勧学院の雀(52)

ささがに
百瀬 今朝雄   

  「ささがにの道」って何でしょう。東京駒込に六義園(りくぎえん)という庭園があります。江戸時
代、五代将軍徳川綱吉の寵臣柳沢吉保が与えられた別墅地(べつしょち)に造営した回遊式庭
園です。吉保は、さすがに楽しみ多き庭を作りました。今は周囲に高層マンションが建ち、景観
を損ねています。居住している人には得なのですが、庭を楽しむ吉保には全くもって不都合、彼
の時代であれば、さしずめマンション撤去を命じたことでしょう。何と言っても当代きっての権力
者ですから。
 大名の持つ庭園の多くがそうだったでしょうが、名所、故事になぞらえた風景を現出造形し、命
名しています。たとえば、近いところでは、小石川の後楽園。ここは御三家の一つ、水戸徳川家
の江戸屋敷、「伊勢物語」に因(ちな)んだ八ツ橋、中国大陸の西湖(せいこ)の風景を摸した虎
渓堤(こけいのつつみ)、京都清水(きよみず)に見立てた清水寺、小廬山(しょうろざん)等、そ
れである。
 六義園に戻りましょう。園中央の池には、東に寄って妹山(いもやま)、背山(せやま)の築山
(つきやま)がある中の島が、田鶴橋(たずのはし)で陸地につながっています。中の島を左手に
見て北進、道は二手に別れ、左は直ぐに渡月橋(とげつきょう)、右は緩(ゆる)やかにカーブし
て、やがて藤波橋(ふじなみのはし)です。渡月橋は石橋、藤波橋は土橋。この土橋を渡ると細
い「ささがにの道」になります。ささがにの道の左手は山、山路を行けば歌枕の藤代峠(ふじしろ
とうげ)(和歌山県の藤白峠)、右手は■(炎にリ)渓流(えんけいのながれ)。■(炎にリ)渓流
は、「唐にて王子猷(わうしいう)といふ人山陰に居たりしが、雪後の月夜に戴逵(たいき)と云人
の事をおもひやりて、小船にのり■(炎にリ)渓の流に棹さして戴逵を訪(とぶら)ひたりしに、門
のきわまで行(ゆき)て帰る。或人(あるひと)何とて戴逵にあはずして帰るやととふ。答て云、乗
レ興(きょうにじょうじ)て来り、興尽(つ)きて反(かへる)。何必戴安道(かならずしもたいあんど
う)に見(まみえ)んやといへり。名高きふる事なれば、歌にも読べし。山陰橋をかけたる流なれ
ば、■(炎にリ)渓の藤といふ事をも思ひ合せて」、■(炎にリ)渓の流れと命名したと、吉保撰
(せん)の「六義園(むくさのその)の記」に述べられています(『落只堂(らくしどう)年録』元禄十
五年十月廿一日条)。「ささがにの道」についても、記事があります。「我せこの御歌にもとづく。
蛛(くも)の糸のほゝ細き事に用ふれば、道の名とせり。又歌の道のたへ甘ぬことによせて読た
る歌もあれば」、蜘蛛の糸のように細い道だったのです。吉保は和歌の造詣も深かったといいま
す。細い道は左手の山を半周、北側から西側に折れて、先程の渡月橋から白鴎橋(かもめのは
し)へ通ずる山の南の道に出る。春は山吹、どうだんつつじも花咲き、それなりに明るい。しか
し、木々の葉が道を覆い、下草の繁る頃ともなれば、細いというだけではなく、ちょっと陰鬱な、
その名からイメージする不気味な通りの道となります。
 それでは、ここで「我せこの御歌」を見てみましょう。
『日本書紀』允恭(いんぎょう)天皇八年二月(岩波文庫、三二二頁)、
  藤原に幸(いでま)す。密(しのび)に衣通路姫(そとほしのいらつめ)の消息(あるかたち)を 
  察(み)たまふ。是夕(こよひ)、衣通郎姫、天皇(すめたみこと)を恋(しの)びたてまつりて  
  独居(ひとりはべ)り。其れ天皇の臨(いでま)せることを知らずして、歌(うたよみ)して日   
  (い)はく、我(わ)が夫子(せこ)が 来(く)べき夕(よひ)なり ささがねの 蜘蛛(くも)の行  
  (おこな)ひ 是夕(こよひ)著(しる)しも
衣通郎姫(衣通姫)は、時の皇后の妹で、「容姿絶妙(かほすぐ)れて、比無(ならびな)し。其
(そ)の艶(うるは)しき色(いろ)、衣(そ)より徹(とほ)りて晃(て)れり」といった人で、時人が衣
通郎姫と称したと書かれています。「衣通」の訓みを、古訓では「そとほり」といい、一般には姫を
「そとほりひめ」といっていますが、岩波文庫では、「艶(うるは)しき色(いろ)」が衣(そ)を徹(と
お)すのだから、『古事記伝』の説をとって、「そとほしのいらつめ」と読んでいます。さて、姫は天
皇の寵愛を受けましたが、皇后の嫉妬にあって宮中に入れられず、藤原の宮におりました。そ
こで上文です。天皇は藤原宮に行きそっと姫の様子をみると、姫は天皇の臨幸を知らず、蜘蛛
の営みを見て、天皇の来臨を予期する和歌をよんでいたというのです。和歌の意味を、文庫で
は、「私の夫の訪れそうな夕である。笹の根もとの蜘蛛の巣をかける様子が、今、はっきり見え
る」と訳しています。なお、この歌は『古今和歌集』に採られていて、そこでは、「我(わ)が背子
(せこ)が来(く)べき宵也(よひなり)ささがにのくものふるまひかねてしるしも」とされ、「ささがね」
が「ささがに」になっています。永禄五年本『節用集』の「左」の部に「篠蟹」が出、振仮名「サヽカ
ニ」、注に「日本呼蜘蛛云−−(くもをよびてささがにといふ)」と見えます。なお、『運歩色葉集』で
は振仮名「サヽガニ」。『釈日本紀(しゃくにほんき)』には、蜘蛛の体が蟹に似て、佐々原(ささは
ら)に住むから佐々蟹という説があると述べています。また大日本文庫本『日本書紀』では、「小
蟹にてその形の相似てゐる所から蜘蛛のことを云ひ、更に、枕詞となる」と説明しています(二三
三頁)。「ささがにの」は、蜘蛛、雲、曇る、糸などの枕詞につかわれるそうです。
 「蜘蛛の行ひ」といい、「くものふるまひ」といい、いずれも蜘蛛の巣作りでしょう。蜘蛛の営巣に
訪人を予兆したのは、姫の勘だったのか、日本固有の信仰なのか、大陸渡来の知識であった
か、色々考えられます。「ささがにの」の歌の解説には、しばしば蜘蛛が来て着物に着くと観客が
来るという中国の俗信が紹介されています。
 『詩経』幽風(ひんぷう)、「東山(とうざん)」の第二節に次のような詩があります。
  我徂東山 我(わ)れ東(ひがし)の山(やま)に徂(ゆ)き
  ■(りっしんべんに爪の下に臼)■(左に同じ)不帰 ■■(左に同じ)(とうとう)と帰(かえ)らず
  我来自東 我れ東より来(き)たれば
  零雨其濛 零(お)つる雨(あめ)の其(そ)れ濛(もう)たり
  果贏之実 果贏(から)の実(み)も
  亦施于宇 亦(また)た字(のきば)に施(は)い
  伊威在室 伊威(いい)は室(しつ)に在(あ)り
  ■(虫に蕭)蛸在戸 ■(虫に蕭)蛸(しょうしょう)は戸に在(あ)り
  町■(田に重)鹿場 町■(田に重)(ていとん)たる鹿(しか)の場(には)に
  ■(火に習)耀宵行 ■(火に習)耀(ゆうよう)は宵(よい)に行(ゆ)く
  不可畏也 畏(おそ)る可(べ)からざる也
  伊可懐也 伊(こ)れ懐(おも)う可(べ)き也(なり)
     (中国詩人選集『詩経国風 下』二八四頁)
まず、詩の意味を教えてもらいましょう。「わたしはあずまへ行ったまま、のびのびになって帰れ
なかった。いまわたしが東から帰って来るみちには、ふる雨がけむる。〔ふるさとの家では、〕か
らす瓜の実が、のきばにはい、部屋にはしけむし、戸口には蜘蛛のあみ。ぽこぽことあとのつい
た鹿のねどこには、鬼火が夜る飛んでいよう。しかしこわくはない。なつかしいだけ」というのだそ
うです。
 この詩の第八旬目の「■(虫に蕭)蛸」に、呉の陸■(王に義)(りくき)が注釈をつけています。
「■(虫に蕭)蛸、長■(虫に奇)(ちょうき)、一名長■(月に谷に卩)(ちょうきゃく)、荊州(けいし
ゅう)、河内(かだい)の人これを喜母(きぼ)と謂(い)ふ。此(こ)の虫来たりて人衣(じんい)に着
けば、まさに親客(しんかく)の至(いた)る有りて喜びあるべきなり。幽州(いうしゅう)の人これを
親客と謂(い)ふ」と。長■(虫に奇)は、「あしたかぐも」と、諸橋『大漢和辞典』に出ています。荊
州、河内は中国大陸の黄河以南の山岳にかかる広い地域を、幽州は北京の東北方をいうよう
です。蜘蛛すべてが喜びをもたらすものと考えられていたのかどうかは判りませんが、宋(そう)
の陸佃(りくでん)の『■(土に卑)雅(ひが)』という書物には、漢代の作と推定されている文字の
説明書の『爾雅(じが)』の「■(虫に蕭)蛸(せうせう)」という詞に付けた、晋(しん)の郭璞(かく
はく)の注に、「今(いま)小蜘蛛長股(ちしゅうちょうこ)なる者、俗に、喜子(きし)と呼ぶ」(原漢
文)とあること、郭注の次に、上述した荊州、河内の人が喜母といっている蜘蛛の話、さらに「陸
子(りくし)日(いは)く、乾鵲噪而行人(かんじゃくさわぎてこうじん)至り、蜘蛛集而百事喜(ちしゅ
つどひてひやくじよ)し」という詞を記しています。陸子(陸賈〈りくか〉)の言葉は、漢代、樊■(口
に會)(はんかい)の質問に対する答えの中で、鵲(かささぎ)が噪ぐのは遠方から人が帰ってくる
前兆、蜘蛛が集まっていると百事よいことがあるといった話です。この話は『西京(せいけい)雑
記』にあって、「百事喜」の「喜」は、四部叢刊本で「喜」に作り、『古今図書集成』引用の同書では
「嘉」になっています。「親客の至る」と云う信仰の他にも、彼の地の人々が、蜘蛛に嘉兆(かちょ
う)を期待していたことが知られます。話が少々横に逸(そ)れました。
 「ささがにの」の歌と、蜘蛛が人衣に着くと観客が来るという俗信と、そんなに密接な関連はな
いように思われます。それと、「ささがに」か「ささがね」かということになると、「ささがね」のほうが
具体牲があって、古代歌謡に相応(ふさわ)しいのではないでしょうか。蜘蛛には沢山の種類が
あって、空中に網を張って餌をとるものや、木の葉を糸で張り合わせて巣を作るものやら、土の
中に巣作りするものなど、巣も様々である。仰いで見る蜘蛛の網(囲〈い〉)は詩的情緒もあろう。
でも、ここでの「蜘蛛の行ひ」は、蜘蛛の網作(いづく)りであっては意味ない。恋人を待つ心、そ
こには愛の営みが期待されているのです。それはまさに笹が根に作られる巣作りでなくてはなら
ない。とすれば、天皇を待つ衣通姫が、蜘蛛の巣作りを見ての期待を歌い上げたもので、あえ
て俗信までも考慮する必要はないとはいえませんか。
 『古今和歌集』の「ささがにの」の歌を本歌としてアレンジする作歌法は、この後長く伝承されま
す。二三例示してみましょう。室町時代、十五世紀、東常緑(とうのつねより)という武士の作、
  男星のくべきよひとやささがにのいとしもことにひきはそふらむ
江戸時代、十七八世紀の交、武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ)という廷臣に、
  待つ宿にかけて詠(なが)めぬくれもなしくるよしらせよささがにのいと
江戸時代末、十九世紀始め木下幸文(たかぶみ)の、
  たのみさへたえぬる宵にささがにの蛛(くも)のいかなるふるまひぞこは
といった具合です。
 本誌今年三月号の「牡丹」の記事で、牡丹を歌人は「ふかみぐさ」と詠(うた)ったと書きました
が、「ささがに」も歌壇でこそ一般的に使われますが、さて俳壇でとなると殆ど見受けられませ
ん。やはり「蜘蛛」です。
 玉藻(たまも)稲荷蜘蛛の囲(かこ)ひを払ひたり  横山繁子
というように。そこで、
 客人に下れる蜘蛛や草の宿              虚子
この句。この句に、「ささがにの」の歌をアレンジした趣向を読取るのは、深読みでしょうか。


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