長野県上田市大字殿城字岩清水地域の総合歴調査報告(一)
漆原  徹   
生駒 哲郎   
はじめに

 本報告は、長野県上田市大字殿城字岩清水地域の総合歴史調査の第一回報告である。今
回の調査は、文献史学、考古学、民俗学、美術史、仏教学などの各学問分野の個別調査で
はなく、この地域一帯の総合的な調査を行い、岩清水地域を通して、日本の山村の習俗や生
活文化などの歴史を明らかにすることを目的としている。今回は、これから本格的な岩清水地
域の調査を開始するにあたって、調査を行うに至った経緯や調査の方向性を述べる。何故こ
のような段階で報告を行うかというと、これから同地区の本格的な調査を行うにあたって、多く
の人からの意見を聞き、そうした意見を積極的に調査に生かしていきたいと考えるからであ
る。また、史・資料の現状態・状況や、それらをどのように調査・整理したかという経過を定期
的に公表することは、史・資料の伝存状況や伝来過程などを知る得るいわゆる史料論的な立
場からも有益であると考えるからでもある。

一 岩清水地域の沿革

 長野県上田市大字殿城字岩清水の地域は、江戸時代から明治九年まで、小県郡(ちいさが
たぐん)岩清水村(いわしみずむら)であった。この村は、神(かん)川中流東部に立つ標高一
一九三メートルの殿城山(でんじょうやま)西側中腹(八〇〇―八五〇メートル)に位置し、東は
東田沢(ひがしたざわ)村(現小県那東部町大字和〈かのう〉)、西は山麓の矢沢(やざわ)村、
南は森(もり)村、北は赤坂(あかさか)村と境をなしている。岩清水村の集落は下村(大村)と、
五〇メートルほど登った上村(内■ うちうね)からなり、下村(大村)の東端にある清水寺(せ
いすいじ)の門前から清水が湧き出し、これを元清水または、上井戸と称した。また、村の中央
部にも厳島神を祀った湧水があり、これを西の清水と称した。岩清水の名はこれらの湧水に
由来すると伝えられている。また、村の東北には、本御堂(もとみどう)と呼ばれた地籍があり、
五輪塔が多数現存し、五輪原(ごりんはら)の称が残っている。かつては、ここに大寺があった
とも伝えられている(1)。
 近世初頭より岩清水地域一帯を知行したのは、仙石忠政(せんごくただまさ)の三男として生
れた政勝(まさかつ)であった。彼は、寛文九年(一六六九)に仙石氏領地六万石余の内、岩
清水の地を含んだ矢沢領二千石を分知された(2)。仙石政勝が知行する村は、矢沢村・下郷
村・赤坂村・岩清水村・漆戸村・小井田(こいだ)村・森村と林之(はやしの)郷約半分の八ヵ所
であった。『仙石家文書』(若林勅滋氏所蔵)の延宝元年(一六七三)十二月十四日付の仙石
政勝に宛てた堀田正俊書状には、

  御手前知行所江之
  御暇之儀願之通
  相済候間、可被得
  其意候、以上
   十二月十四日 堀田備中守
  仙石治左衛門殿

とあり、政勝の知行地入部のための暇願いを許可する内容が記され、翌年二月に仙石政勝
は知行所矢沢に入部している。また、領主の館としての陣屋は矢沢村に置かれていたが、旗
本仙石氏は、江戸に常住していたので、これらの領地は代官によって実質支配された。本家
の大名仙石氏は、宝永三年(一七〇六)に但馬の出石(いずし)に移封されるが、分家の旗本
仙石氏による矢沢領支配は、江戸時代を通じて行われ、明治にまで及んだ。この矢沢領を知
行した旗本仙石氏の歴代は、初代の政勝から、政因(まさより)、政啓(まさひろ)、政寅(まさと
も)、政和(まさかず)、政寿(まさひさ)と連なり、政相(まさとも、明治元年〈一八六八〉政雄と改
名)の時に明治維新を迎えた(3)。
 岩清水村は、元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳には「高百五拾四石五斗六升弐合、岩
清水村、高拾七石七斗弐升九合、岩清水村枝郷岩清水新田」とあり、天保九年(一八三八)九
月の岩清水村高家数人別書上帳(『矢沢会所文書』)には、村高百七十二石二斗九升一合七
勺、家数三十一件、人数男百七人、女百九人となっている。
 また、近代になると、明治九年(一八七六)の岩清水村は、矢沢村・赤坂村・下郷村と合併し
殿城村となり、明治二十二年(一八八九)漆度村と合併した。さらに昭和三十一年(一九五六)
に豊里村と合併して豊殿村となり、昭和三十三年(一九五八)には上田市に編入された。現在
上田市大字殿城字岩清水地区は、家数七十三件で、約二百人余りが生活している。
 
二 現地の視察

 今回の調査は、漆原と予てより交流のあった岩清水地区在住の佐藤淑治氏より、同地区に
所在する清水寺所蔵不動明王立像の調査を依頼されて、平成十三年五月二十六・二十七日
に、漆原が生駒を伴って同所の視察に赴いたのが直接の切っ掛けであった。
初日は、佐藤氏とともに、岩清水地区の北側赤坂地区(かつての赤坂村)に所在する滝水寺
(りゅうすいじ)を訪れた。清水寺と滝水寺の関係は、寛政七年(一七九五)に江戸幕府に提出
された『信濃国新義真言宗本末帳』(4)に次のように記載されている。

    小県郡赤坂村
  一 滝水寺   本寺和州小池坊
     門徒
     小県郡岩清水村    同郡小井田村
     清水寺     竜法寺
   已上本寺門徒共滝水寺分

ここに記載された「本寺和州小池坊」とは、新義真言宗(真言宗豊山派)の本坊のことである。
新義真言宗は、覚鑁を祖とする紀州根来寺を中心としていたが、天正十三年(一五八五)三月
に羽柴秀吉に反抗して壊滅させられた。その後、学頭の専誉は大和国長谷寺に学寮を設け
た。小池坊とは、根来寺に学頭坊があった時に、この坊の傍らに小池があったのでこの学頭
坊が小池坊と呼ばれたことに由来する。つまり、滝水寺は、新義真言宗本山長谷寺の末寺で
あった。また、この『寺院本末帳』に記載された「門徒」とは、本山・本寺の法流を相続する末寺
のことを意味する。したがって、清水寺の本山は滝水寺で、なおかつ、清水寺は新義真言宗本
山長谷寺の孫末寺でもあった。
  ところで、この滝水寺では、『霊会日鑑』一巻(冊子、縦二七・六×横一九・八センチメートル)
と『勧化帳』一巻(冊子、縦二六・五×横十八・六センチメートル)を拝見させていただいた。とく
に『霊会日鑑』一巻には、滝水寺の一世とされる慧算の名が確認され「法印慧算 正応五年
(一二九二)」という鎌倉時代の年紀が記載されていた。さらに、「天文十七戊申年(一五四
八)」の年紀や、「岩清水村」の出身であることが記載された人名も確認できた。また、本堂の
奥に安置された多数の位牌も拝見し、近世初頭の位牌が数多く現存し、本堂には、折本の黄
檗版『大般若波羅蜜多経』六百巻が安置されていた。
 二日目は、まず清水寺護摩堂内の古文書や本尊の不動明王立像、その他の史・資料の所
在確認を行った。古文書は、木箱の中に入れられ、おそらく数百点が現存していると思われ
る。ただし、今回は、古文書保管の現秩序を破壊しないためにも、保存状態や古文書本文の
内容の確認は、数点に止めた。そのなかで、仙石和泉守政勝寄進状(立願状)(一通、縦二
一・六×横四五・八センチメートル)を確認することができた(写真1)。

  奉進上    願主 源政勝
 謹敬白立願之事 知行信州赤坂村
 不動明王霊験新成■(ヨ+火=霊)霊地殊滝水寺住寺
 郭音大僧都法印頼入祈念成就奉祈
 奉献願状以信心奉祈願一七日祈祷
 依之立願状之趣早速如心成就可仕
 誠不動明王妙■(ヨ+火=霊)殊某於在宅一七日
 光明真言奉読祈然則諸願成就必叶
 不動明王米石〈壱石五斗宛〉当従午年
 毎年可奉寄進仕速願成就謹上再拝
 仍如件       仙石和泉守(黒印)
  元禄三庚午年三月吉日  政勝(花押)
  (一六九〇)
    滝水寺郭音法印

 このような史料が、清水寺に現存していることを考慮すると、清水寺と滝水寺との深い関係
が窺われ、やはり、清水寺のみではなく、滝水寺を含めた近隣寺院の調査の必要性を感じ
る。また、本尊の木造不動明王立像は、寄木造で、総高一二八・〇センチメートル、像高八
九・六センチメートルであった(写真2・3)。この不動明王立像の由来について、清水寺に現存
する元禄七年(一六九四)八月付仙石和泉守政勝書状(写)には、「不動明王尊像 真言宗新
儀開山覚鑁大師御作/覚鑁元禄年中号大師」とある。清水寺は真言宗豊山派なので、根来
寺の覚鑁作という由来は、あながち荒唐無稽な伝承でもないが、厨子の中に安置された不動
明王立像を一見したところ、覚鑁在世中の平安時代後期の作とは思われない。しかし、中世
にまで遡る時期の造像である可能性はある。詳細な調査が必要である。
 その他、この護摩堂には、数体の仏像や真言八祖の掛け軸等が確認された。また、護摩堂
と直接は関係ないが、この付近から出土したという古鏡五枚がこの堂に保管されていた(写真
4・5)。さらに、護摩堂に隣接する建物には、江戸時代の作と思われる弘法大師座像が八十
八体安置されていた。この地区に住む方の話だと、これらの像には、すべて銘文があるという
ことである。
 次に、岩清水地区の方々の案内で、かつて五輪塔が多数あったという五輪原(ごりんはら)と
称される場所を見学した。この場所では、地・水・火・風・空輪が崩れた五輪塔数基を確認する
ことができた(写真6)。また、かつては、岩清水地区の方々の話では清水寺から殿城山に向
かって古道があったという。この古道沿いに五輪塔が多数点在していたということであった。こ
の地区では、現在でも五輪塔が多数見られ(写真7)、中世まで遡る時期のものも現存してい
ると思われる。さらに、この地区の中央部には、かつての古道に接していたと思われる塚も確
認することができた(写真8)。

三 今後の課題

 今回の視察で感じた問題点は、岩清水地区には古文書や仏像、さらには五輪塔を含めた石
造物など多数の歴史的史・資料が現存しているにもかかわらず、今までほとんど本格的な調
査・研究がなされていないということである。しかも、この地区の方々の話では、五輪塔など、
岩清水地域以外の人によって持ち出されたこともあったという。また、かつての五輪塔の所在
地などを知る人も年々減ってきているということである。これらのことを考えると、保存も含めた
早急な調査の必要性を感じる。
 また、殿城山(でんじょうやま)西側中腹(八〇〇―八五〇メートル)に位置するこの地区に現
存する多数の歴史的史・資料を目の当たりにすると、山岳の中腹に位置する村落に脈々と受
け継がれてきた伝統文化や生活習慣を知る好条件が揃っているという思いを強くする。したが
って、古文書や仏像など史・資料を区別せず、さらに時代を限定することなく、石造物の所在
確認や、聞き取り調査など、この地域一帯の総合的調査を今後行っていきたい。しかし、漆原
と生駒のみでは、すべてを網羅することはできないので、東京都渋谷区教育委員会で同区の
文化財保存業務を行っている岡田謙一氏や、石川県羽咋市・山梨県身延町の史料調査委員
を務めている西光三氏など史・資料調査の経験者に協力していただき、地道に調査を進めて
いく所存である。


(1)岩清水村については、日本歴史地名大系二〇巻『長野県の地名』(平凡社、一九七九年 
  一一月発行)を参考にした。
(2)『厳有院殿御実紀』巻三十八(『徳川実紀』第五篇〈増補新訂国史大系第四十二巻所収。
  吉川弘文館、一九三一年五月発行〉)寛文九年五月二十九日条に「信濃国上田城主仙石
  越前守致仕の請をゆるされ、所領六万石の内を分て、五萬八千石を嫡子主税政明、二千
  石を弟治左衛門政勝に給ふ」とある。また、『寛政重修諸家系譜』巻第三百六(『新訂寛政
  重修諸家譜』第五〈続群書類従完成会、一九六四年一一月発行〉)仙石政勝のところには
  「(寛文)九年二月二十五日兄政俊が采地、信濃国小県郡のうちにおいて二千石を分かち
  たまはり」とある。
(3)仙石氏については、『仙石氏史料集』(上田市立博物館、一九八三年一〇月発行)を参考
  にした。
(4)寺院本末帳研究会編『江戸幕府寺院本末帳集成』中(雄山閣出版、一九八一年一一月発
  行)
(本文は、『山脇学園短期大学紀要』39号〈平成13年12月発行〉より再録した。)


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