「小夜の中山」奇行

 とある無住の寺で、山賊の首領"直面(ひためん)の今朝藏"が二人の子分に言った。
 「狙うは刷り物のヤツだ。但し、仏罰が怖きゃあ無理にとは言わねえ」と。 

  一、小夜の中山峠
 六月三日(土)、静岡県掛川市にある旧東海道「小夜の中山」へ百瀬先生ご夫妻・生駒哲郎
氏の四名で行く機会に恵まれた。かつては東海道の中で箱根・鈴鹿にならぶ難所といわれた
峠である。平行して走る国道1号線からこの峠に着いた私たちは、まず、"夜泣き石"を見学す
ることにした。
 その昔、山賊の手にかかって殺された臨月の妊婦が、運良く生まれた赤ん坊を助けるため
に、傍らの石に憑依して「おぎゃあおぎゃあ」と泣いたとかで"夜泣き石"。安藤広重の『東海道
五十三次』にも描かれている直径五十センチ程の丸石である。その赤ん坊を育てたという「子
育て飴(水あめ)」が、車を停めた峠の茶屋にひっそりと売られていた。
 難所とされたのは急坂というだけでなく、出没する山賊も原因だったのである。
        
       小夜の夜泣き石 1              小夜の夜泣き石 2 「南無阿弥陀仏」と刻まれていたものか

  二、山賊出現
 せっかくなので、山賊も出たという旧東海道を走ることにした。国道一号線を折れて上り坂を
行くこと五分、旧東海道に行き当たる。さすがに現在では整備されていて、道幅が狭いことや、
のどかに蛇が寝ていたり、頑固な犬が座り込んで動かない点などを除けば、きっと昔の苦労が
嘘のような快適さなのだろう。芭蕉の句碑などの点在するこの旧道をしばらく上ると旧東海道
小夜の中山峠である。ここには奈良時代開基といわれる真言宗の古刹、小夜山久延寺があ
る。"夜泣き石"の赤ん坊を育てた住職がいた寺だという。その伝説に基づくのか、この寺の本
尊は「子育観世音菩薩」といわれている。また、境内には当時掛川城主であった山内一豊が
関ヶ原へ向かう徳川家康をもてなしたという「接待茶屋跡」もある。ついでに、"夜泣き石"のレ
プリカも鎮座していた。
                  
                       久延寺の夜泣き石

 半世紀近く無住ということもあってか、時おり時鳥の鳴き声がする以外、境内はひっそりとし
ていた。私たち四人の貸し切り状態である。時鳥は夏の季語、ここで一句と思っていたところ、
しばらく本堂を覗き込んでいた今朝雄先生が内部に入って行くのが見えた。後から上がり込む
と、古びた御籤箱と御籤棚のセットが目に入る。最近、古い版木で摺った籤を調べているとい
う先生の興味を引いたらしい。
 そもそも御籤箱とは、一番から百番までの番号の書かれた竹の棒を納めた角柱の容器のこ
とである。この箱をガラガラと振って、上部に開いた小さな穴からひょいと飛び出た一本の番号
を確認したら、お次は御籤棚である。すべてが引き出しとなっている御籤棚にもやはり一番か
ら百番までの番号が書かれていて、自分の引いた竹の棒と同じ番号の引き出しを開けると
籤、いわゆる"おみくじ"との対面となる。最近の"おみくじ"は、「引く」というよりも硬貨を入れて
"自動販売機さま"から出していただくというスタイルが多いので、この古いセットはなかなか珍
しいものである。
 気がつくと、今朝雄先生は一段ごとの引き出しを開けては籤を一枚づつ取り出す作業にかか
っていた。先生が作業中の引き出しには、一段ごとに「第一 大吉」「第二 小吉」といった具合
に二枚の籤が納められていて、籤一種類につき、草書体の古い摺り物の籤と、活字印刷され
た現代風の籤の新旧が同居する形となっていた。しかし、先生が欲しいのは旧のほうで、「狙う
は摺り物の御籤なり」ということらしい。なるべく摺りのきれいな一枚を、しかも百枚を頂戴する
わけだから時間はかかる。お手伝いを申し出ると、「仏罰が怖かったらおよしなさい」と怖ろし
い返事が返ってきた。しかし、場所が場所だけに、こうなると気分は山賊。「手ぬぐいで頬かむ
りしたほうがいいかな」と先生を見れば、黙々と選り分け中。いつのまにか生駒氏が入り口で
見張り役を務めている。「大盗賊ともなればひためん直面かあ」と、すっかり子分気分となって
いる私も冒頭のやりとりをシュミレーションしながら手を動かす。
 帰り際、普段は賽銭をしない主義の先生が美津先生に賽銭を頼んでいたところをみると、首
領、じゃなくて先生にとっては満足のいく成果(お宝)があったようだ。時折照りつける日差しの
中、三十分以上も他人のフリをして下さった美津先生はさぞやお疲れになったことだろう。

  三、山賊のお宝
 その後、このお宝がどうなったかというと、現在、先生から借り受けて私の手許にある。
 あの場所での奇行(山賊のまねごと)があまりに面白かったので、ある夜、『般若』に書いても
よいか先生ご夫妻に了承を頂きにご自宅へ行ったのである。そこで久しぶりに籤と対面し、先
生の手によって整理済みの一枚一枚を見ていくと、あることに気がついた。
 我々が手に入れた籤は本来百枚あるべきなのだが、在庫切れもあってか八十七枚しか揃っ
ていない。現地でもその摺りの乱雑さを先生が指摘されてはいたのだが、私が気になったの
は、一番上に横書きでなにやら文字らしきものが確認できる数枚であった。この数枚の籤に共
通するのは、上部にあるらしい文字の下三分の一くらいにしか墨が入っていない点である。ど
うやら、摺る時にわざとバレンを外したように思われる。家に帰って第一番から順に見ていく
と、摺った人間も疲れが出たのか「第九十八 凶」の籤に「金谷山薬師如来籤」と、綺麗な文字
が摺られていた。これでは上部を摺り出すわけにはいくまい。この籤があったのは小夜山久延
寺。しかも本尊は薬師如来ではなく観世音菩薩なのだから。
 それでは「金谷山薬師如来」とはどこにあるのだろうか。平凡社の『静岡県の地名』によると、
正式名称は金谷山医王寺といって、山号が示すとおり旧東海道の金谷宿(現在は島田市金谷
町)に現存する曹洞宗の寺院である。「薬師如来籤」とあるように本尊は薬師瑠璃光如来であ
り、現在、この本尊を安置する薬師堂は静岡県指定文化財となっている。
 久延寺との位置関係だが、旧東海道を使ってみよう。日本橋からくると、金谷宿→金谷坂
(上り)→菊川坂(下り)→菊川宿→青木坂(上り)→小夜の中山(峠)・久延寺→日坂宿となる
ので、久延寺から医王寺へは旧東海道を東へ行くこと二つ目の宿となる。ちなみに、金谷宿と
日坂宿の距離が一里二十四町ということなので、医王寺と久延寺の距離は約五キロくらいだ
ろうか。

  四、お宝の謎
 ここで問題となるのは、なぜ久延寺に医王寺の籤があるのかということである。とんでもない
謎まで手に入れてしまったことに、一瞬"仏罰"の二文字が頭に浮かんだ。ここは一つ、分ると
ころまで調べてみなければなるまい。
 まず、両寺院が真言宗と曹洞宗という異なる宗派であることを考えると、無住である久延寺
の住持を医王寺の住職が兼帯し、それに伴って同じ籤を発行したということはありえないだろ
う。この問題を解き明かす鍵となるのは籤の版木である。何らかの事情で「金谷山薬師如来
籤」の版木百枚が医王寺から流出し、久延寺のものとなっているのか、もしくは医王寺から版
木を借りて久延寺用に籤を摺ったのか、二つのことが考えられる。ともかく、版木の所在を確
かめなくてはならない。そこで、失礼ながらも直接、医王寺に問合せをすることにした。質問の
手紙を出す前に電話をしたのだが、電話に出てくださったのは金谷山医王寺のご住職、太田
伸男氏であった。私の不躾な問いにもかかわらずご丁寧に対応して頂いた。
 ご住職のお話しによると、久延寺に医王寺の籤があることは御存知なかったという。おそる
おそる版木について尋ねたところ、医王寺に現存しており幕末に作られたものらしいとのお返
事であった。ありがたいことに、籤百枚分すべての版木が残っているそうである。電話を切った
あと、すぐに今朝雄先生から借りてきた籤の一枚をコピーし(デジカメにとり)、医王寺ご住職へ
の質問状とともに郵送した。果たして、現在医王寺にあるという版木と一致するのだろうか。
ほどなくして、ご住職からの封書が届いた。お手紙によると、現在では「金谷山薬師如来籤」を
出してはいないそうで、約三十年前までは薬師如来祭典というお祭りの時に籤を出していたの
だという。封筒には、その時の祭典で出して残っていたという籤が数枚同封されていた。さっそ
く手許にある籤と合わせてみると、まったく同じものであった。間違いなく、同じ版木で摺られた
ものである。
 となると、久延寺の籤は医王寺の版木を借りて摺ったことになる。ただ、ご住職が久延寺に
ご自分のお寺の籤があることを御存知でなかったことを考えると、版木の貸し借りがあったの
は、久延寺が無住となる半世紀以上も前の出来事となるだろう。さらに調べるには現地へ行く
必要がある。残念ながら、謎解きはここまでとなった。 
 ただ、今回の件で一つの収穫があった。色々と教えてくださった医王寺ご住職太田伸男氏か
らのお手紙に、「同じ太田姓からの問合せに、仏縁を感じます」とあり、さらに「我が家のルーツ
は愛知県岡崎市です」と結ばれていた。
 実は私の家もルーツは三河、すなわち愛知県なのである。頂いてきた籤八十七枚には、たっ
ぷりと凶も入っていたのだが、どうやら吉の効力が絶大だったようである。このステキな奇行が
私にもたらしたものは、最初に先生がおっしゃった"仏罰"ではなく"仏縁"であった。 
  御籤棚開くれば峠にほととぎす

(参考文献)
「金谷町誌稿」(金谷町役場編 1913年12月)
「掛川市史 上巻」(掛川市 1997年8月)
「金谷町史 通史編本編」(金谷町役場 2004年3月)
(太田まり子)

*本文は『般若』第九巻第8号(通巻104号)より再録しました。
 なお、御籤代はお賽銭箱に奉納させていただきました。


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