勧学院の雀(55)

ふたつ文字
百瀬 今朝雄   

 謎なぞです。「『ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字』ってなぁ−に」、答えは『徒
然草』にある。
  延政門院、いときなくおはしましける時、院へ参る人に、御言つてとて申させ給ひける御歌、
   ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる
  恋しく思ひ参らせ給ふとなり。
                 (岩波文庫、一一五頁)
延政門院は後嵯峨天皇の女、悦子内親王。内親王が幼かったころ、父君の許へ行く人に、言
付けたなぞ歌の詞で、「恋しく」であった。「延政門院」は弘安七年(一二八四)甥にあたる後宇
多天皇の時(亀山上皇の院政)内親王となり、十日後に院号を許された。因に言えば、悦子と
いう名前も内親王宣下の際付けられたものである。勘解由小路兼仲という廷臣の日記『勘仲
記』に詳細な記事がある。後嵯峨天皇は、これより先、文永九年(一二七二)亡くなるので、な
ぞ歌の時期、延政門院は院号どころか、「悦子」の名も無かったということになる。さて、天皇を
退位した太上天皇を、「院」と通称する。後嵯峨天皇の例でいえば、「後嵯峨」は、諡であるか
ら、上皇あるいは法皇の当時、ただ「院」というものの、「後嵯峨院」と呼ばれることはない。上
皇・法皇いづれにせよ二方ある場合、先を「院」「本院」、後を「新院」等と称して区別する。これ
に対し、女性の院は、延政門院のように、始から個別名称が付けられ、上皇と同じ待遇を受け
た。女院では、平清盛の女で、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇の母であった建礼門院が、
『平家物語』最終巻「灌頂巻」で知る人も多かろう。名は徳子。養和元年(一一八一)高倉上皇
が亡くなって、院号を受けた。時に廿五才(『女院小伝』)。上文中の「院へ参る」の「院」の場合
は、後嵯峨上皇その人ではなく、上皇の御所をいっている。もっとも、後嵯峨院は、文永五年
(一二六八)十月出家しているので、上皇か法皇かは、明確でない。
 謎といえば、もう何十年か前、碓氷峠の熊野皇大神社の真ん前にあって、上信両国に跨る
「旧中仙道堆氷峠元祖名物ちから餅しげの屋」の暖簾を掛けた店で、そのちから餅を食べ、つ
いでに買った手拭に、数字のなぞ歌がある。手拭には、
   碓氷峠数字の歌
    八万三千八 三六九 三三四七 一八二
    四五十 三二四六 百四 億四六(六は百の誤り)
                     伝弁慶作
と染抜かれている。当時、店内にも、この歌が貼り出されていたような気がするのだが、今や
定かではない。手拭に添えられた小紙には、
   山道は 寒く 寂しな 一つ家に
    夜毎 身にしむ 百夜 置く霜
   碓氷山中に古くより石碑あり弁慶
   当嶺通過の際の作と伝えらる
と書かれていた。実は、この謎は、江戸時代の儒学者新井白蛾(一七一五〜九二)の著『牛馬
問』(日本随筆大成10、第二期)に見え、そこでは
  八万三千八 三六三三四四 一八二
  四五十二四六 百四億四百
と小異があり、読みも「やまみちはさむく淋しゝひとつ家に夜毎に白くもゝよおくしも」とされてい
る(二六九頁)。ただし、ここでは数字と詞の合わない箇所がある。「さむく」が数字「三六九」で
はなくて、「三六」としかない。上文は随筆大成本を用いたが、『温故叢書』第十二編に収める
『牛馬問』でも同様である。
 謎については、鈴木棠三氏に、『なぞの研究』(講談社学術文庫)、『中世なぞなぞ集』(岩波
文庫)があり、楽しく勉強できる。『なぞの研究』に、石塚豊芥子の『豊芥子日記』に拠って、文
化十一年(一八一四)江戸で、謎解坊春雪という庭頭が謎解きの興行をして大当りを取った様
子を紹介している。興行は、『葭簀囲いの小芝居を設け、頓知謎の看板を掲げて興行場とし、
なぞ二十題をとき柊ると入場者の入替えを行い、一席十六文、後に繁昌してからは二十四文
に値上げした』、「春雪のなぞ解きは、客からカケのことばを出題させ、それにトキ・ココロを付
ける」ものであった(二三六頁)。『謎の難題集』という本の表紙に刷られた口上に、「奥州花哥
都美の生春雪、江戸おもてへ罷登り、なぞときはじめより、これまでのなんだいをゑらみかき
ぬき、ごらんにいれたてまつり候」と見え、陸奥国の「花哥都美」の出身としている。ところで、
春雪について『豊芥子日記』が、「奥州二本松の産」と記し、大田南畝も、「陸奥国二本松より
来れる、都春雪といへる盲人」と書いている(近代日本文学大系第二十三巻『狂文俳文集』、
「四方の留粕」)。そういえば、『福島県の地名』を見ても、「花哥都美」に相当する地名は見当
たらない。「花かつみ」と聞いて、我々が直ぐ思い出すのは『おくのほそ道』であろうか。
  檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれ 
  ば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にと 
  ひ、「かつみ かつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚 
  の岩屋一見し、福島に宿る。    (岩波文庫二四頁)
『奥細道菅菰抄』という注釈書によれば、檜皮の宿は、日和田、あさか山は安積山と書く小山
で、山の井の辺りらしい。ここから二本松までは、ほぼ三里程の道程になろうか。『謎の難題
集』の口上は、『おくのほそ道』の記文を踏まえての洒落であろう。
 『なぞの研究』には、『豊芥子日記』に記載された春雪のなぞ解きが紹介されている。その中

  市川団十郎とかけて たんくみ〈不詳。たくみカ〉の人宿 心は 何でもかまわぬ (「かま  
  わ」は鎌の図と○を描く)
は、前掲の『謎の難題集』に、
  市川団十郎トかけて はんぐみの人宿 心ハ何でもかまわぬ(「かまわ」は同上の図)
と出る。「はんぐみの人宿」は、「番組人宿」で、『日本国語大辞典』には、「番組人宿」はなく、
「番組宿屋」の項目があるが、意味の明瞭でない説明がなされている。「人宿」は口入れ稼業、
これら業者を統制するため結成させた組合が、「番組人宿」である(『国史大辞典』「人宿」の
項)。藤澤周平の愛読者なら、先刻ご存じ『用心棒日月抄』の主人公青江又八郎の用心棒の
口を紹介している相模屋吉蔵が人宿ということになる。人宿は儲かればいいといった、いい加
減な紹介をしていたのであろう。鎌の図と○と「ぬ」の組合せは、団十郎家が衣裳などに使用し
た模様である。もう一つ、
  松本幸四郎とかけて 幕内を投げ角力 心は鼻が高い
これでは意味がはっきりしない。『謎の難題集』は、
  松本幸四郎ト まく内をなけた前角力 心ハ鼻がたかい
これならはっきりする。ここで用いた『なぞの研究』は初版本であるので、その後訂正されてい
るかもしれない。「何々とかけて、何と解く、心は何」という形式の謎を「三段なぞ」というのだそ
うである。なお『豊芥子日記』には、「謎々大流行」と題して、謎に関する豊富な記事が収載され
ており、三段なぞを三重謎としている。ご覧になりたい方は、古い本であるが、「近世風俗見聞
集」という叢書の第三、『豊芥子日記』巻之下、第十一を見てください。
 「涼み台とかけて新田義貞と解く」心は?、さて貴方なら何と解かれますか。我々の年代で
は、小学校時代の雑学を『少年倶楽部』や『少女倶楽部』で得た方々も多かろう。この謎も『少
年倶楽部』にあったように記憶している。「心は足利攻める」、足利軍が義貞を攻めるのと、足
を蚊がせめると懸けている。義貞は足利軍に攻められ、暦応元年(一三三八)越前国(福井
県)藤島の戦で敗死した。半世紀にわたる南北朝時代初期のことである。謎々遊びといって
も、それまでの私たちは、「通るとき通らないで、通らないとき通るものなぁ−に」、「踏切り」とい
った至極たあいもない謎かけごっこをしていた。「その心は」という謎解き方式に触れた時、え
らく新鮮で高尚な印象がして、一歩大人の世界に踏み入った誇らかな感情を抱いたことを忘れ
ない。
 涼み台、大都会ではもう、その風情を味わうこと少なくなった。涼み台と言っても、竹でしっか
りと作られた上等な商売物もあれば、木の板に足を釘で打付けた手製の簡単なものまで、場
所により、家により様々であった。クーラーなぞまだない時代、下町の夕涼みは、多く木製の縁
台を宵の口道路の端に出し、団扇を手に楽しんだものだった。着物は矢張りゆかたがいいで
しょう。近所の駄菓子屋からかき氷も取りましょうか。縁台には囲碁ではなく、将棋が似合う。
  涼台月に将棋の駒迎い  玉守(『誹風柳多留』)
縁台将棋となれば、王より飛車を可愛がる程の勝負に愛嬌がある。駒迎えは、駒牽きに伴う
行事で、陰暦八月、東国の牧から朝廷に貢上される馬を、近江国逢坂関まで官人が出迎え
る。ここでは将棋の駒と駒迎えの駒を懸け、夕涼みで月の出を迎えたことをうたうという、凝っ
た構成となっている。しかし、よくよく考えてみると、陰暦八月といえば、大雑把に太陽暦で九
月、遅い年には十月にもなろうか。俳句では当然に秋の候に入る。九月だって暑い日はあろ
う。といって、九月の涼み台が、姿でしょうか。でも、そんな細かい穿鑿はいいじゃないですか。
駒牽きの行事は、十五世紀半ば、応仁の乱で廃絶したらしく、勃発前年の文正元年(一四六
六)八月十六日を最後に(後法興院記)、その記事を見なくなる。駒迎えに至っては、恐らくもっ
ともっと、遥か以前に停廃していたであろう。紀貫之の、「逢坂の関の清水にかげ見えていまや
引くらん望月のこま」(『貫之集』)あたりから始めての知識に基づく教養を生かした機知のきい
た上手な作品といえませんか。


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