青年将軍足利義満の親征


永和4年(1378)3月、室町幕府3代将軍・足利義満は、下京の三条坊門邸から、上京に造営中の新邸(室町殿、いわゆる「花の御所」)に移住した。また、同月に21歳で権大納言、8月に右近衛大将に任官した。この年から義満は、公家社会に本格的に参入するようになった、と一般には言われている。いわゆる「義満の公家化」である。


しかし一方で、この年に義満が人生初の「親征」を行っていることにも注目すべきだろう。


永和4年11月、紀伊(現在の和歌山県)で南朝方の橋本正督が蜂起し、紀伊国大将細川業秀の軍勢を撃破した。これに対し、細川頼元をはじめとする諸大名による討伐軍が編成された。討伐軍は紀伊に下向し、南朝方を打ち破った。近江・摂津・播磨・備前勢は紀州に留まり、残りは12月4日に京都に帰還した。

ところが、同月13日には南朝方が再蜂起して細川業秀軍を紀伊から追い出し、摂津・播磨・備前・近江勢も京都に逃げ帰った。これに激怒した足利義満は、15日の夜、東寺(現在の京都市南区九条町にある真言宗寺院。教王護国寺ともいう)に出陣した。しかし結局は山名義理・氏清兄弟の派遣に留まり、23日には義満は東寺から御所に戻っている(「花営三代記」)。


この義満の奇怪な行動は、「まだ若い義満が血気にはやり、自ら指揮を取ると息巻いたものの諸大名から諫められて親征を取り止めた」とも解釈できるが、義満はもともと紀伊まで赴くつもりはなかったのではなかろうか。義満が本気で紀伊まで出張るつもりだったら、わざわざ東寺に陣を構え、ダラダラと日を過ごす必要などない。東寺まで行って戻ってくるというのが既定路線だったと考えられるのである。


永和2年から足利義満は管領細川頼之に代わって軍勢催促状と感状を発給するようになり、軍事指揮権を掌握した。したがって永和4年当時の義満は武士の頂点たる征夷大将軍としての実質を整えつつあったが、実際に軍勢を率いた経験がないという弱みも抱えていた。紀伊の南党蜂起を奇貨として、将軍親征のポーズを取ることで、自らが「武家の棟梁」であることを内外にアピールしようとしたのではないだろうか?


では何故、駐留場所として東寺を選んだのか。どうやら東寺は京都における重要な戦略拠点だったらしい。建武3年(1336)、足利尊氏が九州から京都に攻め上った際も、石清水八幡宮のある男山から北上して東寺に陣を築き、洛中(京都の中心部)の後醍醐方と戦った。また文和4年(1355)に足利方と南朝方が京都争奪戦を行った時も東寺は戦場となっている(文和東寺合戦)。そして、延文4年(1359)に将軍足利義詮が南朝討伐の親征を行った際も、二日ほど東寺に逗留してから尼崎に向かっている。15世紀に頻発した土一揆も、必ずと言っていいほど東寺を占拠した。

東寺は京都の入り口(京都七口)である東寺口に面しており、京都の南の玄関口ともいうべき場所だった。南朝勢撃破のために南進するにせよ、南から押し寄せる南朝勢を迎え撃つにせよ、布陣するには絶好の地点なのである。

東寺に陣取ることで、足利義満は諸大名に対して足利尊氏の直系たる「武家の棟梁」としての自分を、そして朝廷、寺社権門、京都住民に対して「京都の守護者」としての自分を示したものと思われる。川合康氏は、室町幕府は南北朝内乱の過程で「北朝の軍隊」としての性格を不可避的に持つようになったと述べているが、まさに義満は自らを「南朝勢力から京都を守る最高司令官」と位置づけたのである。


義満と言えば、後に行われる諸国遊覧が有名である。この遊覧が諸国の守護に対する示威行為であったのに対し、東寺への出陣は京都向けのデモンストレーションだったと言えよう。花の御所は現在の同志社大学の辺りにあったので、東寺までの距離は7km程度しかない。しかし義満は京都の諸勢力からの支持を取り付けるために、この短い「親征」を必要としていたのである。日清戦争時、明治天皇が大本営と共に広島に移ったことを想起させる。



義満は「公家化」の一方で、「武家の棟梁」としての側面を絶えず周囲に見せた。かくして公武統一政権の首班たる室町殿の権力が成型されていくのである。



(呉座勇一)
(2013/06/17、本会石神井公園研究センターHPに掲載。2014/02/09加筆修正して転載)






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