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岩清水地区周辺中世城館の分布状況とその意味
松本 一夫
はじめに
 
  中世において、岩清水地区を支配した権力者は誰だったのであろうか。残念ながら、このこ
とを直接的に証明する史料は管見に入らない。そこで、ここではこの地区周辺の中世城館跡
の分布状況や現況をみていくことにする。周知のように、現在見られる遺構は、その城館が使
用された最後(すなわち中世最末期)の状況を示しているわけである。しかし、近年の城郭研
究の成果を援用すれば、同一の城館の構造についての年代的変遷をある程度推測すること
が可能になってきている。
 そこで、まずは岩清水のある小県郡東部の戦国史を概観し、その上で、周辺に残る城館跡
の特徴をおさえていき、そのこととこの地域とその周辺をおさえた権力者の変遷にはいかなる
関係がみられるかを考察してみたい。
   
一 小県郡東部の戦国史

   1.海野氏と村上氏
 中世後期、信濃には多くの国人が存在したが、一国を代表するような勢力をもつ者はいなか
った。その中で、小笠原氏(松本地方)・諏訪氏(諏訪地方)・村上氏(更埴地方)の三氏が比較
的広い領域をもっていた。
 岩清水地区のある小県郡東部には、滋野氏一族の海野氏や禰津氏がおり、岩清水に最も
近い領主としては矢沢氏がいた。
 海野氏は、これらの代表的勢力と言えよう。かつての上田小県地方の史書には、室町時代
の早い時期から村上氏の勢力が大きく東方(すなわち当該地域)にまで発展したと記されてい
るが、近年では、文明年間(一四六九〜一四八七)頃まで両勢力は拮抗していたとみなされる
ようになってきた。つまり、応仁元年(一四六七)十月に村上頼清が海野氏幸を攻めてその所
領を奪った(「諏訪御符礼之古書」)のが、この地域における戦国時代の幕開けとされていて、
以後も両氏の争いが続いた模様である。文明二年(一四七○)に矢沢で起こった合戦も、定か
ではないがこの争いの続きと思われる。逆に文明末年には、海野氏の方が神川西岸にまで進
出している徴証がある。

   2.矢沢氏について
 矢沢氏に関する最も古い動向は、正平七年(一三五二)閏二月、反足利方として笛吹峠に着
陣した新田義宗軍の中に「屋澤八郎」なる人物が見えることである(『太平記』巻三十一、「笛
吹峠軍事」)。くだって文明二年には、矢沢幸有が諏訪上社の神使御頭をつとめ(「守矢満実
書留」)、さらに天文七年(一五三八)にも矢沢氏について同様の徴証がある(「神使御頭之
記」)。同十年海野平の戦い(後述)に参加して敗れた後、勢力は減退した模様で、同十九年に
は矢沢郷を村上氏がおさえている(「守矢頼真書留」)。
 海野平の戦いの後、三十年余り矢沢氏に関する史料は絶え、ようやく天正三年(一五七五)
になって、矢沢綱良という人物が矢沢の良泉寺に十貫文の土地を寄進している事実が確認で
きる。この天正年間以降、史料にあらわれる矢沢氏は、武田氏に属していた真田氏に従って
行動しており、近年では天文年間以前の矢沢氏とは異なる系統の土豪ではないかと指摘され
ている。

   3.村上氏の東進と武田氏の侵攻
 前述したように、文明年間頃までは、地元の勢力である海野氏一族と、東進してきた村上氏
とは、一進一退の攻防を繰り返していた。しかし、確たる証拠はないものの、村上氏の勢力が
次第に強く小県郡東部にまで及んでいったようである。
 このような状況において、隣国甲斐の戦国大名武田氏による信濃侵攻が開始された、すな
わち、天文元年(一五三二)頃までには甲斐統一を果たした武田信虎は、同六年には駿河の
今川氏と同盟を結び、同九年には信濃佐久郡へ侵攻したのである。
 翌天文十年に入ると、信虎は小県郡の在地勢力を排除すべく、諏訪頼重・村上義清と連合
し、五月に海野平(現東部町)において海野氏・禰津氏・矢沢氏等と衝突、大勝利をおさめた。
これにより矢沢氏は降伏、海野氏も逃亡し、禰津氏のみが許されて本拠地に戻ったという。
 こうして当該地域への村上氏の影響力は決定的となったが、武田氏はこの後、上伊那・佐久
地方を次々と攻略し、天文十六年(一五四七)頃には、かつて海野平の戦いでは同盟した村上
義清と直接領域を接することになった。
 翌年二月、武田晴信(同七年六月に父信虎を駿河に追放し、家督を相続していた)は、村上
攻めのために信濃に入り、上田原(現上田市大字上田原)で両軍は激突、武田軍は惨敗し
た。この敗戦により武田氏の信濃経略はいったん頓挫するが、早くも同じ年の七月に今度は
武田氏が塩尻峠(現岡谷市大字今井・塩尻市大字柿沢)において、村上氏と結んだ小笠原長
時の兵五千余を急襲してこれを破った(塩尻峠合戦)。勢いに乗った武田勢は、天文十九年六
月、府中の小笠原氏を攻め、九月には村上方の砥石城を襲ったが、逆に大敗した(「砥石崩
れ」)。
   
   4.真田氏の支配
 ところが翌天文二十年五月、真田氏(天文十八年三月頃より武田氏に属す)が、砥石城を
「乗取」ることに成功してしまった(「高白斎記」)。前年、武田の大軍が攻めても陥落させること
ができなかった同城が、これほど簡単に真田氏の手に入ったのは、村上方が武田軍の敗退に
安心し、僅かな守備兵しか置いていなかったところを急襲されたためではないか、と見られて
いる。
 周りの諸勢力を倒して準備を整えた武田氏は、天文二十二年(一五五三)四月、ついに村上
氏の本拠葛尾城を攻め、村上義清は敗れて越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ちの
びた。一方の小笠原氏も敗退を重ね、当主長時は、この年八月に国外へ退去した。
 こうして小県郡東部は以後、真田氏の勢力下に置かれ続けていくことになるのである。

二 岩清水地区周辺の城館とその分布状況(図1)


〈1.矢沢古城 2.矢沢城 3.伊勢崎城 4.殿城山城 5.長島の堀の内 6.米山城 7.砥石城(戸石城)〉

   1.矢沢古城
 岩清水集落に最も近い城館跡が、いわゆる矢沢支城である(図2)。殿城山の尾根の下った
南西部分、左口川の流れる沢に突き出した先端部分で、標高七六○メートル、上田市大字殿




城字古城に位置する。現在、城跡一帯は山林と耕作地であり、ほとんど原型をとどめていな
い。北側は谷に面し、二条の竪掘跡が見えるが、郭の形は不明である。高所にあるため眺望
はよく、眼下に矢沢城、神川を隔てて虚空蔵城・砥石城を望むことができる。
 東西南北ほぼ一○○メートルほどの規模をもつ城郭であったと推定され、城の背後、すなわ
ち岩清水地籍に「本御堂」の地名が残る。東方の山の尾根等に中世後期の五輪塔や宝篋印
塔の残欠が多く見られる。
 一でも述べたように、天文年間以前の矢沢氏は、天正年間以降史料上にあらわれる矢沢氏
と異なる一族(おそらく神氏系)で、この矢沢支城こそが、その前期矢沢氏の館跡ではないか、
したがって城の呼称も後期矢沢氏の本拠地矢沢城の支城を意味する「矢沢支城」ではなく、
「矢沢古城」が適切である、という近年の指摘もある。傾聴すべき意見であろうと思われる。こ
の前期矢沢氏の領域は、神川を西の境として(北は不明)、矢沢を中心に宮ノ上・下郷・赤坂・
岩清水を囲んだ地域と推測されている。

   2.矢沢城
 左口川の流れる大きな沢を隔て、(1)の矢沢古城から西へ直線で約二○○メートル離れ、
標高差で六○メートル下った尾根の先端部に位置する(上田市大字殿城字城山、図3)。現状
は山林・耕作地と社地である。城郭の東と南側は急崖であり、矢竹の群生する南から西南も



急斜面となっていて、その裾を巡るように吉田堰がある。そのほとりに建つ大月堂から主郭の
前部にある城山神社の鳥居までが大手道であったと見られている。道の両側に何段もある長
方形の郭はいずれも面積が広く、この城の規模の大きさを示している。
 城山神社の背後、標高七○○メートルの城山の頂上には、東西一五メートル、南北三六メー
トルの主郭があり、ここから続く尾根は途中で堀によって切られて幾つかの郭を形成している。
このうち二の郭の北東、深さ五メートル、幅一○メートルほどの大きな堀切の先端は、西北の
麓まで掘り下げてある。現在は城跡公園として整備されている。
 城の西方約八○○メートルには、神川をはさんで伊勢崎城が向かいあうように位置してい
る。西直下にある赤坂川から南の小字宿組と呼ばれる集落一帯が城下町と考えられている。
 この城は天正年間に真田氏に属して活躍した矢沢綱良が築いたとされるが、記録上見える
のは天正十三年(一五八五)神川合戦の際の矢沢城」という記述である(「真武内伝」)。
 城の北側に平行して走る尾根の北側に、綱良の開基とされる良泉寺がある。

   3.伊勢崎城
 神科台地のうち、北東にある冨士見台団地の東端、虚空蔵山上に築かれた山城である(上
田市大字上野字上野原、標高六七二メートル)。伊勢崎砦・虚空蔵城とも呼ばれる。保存状況
は良好ではないが、現在確認できる範囲では、南北八○メートル、東西五○メートルの単郭で
ある。
 村上氏が小県郡をおさえる目的で用い、その後は武田方の真田氏が入った砥石城のことを
考えると、伊勢崎城も当初は村上氏が海野氏勢力に対抗する形で、砥石城の前衛拠点として
使われていたが、その後は真田氏の一拠点になったものと推測される。

   4.殿城山城
 岩清水地区より北東約七五○メートルに位置する殿城山上にある(上田市大字殿城字殿
城、標高一一九三メートル)。現段階では実測はされておらず、詳細は不明であるが、天文十
九年(一五五○)二月の武田晴信による砥石城攻撃の際の本陣に使用されたと伝えられてい
る。
                             
   5.長島の堀の内
 東条健代神社(旧諏訪社、上田市大字住吉)の東側約一五○メートルのあたりを矢出沢川
が流れているが、その東側一帯の地が小字堀の内で、館があったと推定されている。ここは
海野氏の配下、小宮山氏が文明年間(一四八○年頃)に築いたと見られているが、その後村
上氏が砥石城を築き、金剛寺に城代屋敷をつくったため、使われなくなった模様である。

   6.米山城  
 後述の砥石城の南西約二五○メートル、鞍部を隔てた独立峰の標高七三四メートルの山上
にある(上田市大字住吉、図4)。三の郭は中央やや東寄りに一・六×二・三メートル、深さ五
○センチほどの井戸状の窪地が見られ、石積みの跡も壁面に認められる。南下方には幅九メ
ートルほどの削平地が帯状に連なり、この方面からの攻撃に備えている。ここから六〜七メー
トル高い二の郭を経て本郭に至るが、中央北端寄りに村上義清の碑がある。その背後には土
塁状の盛土が僅かに見られ、その東斜面には土留めの石積みがはっきりと残っている。(5)
の長島堀の内は当城から南へ約七○○メートル下がったところにある。
 この城は、文明年間(一四八○年頃)にに小宮山氏が築いたとされ、小宮山城の別称があ
る。それが転訛して米山城と呼ばれるようになったとも考えられる。その後、村上氏が砥石城
などと共に利用し、一連の大要害として武田氏に対する守りを固めた。ただ、総じて縄張りが
簡素なのは、村上氏が小宮山氏時代の城に多少手を入れた程度で利用したためと思われ
る。周りはほとんどが急傾斜地となっていて、守りに適している。

   7.砥石城(戸石城)
 東太郎山東端から神川に沿い、南方へ台地状に突き出した尾根を利用して築かれた、上田
市内で最大の山城である(上田市大字上野字城山、大字住吉字砥石、図4)。
 南北方向約四五○メートルにわたって位置する三つの城砦群から成り立っていて、このうち



真ん中の部分が最も広い。背後に堀切を備え、一段高い標高七八○メートルの位置にあるの
が主郭で、ここから南へ八つの郭が続いている。主郭の東から南東へ回り込んだ小さな尾根
が主郭との間に谷間をつくり、この谷の途中から左手の山腹をつづら折りに登って城に通じる
道がある。
 北側の郭は、砥石城では最も高い八二六メートルの山頂を利用してつくられている。郭の西
側の入口は枡形状になっており、急斜面であり、東側も麓まで急崖である。
 南側の郭は、やはり尾根の先端という自然地形を利用したもので、北側は高い切岸、南は
伊勢山集落に至るまで緩斜面となっている。
 ところで、明治十五年(一八八二)『長野県町村誌』所載「上野村図」には、南から砥石城・枡
形城・本城の順に並んでいる。文政三年(一八二○)「砥石米山古城図」を見ると、一番南が砥
石、真ん中の枡形には本丸と書かれた郭を中心に大小合わせて二○近い郭が描かれ、一番
北は二つの小さな郭があって、うち一つに「番所」と書き込まれている。すなわち、実際の遺構
と、砦の名称に逆転現象が起きているのである。
 これについては、城の南側に敵方勢力が控えていた村上氏の時代には、北側の傍陽大庭
からの山道沿いに城の大手口が設けられていて、このため北の郭に番所が置かれ、最大規
模を持つ中央の郭が本城とされたこと、それが真田氏が掌握した後は、本領である真田に面
した伊勢山口から入る道が大手となり、本城の郭に着いたところに枡形を設けたためこのよう
な逆転現象が起こったのではないかと推測されている。

おわりに

 以上見てきたように、岩清水地区周辺の中世城館跡の分布状況やそれぞれの城の城主の
変遷は、この地域の戦国期の動向を如実に示していることがわかった。すなわち、岩清水地
区に最も近い矢沢古城は、おそらくは小県郡東部の有力な勢力であった海野氏系一族の矢
沢氏の本拠であった。他にも米山城や長島堀の内などは、海野氏勢力によって築かれた。し
かし、天文十年海野平の戦いあたりを契機として、村上氏の支配が大きく及ぶようになり、二
であげたうちの多くの城が同氏の掌握するところとなった。
 ところが、やがて当該地域には、甲斐武田氏の力が及ぶようになり、より直接的には二の
(7)砥石城のところでやや詳しく述べたように、武田氏に属した真田氏の支配下となったようで
ある。矢沢城の城主矢沢氏も、出自は不明ながら、この真田氏に従ってこの地域で力をふる
ったと考えられるのである。
 岩清水地区を支配した権力者の変遷も、おそらくこうしたことに対応しているものとみて間違
いないであろう。

【参考文献】

・『上田市誌歴史編五 室町・戦国時代の争乱』(上田市、二○○一年)
・『長野県史通史編第三巻中世二』(長野県、一九八七年)
・『日本城郭体系8 長野・山梨』(新人物往来社、一九八○年)
・『長野県の中世城館跡分布調査報告書』(長野県教育委員会、一九八三年)

(本文は、研究代表者 漆原 徹『長野県上田市大字殿城字岩清水地域の総合歴史調査』
〈課題番号15520421 平成15〜16年度科学研究費助成金 基盤研究(C)(2) 研究成果報告
書〉より再録した。)


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