
 顔面の傷は、正面から斜めに切られたモノ、左右の側頭部の傷は、両耳がブラ下がってしまう程の深傷(ふかで)です。
 泰衡は、源頼朝率いる鎌倉幕府軍に敗れ、逃亡中に家臣の河田次郎に裏切られて殺害されましたが、この首の傷跡から、彼の最期の様子がわかるのです。
 首だけでも、何カ所も大ケガをしているのですから、他の部分も、ひどく負傷したコトでしょう。
 泰衡は、複数のヒット・マンに急襲され、激しく抵抗した結果、ズタズタに切られた末に、取り押さえられたわけです。
 取り押さえられた泰衡を斬首するために、刃物が振り下ろされますが、この段階では、彼は、まだ生きており、殺されまいと暴れたようです。
 2回切り損じ、3回目で、ほとんど皮1枚残して首が切断されます。
 そして残った皮が切られ、首級を上げられたのです。
 これらの攻撃が、当時、「刀(かたな)」と呼ばれた短刀(短い刃物。つまり、ドス)でおこなわれたのではなく、太刀(長い刃物)によるモノであることは、傷の様子からも、明らかです。

     そのB 『吾妻鏡』の例

 続いて、『吾妻鏡』元暦元年(1184)6月16日・17日条。
 元暦元年6月16日、源頼朝は「宴会をやるよ」と言って、甲斐源氏の有力者一条忠頼を幕府(頼朝邸)に誘(おび)き出し、侍間(さむらいのま 幕府の大広間)でのコンパの最中に、忠頼を殺させます。
 この時、ヒット・マン天野遠景は「太刀」を持って、襲い掛かり、忠頼を殺していますから、明らかに凶器は太刀です。
 んで、庭に控えていた忠頼の共侍(ともざむらい お供の家臣)3人は、主人が殺されたのを見て、「面々太刀を取り(それぞれ太刀を持って)」、侍間に駆け上がり、飲み会参加者の御家人たちと乱闘になります。
 夕方で薄暗かったこともあり、戦いは混乱状態となって、御家人たちは忠頼の共侍3人のために多数が負傷しました。同士討ちもあったそうです。
 多くの御家人たちを負傷させた共侍3人の武器も、太刀だったコトは、明らかです。

     そのC 古文書の例

 「朽木(佐々木)頼綱譲状案」(『朽木文書』)
   次男五郎源義綱ニ譲渡物具事
  太刀一<名明剣>同ほろ一
  此太刀は弘安八年十二(一の誤)月十七日の合戦の時
  かたきをあまたうつといへとも聊もしらますつたへたる
  宝物也、身をはなつへからす、ならひにほろ一相具して
  所譲渡如件、
   弘安十年三月三日     左衛門尉源頼綱<在判>
 ※ しらむ(白む) = 刀剣の刃が傷(いた)むコト
 弘安8年(1285)11月17日に勃発した鎌倉幕府の内戦「霜月騒動」で、朽木頼綱は、「明剣」と名付けられた太刀で戦い、多くの敵を討ったけれども、ぜんぜん刀身が傷むコトは無かった(聊もしらます)というのです。
 これは、案文(あんもん 写し・コピー)とはいえ古文書ですから、極めて史料価値は高く、太刀が実戦で武器として使用されていることを明示しています。

  (三)重代の太刀(じゅうだいのたち)

 太刀は、刃物ですので、使う前に研ぎます。
 切れ味を良くするためには、鋭く、つまり、先ッチョは薄く研ぎます。
 すると、刃こぼれがしやすくなる。
 実際、前述した藤原泰衡の後頭部の傷には、刃こぼれの跡が確認されるそーです。
 刃こぼれしたら、次に使う時は、当然、研ぎます。
 ドンドン、細くなって、いずれ、使いモノにならなくなる。
 そもそも、その前に、使えば、折れちゃったり、曲がっちゃったりもする。
 つまり、太刀は、本来、現在の鉛筆なんかと同じ、消耗品です。
 ただ、同じ消耗品でも、木や竹で出来てる弓矢なんかに比べれば、金属製の太刀や刀は、残存率は高い。当たり前です。
 ところで、名門の武家には、「重代の鎧(じゅうだいのよろい)」とか、「重代の太刀(じゅうだいのたち)」と言われる、家宝が伝来しているコトが多いです。
 「重代」は、「代々伝えられた」という意味。
 有名な「重代の太刀」は、河内源氏(源頼朝の家系)の「髭切(ひげきり)」でしょう。
 これらは、少なくとも、その家にとっては「家宝」・「宝物(たからもの)」です。
 しかし、それらが「家宝」になったのは、「先祖の誰が着た」とか、「誰が使った」といった、その鎧や太刀に関わる特別なエピソードがあったが故です。
 たとえば、これも前述した、平治の乱の最中に足立遠元が郎等に与えた太刀などは、その郎等の家にとっては、このエピソードによって、特別な太刀となり、「重代の太刀」となった可能性があります。
 今となっては、この郎等の名前もわからず、遠元が与えた太刀のその後もわかりませんが。
 つまり、「重代の太刀」は、特別なエピソードの故に、「家宝」となったのであり、そーでなければ、ただの「消耗品の殺人兵器」に過ぎないのであります。
 これは、現代において、ただのボタンが、
「大好きな○○先輩が、卒業式の後で制服からチギッて、私にくれた」
 というエピソードを持つことにより、そのボタンをもらった女子中学生にとっては、
「この世で、たった一つの至高の宝物」
 となるのと、同じです。

  (四)斬馬刀

 現在、残っている刀剣には、神社やお寺が所有しているモノも多いです。
 この中には、極端な場合、刃長2メートルを超える長大なモノ、通称「斬馬刀(ざんばとう)」と呼ばれるモノもあります。
 んで、この斬馬刀には、見た目ではわかりませんが、よく調べると、何ヶ所か継ぎ目があるモノがある。
 このテの刀剣は、振り下ろしたりした時に、自重に耐えられずバラバラになってしまうので、実戦では、使いモノにならないそうです。
 しかし、このような継ぎ目のある刀剣は、そもそも神様・仏様への奉納品(お供え)として作られた特殊なモノで、最初から、実戦に使用するコトを前提にしておらないわけです。
 実際、同じ斬馬刀でも、継ぎ目の無い実戦に使用可能なモノも残っており、これらは実戦に使用された可能性があるのであります。
 この場合、永井豪氏『バイオレンス・ジャック』に出て来るスラム・キングのように、ブンブン振り回す必要は無く、馬に乗って、横に構えて、敵に向かって突進したりすれば、良いわけです。

  (五)機能美

 日本刀は、「殺人用刃物」の種類としては、打刀(うちがたな)というモノです。
 本来、「刺す道具」(刺突具)であった刀(かたな 短刀・ドス)を長大化させ、「殴る道具(打撃具)」である太刀(たち)の機能をも備えさせたわけです。
 だから、「殴る機能も持つ刀」で、打刀なわけです。
 で、この日本刀(打刀)は、皆さん御存知の如く、史上最強の刃物の一種です。
 熱した鉄を叩いて延ばしては折り重ねるという作業を何度も繰り返すコトにより、日本刀は木の年輪や玉子焼きのように、層がたくさん重なっている構造をしています。
 これが、「トリビアの泉」の実験結果の如く、発射された拳銃弾を切って刃こぼれもせず、重機関銃(マシンガン)から連射された弾丸も6発まで切る(7発目で折れた)という、日本刀の恐るべき性能を生むのです。
 そして、日本刀は、見た目も美しい。
 これは、機能美であります。
 「殺人」という目的のために、性能を究極まで高めた結果、鑑賞しても美しい形態となったわけです。
 別に、日本刀に限りません。
 トンカチでも、ノコギリでも、その道具の目的に合わせて、機能を追求したモノは、結果として、見ても美しい形になります。
 しかし、形の美しさは、あくまでも、結果です。
 その道具本来の目的のために機能を追求した結果、美しくなったのであります。

     おわりに

 日本の刀剣については、まだまだおもしろいネタはありますが、飽きて来たので、とりあえず、今回は、これにて終了致しやす。

2013/04/19 (細川重男)
(2013/04/20、本会石神井公園研究センターHPに掲載。2014/02/09転載)





トップへ
トップへ
戻る
戻る