縁切霊木譚―中山道板橋宿縁切榎について―

 とかくこの世の中は、人と人との複雑な「えにし」によって成り立っている。それだけに、「えに
し」に捕われ、苦しめられている人々も多いことは、昔も今も人々共通の悩みであるといえよ
う。
 江戸時代、そのようないわば人類共通の悩みを解決する手段として大きな役割を果たしてい
た1本(正しくは「槻」の木と併せて2本)の木が中山道板橋宿のはずれにあった。人々はこれ
を「縁切榎」(えんきりえのき)と呼んでいた。
 今回の「伝説と伝承の地を訪ねて」では、この縁切榎の由来や、この木から発揮される霊力
についての幾つかの霊験譚を、十方庵主著の『遊歴雑記』に記された内容をもとに紹介すると
共に、霊木を頼りに過去の生活を清算したいという願望の実現に努力した当時の民衆の姿に
ついても見ていこうと思う。                                        
                  
  【図1】 縁切榎の旧様

  縁切榎の由来
 では先ず、よく知られていたこの霊木、縁切榎の由来について簡単に紹介しよう。
 縁切榎は、中山道板橋宿旧上宿(現、東京都板橋区本町)に現在もあり、ちょっとした観光
名所となっている。ある頃からか、この木下を嫁入り行列が通ると、必ず不縁になるという流言
が広がり、そこからこの霊木にまつわる縁切信仰が生まれたものと思われる。このような民間
のたわいもない流言が、やがて徳川家に降嫁した五十宮(いそのみや)、楽宮(さざのみや)の
行列がこの霊木の下を通ることを避けるという状況を生み出した。また、和宮(かずのみや)下
向の折には、榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入ったという伝承も流布されている
(*註1)。

       
【図2】 現在の縁切榎                       【図3】 現在の縁切榎全景
  (場所も若干移動されている)

  縁切榎のすがた
 この霊木、縁切榎は、旧中山道沿いにあった旗本近藤家下屋敷(5450石、実は抱屋敷、坪
数約1万5000坪余)の北側にあったもので、その大きさは『遊歴雑記』によれば「樹の太さ五抱
もあらん、壱丈もあがりて大枝大股とわかれ、樹の高さ凡四・五丈、根茎の四方へはびこる
事、三・四間に及べり」というほどの大木であったようである。ここで描かれている榎は幾星霜
を経て、すでにその地にはなく、現在は3代目の榎の若木が、場所を若干変え、槻の木と共に
今も春から夏にかけてその枝に青々とした葉を茂らせている。

     
【図4】 現在の「板橋」

  江戸時代の「別れ方」
 さて、江戸の人々はこの縁切榎の霊力をどのようにして活用していたのであろうか。
  
  しかるに何者かはじめけん、此処へ来り茶店嬢、又ハ児共等をたのミ、此榎の皮を枌取 
  (そぎとり)もらひて家に持帰り、水より煎じその者にしらさず飲しむれバ、男女の縁を切、 
  夫婦の中自然に飽倦て離別に及ぶ事神の如しといひはやし、心願かなふて後は絵馬を持
  来り榎へかくるもあれバ、又幟たてる徒もありけり、いか様絵馬懸しを見れバ男女もの思え
  る風情して双方へたち分るゝ姿を画きしは不仁の志願も叶ふと見えたり (『遊歴雑記』)

 この『遊歴雑記』の記事に拠れば、誰が始めたものかは不明であるが、人々が、別れたい相
手に、この縁切榎の樹皮を煮出した液体を飲ませる事で自らの大願成就を果たそうとしていた
らしい事が窺える。しかも樹皮を手に入れる際には、榎の前に出された茶店の店員、若しくは
近所の子どもに依頼していたことも同時に記されている。これは、榎の樹皮を剥がすという行
為自体、すなわちその人に別れたい相手がいるということを示しているわけであるから、このこ
とを世間に悟られないように、こうした間接的な樹皮の入手方法がとられていたのであろうと考
えられる。人生の再スタートを果たすためになされた、ほんとうに涙ぐましい努力と言えよう。そ
して、見事に願いをかなえた者達、中でも女性等が奉納した、男女の別れのシーンを描いた絵
馬の図案からは、自分から離縁をすることのできなかったこの時代の女性の、神仏に頼るより
ほかない姿を彷彿とさせる。
 さらに、先の引用に続く記述からは、人だけでなく、モノとの「えにし」を切るためにも、この榎
の樹皮が用いられていたことがわかる。

  又大酒を好ミ癖ある上戸に此榎の皮を水より別煎にし酒へ和して飲しむれバ、忽然と酒を
  嫌ひ性質の下戸になるといひ伝ふ、予試し見ざれバ真偽をいひがたし (『遊歴雑記』)

 つまり、「酒癖の悪い酒飲み」に、縁切榎の樹皮を飲ませれば、酒との「えにし」が断たれて
下戸になるというのである。ここからは、当時の人たちが、人と人との間にだけでなく、人と「モ
ノ」との間にも「えにし」を見出していたことが察せられ、興味深い。
 このように板橋の縁切榎は、「色」と「酒」という、いわば当時の社会における人間関係にまつ
わるトラブルの根本要因を、見事に解消してくれる霊木であると考えられていたことを察するこ
とができよう。

  最後に『遊歴雑記』の作者は「図らずも中古より縁きり榎と呼初て、世の人の口に疎たるゝ
ハ、此樹の不幸とやいハん、殊更常に活皮を剥れて生疵の絶ざるは不運とやいうべからめ、」
と、自らの霊力を頼る善男善女に対し、我が身をすり減らす「不運」を背負った、この霊木縁切
榎のつらい「身の上」に想いを馳せている。日々のニュースを見るまでもなく、人と人との「えに
し」が複雑になり、人間関係が一筋縄ではいかなくなったこの平成の世にあって、もしこの縁切
榎の噂が広まったとしたら、哀れ榎は瞬く間にやせ衰えてしまうに違いあるまい。

  板橋へ三下り半の礼詣り
  板橋の榎と女房心づき
  板橋の木皮の能は医書に洩れ

  榎で取れぬ去り状を松で取り
  榎でもいけぬと嫁は松で切り
  板橋で別れ鎌倉まで行かず
  ※ 「松」、「鎌倉」は、縁切寺としても名高い鎌倉松ヶ岡東慶寺(松岡山東慶寺)のこと示す。

参考文献
・十方庵主『遊歴雑記』(影印本、三弥井書店、1995年)。
・『新編武蔵風土記稿 第一巻』(大日本地誌大系、雄山閣、1963年)。
  同書「下板橋宿」の項には、「縁切榎 岩の坂にあり、近藤信濃守抱屋敷に傍へり囲二丈 
  許樹下第六天の小祠あり、則其神木なりと云、世に男女の悪縁の断絶せんとするもの、こ
  の樹に祈て験あらずと云ふことなし、故に嫁娶の時は其名を忌て、其樹下をよこきらす、よ
  りて近き年樂宮御下向の時も、他路を御通行あらせられしなり、」と記される。
・『板橋区史(旧版)』(板橋区、1954年)。
(西 光三)

*註1 実際、和宮が下向した時には、榎に菰をかけてその下を通ったのではなく、迂回の道
 路をつくり、そちらを通ったことが史料上確認されているそうです。その際、菰をかけたかどう
 かについては、現時点で確認がとれておりません。 本文の和宮に関する記事は、あくまで 
 伝承として紹介いたしました。
 
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